デオニュソス
「こんな所に子羊が。どうしたの?迷子?」
森の中。ヨモギに支えられたラビスの足が止まり、背中に抱えあげようとしゃがみこんでいると、背後から声をかけられた。
夜明けが近いのか、小鳥の声で騒がしくなった森の中。キュクロープスの足音はなくなり、安堵していた矢先の事だった。
人の気配などなかった。声を掛けたのが大人だったなら、まだこんなに警戒する事はなかっただろう。しかし、彼は子どもに見える。リンネ様と変わらない位の体躯だが、その声音は大人びていた。
「ふふっ、驚いてるね。でも、助けを必要としている。私の蔵は安全よ。さぁおいで、子羊。その傷ついた青年を置いて」
中性的な小さな顔が残酷な言葉を吐き、陽の上がる方とは逆を指さす。
「ラビはまだ息をしている」
「でも、かなりの出血。匂いに寄せられ、根城に帰る動物もまた、這い出てくる。貴方はまだ生きていたいのでしょ?」
近づく獣には気付いていた。でも、俺にラビを置いて行くなんて選択はなかった。
「リンネ様が死を遠ざけてくれるはず」
だって、ここにヨモギがいるから。
「神でもないものを信じると?人は何処までも驕り高ぶる。まあ、退屈させない生き物であることは喜ばしい事。……いいでしょう、こちらに来なさい」
途端に帳が降りた。
まるで俺たちの周りだけが夜になったよう。
首を回し辺りを見ているはずなのに、何も見えない。今まで背中に感じていたラビスの温もりさえも、何も、ない。
手を付き、探す。
「ラビ!」
みっともなく這いずって、声をあげて……。
でも、全ては闇に飲み込まれた。涙でさえも。
そうか……。彼は……。
俺の予想を肯定するように、彼の声が名を語った。
「落ち着きなさい。わたしはデオニュソス。今日はわたしのワインを見に来ただけよ。この世界、オークファシルに」
おとぎ話に出てくるその名は、世界を渡り歩く神のものだった。
キ――ッン!
三度目。俺はようやくハンマーを奮い、足枷を破壊する事が出来た。先生がすかさず大きな布……テランスのマントを割いて足首を優しく覆う。
「いい子だね。よく我慢した。もう大丈夫」
この巨人を見て、どうして子供扱いできるのか。先生の包容力に限界はない。心做しか、表情の分かりにくい、キュクロープスの顔が緩んだ気もする。
しかし、キュクロープスが大人しくしていたのはそこまでだった。
ブォォォォォ――。
先生が手当を終えた途端、キュクロープスは立ち上がり両手を挙げ怒りを露わにする。
「元気になって良かったなっ!」
「いやいやいやいや、あぶねぇからっ」
俺は咄嗟に先生を庇い床に伏せた。
地下に男どもの甲高い悲鳴が響き渡る。
「きゃ――!」
「いやぁぁぁぁぁぁ――」
「ぎゃぁぁぁぁ――!何してくれやがる!」
足枷を解いたキュクロープスは、真っ先にサテュロスの群れに突っ込んで行った。
方々に散らばるサテュロス。囲まれていた隊長とテランスが解放され、こちらに逃げてきた。
隊長が息を切らし、襟を直しながら、散らばったサテュロスを目で追っていた。振り向けば……。
「助かった……」
いつの間に後ろに周ったのか、衣服を乱したテランスが素早くズボンのベルトを直していた。
「何脱がされてるんっすか」
「この事は誰にも言うなよ……」
「何があったんっすか?」
「っいいな! ……ってリンネさん!? 隊長――! 裏ですわ!」
テランスの視線を辿ると、大きな釜の裏の横穴に行き着いた。ああ、ここからキュクロープスを連れ込んだんだな、と分かるサイズの大穴だ。そこに走って行くのは小さな背中。すぐさま追う。
「先生――っ!クソっ!誰かあの人を繋いでくれ」
切実にそう願う。
「それ、採用」
テランスが横につき、目で頷く。俺は腰の剣を抜き、ものすごい勢いで走る去る隊長を追いかけ、テランスと共に横穴に走り込んだ。
上方向に伸びる横穴。なだらかな傾斜を登っていく。左右には鍵のついた頑丈なランプの灯った木の扉がいくつかあり、カビた匂いが充満してた。なるほど、ワイン蔵はこんな所に隠されていたようだ。
「リンネ!!止まれ!!」
さすが隊長。上り坂でもスピードが落ちない。関心しながら追いついた先で見たのは、隊長が先生に剣を向けている所だった。
こうでもしないとこの人は止まらなかったのだろう。分かるけど……俺らの仕事、この人を護る事じゃね?
