35/犬威
「蓮美、気をつけて」
咲枝が手を伸ばして頬に両手を添える。
忘れる筈もない。
雪が降りしきる十二月、高校から帰ると冷えた両頬を掌で温めてくれた。
笑ってお帰りと迎え入れてくれて。
当時は照れて嫌がったが今ではどんな思い出も懐かしい。
「十代の頃よりはちょっとだけ強くなったから……」
柔らかな手に自分の掌を重ねると束の間の夢から覚める。
部屋の中はまだほの暗い夜明け前。
「咲枝さん……」
まどろむ瞳を蓮美は再び閉じた。
確か以前もこんな夢を見ている。
まるでこの日を案じていたかのように。
「大丈夫だよ」
閉じた瞼には彼女の姿が焼きつき。
「きっと大丈夫」
体を丸め、懐かしい記憶に少しの間だけ浸った。
「行こう」
目覚まし時計のアラームが起床を知らせると朝食を済ませて出発の準備を始める。
服装はTシャツに登山用のジャケット、ズボンはチノパン、下にはレギンスを履いておいた。
里山暮らしで知っているが山には吸血のヒルが出る。
噛まれると面倒なのでレギンスで防ぎ、ヒル避けのスプレーを衣類やバッグに噴霧しておいた。
荷物を入れたバッグパック、猿真から託された天羽々矢の入ったアタッシュケースにも。
「行ってきます」
時間は五時。
今日は所ではなくそのまま都内の新幹線へ向かう予定だ。
早朝でも街は人が動き出している。
新幹線乗り場へ着くと駅構内では旅行者や出張に向かう人々などが行きかっていた。
広く複雑な通路を潜り抜け、迷わないようコンコースを進むと人間姿の犬威が壁に寄りかかって待っている。
デニムのシャツに黒のジーンズ、大きなボストンバッグを用意して風景に馴染んでいた。
「おはようございます、犬威さん」
「おはよう、今日はよろしく頼む」
外勤は直行直帰、職員と顔を合わせたかったがマガツカミに脅かされているという者達は一刻も早く到着を待っている。
依頼を受けた場所は岐阜県の山奥だった。
もたもたしている暇などない。
「チケットは命が予約していてくれた」
渡されたのはグリーン車のチケットだ、一般車両にしか乗った事がなかった。
「あいつなりに君に気を利かせたんだ、俺だけだとこんなサービスはしてもらえんな」
「命君が……」
情弱のカスにブスと呼んだり、非戦闘型のザコ扱いはしても心配はしてくれているようだ。
「命から生きて帰ってお供物をまた作って下さいとの伝言だ。本人の口からこの言葉を聞きたかったとやたら悔しがっていたよ」
「生き……」
死亡フラグを立てられた。
「ん、朝霧君?」
やはりバカにしている。
自分は緊張と恐怖に打ち勝とうと真剣なのに。
頭にきた彼女のお花畑の脳内では、ダークサイドな芽がわずかに顔を出した。
「い、いえ」
ダークな芽は恨み節をかます。
いいだろう。
必ず無事に帰って、今度こそ昼めし抜きにしてやる。
その時にまた泣きわめくがいい。
クックック。
「そろそろ時間だな」
二人で改札を抜けてホームに立つと新幹線が滑り込んできた。
特別車両に乗り込むと人はまばら、静かで快適な乗り心地になりそうだ。
「乗客も少ないし話してもいいな、事前に簡単な打ち合わせをしておこう」
犬威が自分と蓮美の荷物を棚に詰めながら話す。
「大切なのは心構えだ、マガツカミの姿を見ても取り乱してはいけない。難しいかもしれないが」
「……はい」
「彼らは色々な姿になって現れる、予測ができないからとにかく用心してくれ」
「例えば……?」
「生き物とは限らない、実体のない幻で惑わしたりもするから警戒してほしい」
「幻ですか……」
「現場では俺の指示には必ず従うんだ、動くなと命令したら動いてはいけない。今回の君の役目は見学のみだ」
「はい」
「戦いの長期戦は覚悟してほしい、マガツカミが現れるのは不定期だったり状況に応じる事もあるからだ。天候で現れたり月の満ち欠けだったりする、体力勝負だ」
滞在期間については悟狸から聞かされていた、着替えも三日分は持参してある。
「体力には自信があります」
「ほう、そうなのかい?」
高校時代には陸上で県大会予選までいった思い出、叔母と里山で暮らしていて足腰が鍛えられた昔の話しなどを話した。
過ごした山では野生の動物をよく見かけた事、今では様々な動物が好きな事。
だから所の職員が好きな事。
気がつけば両親の事も話していた。
父と母は中学生時代に車による事故で亡くなった。
急な別れだったと。
犬威は蓮美の過去を黙って聞いていたが。
「どうりで君は辛抱強い訳だ、今まで大変だったろう」
「私は叔母がいたので。もっと大変な思いをしている人は沢山いると思いますし……」
例えばそう。
命だ。
