暗い部屋
薄暗い部屋で、私は目を覚ました。
ーはて、ここは何処だろうか。
眠りにつくまでの記憶は
ボンヤリとピントがぼけていて
輪郭すらままならない。
それどころか、自分の名前も
なんだか分からない。いや、名前に関しては、思い出せないというより、
無い、ような感覚があった。
上半身を起こし、ぐるりを部屋を見渡す。
無機質な、灰色?のような一色で
ベタッと均質な床と壁ばかりがある。
広さは5m四方ほどか、照明は見当たらないが漆黒の闇という事もない。
その真ん中に、仰向けで私は居たようだ。
分からない事だらけだが、まるで恐怖は感じなかった。
何やらそれが自分にとっては当たり前のような、そんな感覚すらあった。
立ち上がって出口を探すべきか思案していると、背後を扉の開く音がした。
―扉など先程までなかった気もするが―
その扉の向こうから部屋の中に入ってきたのは1人の女性だった。綺麗な顔立ちをし、上品さと清潔感を感じさせながら、やや距離を置いて少しだけ微笑む。
「お目覚めでしたか?」
「あ、えーと、はい… 」
と、我に帰る。
「いや!あの、ここは…どこ、なんでしょうか?」
しまった、いきなりすぎたかな。怪訝そうな顔をされる覚悟で女性を見るが、
変わらない微笑みを浮かべて言う。
「では、案内しますね。こちらへどうぞ。」
はあ、と拍子抜けするも、スッと出て行く彼女を追い、部屋を出る。
古風だが立派な建物の中のようだ。
自分は何やら仮眠を取っていたようだと、
なんとなく思い出す。
「昨日はお疲れ様でした」
微笑む彼女。
「疲れてた…んですか、私。すいません、なんか頭がボンヤリしてしまって」
名前も分からないんです、はさすがにやめておこう。
昨日ここで私は仕事をしたんだろうか。
相変わらず彼女は優しい笑みを浮かべて言う。
「そんな人もいますよ、お気になさらず。大丈夫ですから」
「…早く思い出せたらいいんですが」
何か良くないことに巻き込まれたとか、
危険な感じはなかった。
おそらく、必死に根掘り葉掘り聞けば
答えてくれるだろうという予感はある。
が、まずはこの場所を案内してくれると言うのだから付き合って損はないだろう。
少し歩き。
メインホールはこちらです、
あとはあちらに話しかけていただいて…と
女性は部屋を後にした。
メインホールと言うだけあり、先程の薄暗い部屋よりずっと広いフロアだ。
辺りにはにソファーやら椅子やらベンチやら何十組も置かれている。
責任者らしきオジサン?が歩み寄ってきた。
紳士。それがピッタリの雰囲気がある。
「これはどうも。昨日はお疲れ様でした」
ペコリと礼をする。またか。昨日一体何があったというんだろうか。
先ほどと同様、ボンヤリしてる記憶について
話すと、やはりオジサンもニコりと笑う。
「そんなこともありますよ」
そしてこの建物について説明をしてくれた。
それによると、
ここはとある作曲アトリエだということ。
どうも、難解だが斬新な曲が多く、
「次々に新しい作風を生み出して
世の中を音楽で動かす」
などと、プロの間では評価されてるらしい。
それで全員かは不明だったが、メインホールにも10人を超える作曲家たちがいて、みな紙とペンに向き合って
見た事もないような複雑に音符が絡み合った楽譜を作り出している。
時折情報交換をしたり、
時折楽器で試奏しながら。
アトリエは敢えて世間からは目立たないよう活動していて、こうして立派なフロアではあるが実は地下深くにあるらしい。
若く優秀なスタッフは、みんな住み込みで楽しげに精力的に作曲活動をしている。ほとんど眠らない様だが不健康さは感じない。生活の為の全てはここにあるようだし、何かしらのケアもあるようだった。
アトリエはとても広く、一日では回りきれそうもなかった。
メインホールで出会えたスタッフがアトリエの全員かは分からないが、会う人会う人、私の事を
「期待しています」
と言う。また、そのうちの1人が「貴方は最初、候補ではなかった」「物好きですね」と言ってきた。どうも皮肉ではなく、このアトリエがそれだけクセの強い仕事場であり、適任を見つける事に苦労していると言いたいらしかった。少なくとも私に対する敵意は無かった。
