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日本分裂  作者: 扶桑かつみ


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9/16

フェイズ07「津軽停戦」

 開戦から半年後のクリスマス。

 この頃国連軍は日本全土の統一を図るべく、翌年春を目指した北海道上陸作戦の準備を進めていた。

 

 物量戦を再構築するようになったアメリカといえど、冬の津軽海峡を越える気にはなれなかった。

 

 しかし北日本軍の陸軍主力は既に壊滅しており、北海道に残る部隊は名称こそ勇ましいが、まともな戦闘力は持っていなかった。

 武器も燃料も弾薬も大いに不足している筈だった。

 

 しかも後ろ盾となるソ連は、参戦どころか「義勇軍」として動く気配はなかった。

 ウラジオストクを中心にした軍事力は増強されていたが、それはどちらかと言えば防衛を考えた配置だった。

 北海道北部やサハリン、クリル諸島に置かれた兵力も、そこがソ連の陣地だと示す以上のものはなかった。

 

 他の共産主義国は、戦闘状態の海を越えることそのものが事実上不可能だった。

 

 人民韓国が、朝鮮半島南部に大軍を集めてみたり、対馬方面でアプローチを見せた事もあったが、アメリカ軍の爆撃機が朝鮮半島近くをパトロールして、対馬海峡に艦艇が配備につくとその動きも全く行われなくなった。

 戦争体制に入ったアメリカには、弱小国の脅しも空かしも通じなかった。

 そもそも人民韓国には、まともに海を渡る能力がなかった。

 空軍戦力も、ソ連からの援助がまず北日本に向かっていたため、ほぼゼロという状態だった。

 何かをするという事自体が難しく、唯一行った事は戦前日本軍が設置した対馬海峡の沿岸砲台を再稼働させて威嚇してみる事ぐらいだった。

 

 北東アジアではもう一つの共産国である人民中華が成立していたが、この国もいまだ国内での残敵掃討と安定のために動くことが出来なかった。

 加えて、人民中華にも海軍や空軍と呼べるだけのものがなかった。

 

 そして北日本軍に、アメリカ軍と南日本軍を中心にした国連軍の侵攻を防ぐ物理的な力はなかった。

 

 恐らく戦争は、北北海道以外の全てを半年以内に「あるべき日本」の形で再統一できるだろうと言われた。

 ソ連領の北海道北部も、交渉によってはソ連から返還されるかも知れないと考えられたほどだった。

 北日本がなくなった場合、ソ連が持つには危険が大きすぎる場所だったからだ。

 


 しかしこの年のクリスマス、北の大地で大きな事件が立て続けに発生する。

 

 まずは、北日本の首都札幌で軍事クーデターが発生した。

 

 クーデター発生と共に、政権を担っていた日本共産党に対する徹底的な粛正が開始され、当時の政権首班と対立していた野坂参三が新たに率いた統一社会党が新たに北日本の政権を奪取した。

 

 クーデターは計画的であり、しかも共産党組織以外の全ての北日本勢力がクーデターに参加するか、強く支持していた。

 

 クーデター自体も、北日本の新政府は旧政府及び党の政治的、軍事的責任を追及するための行動だったとラジオ放送で説明した。

 

 国連軍は、このクーデターを北日本の動きを滅亡を避けるための時間稼ぎ、もしくはソ連の介入を促すための行動、楽観的に見た場合は講和のための布石ではないかと考えた。

 

 しかし事実は別の所にあった。

 

 日本共産党が、なぜ一斉パージされたか。

 

 先にも少し触れた通り、答えを突き詰めてしまえば簡単である。

 

 彼らが「政治家」ではなく「運動家」に過ぎなかったからだ。

 もっと酷な表現を用いれば「夢想家」に過ぎなかった。

 少なくとも、まともな「革命家」や「政治家」ではなかった。

 

 故に彼らは北日本のあらゆる階層から恨みを買い、さらには宗主国であるソ連中枢部からも、北日本の統治に邪魔な存在だとの判断が下された。

 優秀な中央官僚団を否定したうえに敵対するなど、ソ連型の中央集権国家にあって以ての外の行動だった。

 しかも北日本の国土や国情などを考えれば、現実的な政治を用いるしか統治を続けることができないのだから、現実からかけ離れた統治を行う者が否定されるのは当然過ぎる結果であった。

 

 そして事実に気付く事もなかった日本共産党と支持勢力は、無謀な戦争を引き起こした張本人として断罪され、この時政権と権力ばかりか自らの命すら失うことになった。

 断罪・粛正された人数は、最終的に1万人を越えた。

 投獄された人の数は、最終的に十万人を超えたと言われている。

 そして戦争中という事もあり、非常に荒っぽい粛正と断罪になったと噂された。

 助命を訴えた者も、それまでの素行を理由として容赦なく銃殺されていった。

 


 そしてクーデターに続いて、国際政治が動く。

 

 年も明けて1951年1月3日、ソビエト連邦は北日本の新政権との間に「領土の譲渡」を含めた新たな安全保障条約の締結を発表した。

 この条約によって、ソ連が旧日本から占領し、そして自国へ併合した北北海道、南サハリン(南樺太)、北北海道に付随するいくつかの島々が、正統な日本の回復のために北日本に譲渡される事になった。

 返還ではなく、あくまで譲渡だった。

 また両国の関係をより良好かつ強固なものとするためとして、北サハリン(北樺太)の北日本への売却が発表された。

 多少の油と石炭が取れる土地だったが、万が一の場合に備えて陸で国境を接する危険を避けるための措置だった。

 

