渡ってくる
そこにはいつも幸せな時間があった。
ブランコに座り、ぶらぶらお足を揺らしながら待つ時間は、ワクワクと過ぎる。
蝉の声。
青い空。
緑の薫り。
もうすぐお父さんが来る。
それだけで胸がいっぱいで……。
頬に流れる冷たい水の感触。
もう、指一本動かせない。
――なのに涙は流れる。
多分もうすぐ私は死ぬの。
なら、せめて夢見るように死にたいと思った。
意識を深く……深く沈めると、そこには浅く広い湖が広がっていた。
見渡しても雲の中にいるような、ふわふわとした空間に果てはない。
くるぶしほどの、その浅い冷たい水が、優しい流れがそこにあることを教えてくれる。
少しだけ足を進めると、つま先にあたるのはツルツルとした小石……いや、宝石だ。
きれい。
色、きらきらと。様々な宝石がそこにある。
ルビー……サファイア……シトリン……。
しゃがみこみ、水底をさらう。
私の一番好きなのは……。空の色。
この、ターコイズのような、淡い……夏の空の色。父さん母さんと日が沈むまで遊んだ日々を思い出すの。
親指ほどの大きさのその石を握りしめ、私は目を閉じた。
母さんが待ってるのなら、死ぬのも悪くないな、と思った。
でも、もう少しだけ生きたかった。
私だけを見つめて、微笑んでくれる誰かに、出会いたかった……。
ガサッ
目を開けると、視界に入って来るのは大きな丸い月と、生い茂った木々。
とても暗い場所。光源は空に浮かぶ月だけ。
驚きに息を飲めば、濃厚な土の香りが……枯れた葉の香り。
……そう、これは森の香りだ。
「冷たっ」
濡れてた。
体を起こすと、その手が水に触れている事に気付く。
……私、浅い池の中で寝てたの?
「そっか……私、あの湖を渡って来たのね……」
「誰だ?」
慌てて周りを見渡すと、真後ろに人がいた。
屈んでこちらを見ている。
月明かりでキラキラときらめく銀の髪。
綺麗としか言いようのない整った顔。
白い肌に銀の瞳の青年。
「……王子様キタ」
「誰だ?と聞いてるんだ。答えろ……お前、アイリスじゃないだろ?」
アイリス?
「莉々……。ここ……は……?」
――っ寒い。凍える。
私は自身の体をかき抱いた。見慣れない服を着てた。
「リリ……? やはりな。まだ間に合う、戻るんだ。お前の身体がある場所に」
「か……らだ?」
変な事を言う。身体ならここに……と言おうとして気付く。
私、死んだ筈なのに。
じゃあ、この身体は何?
「その身体はアイリスの物だ。分かるだろ?」
銀髪の青年が諭すように言う。
アイリス?誰?
寒すぎて考えがまとまらないし、歯がカチカチ言って喋れない。
だいたい女の子が震えてるのにかける言葉がそれとか……。
「ない……でしょ……」
「は?」
もぉいい。
青年から目を離し辺りを覗う。
少し向こうに、火が見えて嬉しくなった。薪がある。キャンプかしら。
震えながら立ち上がり急いで近づく。
濡れた服がとても重い。
「お……おい!」
焦ったように青年が声をかけてくるけど、それどころじゃない。
火のそばに座り、両手をかざしてホッと息を吐く……。
あ……手に……あの石。まだ持ってたのね。
あの綺麗な場所で拾ったターコイズ。
とても大切なもののように思えて。
「お前……泉に戻れ」
見つめてると、こっちにやってくる銀髪。……しつこい。
見つかりたくなくて、とっさにターコイズを口に入れた。
「うお!アイリス様?」
「!?」
……ゴクン……。
『あ!』
あ……。
びっくりして飲んじゃったわ……。
突然、森の中から、剣を持った男の人が出てきたから。……大変。
「どうしたんっすか?こんな時間に。リュカスさんも――って、びしょ濡れじゃあないですか! じゃ、さっきの音、コケたんッスか……」
そんなドジしない。って思ったけど、今したわ。
どうしよう……消化できるかしら。
全部この人のせい……と、見上げれば、アッシュブラウンの髪をした美青年。ポイントの入った長めのウェーブ。かなりチャラいけど。
「王子……再び」
「へ? 何っすか? 風邪ひきますよ。ちょい待ってて……」
毛布毛布……と、近くにある綿菓子で出来たような『かまくら』に消えていく。
――かまくら?
二度見する。
森の中に雪もなく、かまくら。違和感しかない。
「寒いなら何故そう言わない」
チャラ王子の言葉で、ようやく気付いたのか、リュカスと呼ばれた銀髪が、慌てて近づいてきた。
でもその口調……。祖父と同じ言い方。
「嫌っ……怖い」
「!!」
言いたいことがあるなら、ちゃんと言いなさい。
いつも祖父に言われてた。
でも、何を言えばいいのか分からない私は、いつも怒られてて……。
あれ?黙ったわ。
何か……軽くショックを受けてる銀髪は置いといて、濡れて冷たい服を脱ぐ事にする。
『まっ……待って!!』
「……!」
なんか聞こえた。女の子の声。
キョロキョロと辺りを見回すけれど、それっぽい人はいない。
ま、いっか。とワンピースっぽいスカートをたくしあげようと手を掛け……。
『待ってくださいまし!』
今度は明確に、ハッキリと、胸の辺りから声がした。
「そっか……」
きっとこれは異世界転生ってやつだ。
だからこの声は神様で……。
『違いますわ!アイリスですの!』
違った……アイリスだった。
――って?
