§1.15. どん底
“逆さ剣”亭を飛び出したアズノアは、降り出した雨の中一心に走り続けた。子供が泣きながら駆け出すような、無様な走りだった。
なりふりかまわず走ったアズノアは、街の城門にたどり着く。どこに向かうあてもない。だがアズノアにとって今確実なのは、この街にはもういられないということだった。
アズノアは閉まっている城門を蹴り飛ばし、鍵を壊してこじ開ける。幸いにして日が暮れた後だったため見張りはいなかった。
雨でぬかるんだ地面を蹴って走る。どこに行けばいいかわからなかったが、必死に走った。
走って走って、街から離れた。
人目を避けて森に入る。大きな石につまずいて転ぶ。普段ならありえないようなことだった。無様に転んで雨でグシャグシャになった泥に顔から突っ込む。あちこちに負った傷が痛んだ。
体はまだ動く。だがもう、立ち上がって走る気になれなかった。そのまますぐそばの木に寄りかかった。
濡れた地面にすわっているから、地面に触れているところからじんわりと冷たさが伝わってくる。木で遮ることができないほどの雨が体を濡らす。
寒かった。寒さを凌ぐ方法は知っている。これ以上濡れない場所に移り、火を焚き、服を乾かすのだ。そうすべきだと習ったし、事実そうすべきだった。けれどそうする気になれなかった。だから、寒かった。
ろくに頭がまわらない、回ってほしいとも思わない中で、常に抱えている空腹が腹立たしかった。この空腹こそが、アズノアが喰人鬼であることの何よりの証明であり、アズノアが他人と生きられない何よりの理由だった。
これまではそれなりに上手くいっていた。いずれ来る破滅を先延ばしにできていた。
養父の教えは正しかった。利害で切り捨てられないような親しい人、友人や家族を持ってしまえば、秘密を隠し通すことはできなくなる。
わかっていた。リェーナの存在がアズノアの中でだんだんと大きくなっていた。かつてのアズノア自身と養父に重ねてしまう前に、さっさとリェーナをどこかにやってしまうべきだった。
いけないと思いながらも、リェーナを放り出すことが出来なかった。それだけ大切だった。
そうしてアズノアは養父の教えを破った。だから今、こんな風になっている。
このままこうしていたら死ぬだろうか、という考えがよぎる。だがそれすらどうでもよかった。
何も考えたくなかった。思考が朦朧とするに任せ、アズノアは意識を手放した。
暗い意識のそこで、燃える炎を見た。家族と暮らしていた家が燃える光景だった。何度となく夢に見た光景だった。
パチパチと木材が爆ぜる音が耳に痛かった。頬に熱を感じて、目を覚ました。
目の前で火が燃えていた。暖かかった。よくよく見るとどこか洞窟の中にいた。あれほど濡れていた服がいつの間にか乾いていて、心地よかった。
「目が覚めたかい?」
見れば、火を挟んで反対側にアランがいた。
「フィッツロイ?」
「いかにも、アラン・デヴィッド・フィッツロイだとも。体は大丈夫かい、アズノア?」
火の向こうからアランが穏やかに微笑みかける。揺らめく光に照らされたその笑顔は、いつもとどこか違って見えて不気味だった。
「何しに、こんなところに」
「君を探して。君が城門を破って街を出たところを見た者がいてね。僕のところまで報告が上がってきたんだよ。あまりに様子がおかしいので、少し調べさせてもらった。“逆さ剣”亭で話を聞いたから、おおよその事情は掴んでるつもりだ」
「そうか。領主様直々に、ご苦労なことだ」
アズノアはため息をつく。どうやらここで終わりらしい。
「改めて確認させてもらうが、君が喰人鬼だというのは、事実かい?」
「……そうだ」
アズノアは体を起こし、剣を探した。アズノアの両手剣はアランの後ろにあった。腰に留めていた投擲用のダガーも見当たらない。
対してアランは鎧を着て、愛用の剣を腰に差している。
アランは強い。武器無しでやりあってどうこうなるとは思えなかった。
アランはそんなアズノアに構わず、話を続ける。
「そうか。君は新ルイスランド王国法は知っているね?」
「知っている」
「一条。人は、人を殺してならない。ただし己の身を守るためにやむを得ない場合と、人食を主とする種族から己や己の財産を守ることを目的とする場合を除く。
二条。人は、いかなる場合も人を食してはならない。
知っての通り、一条は緩く解釈され、適用される。
すなわちルイスランド王国において、人食を主とする種族は実質的に人として扱わない。彼らは事実上の討伐対象だ」
揺れる炎に下から照らされて、アランの顔が洞窟の暗闇に照らし出されている。