 この発表と実行によって、世界にソ連が北日本をどれほど大切に扱うかが、これ以上ないぐらい国際社会に強調された。

 

 加えてこの政治行動によって、ソ連は国際条約上で北日本をより強く承認した事になった。

 

 そしてさらに、アメリカが本格的な政治的反撃を行う前に、ソ連が踏み込んだ内容を発表した。

 

 ソ連政府は、北日本との新たな安全保障条約に従い、原子爆弾並びにその運搬手段を供与する用意があると発表したのだ。

 

 これに対して国連軍総司令官のマッカーサー元帥は、北海道南部への早急な侵攻作戦の実行と、万が一の場合に備えて原子爆弾使用の許可をアメリカ政府に強く求めた。

 

 マッカーサー元帥は、共産主義者に妥協と弱気はあり得ないと訴えた。

 また政治が軍事行動を抑制する事は、共産主義者に利するだけだとも言った。

 

 しかしアメリカ政府には、ソ連との全面戦争を行う気は全くなかった。

 また、北日本の現時点まででの敗北の影響で、台湾海峡や対馬海峡での緊張も高まっており、共産主義者をこれ以上追いつめる気はなかった。

 

 それどころか、それほど大きな犠牲を払うことなく東北地方を奪回できたのだから、今回は十分な成果だと判断した。

 


 戦争はその後しばらくも津軽海峡を挟んで行われるが、戦闘自体は一気に下火になった。

 海峡を隔てているため、国連軍による北海道南部に対する爆撃と、それを迎撃する北日本軍の戦いとなった。

 

 そして北日本軍にはソ連の《Mig-15》と高射砲が大量に供与され、元日本軍将兵の操る《Mig-15》は米軍の《B-29》に多大な損害を与えた。

 そのうえ北海道南部には爆撃とするべき目標がそもそも少なく、政治的理由から北海道南部にしか何かができなかった。

 当然ながら、北日本は新たに領土に組み込んだ地域への疎開を積極的に進める事で損害を軽減していた。

 これは戦闘加入する気のない軍事力においてすら行われ、戦艦《長門》も樺太・真岡へ疎開していた。

 空軍の訓練拠点も稚内や釧路、サハリン島の旧ソ連軍基地をそのまま使って行われた。

 このため北日本空軍の抵抗力が衰えることはなかった。

 

 また国連艦隊は、北日本に対する海上封鎖を行うが、オホーツク海を中心にして厳冬期は流氷のために実質何もできないに等しかったし、やはり政治的要素から北海道南部以外での積極的に行動は難しかった。

 

 他には、東北地方から命からがら逃げ出す北日本側の小舟と国連軍の追いかけっこが時折行われたが、これは既に戦闘と呼ぶべき事態ではなかった。

 南の日本海軍は息を吹き返したのだが、海でまともな戦闘が行われることもなかった。

 この間勢力を拡大した日本の軍隊は、新たに発足した日本空軍であり、アメリカから大量の供与を受けて、《セイバー》を中心にした戦闘機部隊を多数揃え、最終的には仇敵だった重爆撃機までを編成表に組み込むことに成功している。

 

 しかし状態は千日手、膠着状態であり、南の日本中で上陸作戦の準備を進めつつも、ルーチンワークのような爆撃とその迎撃戦だけが続いた。

 

 世界中から南の日本を助けるための国連軍が集結したが、戦闘がないためほとんど反共産主義の祭りのようなものでしかなかった。

 日本に集まった兵士達はあまりに退屈だったため、人民韓国にもついでに戦争を吹っかけ、一気に共産主義を押し返そうという景気の良い言葉すら飛び交う有様だった。

 


 そうした中で、ソ連の「提案と仲介」によって日本列島での停戦についての話し合いが、国際連合を介してジュネーブで開始される。

 

 北日本が東北を失って戦争が膠着した事と、北日本の政権と体制が戦争状態の終息を目指した事が、主な原因だった。

 

 そしてアメリカとしては、米ソの圧倒的国力差を用いる事で、交渉によって日本を統一する積もりだったと言われているが、どこまで本気だったかは謎である。

 

 ソ連が原爆を持っている事、その原爆を北日本が既に保有しているかもしれない事から、交渉の席上でも押すに押しきれなかった。

 当然ながら、ソ連との直接的な戦争は交渉前段階から否定されていた。

 

 ソ連との全面戦争も辞さずという強硬路線を訴え続けたマッカーサー元帥は、遂に国連軍総司令官解任された。

 これを機会として、ひとたび決裂した会議も再び仕切り直される事になった。

 

 結局、ジュネーブでの話し合いの争点は事実上の停戦交渉、つまり戦闘状態の停止を決める交渉となった。

 

 そして戦争開始からほぼ一年後の1951年7月27日、停戦協定が調印されるに至る。

 ただしあくまで停戦であり終戦ではなかった。

 日本の終戦日は、依然として一つだけだった。

 

 休戦以外で決まった事も、今後も日本統一に向けての会議を定期的に開催する事と互いの捕虜交換だけだった。

 つまり、戦争状態の終了もないままに「日本戦争」と歴史的に呼称された戦乱は終息する。

 

 なお、この時の停戦は、津軽海峡を挟んだにらみ合いによる二つの日本の分裂になったため、「津軽停戦」と日本の人々は呼び合うようになる。

 

 宗主国と主義の違いで分裂する事になったが、無味乾燥した言葉で民族分断を表現することを心理的に嫌ったが故の名称だと言われている。

 そして「津軽停戦」という言葉によって、全ての人々がどこで日本人同士が隔てられているかを知ることが出来る事が、その後の歴史の中で意味を持つようになる。

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