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日本分裂  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ06「日本戦争」

 西暦1950年。

 4月が過ぎ、最も危険と判断されていた5月1日のメーデーも大きな事件もなく過ぎていった。

 予想通りと言うべきか、札幌を中心にして北日本各地で盛大な軍事パレードが行われたが、事件と言ってもそれだけだった。

 

 しかし全ては欺瞞であり、自らの優位と常識を信じるアメリカは、またも奇襲攻撃を受けることになった。

 


 1950年6月25日未明、日本民主共和国軍は南北暫定境界線を一斉に突破。

 一路、東京を目指して南下を開始した。

 

 距離にして最短で約150キロメートル。

 この距離を約4個師団、支援部隊を含めて約9万の兵力が、東京目指して突進を開始した。

 他にも日立、水戸を経由して脇を固めるのが2個師団、新潟方面で攻勢を仕掛ける1個師団あった。

 合計7個師団、約15万人の赤い兵士達が、平和へと歩みだしていた南側の日本へとなだれ込んだ。

 

 これに対して南の日本軍は、北関東には第2師団が、その少し後ろにアメリカ第77師団が駐留していた。

 新潟では、第3師団が当面の防衛に当たった。

 また関東中心部には、第1師団とアメリカ第1騎兵師団が存在していた。

 特に習志野を中心に駐留する第1騎兵師団は機甲師団であり、北日本軍の最大の障害であると共に南日本及び現地米軍の切り札だった。

 平時状態であっても、当座の武器弾薬を与えただけで、日本列島ではモンスターとなる戦力だった。

 北日本軍としては、東京と第一騎兵の間に割り込んで、東京を人質に取ることで動きを封殺する積もりだったと言われている。

 それ以外に、自らが勝てる見込みがなかったからだ。

 

 しかし、当初奇襲に成功した北日本軍は圧倒的だった。

 

 アメリカからの情報を信じて、ほとんど通常の警戒配置(デフコン3状態)のままだった第2師団は、圧倒的兵力差もあって一部が壊乱してしまう。

 その後、狭隘な谷間の地形が多いという地の利を活かして何とか態勢は立て直したが、圧倒的な劣勢下に置かれた。

 北の侵攻後すぐに出動した第77師団も、部隊が戦時動員を行っていない上に「抑止力」として北関東各地に分散していたため、書類上の戦力は発揮できなかった。

 

 戦力差の少ない新潟の第3師団は、事前に構築されていた山岳部の野戦要塞群に頼ることで十分に踏みとどまっていたが、関東では一週間で60キロメートル近くも進撃を許した。

 一見たいして前進していないように思えるが、福島地方から北関東にかけては当時まだ開けていない場所が多く、道も不十分だった。

 そうした場所で十万の大軍が不十分な道で長い縦列を作り、尚かつ敵と戦闘を行いながら前進したことを思えば十分な前進距離だった。

 実際、少数部隊によるねばり強い遅滞防御戦闘が北日本軍の前進をこれだけに抑え込んだのであり、僅かな阻止爆撃でも有効な戦果が挙がったほどだった。

 しかし北日本軍は自らの味方である時間を重視して、犠牲を省みず突進を繰り返し、強引な前進を実現していた。

 

 そして自らの血によって活路を切り開いた北日本軍は、国連総会で国連軍派遣が決まった7月2日に宇都宮、水戸前面にまで迫った。

 

 この頃南日本側は、第1師団の一部が戦闘加入して、第77師団、第2師団残余と薄い戦線を張れるようになっていた。

 後方ではアメリカ第1騎兵師団が大車輪で平時体制から戦時体制に移行中で、さらに日本各地からは編成途上にも関わらず2個師団が関東に到着しつつあった。

 新潟にも編成途上の1個師団の増援が到着しつつあった。

 全てはそれなりの防衛準備を整えていたおかげでだった。

 しかし北九州には2個師団、山陰から北陸にかけては1個師団が、人民韓国への警戒のため動かすことができず、全ての戦力が関東に向かっていた訳ではなかった。

 

 しかし、日本各地の募兵事務所では、日本列島を露助と共産主義の脅威から守るためという意思のもと、長蛇の行列状態だった。

 各師団はすぐにも定員一杯となり、後方警備を主眼とした警備部隊が急ぎ作られつつあった。

 関東を中心に、兵士対象外の年齢の者による警察、消防、自警団なども各所の満員御礼だった。

 

 突然大量の受注を受けた工場は、24時間フル操業に入り、各所で工員の募集がひっきりなしに行われた。

 

 そして赤い日本の突然の侵略は、敗戦以後しょげ返っていた日本人が、元気を取り戻す大きな切っ掛けとなったのだ。

 また平和が簡単に手に入るものでない事を、日本人に再認識させる大きな切っ掛けともなった。

 依然として南日本にいたリベラル指向を持つとされる運動家の活動と声は、郷土を守るという意識のもとで元気を取り戻した圧倒的大多数の人々の声と行動に押し流されていった。