そういえば自分は何のためにここにいるのか、一向に思い出せない。
苦笑いでハハハ…と答えるのみだった。
役割すらも忘れていることを伝えて落胆させるのはやめておきたい。
メインホールでの顔合わせを終え、オジサンからは休憩室に案内された。
ソファに腰掛けようとして懐から紙片が落ちた。
「名刺…?」
私の名刺だろうか。名前と役職だけが書かれた、まるで何かのタグのようなシンプルなものだった。
田中一郎とある。そんな名前だったような気もするが、記憶のもやは晴れない。
職業は――作詞家。作詞など出来ただろうか。そもそも音楽の知識は。
分からない。私には何ができるだろうか。彼らの役に立てるのだろうか。
彼ら、そうだ。スタッフの皆は雰囲気が良かった。私に対する態度には親しさや誠実さばかりが伝わってきた。良いものをみんなで一緒に作ろうという、仕事への熱意というか宿命感というか。
そういえば、最初あの暗い部屋から連れ出してくれた女性。彼女からもそれを感じた。
いつの間にか居なくなってしまっていたが、彼女を想えば少し詩が書ける気がした。
その場にあった紙とペンを拝借し殴り書きで作詞してみた。
読み返すとひどく恥ずかしい幼稚な感じがする。気恥ずかしさに耐えられずテーブルに投げて
そのままソファに深く座り込んだ。
――寝てしまったのだろうか。
入室に気づかなかった。オジサンがいる。目覚めた私にまだ気づいていない様子で、
テーブルの上の殴り書きを熱心に読んでいるようだ。
なかなか出てこない私を心配して入室し、殴り書きを見てしまったのだろうか。
「こんなのしか書けなくて申し訳ありません」
身を起こしながら言うと、オジサンはゆっくりとこちらを向き直る。
「やはり期待した通りです」「こんなオリジナリティはウチの誰にもできません」
これはさっそく曲を当てはめなければ、と礼を言う。
「えっ、そんな。思いのままに書いてみただけで…こんな幼稚な文章では、恥ずかしいばかりです」
しかしオジサンはゆずらない。
「恥ずかしいのは作曲ばかりで詩を書けなかったここのアトリエの全員ですよ。しかしあなたは違う。あなたは実に感情豊かな方のようだ。いやはや素晴らしい。」
褒めちぎられて、なんともむずがゆい。素直に作詞の経緯を話そう。彼女のことを想って書いたと。
吐き出してしまって、この照れくささを分かってほしい。この気持ちを馬鹿にしたり、からかうような人はこのアトリエにはいないだろうし。
「実は、最初案内してくれた女性が――」
その切り出しで、オジサンは不思議そうに、そして何かを思い出したような顔をし、その直後ひどく驚いた表情をした。
「おや、前任者と会われたのですか?」
前任者?
「え?」
彼女のことか?前任?なんの?作詞の?
訳が分からずオジサンの頭上で視線が泳ぐ
「…本来なら案内するつもりは無かったのですが」とアトリエの奥の方を見やる。
複雑な通路の果ての薄暗い部屋に案内された。
そこには自分が目覚めた時と同じ、無機質な部屋だった。
なんとなく分かっていたが、真ん中にはあの女性が横たわっていた。目を閉じて。
「こちらの方は、貴方と同じく作詞の仕事をされていました。
やはり私たちにはない、特別な才能をお持ちでしたが、オーナーは
後任への引継ぎを望まれました。」
オーナーか。ということはこのオジサンはオーナーではなくアトリエの雇われ責任者、という
事なのだろう。
「引継ぎ先はもうお判りでしょうが、貴方です、田中様。引継ぎは膨大な資料との闘い。疲れて眠る貴方のことを心配して、初日のスタートだけ誘導役を担ってくれたのかもしれませんね。」
「この女性は、その、亡くなったのですか」
「いえいえ、安らかに眠っておられるのです」
この業界にはよくある事ですとオジサンが説明する。役割を終え疲れ果てて眠り、目覚めない人は一定数いるらしい。が、オーナーから声がかかればオジサンが起こして新たな仕事を案内するそうだ。
また、中には別な業界、外の人材から選り抜きで声がかかる事もありますと言う。
