この世に奇跡はあった
リチャード・ナイトは息子のヒューゴがよちよち自分に向かって歩いてくる姿をみて「奇跡だ」と思う。
まさか自分とクララの子がこの世に存在するだけでなく、その子が自分のもとにくるなど誰が想像できただろう。
クララと離婚し一年たった頃に元義父であるクララの父から手紙がとどいた。
「子供が、クララとの子が……」
リチャードは手紙に書いてあることを自分が正しく理解しているのかと三度読み直した。その手紙にクララとの子がいること、その子をリチャードが引き取り育ててほしいと書かれていた。
リチャードはクララの両親がヒューゴを養子にだすと決めた時に、父親であるリチャードのことを思い出してくれたことに心から感謝した。
ヒューゴをはじめてみた時、自分にそっくりな赤毛だが、面立ちや瞳の色がクララに似ていることに「奇跡だ」思わずつぶやいていた。
この世に自分とクララの子が存在すること。そして一生会うことがなかったかもしれないヒューゴに会うことができたのは奇跡としかいいようがなかった。
リチャードと同行した母もヒューゴをみて「奇跡のよう」と涙ぐんだ。リチャードは一人息子でヒューゴは両親にとって初孫だった。
リチャードは離婚したあと実家にもどった。もともと会計士として修行のために王都で働いていただけで、あのようなことがあった王都にとどまる理由はなかった。
仕事をしている間はヒューゴを乳母と母にまかせるしかないが、それ以外の時間は自分でヒューゴの世話をした。
少し力を入れ間違えたら壊してしまいそうな赤ん坊という存在は、リチャードに再び普通の人生を送らせるきっかけを与えた。
リチャードはヒューゴを守り、ヒューゴの良き父になりたいと強く思った。
ヒューゴの存在を知るまでリチャードはずっと同僚の女への憎しみにとらわれていた。
クララのことを思い出すたびに、あの女のせいで、あの女さえいなければと怒りがわいた。
そのたびに
「あの女を殺せ」
親友のノアの声がした。
「もちろん本当に殺すわけじゃない。頭の中であの女を殺して恨みをはらせ。
頭の中なら好きなだけあの女を苦しめられる。一度殺しただけで気が済まないなら何度でも殺せ。
あの女に言いたいことを思う存分いえ。殴れ。刃物で刺せ。お前が頭の中で考えることは自由だ」
ノアは自分自身がそのようにして怒りをしずめてきたといった。
ノアがリチャードはあの女の被害者だと理解してくれたのは、ノアが問題児の従兄に突然理由もなく殴られたことがあったからだった。
「あの時、親父が教えてくれた。世の中は理不尽なことだらけだと。
理由もなくいじめられたり、まったく知らない人に好かれてつきまとわれたり、何もしてないのに憂さ晴らしで殴られたりしても不思議はないって。
そういう奴らから受けた被害はやり返すこと自体がむずかしい。もしやり返せたとしても相手に怪我をさせたらこちらが悪者になる。
だから自分の頭の中で思い存分やり返せって。
もし現実で俺を殴った従兄を俺が殴り返したら、従兄が逆上して俺を死ぬほど殴るだろうな。汚い言葉でののしりながら。だから頭の中で好きなだけ気を晴らせって」
ノアにそれで本当に気持ちが晴れたのかと聞いたら、「それなりにな。昔はたまに思い出してむかついてたけど、いまは何とも思わなくなった」と答えた。
リチャードは女のことを思い出すたび頭の中で女を殺した。
あの女がクララに、リチャードと好き合っていて不貞したと嘘をついたことが何よりも許せないので声をうばう。言い返そうとしても何もいえない女にざまあみろといいながら殺した。
しかし女への怒りは頭の中で何度あの女を殺しても消えなかった。
そのようなリチャードをヒューゴが変えた。リチャードはヒューゴを育てることに全力をそそいだ。
クララにそっくりなヒューゴの空色の瞳をみるたびリチャードはこの奇跡に感謝した。
引き取った時は寝ているか泣いているかだけだったヒューゴが、声をだすようになり、笑うようになりと日々育っていく姿に愛おしさがつのる。
これ以上の奇跡などないだろうと思っていたが、奇跡はそれだけで終わらなかった。
ヒューゴを引き取りしばらくたった頃に、クララの父からクララが訪ねてきたかを問う手紙がとどいた。クララが書き置きだけをのこし家をでて行方が分からなくなっていた。
