神様に忘れられた女の子
王妃が住むという離宮は王城内の片隅、城門の丁度反対側にひっそりと建っていた。
城壁と居館の間の敷地。
木の柵で区切られた庭があり、自然に整えられたコニファーや、薔薇に加え、様々な素朴な草花が植わっている。その奥の、まるでお菓子の家の様に可愛らしい二階建ての家。
堅牢な城の中にあるとは思えない、夢のある空間に俺はほんの少しだけ違和感を感じていた。
「ここにあのオッサンが……」
「おっさんではありませんよ、リンネ。ここは陛下が王妃の為に建てられた館です」
「おっさんの趣味かよ……」
「テムを全く使用せずに創られた建物は、この城の中ではここだけなのですよ。素晴らしいですね」
離宮と本館を隔てる木製の柵を開け、中に入ると、そこはまるでおとぎ話の世界だ。成人した男が歩くには少々居心地が悪いその場所に戸惑いながらも、クローバを踏みながらハーブの香りのする庭に踏み入れる。
不意に、カサッと音がした気がして辺りを見回すと、近くの木の影からふわふわと動く、金色の綿毛が見えた気がした。
「姫君ですね」
俺の視線の先を目で追ったニックスが、嬉しそうに言った。
十歳位だろうか。プラチナに近い柔らかそうな髪をした小さな女の子が、木の影からこちらを伺っていた。
ひょこっと覗いたその姿の可愛らしさよ!真っ白な小さな顔に愛らしい小さな口。こぼれそうなほどのおおきな瞳は、虹彩を散らしたような淡い金色で、吸い込まれそうに澄んでいた。
「幼女……イイな……」
「リンネ……言い方が残念です」
こちらに興味があるようだが、警戒してるのか、なかなか木の影から出てこない。
「……ピンク……?」
「ん?幼……姫君が何か言ってるぞ」
「ああ、リンネに興味がおありのようですね」
俺の髪か……。
先程入ったこの世界の風呂で、初めて気付いたのだが、俺の髪は、やんちゃしてた頃に染めていたピンク色になっていた。
ダヴィド曰く、この姿は『魂の記憶した形』らしいので、単に、俺が記憶している身体になっただけなんだが。納得する一方で、そんな補正があるなら、もっとイケメンになってくれても良かったのに……と、思わずにはいられない。
俺の記憶が正直過ぎて辛い。
「どうやら俺は怖がられてるようでして。いつも逃げられるのです」
ぴょこぴょこと、頭を出し入れしながらこちらを伺っている天使をみながら、ニックスが苦笑する。
「それは腰に下げてるニクスカリバーのせいじゃないのか?」
幼女とはいえ女だ。女はみんなイケメンが好きに決まってる。
「ん?剣です?……まあ、そうかもしれませんが、これを外す訳にもいきませんしね。私は貴方みたいに器用に剣を創れないので」
「そうなのか?」
「はい。普通、我々は創られた剣を調節しながら戦います。即興で創れるリンネが特別なんですよ。さあ、私は後ろで見ますから存分に愛でて下さい」
いや、ダヴィドに会いに来たんじゃないのか?と思ったが、せっかくだから愛でておこう、と思い直す。
「おいで〜!ピンクのお兄ちゃんと遊ぼう」
ちょっと危ない感じだが、ギリセーフだろう。
ニックスが離れるのが見えたのか、女の子が恐る恐る近づいてきた。風に揺れるふわふわの淡いピンクのドレスが恐ろしく似合っている。
そうか、ピンクか……と、俺はかがんでニコリと笑った。
「俺の名前はリンネ。君の名前は?」
「アイリスですの」
「アイリスちゃんかぁ。アイリスちゃんはピンクが好きなんだね」
こくんと頷く天使。 ……イイ。
「アイリスがピンクを着ると、お母さまが喜んでくれますの。だから私はピンクを見ると嬉しくなるのですわ。触ってもいいかしら?」
「いいよ」
俺は頭を差し出す。その瞬間……。
「いやぁぁぁぁぁあ――。」
突然奥の方から、女の人の叫び声が聞こえてきてビクッとなった。
「王妃ですね……。今日は具合が良くないようです」
いつの間に横に来たのか、俺の横でニックスが呟く。
思わず守るように抱えたアイリスを見ると、完全に表情を失って固まっていた。
PTSD……。そんな事を咄嗟に思い出す。
「アイリス様……?」
様子の変わってしまった少女に戸惑うニックスの声がする。しかしこの症状を緩和させられる薬など、現代医学から程遠いこの世界には無いように思えた。
俺はニックスにアイリスを押し付けると、患者の……叫び声のする、不気味なほど可愛らしい館に吸い寄せられていった。
断続的に叫び声をあげているのは、王妃で間違いないだろう。俺は飯を食いながらニックスに聞いた話を思い出していた。
俺がこの世界に来る十四年前、ダヴィドの持つアンクの一つに、女性の魂が宿ったのだという。
