サヨナラ、私
初投稿・初作品です。
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「────ッ」
ビュウ、と大きな風が吹き、季節違いの薄いシャツに身を包んだ体がぐらりと揺れる。つんと鼻の奥を捻る冷たい夜風が、秋の終わりを告げているようだった。
欄干に掴まったてのひらが、その冷たさに少し悴んだ気がしたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。寒さも、冷たさも、痛さだって、自分の中にあるそれに比べると"無"でしかない。少し錆びたそこに下半身を預けながら、数十メートル先にある川を見下ろす。
「……」
このまま身を投げてしまおうか、ここから落ちたらさすがに死ねるかな、なんて、人間にとって決して善ではない考えが頭の中をグルグルと駆け巡る。こんなことを考えるのは、一度や二度だけではなかった。
死にたい、なんて思いながらも、それを実行に移すことができる人間がこの世にどれくらいいるだろうか。人はよく、自分の感情に死を結びつけて言葉を発する。『死ぬ気で』『死にそうなくらい』……本気で"死"を考える人間が、それを聞いてどう思うかなんて考えもせずに。死ぬ気でやれば死ぬことができる? 死にそうなくらいとはどのくらい? 簡単に比喩され、くだらない感情の捌け口として使われ擦り切れてもなお私の心に重くのしかかるそれが、本当に恐ろしいことだとも知らずに。
私は今生きていて、ここに立っている。今日ここでこの欄干を越えることを選ばなければ、きっと明日からもまた生きていくだろう。いつものように、今日までと同じ日々が明日からも続いていくのだろう。
それが、こわい。それを終わらせたい。
遠くで揺れている水面が、暗闇の中でキラキラと光っている。私を待つその光は、不気味で、眩しくて、震えるくらい美しい。
あの中に、私も────
「……っ?!」
そう思い身を乗り出した瞬間、右腕を掴まれ痛いくらいに強く引き寄せられる。一段上がっていたはずの足が宙に浮き、バランスを崩したまま誰かの胸元へと倒れ込んだ。
「な、に……」
ふらつく足になんとか力を入れ、預けてしまった重心をグッと戻す。わけもわからず見上げた先には、眼鏡の青年が立っていた。
乱れた髪から覗く肌が、遠くの街灯に照らされ青白く光る。黒い髪と深い夜の闇が、その白さをより一層際立たせていた。
「理由は?」
「……へ」
「死にたい理由は?」
真っ直ぐと私の目を見つめるその青年から、目が離せなくなってしまう。
「どうせ死ぬなら、全部ぶちまけてからにしませんか?」
"死"を否定しない彼に、少しだけ心が揺れた。ふっと、微笑みとは少し違う表情を浮かべる青年を見つめながら、気が抜けてしまった身体が地面へと崩れ落ちる。
その通りだと思った。
このまま死んだとして、私が死んだ理由を汲み取ってくれる人は一人もいない。辛かったこと、悲しかったこと、誰にも言えなかったこと。全部自分の中にしまったまま独りで死んで、忘れ去られていくんだ。
「話して」
そう言って目線を合わせる彼が、なんだかとても眩しく見えて──抱えていた苦しみが、ふつふつと込み上がってくるのを感じた。
「…………なった……」
「え?」
「こわくなった……このまま生きるのが」
彼も、同じように地面に座り込む。
「どうしてこわいの?」
「わかん……ない、けど……」
ゆっくりでいいよ、と背中をさすってくれる手が優しくて、胸がジクジクと痛んだ。
「昔は、幸せで、今は……ひとりで……っ」
「うん」
「このまま……どんどん幸せじゃなくなってくのが……こわい…………っ」
溢れ出した涙が頬を伝うのを感じ、そんな自分に少しだけ驚いた。こんなことはいつぶりだろうか。私も涙を流せたのだと、生きていることを実感してしまい、絶望と安堵が入り混じったような感情が心の中に広がった。
「私のせい、で、家族が……でも、生きなきゃって…………」
上手く言葉が紡げない。口から出る言葉は辿々しくて、とても理解できるものではないだろう。
