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奇妙な関係




 芳川ゆり、二十六歳。心機一転、今日から新しい生活のはじまりです! ──なんて、どこかの漫画の主人公のように純粋でいられたらどれほど楽だろう。そんな思いとは裏腹に、私は今人生最大の"後悔"を噛み締めていた。目の前の豪邸には、つい数日前に出会った不思議な青年と同じ苗字の表札。それをまじまじと見つめながら、はぁ、と大きな溜め息を吐く。


「やめとけばよかった……」


 そう、あの日──人生を終わらせようかと悩んだ日。話を聞いてくれた彼に『人生をくれ』と言われた私は、言葉通り人生を預けることにしたのだ。

 荷物をまとめ、事前に伝えられた住所へ来てみたものの、想像以上の豪邸にすっかり頭を抱えてしまっている。勝手に一人暮らしだと思っていたのだけれど、彼の年齢でこんな大きな家に住めるとは思えない。まさか、実家? いや、実家に自殺未遂の女を勝手に住まわせるなんてどうかしている。どちらにせよ、絶対に頭のおかしい人だ。


 今日のところはこのまま引き返そうか、でもアパートにはそう長くはいられないし──そんなことを考えながら、もうどうにでもなれと彼の提案に乗ってしまったあの日の自分を恨んだ。住んでいたアパートも、もう解約の手続きを済ませてしまっている。


 時刻は二十時。約束の時間からはもう一時間以上が過ぎ、辺りは真っ暗になってしまっている。近隣の住宅からかすかに聞こえる家族の笑い声をぼんやりと聞きながら立ち尽くしていると、目の前の玄関がガチャリと開いた。


「あ……」

「ああ! ゆりさん!」


 私の名前を呼んだ彼が、こちらへ歩いてくる。暗くて表情はよく見えないけれど、その声色から随分と嬉しそうだということはわかった。自分とは対照的な彼の態度が眩しく思え、また少し気分が落ち込む。


「よかったです、ちゃんと来てくれて。連絡もつかないし、時間過ぎてるのになかなか来ないから迷子にでもなってるのかもって、探しにいこうかと思ってましたよ」

「いや、はあ……すみません」


 逃げ出す前に見つかってしまい、なんだかとてもいたたまれない気持ちになる。にこにこと中へ案内する彼の後ろを仕方なくついていくものの、その足取りはまるで処刑台へ向かう囚人のようだ。いや、自殺を試みた私が使うには正しくない表現だろうか。とにかく、とてつもなく重いのだ。


「どうぞ、入ってください」


 そう促す彼にスリッパまで用意され、慌てて口を開く。


「あ、あの……!」

「はい?」

「あの、やっぱり無理です、こんなの……ご家族にもご迷惑だと思いますし」

「ごかぞく?」


 ぽかんと口を開けた彼が、少しずれためがねをくい、と直す。


「え、あ、家族? いや、一人暮らしですよ、俺」

「え? こんな大きな家に?」

「ああ、そっか……確かにめちゃめちゃ怪しいですよね。でも大丈夫ですから、とにかく冷えるので中で話しましょう」


 いや、私が全然大丈夫ではないのだけれど。へらへらと笑いながら中へ進む彼を見て、穏やかそうな顔をして結構強引な人なのだなと思った。とりあえず、今は彼の言う通りにするしかないようだ。


「荷物はその辺に置いてください、後で部屋に運びますから。今コーヒー淹れますね……ってそうだ、ごはん食べました? カレーつくったんですけどゆりさんもどうです?」

「あ、いえ、外で済ませてきたので」

「そうですか。お風呂も沸いてるのでよかったら後でどうぞ」

「えっ、あ、それも済ませてきたので」


 同居する気満々といった雰囲気で話を進める彼に、たじたじになりながら言葉を返す。大の字になって寝転がっても到底邪魔にならないであろう広いリビングに萎縮しながら、促された椅子に腰掛けたのはいいものの、どうしていいかわからなくなり俯いたまま固まってしまう。


 どうぞ、と目の前に置かれたカップをじっと見つめ、ちらりと彼の様子を伺う。悪い人のようには見えないけれど、少しだけ嫌な考えが浮かんでしまい、私はそれに口をつけられずにいた。