足を止めた先生は、しばし逡巡すると、口を押さえ顔を伏せた。この人も流石にショックだったのか、と、慰めようとした足が、次の言葉に止まった。
「ニックス……キリル達との交信が途絶えた」
「え?」
その声は涙声。
はぁ?この人、あんな無茶苦茶な事をしながらも、ずっとキリル達を追っていたのかよ。……で?なんだって?今、なんつった?
「やべぇ――。やべぇ――よ」
呟きが止まらない。
ぐちゃぐちゃになりそうな感情を、頭の隅に追いやりながら、俺は駆け出した。
隊長が先生の腰を捕まえ、抱え上げるのが目の端に映る。
「地上だよな!? 俺が先行するんで、先生は集中して呼びかけて!」
必死に上へと駆け上がる。
やがて自然の岩肌に変わり、ここが洞窟の中だと分かった。途中で拾ったランプの灯りじゃ心もとないが、周囲に目を光らせ、活路を探した。
洞窟内は広いが、道は幾つかに枝分かれしている。
「どっちだ……」
いつもならここで泣いてる。でも、アイツらが……。
必死で空気の流れを読み、ほんの少しの、傾斜に流れる水音に耳を澄ませる。岩肌に刻まれた過去の水脈の跡を辿り、慎重に道を選んで進むと、流れる空気が新鮮になっていき……。
「テオ!」
洞窟の出口が見えた。だが、月明かりを背に立つ姿はひとつだけだ。
「キリル達は!?」
「し――っ!なんか、来るっす」
走り寄ると、テオが口に指を立てる。みな、口を噤むぎ、足を止めた。
辺りは怖いくらいの静寂に包まれていた。
サック……サックと枯れ草をふむ音が、鮮明に聞こえるほどに。
そして聞こえてくる声。
「ふふっ。面白い。私のワインの香りがする。それと……」
続き、唐突に姿を現したのは、茶色い巻き毛につぶらな瞳を持つ子どもだった。
「どうしてこんな所に子どもが?」
呟く俺に目もくれず、その子は真っ直ぐに隊長らの方に歩いて行く。
隊長が先生を下ろし、剣を抜く。
「貴方からキュクロープスの血の匂い。可愛い顔をして、いけない子ね」
「リンネ!」
隊長が叫ぶ。
――見えなかった。
次の瞬間、子どもの手は先生の首にかかってた。
「うっ……」
苦しげな先生の呻きに、隊長が剣を振り下ろす。
「あら、あなたも」
隊長が吹っ飛ばされ、地面を転がる。さらに続いたテオも、宙を舞った。片手でひと払いかよ!