クララをさがすためリチャードもあらゆる知り合いに連絡した。しかしまったく手がかりがなくクララの安否が分からず焦燥していたが、思いがけないところからクララの消息らしきものがもたらされた。
「クララに歳のはなれた弟はいるか?」
王都の友人がリチャードの地元に仕事できた時に、港町でクララそっくりな男を見たといった。彼が商談をしにいった商会の隣の店にクララに似た男がいたという。
彼が見たのはクララに似た「男」だが、他人の空似とリチャードには思えなかった。リチャードはクララがその港町に興味をもっていたことをおぼえていた。
リチャードは人を使いその男について調べ、クララと同じ背格好で、赤みがかった金色の髪、空色の目をもつ男がたしかにいると分かった。
その男はクララに似ているだけだと両親は港町に行くことを反対した。しかしリチャードはその男がクララだと確信めいたものがあった。
そしてクララをみつけた。クララが生きていたことに安堵し、もう二度とはなれないとリチャードは決めた。
嫌われていてもかまわない。クララに自分の視界に入るなといわれても、側で彼女の姿を見ることができるだけでよい。
クララが一生男として生きたいと願うならそれでもよい。ただクララの側にいたかった。
受け入れられないことを知りながらクララに復縁を願った。まずクララに復縁したいことを伝えたかった。
そしてヒューゴのことを知らせたかった。
クララはヒューゴを養子にだしヒューゴを捨てたと思っている。だからヒューゴが自分の所にいるとしればよろこぶだろうと思った。
しかし―― クララはヒューゴを捨てたと自分を恥じ、二度とかかわるべきではないとヒューゴと会うことさえしなかった。
クララは子供好きだ。それだけに自分の子を愛せないと養子にだした自分を人一倍許せずにいた。苦しんでいるクララの姿に胸がしめつけられた。
本来ならクララはヒューゴの誕生をよろこびヒューゴの成長に幸せを感じたはずだ。
それが実際にはヒューゴへの罪悪感から自分を責め、幸せとはほど遠い場所に身をおいている。それがあまりにも理不尽で悲しかった。
ようやくクララと再会できたが一緒にいることがむずかしい状況だった。そのためそれぞれ実家にもどることになった。
しかしリチャードは希望をもっていた。必ず親子三人で暮らせるようになると。
「急いではいけない」リチャードは自分に言いきかせた。
そして再び奇跡がおきた。
クララから突然、復縁したいという手紙を受け取った。
うれしい便りだが、事務的なことしか書かれていないので違和感があった。まるでクララの両親がクララに復縁を強制したかのように感じた。
クララの両親からも手紙をもらったが、元義両親もクララが復縁をいいだしたことにおどろいていた。どうやらクララが親友のレイチェルと会ってから復縁やヒューゴについて話しだしたという。
クララの親友、レイチェルと会ったのは一度だけだが、レイチェルのことはクララからよく聞いていた。
彼女と話したことで復縁を決心したようだが、好ましい方向への変化と素直に思えないものをリチャードは感じていた。
しかしどのような理由であれクララと復縁できるのならとすぐに了承し、クララがリチャードの元へやってきた。
前回会った時から髪がのび、女性の格好をしているので以前のクララと同じだった。しかし笑みをうかべてはいるが昔のようなはつらつさはなく、泣くのを必死にこらえているようにみえた。
「よろしくお願いします」
静かにそのようにいったクララは、リチャードが愛したクララと姿形は同じだが違う人のように見えた。
「ヒューゴはどこに?」
クララに問われリチャードは本当にこのまま二人を対面させてよいのか迷った。しかし二人を会わせない理由はどこにもない。
ヒューゴは乳母といっしょに両親のところにいるというと、クララはすかさずリチャードの両親に挨拶がてら迎えに行こうといった。
リチャードがクララの手をひこうとふれると、ぴくりとおどろいたように体が反応したあとリチャードの手からのがれようとしたように感じた。
しかしクララは何もいわずそのままリチャードの手を受けいれリチャードの隣を歩いた。