エンキ
シュルシュルと包帯が解かれる音がする。ピリリとした痛みと共に。
「問題ありませんな。後は傷口が癒えるのみですぞ」
「ありがとうございます。お世話になりました」
素朴な椅子と小さなテーブルしかない治療所。暗い室内を照らすランプの光が、閣下の頭に巻かれた包帯をゆらゆらとオレンジ色の光で染めていた。
閣下を連れティルクアーズに戻ると、一番近い街の、この治療所を探したあの夜から、私は自分の行動に自信を持てなくなっていた。その原因が、本来は医師が座るであろう、この部屋で一番マシな椅子にふんぞり返り、悪態をつく閣下である事は間違いない。
「問題ないだと?これでか?確かに音は聞こえるがな!」
年老いた医師は、まるで聞こえてないかのように朗らかに笑う。
「ほっほっほっ。多少違和感はあるでしょうが、すぐに慣れましょうぞ」
「違和感だと?そんなもの、慣れたくもないわ!」
「医師に当たらないで下さい、閣下」
「お前はいい、剥ぎ取られなかったんだからな!しかしワシは……っくそ!何故、先にあのガキを始末せんのか!」
「それは前に説明を……」
子供のように喚く閣下をなだめていると、医師がのろのろと立ち上がった。
「わしはもういいじゃろうか?」
「ああ、ありがとうございました。さっ、閣下……」
俺は閣下の肩に手をやり、退室を促す。
「行くぞ!このやぶ医者め!二度とくるかっ!」
立ち上がった閣下は、捨て台詞と共に、乱暴に扉を開け出ていった。
ため息をつく。
「また怪我をしたら来るがよかろうて」
「……はい。その時はお世話になります。なので、この事は……」
俺は多めの金をテーブルの上に置いた。
「分かっておるよ……」
その言葉をしっかり確認すると、俺は軽く会釈し足早に部屋を出て、閣下を追った。
治療所は古い武器屋の二階だ。
階段を降りれば、閣下が武器を眺めるふりをしながら、大人しく私を待っていた。
「さぁ、宿に戻りましょうか」
素直に頷く閣下。上での剣幕を聞いていたのか、笑いを堪える店主を睨み、俺は閣下を促し外に出た。
町は宵闇に沈み静かに佇んでいた。街道に付随するこれを町と言うならば、だが。
十軒程ある古びた建物の中。唯一賑やかな音の漏れる宿屋を過ぎ、店の裏に回る。
店主を追い出し、手に入れた当面の寝床。その扉に手を掛けた所で、俺は人の気配に気付いた。
「申し訳ありません……失敗しました」
影からする声は恐れを含んでいる。
「は?何がだ?」
閣下が俺の顔を見る。俺はため息と共に戸を開けた。
「……中で聞こう」
今はまだ放心している閣下が、正気に戻る前に部屋の中に押し込めたかった。
送ったのは一個中隊五十名。
本来なら、あのクソガキに半分送って報復したかったが、先の失敗もある事だ。たった一人の子供には過剰な戦力だとは思ったが、過ぎるに越したことはない、と思っての采配だったが……。
少し狭いが、暖かく趣味良く整えられた部屋の中、閣下をソファーに座らせた所で、疲れきった部下に問う。
「何があった?まさか子供一人に殺られた訳ではなかろう?」
確か、リュカスは十六歳ではなかっただろうか……。
リンネというあのクソガキを襲ったあの日、どこからか、現れたリュカスを見て俺は心底驚いた。
まだ子供と言っていい歳だろう、その彼が、オルフェウス様の代理として動いていたのだ。驚かない訳が無い。
里での戦闘訓練では、いつもふざけて退場させられていた彼が、強いとは聞いた事がないし、そもそも彼自身が馬鹿にしていた番人になるとは思えなかったからだ。
「仲間がいました。一人はマチューです。罠には彼が掛かったようで、かなり苦しそうにしているのを見ました。娘の方は、残念ながら川を渡ったようで……逃げられました」
川を渡ったか……。あの辺に橋は無いはず。リュカスなら橋を創る事も造作もないと言う事か?
