フェイズ04「北日本と南日本」
一般に、「北日本」と呼ばれる国の正式名称は、「日本民主共和国=DRJ (Democratic Republic of Japan)」である。
当初は「民主主義人民共和国」という虚飾に満ちた大仰な名前が候補として強かったが、日本人側の要望によって覚え易さや分かり易さが優先されたと言われている。
実際は、人民という言葉が受け入れられなかったからだと冷戦構造崩壊後に判明した。
日本人にとって日本列島に成立する如何なる国家であっても、人民などの言葉を使う必要を認めていなかったからだった。
しかし民主という言葉とは裏腹に、成立当時は日本共産党が独裁政党として指導権を有していた。
同党以外の政党も一応存在が許されていたが、東ドイツと同様に衛星政党としての性格が強かった(=ヘゲモニー政党制)。
この背景には、日本軍国主義打倒を掲げる政党の参加ならどれでも認められていたという、表面上の国是と北日本憲法上の規定があった。
何しろ名前に民主を掲げる国なのだ。
また国内に流れ込んできた治安維持法違反者が一枚岩ではなかったことも、多党制を当面であっても容認しなければならない背景となっていた。
そして北日本は、この多党制を取り上げることで、自らのことを議会制民主主義国であり自由の国であると定義していた。
実際、日本無産党、日本社会主義党、アイヌ民族党などが存在していたが、間違いなく日本共産党こそが北日本最大の政党であり、ほぼ完全な独裁制を敷いていた。
だいいち、北日本には選挙がなかった。
議席数も、政党ごとの固定である。
アイヌにまで議席を持たせたのは、他の政党をさらに弱め共産党の独裁体制を強めるためでしかない。
しかし、北日本を実質的に運営したのは、俄に勃興した政党ではなかった。
運営していたのは、旧満州国及び朝鮮総督府で官僚をしていた人々だった。
彼ら旧帝大系官僚達は、大日本帝国や満州国同様に、そして南日本と全く同じように北日本においても実質的な行政の中核を担った。
建国当初から北日本が政府運営を円滑に行えた最大の理由は、彼らの存在にこそあった。
共産党員だけでは、まずもって政権運営は無理だっただろう。
また軍事においては、国内各所に多数のソ連軍が駐屯する事になるが、国軍も作られた。
国軍の中核となったのは、こちらも旧満州でソ連軍の捕虜となった旧日本軍兵士達だった。
彼らは一時期シベリアでの強制労働に従事させられていたが、1946になると共産党への忠誠を誓うことを条件に続々とソ連占領下の日本本土へと戻ってきた。
もっとも新たな日本を運営する日本人達の心の合い言葉は「反米」だった。
軍人も官僚もその点で一致団結し、口先ばかりの理想を語り、その裏で権力維持や権力闘争、利権確保に汲々とする共産党員との関係を急速に悪化させていく事になる。
古いままの日本人達から見れば、彼らは旧大日本帝国を蝕んだ国賊達と大差ない存在だった。
また満州や朝鮮半島などでソ連軍に抑留されていた日本人民間人の総数は、満州で約100万人、朝鮮半島で約60万人、華北から揚子江北岸までで約120万人の、合計約280万人だった。
ただし揚子江地域では中華民国軍と米軍、さらには上海には各国が早速戻ってきたので、日本人捕虜の管理をソ連が行うことはできなかった。
ソ連が得たのは、ソ連が必要とした一部優秀な人材だけだった。
このためソ連が中華民国で得られた日本人捕虜、送還者の数は約60万人ほどで、合計約220万人となる。
しかも終戦までに日本本土に逃げ延びた者も多く、実際は約200万人程度だった。
さらに本来ならば、満州でもう50万人、朝鮮で10万人の日本人が居たのだが、彼らはソ連軍に拘束される前に命からがら日本本土へと逃れていた。
米軍が占領した済州島にいた約10万の日本兵も、南日本に帰国している。
そして抑留されていた人々のほとんど全ては、1946年頃から続々とソ連軍占領下の日本本土への帰国を許されていく。
無論、新たな正しい道を歩む日本で暮らさせるためだ。
