莉々
今日のご飯、何にしよ……。
午後の眠たい大学の講義中、ノートを取りながら夕飯を考える。
一人暮らしはまだ始まったばかりなのに、思いつくのはコンビニの素晴らしいラインアップ。
料理は苦手。
けれど、『一人暮らしに憧れて!』は、同居を諦めて貰うにはちょうどいい理由だった。
美味しかったな……志穂さんのご飯。
昨日『お父さんの家』で食べた、義母の手作りの夕飯。
胃袋掴まれた!って分かるレベルで美味しかった。
あのご飯を毎日食べられるのは魅力的だけど……。
だめよ。邪魔しては……。
お父さんに会えた、それだけで十分。
三歳児を持つ若い夫婦の家に、大学生の私は不似合いだと思うのは……私だけじゃないはずだから。
そういえば、私の両親が結婚した歳に、自分もなっちゃったんだ……と。
私はぼんやりと講義を聴きながら、遠くを見つめた。
母が私を産んだのは、まだ大学に在学中の事。
最初は同級生の父と二人、貧乏ながらも頑張って私を育ててくれたみたい。
今の私の歳で子育てとか……本当に母は凄いなぁと思う。
そのせいなのかは分からないけれど、母は病気になり、私たち家族は、田舎にある母の実家に引っ越すことになった。
母の実家はお手伝いさんがいるような大きな旧家で、最初は凄く楽しかったのを覚えてる。
けど数年後、母が亡くなり……すぐに父は家を追い出されてしまった。
私は祖父母の厳しい顔を思い出し、眉を顰める。
父はそれから家に寄り付くとこは愚か、私に会いに来ることすら許されなくなった。
それでも父は私に会いに来てくれたけどね!
近くの公園でこっそり父と会ってた事を思い出し、顔がにやける。
長かった。でもこれからはいつでも父に会える。
祖父が亡くなったのが一年前。
老齢の祖母が病院に入るのが決まり、ようやく私は大学入学を機に、父の住む街にやって来る事が出来たの。
「莉々――!カラオケ行こ!」
講義室を出た途端、出来たばかりの友達、日向から声がかかった。
今日も元気な日向は、私の頭を撫でながら「ね?行こ?」って、ちょっと屈んで顔を覗く。
大学入学にして初めての一人暮らし。
田舎から出てきたばかりで、戸惑い小さくなってた私に、手を差し伸べてくれたしっかり者の友人。
妹にそっくり!っていつも頭を撫でられてるけど、嫌いじゃないから……。
この後講義はもうない。
解放感から思わず頷いた。
「莉々はどんなの歌うの?」
「……演歌」
「……新しいわね……」
「何?カラオケ? いく!」
私の肩にのしかかる、この子、葵も……。
「あ、なら俺も!」
慌てて葵の後ろに付いてくる陸も、みんな大学で知り合ったばかり。
「あんたらがイチャつかないなら連れて行ってあげるよ」
快活な日向がちょっと嫌そうに言う。
「無理ぃ――ね、莉々。いいでしょ?」
私も莉々を愛でたいの!と葵は不思議な事を言っているけど……。
断るなんてありえないから。
素敵なお友達が出来た事に感謝しつつ、私はこくんと頷いた。
「お祈りポーズ?何コレ、可愛い」
「真顔……なのにキュンキュンするわ……」
可愛い……身長百五十センチ未満の私。
小柄で童顔な私にはちょっとコンプレックスだけど、二人に言われるのは嬉しい。
でも、二人に両手を繋がれるのは恥ずかしいから。
「陸と繋いであげて……葵」
「え――」
二人は付き合ってるんだから、と陸の方を見る。
ワキワキと手を差し出す陸の手を叩き、葵は私を引っ張って走り出した。
「早く行こ!」
その頬が赤くなってて……。
「待てよぉぉぉ」
振り返ると、陸もテレながらも慌ててついてくる。
葵を見る、陸のその瞳が……何故か、昨日見たお父さんの瞳に重なった。
「莉々ちゃん、またいつでも来てね!」
玄関でそう言って、お土産のお菓子を持たせるのは、私の義母さんである志穂さん。
ようやく家に来てくれた、と喜んでた彼女は、私の母とは違うタイプの、はつらつとした女性だった。
私の母には儚いイメージしかないから。
こくん、と頷くと絶対よ!と念を押され苦笑した。
ふと、スカートに縋り付く手に気づいて、下を見ると、行かないでと上目遣いに訴える瞳。
「また来る……から」