「それでも、働いて、生きてきた、けど……意味あるのかなって……こんなの…………」
────六年前、両親が亡くなった。
母方の祖母に引き取られた私は、通っていた大学を辞め、働くことを選んだ。祖母は、どんなときも私をたくさんの愛情で包み込んでくれた。心の底から大好きな、そんな祖母を喜ばせることが、私の存在意義だった。お世辞にも良い会社とは言えないような環境だったけれど、祖母に少しでも良い暮らしをしてほしくて一生懸命働いた。
でも、そんな祖母も数ヶ月前、病院で静かに息を引き取った。
「もう、何もないから……」
出会ったばかりの彼にこんなことを話している自分が不思議で仕方なかったけれど、溜め込んでいた分言いたいことがどっと溢れて止まらない。それでも、子供のように泣きながら話す私をたまにポンポンと撫でながら、彼はずっと話を聞いてくれている。
ああ、私は、ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。そう思った。
「そう、辛かったね」
私の涙を袖口でスッと拭きながら、彼は穏やかに笑った。
「名前は?」
そう訊かれ、少しだけ冷静さを取り戻す。
「名前も知らない人にこんな話して、馬鹿みたい」
「そうだね、俺も馬鹿みたいだ」
変な人だ────
「ゆり……芳川ゆり」
そう思ったけれど、不信感は全くなかった。
「ゆりさんか。俺は皆戸理玖、よろしく」
「よろし、く……?」
"死"を選ぼうとしている人間によろしくだなんて、やっぱり変な人だ。真っ直ぐに私を見つめ微笑む彼に、なんだか心の中まで見透かされているような感覚に陥る。どこか落ち着かない気持ちを抑え俯くと、彼がまた口を開いた。
「ゆりさんは何歳?」
「……二十六歳」
「二十六? そう、じゃあ俺の二つ上だ」
年下の男の子にこんなみっともない姿を晒してしまったのかと思うと、今更ながら恥ずかしさが込み上げてくる。恥ずかしい、なんて感情を認識すること自体が、本当に久しぶりだった。
「ゆりさん、今までたくさん我慢してきたんですね」
そう言って握られた彼の手が、少しだけ震えていたのは気のせいだろうか。
「我慢……」
そんなこと、考えたこともなかった。ただ毎日を生きることに必死で、自分の感情なんてどうでもよかった。私は、ずっと我慢していたのだろうか。
「ねぇ、今持ってる一番大切なのものは?」
「大切なもの?」
意図が汲み取れない質問に、思わず訊き返してしまう。そう、と頷く彼が何を考えているのかはわからなかったけれど、言われた通り自分の大切なものを探してみる。
「これ、かな」
少し考えて指差したのは、大学入学祝いとして父がプレゼントしてくれたネックレスだった。両親が亡くなってからお洒落とは全くの無縁だった私だけれど、このネックレスだけはずっと肌身離さず着けている。
「そっか」
そう言って私の首に回った彼の手が、それをするりと外してしまう。
「え、ちょっと……」
「死ぬつもりだったんでしょ? だったらもういらないですよね?」
そうだけど、と、私が口を開くのとどちらが早かっただろうか。立ち上がった彼はそのネックレスを握りしめ、先程まで私が見下ろしていた川へ向かって投げてしまった。
「何して……!」
思わず立ち上がり覗き込んだ先は真っ暗で、月明かりに照らされた水面が変わらずキラキラと光っている。
今から探すなんてことは到底不可能だろう。
「ごめんね」
「謝るなら──」
続く言葉を紡げず、不恰好に開いたままの唇を意識的にくっつける。振り返った彼の表情が何故かあまりにも哀しそうで、胸がギュッと締めつけられるような感覚だった。
「でも……今日で終わりです。今までのゆりさんは、あのネックレスと一緒に川に落ちて死んだ」
何を言っているのだろう。
遠くの川を見つめていた彼の視線が、こちらへと移る。目が合うのはこれがはじめてではないはずなのに、なぜか鼓動がはやるのを感じた。真剣な眼差しに、目が逸らせない。
「ゆりさん」
強く握られた手が、また微かに震える。
「これからの人生、俺にくれませんか?」
────これは、私と彼、どちらの震えだろうか。