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§1.17. リェーナ・クリスタノア

 リェーナは石の壁で囲まれた薄暗い部屋にいた。牢獄のようなその部屋はリェーナにとって慣れ親しんだ場所だった。いい思い出なんて一つもないその部屋で、膝を抱えて昔のことを思い出していた。


 リェーナはウィンスレット大領の北に位置するキューザック大領で生まれた。父親は猫獣族(ケルタル)で、母親は雪華族(クリスタノア)だった。母親は雪華族の里を出て旅をしている中で父親と出会ったのだという。

 

 雪華族は継人種で、珍しい種族だった。雪華族はみな揃って肌が白く、髪が青い。藍に近い暗い青から白にちかい青まで幅はあるが、リェーナもその母親も白に近い薄氷のような水色だった。瞳も青白く、寒さを好む。夏でも雪が溶けない山で暮らすことから、雪華族の女性は雪女と呼ばれることもあった。


 そして雪華族の体質でもっとも特徴的なのが、その体液だった。雪華族の体を流れる血液は透き通った白色で、外気に触れることで固化する。

 そうして出来た石は雪晶石と呼ばれ、杖の芯材として適していることから高値で取引された。それを背景に過去には雪華族を狙った人攫いが横行した。

 さらに、雪華族が流す涙もまた外気に触れることで固化する。涙晶石と呼ばれるこちらは雪晶石よりもさらに透明で、さらに価値が高く扱われた。


 リェーナが生まれて五年ほどの間は、彼ら家族は平穏に暮らしていた。彼らが暮らしていた村は異種族である雪華族にも優しかった。

 しかし雪華族は珍しく、雪華族の母娘(おやこ)がいるという噂は徐々に広がる。そしてその噂は、奴隷商の耳にも入る。


 彼らにとって純血の雪華族は金のなる木だった。彼らはリェーナの母を狙って、わざわざリェーナたちの住む村を探してやってきた。

 

 人攫いが村にやってきて、リェーナとその母を連れて行こうとした。父親はそれを邪魔しようとして殺された。

 母親はリェーナを逃がすため必死に抵抗し、それを押さえる奴隷狩りが加減を間違えて殴り、死んだ。

 リェーナは逃げられず捕まったし、ついでにその村にいた他の子供も捕まった。


 リェーナは雪華族の子供として売られた。ハーフだから値が落ちるだとか、母親が死んだ分まで稼いでもらわなければならない、など理不尽な理由で怒りをぶつけられた。


 リェーナは“錆び鎖(ラストチェーン)商会”に買い取られた。商会では奴隷として「教育」を施す傍ら、リェーナから涙晶石を採取した。ありとあらゆる手段でリェーナに涙を流させた。

 体に痛みを与えることで。あるいは耐え難い不快感に晒すことで。あるいは大切なものを目の前で奪うことで。


 リェーナは次第に、痛みの感覚を自分から切り離すようになった。傷を抉られても、骨を砕かれても涙を流さなくなった。リェーナの涙一粒よりも安いという理由で、仲良くなった他の奴隷の子供をリェーナの目の前で殺された事もあった。

 リェーナは次第に言葉を失い、感情が己から乖離していった。

 ぼんやりした頭で考えるのは、どうすれば奴隷商の機嫌を損ねないかだけだった。

 あらゆる手段で自分を迫害する奴隷商が恐ろしいと思う反面、そんな恐怖がどこか他人事だった。心を守るため、そうしなければ生きられなかった。

 

 リェーナの心は現実から乖離し、時間の感覚を失っていた。

 そうしてリェーナが奴隷になってから、八年が経過した。


 ある日、奴隷商の一人である豚獣族(オーク)の男に連れ出された。

 男は組織の金を横領しており、それがバレてしまったために組織から逃げ出した。逃亡先での資金源として、最も価値がある奴隷であったリェーナを「持ち逃げ」することにしたらしい。

 リェーナは抵抗しなかった。抵抗するという選択肢もなかった。誰が主人であっても、それに逆らうことは考えられなかった。

 目の前でそれが死んだときでさえ、どうという感情を抱けなかった。ただ、自分は次は誰の言うことをきけばいいんだろうという疑問だけが僅かに脳裏をよぎった。


 その後、奴隷商が護衛に雇った女から名を尋ねられた。


「無理に何でも答えろとは言わん。だがせめて、名前だけでも訊いていいか」


 自分の名前を思い出すのに、少しだけ時間がかかった。


「リェーナ。リェーナ・クリスタノア」


 名前を答えた時、名前と一緒に自分というものを久しぶりに思い出した気がした。


 リェーナの生活は一変した。誰にも脅かされることがなくなった。アズノアはリェーナに干渉をしなかった。だけどリェーナがきちんと生きていけるように見守っていた。


 アズノアと過ごして、人と話して、次第に現実感を取り戻していった。泣くことすらなくなった自分を遠くから見ているようだった生活が、きちんと自分の目線で見えるようになっていった。

 アズノアを通じて沢山の人に優しくしてもらった。エイダに話をしてもらった。ジュリーにかわいがってもらった。


 だからリェーナは、自分も役に立ちたいと思った。

 アズノアが意識的にリェーナと距離を置こうとしていることは気づいていた。他の人との関わりを見ていても、アズノアは他者になるべく近づかないようにしているように見えた。だからもしかしたら迷惑になるかもしれないと思いながらも、アズノアのように戦えるようになりたかった。


 教えてくれるアズノアは優しかった。きちんとリェーナの事を見て、考えて教えてくれていた。自分をちゃんと見てもらえることが嬉しいのだと、思い出せた。

 戦えるようにはなれなかったけど、リェーナはアズノアのために何かがしたかった。だから料理を作った。アズノアは喜んでくれたけど、同時にひどく悩んでいた。リェーナは自分が悩ませてしまったのだと思った。


 リェーナも、この生活が一時的なものだということは気づいていた。アズノアがリェーナを手元に置きたがっていないことはわかっていたし、リェーナの出自からしても、こんな都合のいい時間が長く続くとは思えなかった。

 だけどリェーナにとって、この時間が幸せだった。

 いずれ失われる幸せだとわかっていても、今を大切にしたかった。


 そして実際に、それはあっさりと崩れ落ちる。

 リェーナはアズノアがヴォルフに敗北したところを見ていない。だけど負けたということだけは聞かされた。

 リェーナはまた、八年をすごした石壁の中に連れ戻された。


 生きることを思い出してしまった分、戻ってきた部屋の床は一層冷たく感じた。

 リェーナ自身にはもう何の希望もなかったけれど、もう会うこともないだろうけど、せめてアズノアが無事に生きていてくれればいいな、とリェーナは思った。

 それを想像することで、少しだけ今の惨めな気持ちが和らいだ。今となってはもう、想像するくらいしかできなかった。

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