アズノアは舌打ちをしながら話に付き合う。どうせ殺すつもりなら早くそうしてほしかった。行き止まりのこの時間が苦痛だった。
「知っている。だから隠してきた。バレたから、逃げ出した。
領主様自らわざわざ追ってくるとは、仕事熱心なことだ。それとも私を殺せるのはお前くらいだからか?」
「今の君のありさまじゃ、僕以外の騎士でも勝てると思うけどね。足跡もほかの痕跡も何も隠さずにここまで逃げてきたみたいだし。おかげで簡単に見つけられたわけだけど」
「それもそうだ。ここで殺すか? それとも街まで連れ帰って処刑するか」
あくまでも穏やかに話を続けるアランにアズノアは苛立ちを募らせる。
アランはやはり問いかけを重ねる。
「アズノア。君、どうして隠れて魔獣の肉なんて狩っていたんだい? 喰人鬼は人を食べるものだし、君ほどの腕があれば街の中であれ外であれ、いくらでもこっそり人を襲うことは出来ただろう」
「私は、というよりは私の両親は、人の間で生きることを望んだ人たちだった。人の間で生きるなら人を襲うものではないと教えられた。だから、私はそう生きてきた」
それもすべて無駄だった、と言わんばかりにアズノアはそう吐き捨てる。
「そうか。なら話は終わりだ」
アランはアズノアの両手剣を手にすると、アズノアに手渡してくる。
アズノアはその意図が理解できず、戸惑いながら剣を受け取る。
「何のつもりだ」
「食べるために人は襲わないんだろう? ならそれで十分だ。僕は君を殺しもしないし、罰しもしない」
アランの表情はやはり穏やかで優しかった。
アズノアは顔をしかめる。
「なぜ殺さない。私が嘘をついているとは思わないのか。私は喰人鬼、人を喰う化け物なんだぞ」
「僕は君を殺したくない。それに君は君だよ、アズノア。何年の付き合いだと思ってるんだい? こういう時に君が嘘をつかないことくらい、わかってる」
「なんで……」
アズノアが言葉を失い、パチ、パチと静かに薪が爆ぜる。
アランは答える。
「友人だから。
僕は君との関係を大切にしたいし、僕は君のことをちゃんと知ってる。
君がどんなつもりだったかは知らないが、君はこの街で、きちんと人の間で生きてきた。積み上げてきたものは、嘘をつかない。喰人鬼は恐ろしいが、君は恐ろしくない。それは僕が君のことをちゃんと知っているからだ」
「なにを……何を言ってるんだ、フィッツロイ」
「そう思うのは僕だけじゃないはずだよ。両替商のジョー君も、神殿のエイダ嬢も、君の正体を知って驚くことはあっても、それでもきっと君を歓迎するだろう。
君が喰人鬼だと知って忌避する人がいないとまでは言わない。それでも君がこれまで築いてきた関係は、必ず君を肯定する」
「本気で言ってるのか」
突然そう言われても、アズノアはどう受け止めていいかわからなかった。信じられるわけがなかった。
「本気だよ。
リェーナ嬢といっしょにいるときの君は、幸せそうに見えたよ。君がこれまで他人を遠ざけて生きてきたのは知っている。だけど彼女だけは違っただろう。彼女と一緒にいて、何も感じなかったとは言わせない。
彼女は君を尊敬していたし、君は彼女を大切にしていた。それには喰人鬼だとか、雪華族だとかは関係ないはずだ。肩書でも種族でも経歴でもなく、大事なのは君とリェーナという個人だったはずだ。そうだろう?」
アランがアズノアに微笑みかける。
暖かかった。ゆらゆらと揺れる炎がアズノアを暖めていた。
アランの言う通りだった。アズノアはリェーナに会って、これまで縋ってきた生き方を手放した。アズノアにとってリェーナはそれだけ大切だった。それはリェーナが、リェーナだったからだ。それ以外のことは関係ない。
それを理解したから、アランの言いたいことが理解できた。その言葉を信じられた。
アズノアの頬を涙が伝う。
アズノア・マギリヴラは喰人鬼だ。しかし喰人鬼ではなくアズノア・マギリヴラがそこにいた。
「私、私は……」
「何度でも言おう。君は君だ、アズノア・マギリヴラ」
アランは変わらず、アズノアに微笑みかけ続けている。
「いいのか」
「いい。僕が認める」
「そうか、いいのか」
アズノアは静かに目を閉じる。あふれる涙が止まらなかった。
ここにいていいと言われた。
アズノアが喰人鬼だと知った上で、それでも構わないと、友人だと言ってくれた。
居場所だった。
それはアズノアがずっと欲しかったものだった。それと同時に、リェーナに与えてやりたいと、今なら素直に思えるものだった。
だからアズノアは決めた。
「私は、リェーナを助けに行く」