彼は一度人間に育てられ、捨てられた。
物のように。
その彼を育てた犬威こそ自分からすれば尊敬に値する。
そして今だ彼から愛情を注がれる命がうらやましくも感じていた。
そんな事を口に出しては絶対に言えないが。
「犬威さんや眷属の皆さんだって色々ありますよね。今みたいな社会、住みづらくはないですか?」
彼らにしたら息苦しい筈だ。
元は自然に息づく動物の精霊なのだから。
「確かに……」
発車の合図とメロディが鳴り、車内アナウンスが出発を告げる。
「物は多く知らない言葉が行きかい、人の持つ文明はもはや神の域を凌駕している。俺達の出る幕などもはやないだろう」
新幹線はゆっくりと動き出した。
「時々、故郷の山に無性に帰りたくなる時がある……」
「……犬威さんの出身はどちらなんですか?」
「武蔵の国、君達で言う埼玉県の辺りだ。一族の里がそこにあったよ、自然にあふれた豊かな森だった」
過ぎていく窓の外を子供を連れた親子が歩いていく。
「だが、数百年前と比べれば今の世は人間にとって幸せなのかもしれないとも思う」
「数百年前?」
「俺が若い頃に過ごしていた時代だ」
「……失礼だったらすみません、犬威さんて今おいくつなんですか?」
「俺か、四百七十歳だが?」
んなぁあああ。
神々に歳があるなら百歳はなければおかしいと思っていたが、まさか神のお使いでもそれ程のお年とは。
「悟狸さんは六百三十歳、猿真さんは七百三十歳(多分)、狐乃が三百歳、和兎は教えてくれた事がないな……」
「ご、ご長寿ですね……」
年齢を聞いて圧倒されてしまう。
二十二歳の自分などひよっ子どころではなかった。
「命は二十二歳、君と同い年だな」
「同い年ですね」
精神年齢は廚二だが。
「話しの腰を折ってすみません。さっき犬威さんが言っていた今は私達にとって幸せな時代なのかもしれないと言うのは?」
「……」
彼は視線をさまよわせ、遠くを見つめる。
「昔は沢山の人間が死んだんだ。戦や飢饉、疫病に災害だ」
学生時代に天保の大飢饉という歴史の一部を学んだ。
江戸時代、天候が不安定となり多くの餓死者が出たという。
「無数の命が消えていった。火葬や埋葬もされずに躯が転がり、親を亡くした子供があちこちにいた。貧しい者はさらに貧しい者から奪い、世は修羅道と化していた」
記憶を辿る様に彼は瞳を閉じる。
「若かった俺は少しでも役立ちたくて医学の研究を重ねた」
「医学ですか?」
「ああ、俺の一族は医療と霊薬を調合する相伝、伝統を受け継いできた歴史があったから人間相手に薬の商売をする方法を考えたんだ。富を持つ豪商や豪農相手に金や米ができたら、それを使って医者の真似事をしていた」
悟狸が命の生い立ちについて話していた時に触れていた。
「彼は人間との関わりや交渉に長けていたからお願いしたんだが……」
納得ができた。
犬威がなぜ蓮美に近しい感情や配慮を配れるのか。
人間とのコンタクトに慣れていたからだ。
「反対はされませんでしたか?」
「されたな、気がふれたかと仲間からは言われた。人の姿に化けても俺達は隠れ住むのが常だったから、里の場所がばれたらどうすると批難された。それで一人山を下りたんだ」
「寂しくはありませんでしたか?」
犬威は仲間思いだ、犬は元々群れで生きる。
寂しくない筈がない。
「後悔する事もあったが縁あって今の妻とも出会う事ができた、だからいいと当時は思っていたよ」
犬威は職員の中で唯一伴侶がいる。
彼の妻、葵という人物だ。
「葵さんですよね、和兎さんから伺っています。気立てのいい奥さんだって」
名前を出すと彼が目を丸くした。
「いやぁ、婚約といっても人と違って形だけのものなんだ。しっかり者だが結構きつい事を言われたりもするしな」
妻を誉められてか、照れた素振りを見せてハハハと笑う。
蓮美は興味が湧いた。
以前から彼女に関心を持っていたからだ。
「どんな風にですか?」
「そうだな、最近だと妻がテレビで映画を見ていてな。地方の村に巨大なようせいとやらが現れて子供が消える事件を解決する捕り物らしくて」
「妖精……」
あらすじが意味不明だがあの有名なアニメを説明していると思われる。
蓮美も大好きで録画して保存もしてあった。
「雨が降る闇夜でようせいが召喚されてな。俺がようせいはなんという眷属なんだとあいつに聞いたら、ようせいはようせいです、眷属ではありませんと言われて」
彼にモフモフな妖精は眷属と映ったらしい。
「ようせいは何族なんだ。犬族なのか、丸いし狸の一族にも見えるなと言ったら怒り出してな。うるさいのでのうきんはあっちへ行って下さいと叱られたよ」
脳筋。