このため抑留者のかつての故郷に戻される者は、偶然ソ連占領下地域でない限りはほとんどなかった。
ごくごく一部の者が、現地で賄賂を積み上げたり決死の密入国で米軍占領下の日本に逃れただけだった。
また主に満州で置き去りにされた人々も、当初はソ連の手が、その後は中華共産党が協力して可能な限り探し出され、全て日本列島北部へと移っていった。
無論、一人でも多く正しい道を歩む日本人を増やすためだ。
この結果、女性と子供を中心に数万人が探し出され、取りあえず日本の土を踏むことだけはできた。
一方、1945年までの日本全土で、治安維持法での逮捕者は約7万5000人いた。
1947年には、共産党員だけで10万人を数えていた。
これに家族を含めると、30万人以上が共産党や社会主義運動、無政府運動の関係者ということになる。
彼らの多くも日本の再独立と北日本成立に前後して、自由と平等が待っている筈の「人民の理想郷」である北の大地を目指した。
これらにより水増しされた北日本の総人口は、建国時点で約1100万人となった。
もとから住んでいた人口が700万人ほどだったのだから、いかに人口が増えたかが分かるだろう。
なお本来ならば、もう100万人ほど現地居住者が居たのだが、短くない占領統治の間に共産主義やソ連の実体をかいま見た人々の多くが、危険を承知で南側に東北地方から逃げ出したのだった。
このため日本国(南日本)の方の総人口は約6900万人となり、人口差だけで6倍以上の格差が開いていた。
北の首都は、いざという時の安全性を考慮して北海道の札幌に置かれた。
しかし中央官庁施設など足りないものだらけで、ほとんどバラックでの始まりとなった。
一時期は、北海道大学が借り上げられたりもした。
このため旧軍人を中心とした復員者による、半ば強制的な建設作業で急ぎ各種政府施設が建設された。
そうしなければ、冬の北海道を越えられないからだ。
それらが辛うじて揃ったのが、独立が宣言された1948年でもあった。
一方軍隊の方は、建国の時点でそれなりの体裁が揃っていた。
満州から連れてきた兵士だけで約65万人。
華北や朝鮮半島で約20万人。
日本本土でソ連側が管理した兵士の数も、10万人以上に及んでいたからだ。
この中から思想もしくは技能面のどちらかで使えそうな者を選び、日本本土もしくは満州で接収した旧日本軍装備に、一部ソ連軍の中古兵器を加えて日本人民軍を編成した。
当初の人民陸軍の師団数は、予算の都合もあって7つ。
三軍合わせて総数12万人の軍隊であり、日本の帝国主義者から「正しい道」を歩む理想郷を守るには十分な戦力と判定された。
そして軍隊の方は、その後も増強が続けられた。
日本の解放が、彼らの最も重要な任務だからだ。
1950年春の編成では、人民陸軍が機械化歩兵師団2個、歩兵師団5個、警備師団5個、独立戦車旅団2個、重砲兵旅団1個となっていた。
いずれもソ連軍編成で、アメリカ型編成に比べてかなり小振りな部隊編成だった。
また人民空軍は約200機の作戦機を抱え、ソ連が旧日本海軍から賠償として受けた艦艇を供与され、駆逐艦4隻を中心に人民海軍も編成された。
軍人総数も、「正しい道」を歩む者が増えたため、建国から僅か二年で24万人を越えていた。
しかも予備役の動員を行えば、約50万人の軍隊が編成可能だった。
なりふり構わない国土防衛戦争の場合は、100万人以上の軍隊が組み上げられる制度も作られた。
このため、兵士の訓練度を考えれば、人民韓国軍よりも戦力価値が高いとソ連軍も判定を下していたほどだった。
しかしこの軍隊は、北日本には過大規模だった。
なぜなら建国当初の北日本には、一次産業以外のまともな産業がほとんど存在していなかったからだ。
戦前の生産のピークだった昭和15年(1945年)の工業生産高は、全て合わせても1億6000万円ほどだった。
この数字は、同時期の大阪府の4割に満たない。
日本全体で比べたら、比べる価値すらないほど低かった。