「貴方もそうしてこのアトリエに越してこられたんですよ。」
引き継ぎの前後の記憶がない事、それまでの自分の仕事を覚えていない事への不安を打ち明けてみた。
「私は以前から作詞家だったんでしょうか」
オジサンは笑顔で答える。
「これだけの詩が書けるのだから大丈夫ですよ」
「今後も思いついたことは全て書いていっていただきたい」
捉えようのない不安。
目覚めない女性への悲しみ、衝撃。
うまく答えられない。
「この部屋に…もうしばらく、居させてもらえないでしょうか」
眠り続ける女性。
横に体育座りをした。
半開きになった、その掌が気になった。
「私にまだ、伝えきれてない事はありませんか…?」
触れてみる。目を瞑る。
じんわりと、脳裏に、彼女と一緒に草原を駆け回り、海辺を歩き、楽しく過ごしている映像が浮かぶ。ゆっくりと目を開いた。
今のは、彼女から伝わったというより、
どうも私が彼女の手を介して「読み取った」という感じがする。
これは記憶か妄想か。
分からないままだが
「書かなくては」
その衝動は抑えられないものだった。
まぶたの裏で見た光景や感じた事を書き出す。
今までの不安が嘘のように、ペンは止まることなく走った。
何分、いや何時間かかっただろうか。
しかし私にはあっという間の出来事であった。
床に散らばった紙は一曲のための詞としては膨大すぎる量の言葉を抱えていた。
彼らに見せてみよう。
相変わらず自分の作詞の能力には自信は湧かなかったが、それで良いと思えた。
オジサンも言っていた通り、思いつくままに書いた。書いた。
あとはアトリエのみんなや、オーナーとやらが判断してくれるだろう。
メインホールに持ち込むとスタッフ総出で歓迎された「こんな大作は見た事がない」「貴方に期待して良かった」「この詩に合う最高の曲を作ろう」
主人公はもう迷わなくなっていた。
既に書かれた曲にも詩を当てて、常に良い作品を作っていく。
インスピレーションは無限に出るようになった。
あらゆる風景、言葉、情操を駆使して最新の詩を創作していく。
広いアトリエには資料も無限にある。
あの女性はどのように仕事をしていたのだろうか。こうして日々楽しく創作に明け暮れていたのだろう。そう信じて過ごした。
送り出した作品のリストが数えきれない程になり出した頃、
アトリエに通達が来た、
とオジサンに伝えられる。
数日中にアトリエを片付けて、
新たなフロアに移転しろと言う。
スタッフの多くは自分と同じフロアに
出向く事になるが、
オジサンや、眠り続ける女性は
このアトリエに残ると言う。
「また、会えますか」
色々と急すぎる。
別れの実感もまだないままだが、再会の保証くらいは欲しいと思ったのだ。
しかしこともなげにオジサンは分からない、と言う。
「ですが、すべての世界は繋がっている。きっとまた会えますように」
荷物でいっぱいになった待機室ーーーあの、最初アトリエに案内される前に目覚めた暗い部屋で、ふと眠気に襲われた。
そういえばほとんど眠ることなく仕事をしてきた。疲れは感じないが、このチャンスに、たまにはぐっすり寝るのもいいだろう。
早めに転居の準備を終えたからそのぐらいの時間は充分にある。
自分はまだまだ頑張れる。しっかり休んで、またバリバリ働くとしよう。もしかして次に目覚めたら作詞家じゃなかったりして。
などと思いながら眠りについた。
ーエピローグー
―移行終了―
「お、…終わったか」
今回のは良かった。日々技術も進歩しているな。今まではこちらの注文にただ忠実に仕事をこなしているだけだったが、さすが新商品。
これまでの履歴から学習して新しい方向性を提案してくれるとは。
相性の問題で何個かは不具合になったけど、こいつはしばらく使えるかも知れない。
ひとまずスペック不足のPCからは移設してしまおう。
データ移行は数日かかったけどまたバリバリ動いてもらおう。
こんな高性能なものを使えるのはウチくらいのもんだ。いい買い物したな
これだけ作ればヒット曲も生まれるかな。新しいチップに作詞をやらせてたが、曲をやらせてもいいかも知れない。
「しかし、人工知能って仕事以外では何を考えてるんだろうなぁ」