「……ああ。そりゃ警戒しますよね」


 自分のカップをテーブルに置きながら、彼が苦笑する。「すみません」と謝りながら今度は冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、私の前にとんと置いた。


「新品です。水しかなくて申し訳ないんですけど、こっちの方がいいですよね」

「あ……いや、あの……ごめんなさい」


 考えていたことをすぐに勘づかれ、気を遣わせてしまったことがとても申し訳なくなる。


「突拍子もないこと言ったのは自覚してます。あの場の勢いで承諾しちゃったけど冷静になったらやっぱり、みたいな感じですよね? きっと」

「……はい」


 私の反応を見て気持ちを悟っていたのであろう彼にそう訊ねられ、素直に肯定の言葉を口にする。さっきまでの底抜けに明るいといった雰囲気とは少し違った空気に、なんとなく誤魔化すべきではないなと思った。


「さっき、ほんとは橋にいこうと思って外に出たんです」

「え?」

「迷子かなーなんて言ったけど、あれ嘘です。もしかしたらまたあの橋にいるのかもって思って……メッセージも既読にならないし、色々考えてたらいてもたってもいられなくなっちゃって。だから家の前にいてくれて安心しました」


 嬉しそうだったのはそれでか、と納得しながら、先程の自分の思考回路を思い返す。そうだ、さっき家の前で悩んでいたとき、もう一度橋に……なんて考えは浮かんですらいなかった。


「ゆりさんの部屋、鍵つけておきました。暗証番号式だからロックすれば俺は入れません。脱衣所のドアにも同じものをつけてます」

「え……」

「すぐに信頼してくれなんて言いません。見ず知らずの男と突然同居だなんて、むしろその反応が正しいと思うし」


 ゆっくりと話す彼の優しい声色から、私を安心させようとしてくれているのだということが伝わってくる。失礼な態度をとってしまっただろうか。そんな気持ちが、じわじわと胸の中に広がる。


「あの、ごめんなさい。さっき……家の前にいたとき、正直帰ろうと思ってたんです。やっぱり同居なんてできないって」

「どうしてですか?」

「どうしてって……普通じゃないです、こんなの……」


 穏やかに笑っている彼とは対照的に、落ち着かない気持ちでぽつりぽつりと言葉を落としていく私。そんな私を見ながら、彼はコーヒーをごくりと飲み込み少し間を開けてから口を開いた。


「自殺も、普通じゃないですよね?」


 発せられた言葉に、ハッと顔を上げる。


「確かに俺は普通じゃないです、こんな提案普通の人間なら絶対にしないでしょうね。でも嫌なんです、さっきみたいに心配になるのは」

「心配……?」

「そうです。確かに俺達は他人だけど、あんな関わり方しちゃったら、いくら他人でも気になって仕方ないですよ」


 先程と同じように微笑んでいるはずの彼の表情はどこか重く、硬い。見ず知らずの人間をこんなにも心配してくれるなんて優しい人なのだなと思うけれど、なんだかそれだけではない気もする。というか、純粋な善意だけでこんなことができる人がいるだろうか。


「あのまま別れて、なんの関わりもなくなって……またゆりさんが同じことをしたくなったらどうします? そこにまた俺がいられるかなんてわからないじゃないですか」


 カップを握りながら、彼が話を続ける。


「いや……ゆりさんからすれば、止められたくなかったのかもしれないけど。でも、俺思うんですよね。死ぬのと人生をやり直すのって、同じじゃないのかなって」

「え?」

「ゆりさんは今の人生が嫌であんなことしたんですよね? だったら、環境を全部変えちゃえばいいじゃないですか」

「……だから、私に仕事を辞めろって?」


 そうです、と笑う彼。


 ────あの日、私は彼にいくつか指示をされた。


 上司に会社を辞めると伝えること。

 アパートを解約し、この家へ引っ越すこと。

 必要最低限のもの以外は全て捨てること。


 生きていることに未練なんてものはこれっぽっちもなかったし、私はそれを全て聞き入れてここへ来た。そんなおかしなことができてしまうくらい、本当にもうどうでもよかったんだ。


「自殺って、多分誰かが本気でその人の人生を背負う覚悟があれば、止められることなんじゃないかって思うんです。何もしなくていい、ただ生きて側にいてくれればいい。寝る場所も、食事も、お金だって……その人のためになんでもしてあげられて、心の底から生きててほしいって望むなら」