「さて、どうしようかしら?」
子どもが呟く。先生の首を握ったまま。
俺は柄に手をかけたまま動けなかった。
「手を出すなよ」
そんな意気地ない俺の前にテランスは出ると、剣を収め子どもの方に歩み寄った。
「俺はレテの首領カシアの子、テランス。お前に問いたい。その者が何をしたと言うのだ?」
その声は落ち着いていて、こんな時だけど、こいつがいて良かったと初めて思った。
「まあ、カシアの息子がこんな所に。テランス。このデオニュソスが答えるわ。キュクロープスの子供が何者かに連れ去られたの。この子から、その匂いがするのよ」
そりゃさっき、手当したから。その人が。でも怖くて言えない。デオニュソスと名乗った子どもの手に捕らえられた先生の息が弱くなっているのが分かる。
「真意も問わずに手を下すとは、些か乱暴過ぎないか?」
テランスが言う。
「確かにそうね」
デオニュソスがパッと手を離し、先生が崩れ落ちる。
先生はヒューと息を吸うと、地面に手を付き、苦しそうにゲェゲェやり始めた。そんな先生の前にデオニュソスは膝を付くと、無理やり髪を掴み、上を向かせた。
「ねぇあなた、キュクロープスの子供に何したの?……ん?」
「……か……えせ」
「何?」
「かえ……せよ。キリル……とラビスを」
何故この子にそれを?
先生の声はしゃがれてて苦しそう。けど、近寄りたくても、その先が怖くて足が動かない。テランスも動けないようだ。
「へぇ――あなたがリンネかしら?なんて事ない子。面白くないわね。何?自分の仲間は傷つけられたくないのに、私の子らは平気で傷つけられるの?」
「傷付けてなどいない」
「いや、傷付けたわ、沢山。あなた達がここに来る前に沢山の死体を見たもの」
子って、狼の事か?
「攻撃されたんだ。俺たちは護るために戦った」
先生がデオニュソスを手を払う。デオニュソスは眉間に皺を寄せ、立ち上がると、腕を組み先生を見下ろす。
「護る、ね。知ってる?あなた達人間は、護るという大義名分を得ると、どこまでも残忍になるのよ。本当に厄介」
「護るために戦うのは、どの生き物だって一緒だろ!」
「いいえ、違うわ。我が子らは傷つけられたからといって無駄な戦いはしない。悲しむだけよ。でも人間は他人すら護ろうと命を懸けて戦うわ。あなたもそう」
「しょうがないだろ。人間は他人の気持ちさえも想像出来てしまう生き物なんだよ。だから俺には、姿が見えなくても、声が聞こえなくても、感じる悲しみが、痛みが手に取るように分かるんだ。頼む、返してくれ。二人を助けたいんだ!」
先生は……涙を流していた。
デオニュソスを見上げたまま、訴えるように。
デオニュソスはしばらく先生を見つめ、息を吐いた。
「はぁ。本当に、どれだけ厄介な生き物なの?そうやってあなた達は増長し、共闘する」
デオニュソスの視線が先生からはなれ、隊長からテランス、そして、もらい泣きしてる俺に移る。
「なんて愚かで……美しい」
そう言うと、デオニュソスは大人っぽいため息をひとつついた。
「いいわ。返してあげる。その代わり、あなたをいただくわ」
先生か即座に頷く。
「構わない。治療させて貰った後なら、好きにしろ」
嘘だろ?
その時、明らかにデオニュソスの口が笑みを浮かべた。
「あなた……さっき面白くないって言った事、訂正するわ。……ん?何か騒がしくなった」
洞窟の中から声が反響して聞こえる。今までどうして気が付かなかったんだ?ってくらいの大きな音。大きな足音と、ドスの効いた黄色い声だ。
「私のワインが……」
デオニュソスが早足で洞窟の方へと向かう。
「待て!約束が!」
その背中に先生が吠える。
「返したわ。ほらそこに」
俺の方を指さす。
「え?」
いつからそこに居たのか……。俺は目を疑った。
目の前には、横たわるラビスと、覆いかぶさるキリルがいた。すぐに先生が駆け寄る。
ラビスはぐったりと動かない。肩は抉れ、血だらけ。かなりヤバい。キリルも恐慌状態のようで、酷い顔だ。
でも先生がここにいる。
安堵でペタリと座り込んだ。――で、気が付く。
デオニュソス……様?マジか……!
怖いもの見たさに、彼の者の方を見て、俺は後悔した。
振り向き笑みをたたえるその顔は、楽しそうに緩んではいる。
しかし、それは神々しさを含んだ慈愛にも見えて……俺は這い寄る畏怖に体を震わせた。