娘はまた追えばいい。行き先は分かっているのだから。問題は……。
「罠ってあれか?あの趣味の悪い……」
部下がチラリと閣下を見やる。ああ、閣下の案だったな。
「マチューは無事ではなかろう?」
「見失う前は、まだ歩いていましたが、恐らくは命に関わる事になるかと」
「こちらを裏切ったとはいえ、ミロンの耳には入れたくないな。どこか、我らの知らぬ場所で野垂れ死んでくれるといいのだが。……で?その言い方だと、他にもいたように聞こえるが?」
「はい。髪の長い若い男が。金髪の美しい男でして、狼と共に現れ、恐ろしい勢いで我々を襲って来ました。それで……」
「全滅か?」
部下が頷いた。
……フィービ。
里の問題児。奴が出た後は、まるで魔物にでも襲われたたかのような斬撃の跡が残るのみ。
奴とリュカスは幼なじみだ。恐らく自分達が狙われる事になり、焦ったリュカスがフィービを呼びつけたのだろう。
「分かった……ご苦労だったな」
ほっと息を吐く部下。その様子に苛立ちを覚える。
「で?お前は一人、何故生きて戻れたのだ?」
途端、顔色が悪くなる部下。
「伝えろ、と生かされました!申し訳ございません!」
体が半分に見えるほど頭を下げている。
「あいつら……」
宣戦布告のつもりか?
「どういう事だ!?エンキ」
「チッ……」
まさかあの戦力で負けるとは思いもしなかったのだろう。静観しているかのように見えるが、訳も分からず大人しく聞いていた閣下が、体を乗り出してきた。
「負けて帰って来たように聞こえるのだが?」
「そうですよ。我々は失敗したのです。娘には逃げられた、という事で間違いないな?」
苛立ちから、つい部下に当たってしまうが……。
「……は……」
返事は途中で途切れた。
飛沫で汚れた壁。床に崩れ落ちた体から流れ出る濃い赤。……血の匂い。
ため息しかでない。
苦労して手に入れた清潔で安全な宿を、目の前のこの男……閣下は一瞬でふいにしてしまったのだ。
しかも、頭のみになった、この部下からは、まだ聞くべき事があったというのに。
「私のアンクの使い心地が試せてよかった」
何を言っているんだ?この男は。苛立ちを隠すのにも限界がある。その限界が、かなり近くに迫っている事は間違いない。
「閣下はこちらでおやすみ下さい。私は少し出てきます」
「エ……エンキ!何処に行くと言うのだ?」
「すぐに戻って来ますので、ご安心を」
縋るような眼を不快に感じ、いささか乱暴に扉を開け外に出る。すぐに音もなく近づく部下に閣下を頼むと、暗闇の中、逃げるように閣下の元を去った。
歩きながら空を仰ぐと、美しい星屑と流れる流星が見えた。里を離れてどれくらい経っただろうか……。
帰りたい……。
つい溢れた自分の気持ちに驚く。
嘘だろ?そんな事、俺が思う筈がない。
否定してはみるものの、この先の未来が見えて来ない現実。
目を閉じる。
オルフェウス様はあの日、我々番人を前にし仰った。
神が近く降りるだろう。争いの種を押さえておきたい、と。
俺は誓った。泉が開かれるなら、新しい魂に奪われぬよう、あれを管理下におこうと。誰一人……オブシディアンの王でさえ、手にする事が出来なかったあれを。
あの時は、自分がこんな風に自信を失うなんて、思いもしなかった。
オルフェウス様。
何故貴方は明確な指示を出してくれないのですか?
貴方は世界の理想の形を述べるだけ。番人は世界がそうなるように、自らの考えで行動する。ただそれだけだ。
分かっては、いるのだが、こんな時は問いたくもなる。
私は、貴方の望む結果に、少しでも近づけているでしょうか……?