もともと東北地方は、日本の中でも貧しくまた開発の遅れている地域だった。
北海道も農業や炭坑を中心に開発が進んでいたが、開拓地だけに人口密度は低く、やはり開発の遅れている地域だった。
農業、漁業、林業などの生産高は日本列島全体で比較すれば高い比率を示していたが、とにかく一次産業以外が乏しかった。
二次産業と言えば、北海道の石炭、室蘭、釜石のせいぜいが中規模程度の製鉄業、後は各地の食品加工産業ぐらいしかなかった。
しかも食料品は、日本中枢部と切り離されたため半分程度は当面用済みのため、独立すぐにもソ連との様々なバーター貿易に利用されるようになる。
なお、日本の工業生産の中心は、東京から大阪にかけての後の太平洋ベルト地帯に集中しており、日本本土の製鉄業の半分近くは小倉への原爆投下で半壊した八幡製鉄所だった。
しかも日本人全体の国富の約9割は米軍占領下の地域にあり、国民総生産で言えば北日本全体で10%に満たない。
総人口で見ても、北日本は南日本の6分の1以下でしかなかった。
そしてその貧しい国内で、共産党、官僚団、軍部が微妙な対立関係を構築しており、国家運営も効率的とは言い難かった。
軍部と官僚団はかつての共犯者であり、かつ有能なことを互いに知っているのである程度妥協したのだが、とにかく軍人も官僚もまともに信頼しない共産党そのものが、順調な国家運営を酷く妨げていた。
一般に「南日本」と呼ばれる国の正式名称は、「日本国(=Japan)」となる。
共和や民主もしくは王国、帝国などという文字は付かず、最もシンプルな類の国名だった。
しかし実際は、日本国憲法の通り天皇を名目君主とする立憲君主国家であり、議会制民主主義国家だった。
世界最後の、世界最古のエンパイアーだった。
だがGHQによる民主化や改革が断行され、世界的に見ても先進的な自由民主主義国家としての再スタートを切っていた。
独立復帰は1948年だったが、それが国際承認され国連加盟を認められるのは、2年後の1950年を待たねばならなかった。
しかもそれはソ連の国連欠席によって実現しており、長らく日本とソ連の間に国交樹立は行われなかった。
国内の総人口は、先にも触れた通り日本人の復員完了と他民族帰国、そして北日本成立後は約6900万人となった。
ただしこの数字は1946年時点であり、ベビーブーム当時だった1948年には早くも7000万人を大きく越えていた。
政府が北日本との対抗のために事実上の多産政策を実施したため、急速な人口上昇のカーブは以後十年近く続く事になる。
人種構成は、GHQ時代から徹底した復員と帰国事業が実施されたため、ほぼ日本民族以外は居住していなかった。
一時期は日本に残留しようとした旧朝鮮系住民や、帰国して後に日本に戻ろうとした朝鮮系住民も多かったのだが、そのほとんどが叶わなかった。
アメリカは、ただでさえソ連と共同のGHQ運営に手を焼いて、これ以上問題を抱え込みたくなかったのと、ソ連が朝鮮での国家建設のために一人でも多く半島に帰国させるべきだとした結果だった。
このため数万人程度が、その後の日本本土での朝鮮系住民の末裔となった。
無理矢理日本に来た朝鮮人の多くも、米軍が管理する済州島に押し込められた。
済州島が貧しかろうが、アメリカの知ったことではなかった。
今のところ、そこに朝鮮人が多数住んでいる既成事実の方が遙かに重要とされたからだ。
このため一部で不当な日本資産の朝鮮半島への移動が発生したが、殆ど全てが個人レベルのため国家全体で見たら程度レベルだった。
それよりも、これからの同民族同士の対立の方が遙かに重要であり、余計な面倒がなくなった事を喜ぶ方が多かった。
また米軍占領側の日本人は、共産主義国家となった朝鮮全体を「裏切り者」と考える節が強くなった事も、日本国内からの朝鮮系住民排除に繋がったとも言われている。
一時は、終戦頃の無法への仕返しとばかりに、かなり酷い排除や私刑などが住民レベルで行われたと言われている。
そして日本政府もGHQも民衆の息抜きと考えて、酷い場合を除いてかなりを放免していた。
