フェイズ02「日本占領」
1945年10月頃より本格化した日本本土の占領統治は、アメリカ合衆国とソビエト連邦の二カ国による占領となった。
一応呉(中国・四国)の占領軍にイギリス(英連邦=オーストラリア)が参加したが、軍港一つに押し掛けて色々なものを戦利品として物色した以外では、日本占領に加わったという事実を作るため以上のものではなかった。
要するにイギリスは、外交的な建前を作り上げるのと同時に、有色人種に手ひどく殴られた復讐をしたかっただけだっだ。
そして実際の日本本土占領では、北海道と東北地方がソ連の管轄とされた。
それ以外がアメリカの占領地となった。
またポツダム宣言受諾により、連合軍による軍政ではなく連合軍による間接統治が認められ存続も許された天皇制と日本政府だったが、その行政支配権は日本列島の4つの島とその周辺部の幾つかの島々に限られた。
南では、沖縄はもとより大隅諸島までが米軍の軍事占領下となった。
北でも、南樺太、千島列島に加えて、国後島、択捉島など北海道に隣接する島々のほとんど全てがソ連の軍事占領下になった。
しかもソ連は、北海道以外の全ての地域の併合もしくは領土復帰を各国に通達していた。
さらに北海道の北半分の領土割譲を連合国に要求したが、これはアメリカ、イギリスに認められなかった。
米ソの話し合いの上では、他のソ連占領地同様の扱いに留め置かれることになった。
また日本の首都東京の占領統治では、半ば象徴的な意味合いでアメリカとソ連の共同占領統治となり、東京の4分の1程度がソ連の統治下となった。
これはソ連のごり押しで実現した事であり、ソ連が第二次世界大戦での勝利者である事をより印象づけるために行われた政治的パフォーマンスに近かった。
このためアメリカ側のソ連への反発は強まった。
終戦間際の火事場泥棒を行っただけのヤツが、何を偉そうにしているのか、と。
こうした米ソ間の反目と対立が、日本を遅れた農業国家にまで解体しようとしたアメリカの占領方針を、当初から変更させたとも言われている。
事実、工場などの解体はほとんど行われることはなく、占領当初の調査の後もほとんどが保全された。
一方、日本政府が求めた間接統治は、主にソ連占領地ではほとんど機能しなかった。
ソ連は自らの占領地域で、日本の地方行政府をほとんど無視した事実上の軍政を実施した。
日本政府どころか、徐々にアメリカの介入すら許さなくなっていった。
しかも北海道では、ソ連は北海道北部のソ連領化をアメリカの言葉すら無視するように強引に推し進めるようになる。
その証拠に、農地解放という快い言葉と共に庄屋や名主といわれた大地主が、軍国主義の走狗だとして次々に即決裁判で断罪、事実上の粛清をされていった。
あまりの酷さに、解放された側の農民が騒然としたほどだった。
このため、ソ連占領地の資産階級のアメリカ占領地への逃亡が相次ぎ、ソ連の暴政が次々と露見した。
起きている事は、現在進行形のドイツ東部の状況と似通っていた。
当然ながら日本政府はGHQとソ連に強く抗議し、アメリカを中心とするGHQも何度もソ連に抗議した。
アメリカなどは、オホーツク海に駆逐艦を進出させるなどの示威行動にすら出たほどだった。
だが、ほとんどが無駄であり、ソ連側は占領地の日本人民が求めている政策を実行しているので問題ないと、糠に釘、暖簾に腕押し状態だった。
アメリカが実質的行動に出ることはないと、見透かしての行動だった。
無論日本政府など、ハナから無視していた。
しかし、欧州での悲劇、欧州での失敗、ドイツの分割と分裂が日本列島でも再生産されると分かってくると、徐々にアメリカもソ連に対して強硬な態度に出るようになる。
しかも、そうさせるだけの余裕がアメリカにはあった。
ここは欧州ではなくアジア・太平洋であり、日本が島国だったからだ。
その気になれば、誰も刃向かうことが出来ない強大無比な海軍を用いて、日本を占領するソ連軍などアッという間に干上らせてしまうことが可能だった。
いや確実だった。
それにアメリカとしては、朝鮮半島、満州でもソ連が半ば勝手に占領統治を行い、さらには華北地域でも好き勝手していることに我慢の限界が訪れつつあった。
しかも日本占領を巡る米ソ両者の対立は続いた。
「極東軍事裁判」でソ連は、もっと日本の戦争責任を裁かねばならないと主張した。
占領統治に有益な人物を次々にやり玉にあげた。
しかもソ連は、1946年1月に「人間宣言」が出された天皇について、戦争責任追及の舌鋒を緩めることはなく、最低でも廃位、可能ならば近隣諸国と「人民」が求める処刑を求め続けた。
どれも、円滑な日本での占領統治を目指していたGHQ、アメリカの方針に反しており、まるでそれが目的であるかのようなソ連側の要求だった。
故にアメリカは、ほとんどを事実上無視した。
無視せざるを得なかった。
ソ連側が、日露戦争にまで遡って日本の戦争責任を追及するに至り、アメリカの我慢と忍耐も限界を超えてしまうほどだった。
しかもソ連の横やりは、1946年5月発布を目指していた「日本国憲法」の制定にまで影響が及んだ。
まだ占領統治初期の段階で、日本の新たな憲法制定は時期尚早だと強く主張したのだ。
これはソ連がポツダム宣言を蔑ろにしている証拠であると同時に、自らの占領地域でのソ連の支配権、共産党の支配権確立を目指してのものだった。
ただしソ連は、新憲法の内容そのものについてほとんど文句を言う事はなく、むしろ称賛したほどだった。
特に憲法第九条は絶賛したと言われている。
何しろ、ソ連が支配力を強めようとしている国家が軍事力を持たないと言っているのだ。
これほど喜ぶべき事はなかった。
これほど理想的な事は無かった。
そして現実に際して、これほど愚かな事はなかった。
なお、東京の占領においては、東京35区が対象とされたが、ソ連はそのうち4分の1の北東部8区の占領統治を担当した。
だが、千代田区、港区など最重要区は米軍が占領したため、ソ連は大きな力を発揮できなかった。
また自陣営から離れすぎているため、日本での占領統治が終わると南日本への返還を実施せざるをえなかった。
嫌がらせをするのが精一杯でもあったのだ。
ただし、占領から撤退までに、現地に残存していた多くの財をソ連本国や自国の日本占領地域に持ち去ったため、後に国際非難にさらされる事になる。
しかもそうした中には、日本軍が保有し連合軍が接収した艦艇がいくつか含まれていた。
何よりこの前後の騒動で、稼働状態になかった筈の戦艦《長門》が一夜にして横須賀の繋留場所から行方不明となっていた。
誰が行ったのかは明確だったが、旧日本軍残党の行いだろうと言い、ソ連側は全くあずかり知らない事だと言い張り続けた。
無論誰も信じなかった。
そして混乱だけを巻き起こしたソ連が東東京から立ち去る頃、日本を始め北東アジア情勢は次なる段階へと移行する。