 このため、南に絶望して北に亡命した運動家が多数出たとも言われている。

 彼らには、軍国主義の再来に見えたのだろう。

 

 また一方では、共産主義陣営の一方的な攻撃ということで、世界中の自由主義陣営から南日本への援助や支援の手が少しずつ拡大しつつあった。

 アメリカ以外にも、イギリスなど対応能力の高い国が国連軍への参加と派兵を決めていた。

 かつての敵が、一夜にして味方に、救うべき同胞となったのだった。

 

 なお、北日本軍の1個師団はソ連軍の編成に近いため兵員数約1万2000人なのに対して、南日本軍は米軍編成のため約1万8000人と大きかった。

 しかも防衛戦闘に特化している部隊編成もあって、北日本軍の大幅な前進を許していない大きな要因になっていた。

 

 しかし勢いに乗り準備も整えていた北日本軍の進撃はその後も続き、宇都宮、水戸を結ぶ防衛ラインを強引に突破、その後も前進を続けた。

 

 開戦から3ヶ月で、利根川から霞ヶ浦にかけてのラインで両軍が対陣するまでになっていた。

 一方当初から牽制と兵力誘因が目的だった新潟方面では、いまだ山岳防御に徹していた南日本側が平野部への突破を許していなかった。

 

 そして、徐々にアメリカ軍を中心とする国連軍の増援部隊が、関東から新潟にかけて展開を始めつつあった。

 

 既に関東平野の主戦線には、合わせてアメリカ軍編成の2個軍団4個師団規模の部隊が展開していたため、北日本軍は二線級の予備師団も投入して強引に突破を図ろうとしたが叶わなかった。

 そればかりか、攻勢の連続で消耗した北日本軍に対して、正面兵力はほとんど互角となっていた。

 しかも後方にも、さらに4個師団以上の大部隊が準備されつつあった。

 しかし後方部隊の多くは戦闘加入できる状態にないため、国連軍も兵力が豊富になったというわけでもなかった。

 しかし反撃を行わなければ、関東平野中心部で血みどろの戦いが行われる可能性が高まっていた。

 北日本軍は、時間を失って追いつめられつつあるため、何をするか分からなかったからだ。

 

 そこで、国連軍総司令官となったダグラス・マッカーサー元帥は、作戦成功確率5000分の1と言われた作戦を発動させる。

 

 世に言う、「仙台上陸作戦」だ。

 


 そしてこの前段階として、秋田方面での陽動作戦が実施された。

 

 しかしここで国連軍は一つの驚きと、奇襲攻撃に遭遇する。

 戦艦ニュージャージを中心とする陽動部隊が艦砲射撃をするべく沿岸部に接近した時、北方海上に半ば予測通り北日本海軍が出現した。

 ここまでは、間違いなく予測範囲内だった。

 北日本への情報リークは完璧であり、相手が抑止行動に出ると予測されていたし、期待もしていた。

 そのために、わざわざ戦艦を派遣したのだ。

 

 しかしそこに赤地に白を染め抜いた旗を掲げた戦艦《長門》が出現したことで、国連艦隊は大きな混乱に見舞われた。

 終戦直後に突然東京湾から姿をくらました《長門》は、赤い大地で身をひそめ牙を研ぎ直し、世界唯一の赤い戦艦として再び眼前に現れたのだ。

 

 そして《ニュージャージ》など砲撃戦を目的とした艦艇が、慌てるように《長門》に対しての陣形を取ろうとして移動したところに、沿岸部に潜んでいた北日本海軍の小型潜水艦群が集中攻撃を開始した。

 アッという間に、《ニュージャージ》と巡洋艦2隻が相次いで被雷。

 《ニュージャージ》には4本もの大型魚雷が命中して、機関部が破壊されたため戦闘航行が不可能となった。

 そこに半ば逃げ腰の演技、実際は潜水艦群潜伏地への誘導を行っていた《長門》が反転急接近し、煙を噴き上げ傾いた《ニュージャージ》に対する一方的な砲撃を実施した。

 そして十数分の砲撃戦の後、《ニュージャージ》はまともな反撃も行えないまま沈没に追いやられてしまう。

 既に戦艦の時代が終わったにも関わらず、《ニュージャージ》はアメリカ海軍が初めて砲撃戦で失った戦艦となった。

 他にも重巡洋艦1隻も沈み、人的損害は2000名以上に達した。

 

 当然と言うべきか陽動作戦は失敗し、他の有力艦艇も撃破した北日本海軍は凱歌を挙げつつ唯一の海軍拠点の大湊へと凱旋していった。

 