無論これらは歴史の暗部であり、今現在ではほとんど資料や証拠、証言を見つけることはできない。
なお1948年成立時の日本国(南日本)は、旧日本本土の資産の9割以上を持っており、社会資本も充実した地域が多かった。
無論爆撃など戦災で破壊されたものも多かったが、復興可能なものも多く、何かしらの切っ掛けさえ掴めれば日本全体の浮上は比較的容易だと判断できた。
人材、人的資源には事欠かなかったのが大きかった。
一方軍備だが、1946年に新たに制定された日本国憲法上で日本は軍隊を保持してはいけなかった。
日本国憲法が事実上の占領軍憲法なのだから、当然と言えば当然だろう。
しかし1948年に成立した北日本は、建国当初から比較的有力な軍隊を保持しており、これと日本駐留のアメリカ軍が直接対峙する事は危険が大きいと判断された。
とは言え、占領統治を疎かにする訳にもいかなかった。
日本国再独立時でアメリカ軍は10万2000人が駐留していたが、この再独立時には一個師団が呼び戻されて12万6000人となった。
実戦部隊の多くは、関東平野、新潟、北九州地域のやや後方に配備され、北日本やコリアを刺激しない程度に警戒態勢を敷いていた。
その後もさらに米軍の増強が計画されたが、日本を守るというあまりの馬鹿馬鹿しさにアメリカ国内の世論が沸騰。
日本再軍備論が、アメリカの側から声高く言われるようになる。
また日本国内でも、国内での共産党の蠢動と北日本成立に下がって再軍備論が台頭。
日本政府も、再軍備についてGHQに陳情するようになった。
そうした中で1949年6月、日本国憲法が早くも改定される。
憲法第9条は、
「第1項/日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項/前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
」
とされていた。
このうち第2項を大幅に改訂し、「国家の防衛権の保有と防衛権実行のための軍事力保持のみを認める」と内容変更された。
交戦権についても、防衛戦争に限り認められることになった。
ただし第3項を設けて、海外派兵については認められないと念が押され、変更の場合は憲法改定手続きが必要なことまでがわざわざ明記された。
この憲法改定に連動して南日本で再軍備が開始され、第一、第二復員省として余生を過ごしていた筈の旧陸軍、旧海軍は、1948年4月の段階で解体に待ったをかけて組織の再編成を開始する。
組織自体も、正式に日本国防省、日本軍としての再編成がスタートする。
名称から帝国の文字を完全に取り除き、アメリカの指導によって建軍されるので、国際的非難も比較的小さかった。
何よりアジアでは、共産主義の脅威が高まっていた事が、南日本への警戒心を相対的に低下させていた。
再編成された日本軍は、一年後の1950年6月までに第一期計画の陸軍7万5000人、海軍8000人体制、空軍7000人体制、となり、日本国内の不景気もあって元軍人を中心にほとんど即日で兵員が充足された。
そして陸軍では米軍装備の4個師団が編成され、そのうち3個が北日本国境近辺に配備された。
また新たに空軍の編成も開始され、再建された陸軍は海外展開能力のない防衛陸軍、海軍は海上護衛を空軍は防空を第一の任務とした装備の充実が図られる事になった。
軍の再編成は順調で、兵員及び兵力の増強はすぐにも第二段階に入った。
南日本軍は北日本の軍備増強に対抗する形で順次拡大され、初期の五割増の兵力が2年以内の編成完了を目指して編成途上にあった。
海軍については、解体予定だった旧海軍艦艇のごく一部の生き残りが、米軍の許可を受けて再就役のための改装工事に入っていた。
驚くべき事に、中には旧大戦から生き残った航空母艦の姿まであった。
一方で、再軍備時の国会で公職追放も全て解除され、皮肉にも北日本成立が日本の再建を加速させる事になる。