脳みそ筋肉。
「のうきんとはなんだろうなと思ったよ」
蓮美も笑ったが正解を教えはしなかった。
葵という女性は犬威の事をよくよく理解した人物のようだ。
「葵さんも同じ眷属の方なんですか?」
「ん、いや……」
何気なく聞いたつもりだが言葉を濁す。
てっきりそうだと思い込んでいた。
「妻は眷属ではないんだ、似たような者だが……」
困り顔で優しく微笑んだ。
穏やかな、恋人を想うような優しい笑みを見せて。
「お互い植物の研究が好きで庭で色々と育てているよ、趣味があるとはいいものだ」
彼はバグの会議でハッカーをシソ科の薬草、ハッカと勘違いしていた。
植物の名を出したのはそこからだろう。
「妻は西洋の薬草でハーブとやらを育てていて、俺は隣で盆栽と東洋の薬草を育てているんだ」
混沌とした、混ざりあう事のない和洋の世界。
「俺とあいつでは真逆の性格だが考え方なんかは似ているのかもしれんな」
照れつつも嬉しそうにはにかんで笑う。
「現代で命は救わなくとも、楽しみながら植物を育てる事ができるから満足している。人は飢える事もなく食物は安定した収穫を望め、刃を持って傷付けあう必要もない。病があれば薬が手に入り、誰もが満たされ幸せに暮らしているから修羅の世を見なくていい」
「幸せに……」
ふと現実に引き戻された。
幸せかと問われれば、はいとは答えられない。
物質的に世界は満たされているようには見えているが。
心は。
孤独と不安、見えない未来。
命は言っていた。
バグを人間が生み出して送り込んでいる疑いがあると。
そしてこうも話していた。
説得しようとしたが、あざ笑う声が聞こえたと。
機械仕掛けの世界の傍ら、闇は必ず存在している筈なのだ。
目まぐるしく動く歯車の一部から外された、誰かが抱える悲しみ。
憎しみ。
向かう先にいるマガツカミも同じだ。
文明に置き去りにされた、かつては崇められた大いなる霊威。
神に怒りがあるのなら、人間にだって当然ある。
光が届かない闇の奥底で、人知れず見ている。
バグとはそんな存在な気がした。
「俺が唯一望む事があるとするなら……」
溌剌としていた彼の笑顔が暗く沈む。
「命は何物にも代えがたく尊い物だ、君達人間には君達の苦悩があるだろう。でもどうか、自身の命をいたわり、愛して生きてほしい」
その言葉には祈るような響きがかすかに含まれていた。
「朝霧君、これから臨む戦いでは無事に帰る事だけをまずは考えてくれ。必ずだ」
「……はい」
この瞬間にも。
新幹線は刻一刻と、現地へ近づこうとしていた。
読んで下さっている皆さん、そうでもないという皆さんもお世話になっています。
実は少し前から右手の疼きが止まらず直しをしばらく休んでいました。
申し訳ありません。
疼きに耐えらえず、やむなく病院へ向かったのですがそこで受けた診断の結果。
「右手の封印が解かれようとしている」
との事でした。
驚愕しました、封印は百年周期で起こるはず、それがまさか十年目で現れるとは。
カナブン「先生、どうしたら……」
医師「封印を新たにこれで施すのです」
そう言われ、渡されたのは。
七枚入りの湿布でした。 (大判タイプ、冷却式)
抗炎症効果、ロキソニン配合、封印を抑えるのにはもってこいだ。
だが疼きは手強く、湿布一枚では術が解けそうな様子。
「やむをえん、コイツを使うか」
自分は油性マジックを取り出すと、湿布に得意とする小型の結界術をしたためた。
「祝」
最強の法術が完成、これで解放を迎え撃つ。
「貼ると大体朝には貼がれて丸まって落ちてる」
そんな問題はガチガチに固めたテーピングが解決、筋肉が解決、巻いてる途中でテープがこんがらがったがそんなもの無視して巻いた。
「これでいい」
だが朝になったらやっぱり丸まって落ちていた。
あれってなんで貼がれるんでしょうね?
さあ、物語はまだまだこれからだっ!
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皆さん、お疲れ様です。
ここ最近暑い日が続いていますがお体の方は大丈夫でしょうか?
水分や塩分は忘れずにマメに取られて下さい。
ミネラル補給は大事です、屋内、屋外に限らず油断されないように過ごされて下さい。
暑くてイライラしがちな時もありますが、落ち着いていきましょう。
我を忘れてはいけません、怒りに身を任せてはいけません。
気がどうにかなりそうなら紙袋を広げて口にあて、「シャァアアアアアアッ!!!」
って叫ぶのもおススメです。
狐乃「苦情くるわ」
そんでその紙袋をパァアーーーンッ!!!
狐乃「お前がまず塩を取れ」