 しかし、北日本の注目が日本海にまわった直後、米日軍2万5000の兵力が、仙台湾に突如出現する。

 総攻撃のために前線に兵力を集中し後方にわずかな警戒部隊しか置いていない北日本軍に対して、戦略的奇襲の完全な成功だった。

 つまり陽動作戦自体は、犠牲が大きかったものの成功だったのだ。

 

 上陸を援護するのは重巡洋艦、軽巡洋艦が2隻ずつに過ぎなかったが、同方面には元々貧弱だった北日本海軍の主要な戦力は存在せず、また航空機や地上兵力もほとんどなかったため、国連軍の上陸作戦はスムーズに進んだ。

 

 上陸初日で、部隊上陸の要となる石巻市が陥落。

 石巻から続々と増援を上陸させ、4日後にはほとんど無血状態で仙台市内に突入した。

 

 なおこの戦いの直前に、日本軍内で「海兵隊」が発足。

 僅か3000名ほどだったが上陸作戦に参加し、以後小規模ながら日本軍内部で重要な位置を占めるようになる。

 


 一方、利根川突破、東京突入を目指して激しい攻撃を続けていた北日本軍主力は、突然の国連軍の上陸作戦に動揺し、数日後の仙台陥落の報告にさらに大きく動揺した。

 後方に回られた上に兵站が破壊されたのだから、狼狽と動揺は当然だった。

 

 そして浮き足だった北日本軍に対して兵力を蓄積していた国連軍が一斉に反撃に転じ、仙台陥落の2日前に戦線突破に成功する。

 

 関東平野の北日本軍は、総崩れとなった。

 

 以後の戦闘は、国連軍にとっての追撃戦と残敵掃討戦となり、関東平野に溢れていた15万の北日本軍は、まともに逃げることもできずに消滅していった。

 

 国連軍の関東奪回後に東北地方に残るのは、新潟方面にいる1個師団と各地の警備師団あわせて3個に過ぎなかった。

 兵力数にして4万人程度になる。

 他にも、開戦後新たな師団編成が開始されたり国民義勇兵が各地で募兵された。

 しかし国民義勇兵の方は、それまでの主に共産党による悪政が祟った事と国連軍の反撃が伝わって、仙台上陸作戦以後は東北ではそのほとんどが機能しなくなった。

 

 東北の住民のほとんどが、既に共産党政権に対して悪感情しか抱かなくなっていたのだ。

 中には、共産党員や北日本軍を攻撃する者もあったほどだった。

 匿われていた名主などが率いて、組織的に反旗を翻した例もあった。

 

 共産党の自業自得の結果であった。

 

 また東北地方に進撃する南日本軍は、本来の同胞に出来る限り武器を向けずに「あるべき道に戻ろう」と呼びかけながら進んだ。

 そうした噂が口コミで住民の間に広がるに連れて、各地は進撃と占領というよりも解放と呼ぶに相応しい様相となった。

 天皇陛下万歳と唱えて、投降してくる者も後を絶たなかった。

 

 札幌に本拠を置く北日本政府及び軍は、何とか戦況を挽回しようとしたが、全くままならなかった。

 津軽海峡を国連艦隊と国連空軍が実力で封鎖してしまい、東北への増援はもちろん、逆に北海道への軍や組織の後退すらできなくなった。

 函館などの港湾も、連動して始まった激しい爆撃と機雷封鎖で機能をほとんど停止していた。

 使えそうな船の多くも、銃爆撃によって一時的であれほとんどが機能を奪われた。

 アメリカ軍お得意の戦争によって、アッという間に形勢がひっくり返されたのだ。

 

 一度は凱歌を挙げた北日本海軍も、戦線の建て直しや制海権の維持もままならず、やむなく爆撃の及ばない北海道奥地への後退を余儀なくされた。

 

 こうしてわずか一ヶ月ほどで、北日本は東北の全てを失い、国土は北海道南部を残すのみとなった。

 戦争開始から5ヶ月後の11月には、ほぼ完全に津軽海峡を挟んでの対陣となった。

 

 ソビエト連邦は、あまりのふがいなさに嘆いたが、今更どうしようもなかった。

 自らと北日本が甘すぎたのだ。

 そして米軍が甘くなかっただけの事だった。

 

 そして北日本が泣きついてきたのだが、これもほとんどを無条件で受け入れるしかなかった。

 北海道に国連軍が攻めてきた場合の保険をかけて置かねば、ソ連が面子と緩衝地帯の双方を失うことになりかねないからだ。

 

 それほどの敗北だった。

 

 北日本軍は、既に実戦部隊の8割を失っていたのだ。

 そして軍隊と領土と人民の過半を失った北日本は、既に滅亡寸前だった。


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