41.間隙
よく手入れのされた生垣に身を隠し腰をおろすと、カイサルはほっと息を吐いた。
クリプトンホテルの敷地内。何とか衛兵たちをまいたものの、ホテルの出入り口は警備で固められ簡単に出れる状況ではなくなっている。
ちっと舌打ちをすると、カイサルは持っていたナイフで着ていた服の右腕の部分を切り取った。ナイフを口にくわえ、切り取った布でまだ血が滴る右腕をきつく縛り上げる。
これでなんとか止血をすることができる。
血を滴らせたままでは、周りに自分の位置をしらせるようなものだ。
ここに集まっている貴族たちを避難させ終われば、庭に犬が放たれる可能性もある。そうなれば血の匂いで簡単に見つかってしまうことは免れない。
ナイフを左手で握り直すと、カイサルはそれを強く握り締めた。
任務完了までもう一歩というところで邪魔が入った。
先ほどのことを思い出して、カイサルはぎりりと歯をかみ締めた。
ターゲットであるマカリスター男爵令嬢コレット。
彼女が一人でいるという絶好のチャンスにおいて、この手に捕まえるところまでは計画の遂行は滞りがなかった。
しかし……。
コレットを捕まえたときにその場に居合わせた女にすべての計画は打ち砕かれる結果となった。
まだ十代ほどであろうその少女は、一見すればホテルの従業員のような服装で、夜会の準備をしてるようにその手にはトレイを持っていた。
それに油断していた。
その女は、トレイを落としてあたりに音を響かせると、声を張り上げて悲鳴を上げた。
それだけなら恐怖のあまりに声を上げたともとれたが、普通ならばその後は逃げるところである。女の一人でやれることは限られている。せめて人を呼びに行くなど、その場から離れる行動をすると思われたその少女は、あろうことかカイサルの方へと向かって走ってきた。
ぎょっとして銃を向けたときには、すでに間合いに入られていた。
少女の肩で切りそろえられた黒髪がさらりと揺れるのが目に入ったかと思えば、銃を持った手をぐいっと握られる。
カイサルは反射的にコレットを振り払うように手を放した。薬をかがされ力が入らなくなっていたコレットが、その場にどさりと倒れる音が耳に入る。
これなら逃げる心配もないだろうと、カイサルは目の前の少女につかみかかった。
しかし引き離そうとした瞬間に、少女によって銃の引き金が引かれた。
銃声とともに激しい衝撃が自分の手につたわってくる。びりびりと痺れるような感覚に手が振るえ、耳元で聞こえた爆音のせいで思考が飛ばされた。
それが少女が引き金を無理に引いたせいだと気がつけば、なおさら頭に血が上った。
女だと侮っていたが、どうやらそれだけではないようだ。
女は故意に銃を発射している。
激しい耳鳴りのなか、さらに腕をつかまれ空に向けたまま銃を発砲させられる。下手に動けば自分に当たる可能性もある。
まったく怖がる様子もなく銃をつかむその少女に、カイサルはかっとして手を振り上げた。女一人に押さえつけられるはずがないと、思いっきり殴りつけるためにおろした拳は空を切り、下腹部に激しい痛みを感じて倒れこむ。
自分の腕と肩につかまり、それを支点として足の間を蹴り上げられたことに気がついたときは、すでにその場に膝をつき頬に夜の冷たい草の感触を感じていた。
ぎりぎりと歯を食いしばる。
(あの女……!)
少女とは思えないほどの激しい一発である。
女性用の服装というものは、男とは違いそんなに動きやすく作られているわけではない。それなのにこれだけの痛手を負わせることができるのは、それを意図的に行い、かつ女の力でもどうすれば効果的に行えるのかを計算しているからである。
ただの給仕の女ではない。
やっと起き上がり、腸が煮えくり返るような気持ちで再び銃を構えたとき、その女が持っていたナイフで腕をえぐられた。
反動で銃を取り落とし、腕を押さえつけたところにバード公爵がくれば、もうコレットには手を出すどころの問題ではなくなった。
これが王家の威厳というものなのか。眼光鋭く睨め付けられれば、それだけで足がすくむほどの威圧感に気圧されてしまいそうになる。そのまま頭をたれてしまいそうな自分を何とか奮い立たせ反撃にでたものの、結局その場から逃げることしかできなかった。
カイサルは生垣からそっと顔を出すとあたりの様子を確認した。
いつまでもここにいるわけにはいかない。
生垣の奥には柵があり、その向こうは湖へと面する岩場になっている。風に撫でられざわめく湖面は、その岩場に水音を響かせていた。ここからなら何とか湖に降りられるか……。
そう思いながら、カイサルは自分の腕に目をやった。
ここから湖まではかなりの高さがある。問題は、この腕がそれまで持つか。
しかし、このままここにいれば見つかるのは必至。逃げようにも、このホテルの出入り口はすべて封鎖されている。
この広い湖の中、夜にこの湖すべてを探すことはできないだろう。ここから降りる以外に逃げる道はない。
もう一度あたりに人がいないことを確かめ、カイサルは生垣から外へと這い出した。
自分の腰のあたりまでの木でできた柵に手をかけ、そこから崖下をのぞく。真っ暗な闇色の岩肌。その下に、わずかな月の明かりに照らされた湖面が浮かび上がっている。