ブンブンと首を横に振る、三歳の朱莉ちゃんが可愛くて、ギュッてする。ホント、可愛い。
「莉々、本当に送らなくていいのか?」
情けない声で覗き込むのはお父さん。
「いい。大丈夫よ」
「でもな……莉々は可愛いから連れ去られるかもしれないじゃないか」
昔から何度も言われた言葉に、恥ずかしいけど、嬉しいと思ってしまう自分。
お父さんは変わらない。ちょっと太ったけど。
優しくて、でもちょっと頼りない。
八の字になった眉が可笑しくて笑うと、お父さんは慌てて目元を押えた。
「……莉々、本当に気を使ってないか?一緒に暮らすのだって……もっと甘えていいのに……」
首を振る。
甘えるって歳じゃないわ。
それに私、今日、ここでお父さんの家族と食卓を囲めた事、私にも家族がいたんだって……初めて実感したのよ。
まるで奇跡が起きたみたいな衝撃……凄く幸せで。
これ以上はバチが当たりそう。
目頭を押さえながら、私の目を心配そうに覗くお父さん。
――伝えたい。
ふわふわ舞い上がりそうなくらい幸せなのよって。
でも、私の言葉はいつも迷子で……上手く声にできないの。
私が困り果ててるのを見かねて、志穂さんがお父さんの頭を叩く。
「タクシー来たわよ!ほら!」
私は朱莉ちゃんをお父さんに押し付けると、家の前に止まったタクシーに急いだ。
いそいそと乗り込み、アパートの位置を伝えると、窓を開け手を振った。
志穂さんも手を振っていた。
お父さんが顔をあげ、私を見て手を振る。
まだグズる朱莉ちゃん。
お父さんはその体ごと抱き上げて……。
車が動く、その瞬間。
朱莉ちゃんを見る、お父さんのその瞳が、目に焼き付いていた。
私には向けられたことのないその瞳。
お父さんは朱莉ちゃんを見て微笑んでたの。
それはそれは愛おしそうに……。
走り出したタクシーの中で私は……。
寂しいと思う心に蓋をした。
この世界で、たったひとりきりになった気がして。
大きな交差点。信号を待つ。
平日の昼間なのに、どこから湧いてきたんだ?ってくらい人が並んでた。
目の前では、葵と陸が何か話している。
夢中になってるのか、繋いだ手がゆらゆらと揺れてた。
時々ふっと優しく慈しむように綻ぶ二人の目元。
「どうしたの?莉々」
ぼんやりしてた私の顔を、覗き込む日向。
「二人だけの世界……」
ぷッと日向は吹き出す。
「羨ましい?」
うーんと考えるけど、そんな感情は持ち合わせてないようよ。
プルプルと首を降ると「そんな風には見えないけど?」って笑われた。
「ねえ、莉々にはいないの?その……」
「彼氏はいた事ありません」
即答する。
幼すぎる容姿からか、そんな風に見られた事はなかった。
「好きな人は?」
「……お父さん……」
「……」
「そんな、残念な子を見るような顔で見ないで」
「ああ……ごめんね。でもそれ、お父さんに言ったら泣かれるやつじゃん?お父さん、めろめろでしょう?」
こんな可愛い子からとか……って呟く日向。
「そうかもね。でも今は最強の三歳児がいるから。私なんておじゃまよ……」
……って自分で言って気づいた。
昨日お父さんが泣いた理由。
お父さんが私に向ける瞳はいつも悲しげ。
朱莉ちゃんに向けるものとは違ってた。
そうか、あれは……懺悔の涙だ。
そんな風に負担になんてなりたくないのに。
お父さんは本当に優しいから。
前を向く。……早く大人にならなきゃ。
信号はもうすぐ変わりそう。
後ろから詰めてきたのか、親子連れが隣に並んだ。
お父さんとお母さんに手を引かれた可愛い女の子。
昨日別れ際に見た三人と重なり、目を細める。
幸せそうで……なんて眩しいのだろう?
そうこれは憧れだ。
近くにあるけれど、手が届く事はない。
不意に女の子の手が母親から離れ、その小さな体が車道に向かう。
あっという間に離れて行く細い腕に、手を伸ばすけど、届かなくて。
慌てて地面を蹴り、身体ごと乗り出し、引っ張った。
「莉々――!」
大きな音と衝撃。
一瞬、空が見えた。
硬いアスファルト。
焼けるような痛みに、思うように動かない体。
子供の泣き声を聞きながら、暗い暗い底のない場所に落ちていった――。