 そう話す彼に、自然と口から言葉が出る。


「でも、止められた側は……だんだん惨めになっちゃいそうです。人に働かせて世話させて、自分は何やってるんだろうって」

「そうですね、だから難しいのかも」


 うーん、と彼が背もたれにもたれかかり、静かな室内にその軋む音が鈍く響いた。


「それに、私には……」

「そこまでされる理由がない、ですか?」


 考えていた言葉を口に出され、こくりと頷く。


「確かにないですね、家族でもなければ友達でもありませんし。だから俺は、丸ごと背負うつもりなんてありません。他人にそんなことされても、罪悪感を感じるだけだろうし」

「そう、ですね……」

「俺はね、ゆりさんが新しく生きる手伝いがしたいんです」


 『新しく生きる』──なんてことないように発せられたそんな言葉に、胸がドクンと鳴った。


「まず生活は一旦リセットできたじゃないですか。仕事なんていくらでもあるんだから、自分に合うものをゆっくりじっくり探せばいいんですよ……家も仕事も失くさせたのは俺ですし、それ相応の責任は取らせてください」


 やりたいことが見つかるまでの間家賃は必要ない、家事を手伝ってくれればいいと話す彼に、どうしてそんなことまでしてくれるのだろうという疑問が浮かぶ。訊ねようかと悩んでいると、「それともやっぱり」と彼がまた口を開いた。


「まだ、死にたいとか……思いますか?」


 そう訊ねられ、なんと答えればいいのかわからなくなる。少し下がった眉を見て何か言わなければと口を開くけれど、答えることはできなかった。


 沈黙が、とても長く感じる。


「……とりあえず、部屋案内しますね。環境が変わって落ち着かないだろうし今日はもう休んでください」

「あ、はい……すみません」

「なんで謝るんですか」


 話題を変え、優しく笑いながら立ち上がった彼が、私の荷物を持って二階へと続くドアを開く。

 また気を遣わせてしまったと思いつい謝罪の言葉が口をついたけれど、彼はよくわかっていないようだった。いや、わからないふりをしてくれたのかもしれない。


 階段を上がると、広い廊下に淡いグレーのドアが四つ。全て同じようにゴールドの装飾が施されたそこは、それだけで十分に高級感を醸し出していた。

 案内された部屋は、祖母と二人で住んでいたその全体を飲み込んでしまえるくらいの広さだった。いや、もしかするとそれ以上かもしれない。想像していた何倍もの大きさにまた萎縮してしまう。


「こんな大きな部屋……」

「無駄に広いんですよね、ここ。一応掃除はしたんですけど、気になるところがあったら遠慮なく言ってください。荷物置いておきますね」

「あ、ありがとうございます」


 真っ白な壁に、真っ白な天井。備え付けられたクローゼットの反対側にはデスクと本棚が置かれ、窓際に設置されたベッドは、そのシンプルなデザインとは裏腹に大きな存在感を放っている。


「俺は基本出て右隣の部屋かリビングにいるので、何かあったら声かけてください。あ、寝るときは右奥の部屋にいます」

「わかりました」


 本当につけてくれていた鍵の説明をさっと済ませ、「じゃあ」と部屋を出ていく彼。ひょこりと一箇所だけ癖づいた後ろ髪を見つめていると、階段を下りかけた彼がハッと顔を上げた。


「あ、ゆりさん」


 声をかけられ、眼鏡の奥で光る黒い瞳を見つめる。視線が重なり、その目尻がきゅっと下がった。


「おやすみなさい」

「……おやすみ、なさい」


 嬉しそうに微笑み下りていく彼のトントンという足音を少しだけ心地良く感じながら、久しぶりに交わした挨拶を頭の中で何度か反響させる。一人では発することのなかったその言葉に、もういない家族の顔が思い浮かんだけれど、それをぶんぶんと消し去りベッドへと倒れ込んだ。

 わざわざ用意してくれたのだろうか。新しい匂いのするシーツに包まれ、壁伝いに聞こえる食器の音に耳を傾けた。自分のものではない生活音が、新鮮で、懐かしくて、なんだかとてもあたたかい気持ちになれた。




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