エリアナというその女性は、明るく活発で、すぐにこの世界に馴染み、この世界に残ると決め、ダヴィドにアンクを割らせたらしい。
王はそんなエリアナに求婚し、彼女が来てから三ヶ月後という早さで、結婚式を挙げたのだそうだ。
彼女は晴れて王妃となったのだが……。結婚して間もなく彼女が妊娠している事が分ったという。当然お腹の子がこの世界の誰の子であるわけもなくて……。
ダヴィドは気にしないと言ったらしいが、彼女は罪悪感からか鬱ぎ、次第に病んでいったという。
更に悪いことに、エリアナ王妃の子、アイリスにはテムが見えていないと言う事が分かり、ますます王妃の心は壊れてしまったのだそうだ。
神に忘れられた子、アイリス。
この世界の『テム事情』に詳しくない俺にはよく分からないのだが、少なくともこの国で、テムを見る事が出来ない人間はいないらしい。
何故ならこの国……この世界の人間の先祖は皆、夢見る魂である故に、もれなく神よりもたらされたアンクの加護があるから。
その時に聞いたのだが、この世界には、元からエルフやドワーフの様なファンタジックな種族はいるらしい。そして元からいるという生き物たちは、テムをハッキリと見る事が出来ないらしいのだ。
『ふわふわとした霧が形を成した様に見えるそうです』
ニックスのその説明に、俺は自分が初めてこの世界に来た時の姿を思い出す。
あの時の……アンクを取り出す前の俺は、まるで幽霊だった。
この世界の人間全てがこの世界に降り立った時そうであったのなら、テムを創る人間の方がこの世界では異質なのではないか、と俺はと思う。
だからこの世界にちゃんと生まれてきたアイリスは間違ってはいないと思うのだが……。
「お願い!帰して…………。」
王妃の叫び声は次第に落ち着き、泣き声に変わる。
ん?今帰してって言った?
若干の違和感を抱えつつも落ち着いてよかった、と詰めていた息を吐くが……。王妃を慰められる者など、この世界には幾人もいないのではないかと、思い付き胸が痛くなる。
ガチャッ!
急に扉が開き、俺は驚いて後ずさった。
いつの間に館の前まで来てしまっていたのだろう……扉を開けたのはそのダヴィドだった。
「もう来ていたのか、リンネよ。寝坊せず起きたようだな」
ダヴィドは俺の頭をぽんぽんと叩きながら後ろ手に扉を閉めた。何でもない、というような仕草にちょっとだけ胸がいたくなる。
「後は医師に任せておけば良い。すまぬが、妻の具合が良くないのでな、挨拶するのはまたにして今日は儂と話をしてはくれんか」
俺は昨日より少し疲れた様子のダヴィドに頷いた。
「まあ、そんな日もある。俺も今日は可愛い女の子と遊びたい気分だったんだ。……あ、ニックスに預けて来ちゃったけど、泣かせてないだろうな」
振り向くとメイドさんに抱きついて、わなわなしてるアイリスが目に入った。メイドさんに睨まれて、あわあわしてるニックスも。
気の毒に……。
「アレは鷲にも懐かんでな……。我が子だと言うのに情けない……」
どうしていいか分からない、頭を搔くダヴィドに俺は苦笑しながら、ドンマイと声をかけた。まあ、年頃の娘なんてそんなものなんじゃないか?反抗期とかあるしね。
ダヴィドは少し肩を竦めると、俺の肩を抱き外へ促した。
泣き止んだアイリスに手を振り、おとぎ話の庭からでてほっと息を吐く。
こんな所にずっといてもいいものだろうか……いや、良くないだろう。先程のアイリスの様子はあまりに幼く感じる。
「なあ、他人が口出すような事じゃないかもしれないけど、アイリスちゃん、もうちょい外に出すべきじゃね?過保護なのもいいが、もう十四だろ?」
外の環境はアイリスの心に優しくないように思えるが、あれじゃ心が育たない。
「アレも……そうか十四歳になるか。お前の言いたい事は分かっておる。だが、この城の一部には、アレスの創ったものが混ざっておってな、その……アイリスには、ちと、危険なんだ」
城がテム……。
「アレスさんの想像力がハンパない……」
ふんっ、とダヴィドが自慢げにニヤる。
アレスさん……死んだ部下だろ?いや、もう何も言うまい。
じゃどこが安全なんだ?と考えて……気づいてしまう。
離宮を囲む柵のショボさ。
彼女は何処へでも遊びに行けるのだ。
ただ行かないだけで……。
テムで溢れたこの国が、アイリスの眼にどう写っているのかは分からない。でも、普通に考えてこれはおかしい。
「だからな……リンネ、お前にアイリスを頼みたいとおもうのだが……」
俺はこの日、ダヴィドの提案に承諾した事を、この後ずっと後悔する事になる。