「おい!」
誰?って聞こうとすると、今度は横から男の人の声がする。
「アイリス……」
見えない。何も聞こえない。
さっきから感じてた視線。
でも、気持ち悪くて……。
「頼む。どうか耳を貸してくれ。……その前にこれを……」
――……しょうがない。
横に転がる、ふわふわした白い霧の様な物に包まれた『何』か、の方をみる。
顔が出てるけど……。
「羽化するのかしら……」
「しねーよ……」
「成虫?」
「虫じゃねーよ!」
残念。さぞかし美しい蝶になれたでしょうに。
「……アイリス……悪かった。知らなかったんだ、アイツらが殺そうとしてる事。謝って済むことじゃないけど……」
アイリスって……私の事よね。
『マチュー様を助けて差し上げて!』
また胸の辺りから声がした。
あ……私、アイリスって子の身体を乗っ取っちゃったんだ、と悟った。
とても切実そうだから、どうにかしてあげたいけど……。
マ虫……正直、触りたくない。
「アイリス様、ダメッスよ。リンネ様が指示出すまでそいつは触っちゃダメだ」
チャラ王子が、茶色い毛布を抱えて戻ってきた。
頷く……触っちゃダメなのね。うん、よかった。
はい!これ被ってな、と渡された毛布は、重くてざらざらしてた。
でも嬉しい。ありがとう。
「う……上目遣いやば……。わりーな、コテージ、まだ子供には見せられねー状況なんだわ。リュカスさんも、もうしばらく外で待っててくれる?」
チャラ王子が頭を掻きながら頬を染めるてる。
子供には見せられないって……いかがわしいの?
コテージと呼ばれたドーム型の建造物を見る。
ふわふわと揺れる霧で出来たこれがコテージ?
かまくらよね。
はっ!中に人がいるわ。重なり合って……。
目を逸らす。
ドスッ!横で音がして振り向く。
「あ、すまんせん、足に当たったわ。……ダメっすよ。マチューさん。アイリスを誑かしちゃ」
「ゔ……クレタス……お前……」
マ虫が蹴られ、向こうに転がされて行ってた。
マ虫の扱いが雑。ちょっと不憫。
辺りが少しだけ明るくなる。
空を仰ぐと白み始めてて、そろそろ夜明けが来ることが分かる。
鳥のさえずりと共に、森の中が少しだけ騒がしくなってきてた。
ここ……どこかしら……。
「寒い……」
「さっきは、言い方を間違った。ちょっと目をつぶってろ」
リュカスと言われた銀髪が復活してきた。
じ――っと見てたら、すまない、と謝られた。
言われた通り、目を閉じる事にする。
フワッとか温かい空気に包まれる感覚。魔法かしら? 乾燥機に入ったみたい。入った事ないけど。
「今ならまだ戻れるんだ。リリって言ったっけ? 君には向こうに大切な人だっているだろ?」
いる。でも、もう会えない。
「アイリスには、まだやらなくちゃいけない事が沢山あるんだ。返してやってくれないか?」
その身体を……。
悪霊退散。
そんな言葉が浮かんだ。
じゃあ祓われた私の心は何処に行くの?
帰る所なんてないのに……。
「頼む……」
そうね……。帰るところがないからって、この子の『これから』を奪うなんて事、したくない。
消えよう。雲のように……流されて空気に溶けてしまえばいい……。
『待って!』
優しい子ね。小さい女の子……の声。
どうか、あなたは、あなたを大切に思ってくれてる誰かの手を離さないで。
私は揺蕩おう……。行くあてのない心のままで。
『お願い、行かないで! このままじゃ私、お父様との約束を果たせなくなってしまうのですわ』
お父様?
思わずグッと踏ん張った。
約束って何?
『大事なものを預かってるの。それをオルフェウス様に渡すのが私の役目。約束したの、お父様と。ちゃんと、役目を果たして見せますわって。……なのに……見つかってしまって』
見つかって? 隠れてるの?
「急げ! もうすぐ夜明けだ。日が昇ると君は戻れなくなる。次の夜にはまたチャンスはあるが、日を追う事に戻れる可能性は薄くなるんだ。……それに……」
それに?
「急いでここを立たなくてはならない。追われてるんだ……。だから今しかない。頼む、アイリスの為に消えてくれ」
『行かないで! 力を貸してくださいまし。お願い……』
どうしよう……。
お父さんとの約束は叶えてあげたい。
でも、銀髪の言うことも分かる。
『私……約束を果たせないまま消えてしまうのは嫌なの』
「急げ! 夜が開ける」
『りり様……お願い!』
「リリ!」
私はギュッと瞳を閉じた。
頬に暖かい光があたる。
日が昇った……。
ゆっくりと目を開けると、リュカスと言われた美しい男の人が私を見てた。冷たい銀色の目で……。
蔑むように――。