ごくりと息を飲んで柵を越えようとしたそのとき、カサリと草を踏む音が聞こえ振り返った。
そこにいた人物の顔をみると、カイサルはほっと息を吐く。
「なんだ、あんたか」
声をかけられた人物はカイサルを一瞥すると、先ほどまでカイサルが見ていた崖下に目をむけた。
「まったく、余計なことをしてくれたな。これであの女に対する警備はもっと強化されるだろう。うかつに手も出せなくなる」
「そ、それは……」
邪魔をした人物がいたからだと言おうとしたカイサルの言葉を、男はさえぎった。
「銃は?」
「あれは、弾がなくなって捨ててきた。拾う間はなかった」
「銃ならある程度の距離があってもターゲットを狙えると思って渡したが、お前には使いこなすこともできなかったようだな。今更言っても仕方がないことだが」
「……」
「すでにホテルのまわりは衛兵に取り囲まれている。わかってるな」
「ああ、この岩場から湖にでるつもりだ。そこからなら見つかる可能性は低いから」
カイサルの言葉に、男は柵の向こうに視線を向けた。
「最後にひとつだけ」
柵を越え岩場に足をかけて降りはじめたカイサルに、男は話かけた。
見上げるように顔をあげたカイサルに、男は取り出した銃を向ける。
「何……を」
「銃というのはね、こうやって使うんだよ。距離を保てば、返り血も浴びずに目的を遂行できる」
湖から冷たい風が吹き上げる。
波の音と共に、あたりの木々が大きくざわめく。それと同時に男は引き金を引いた。
「お前はいろいろと知りすぎている。捕まられては面倒なんだよ」
落下物の水音を確認すると、男は持っていた銃を湖に投げ入れ、その場に静に背を向け歩き出した。
ホテルの一室。ノックの音に、フィオンは顔を上げた。
ドアが少しだけ開けられ、フィオンに来客が来たことが告げられる。
診察が終わり静かに眠っているコレットの髪をそっとなでると、フィオンは椅子から立ち上がった。
部屋に残ったコレット付きのメイドが、コレットの看護をするためにベッドの近くに移動するのを横目で確認し、フィオンは部屋を後にする。
コレットが休んでいる部屋と続きの間である応接室に待っていたのは、コレットの父親、マカリスター男爵である。
フィオンが入ってくると、男爵は深く頭を下げた。
フィオンは男爵に着座を促すと、自分もソファに腰をかけた。
「医師の診察は終わりました。転んだときに打ち身をしたようですが、命に関わるような問題はありません。今はよく眠っています」
「そうですか。公爵には大変お世話になりまして、本当に申し訳ありません」
見知らぬ暴漢に襲われそうになり、それをフィオンが助けたことは男爵の耳にもはいっていた。
王家の来客であるコレットは、現在クリプトンホテルの特別フロアに王妃やフィオンとともに滞在している。襲われる危険性がゼロではない今、コレットの身は王家にあずけられており、父親であるマカリスター男爵でも勝手にはできない。
「男爵、頭をあげてください。僕ももっとコレットのまわりに注意を払うべきでした」
「とんでもありません。私が、至らぬばかりにこのようなことになり、本当に申し開きもございません」
今回フィオンと一緒にいたコレットを連れ出したのは、他でもない彼女の父親であるマカリスター男爵である。男爵としては、フィオンのところに最後まで娘を安全に戻すことができなかった点で失態である。
コレットが今回危険な目にあったことは、犯人がまだ捕まっていない今本当の理由はわからない。しかし、その原因の一つとして、フィオンが惚れ薬によってコレットを見初めたことが関係していることは明らかだ。
そのために今までバード公爵家やマカリスター男爵家はもちろん、王家も協力する形でコレットを守ってきたというのに、今回の事件となってしまったのである。
そのもともとの現況がフィオンに関連していることとはいえ、男爵にはフィオンを責めることなどできない。
問題はそのような状況でコレットを一人にしたマカリスター男爵にあり、フィオンは危機からコレットを助けた恩人でもあるのだ。
「コレットはこちらでお預かりします。明日、コレットの目が覚めたらまたご連絡しますよ」
「ありがとうございます」
「バード公爵、お訊きしてもよろしいですか?」
少しの沈黙の後、意を決したようにマカリスター男爵は口を開いた。
「なんでしょう」
「娘は、コレットは、王弟殿下に本当に必要ですか?」
あえて公爵ではなく、王家の一員としての彼に男爵は問いかけた。
コレットも男爵家とはいえ貴族の娘である。望まれれば公爵家へと嫁ぐこともありえないことではない。
しかし、公爵家と王家とでは意味合いが異なってくる。
それも今回は、『惚れ薬』の事件が関与している。それだけにまわりからの目も、二人の関係には厳しく映っていた。
それでも、コレットはフィオンにとって必要なのだろうか。
王弟としての彼に、そして王位継承第一位にいる彼にとって、コレットが隣にいることに問題はないのだろうかと。
「答える前に、僕も訊いておきたい」
フィオンはまっすぐにマカリスター男爵と視線を合わせた。
「その答えを、今、僕が口にしてもいいのですか?」
フィオンがはっきりと口にした時点で、それがどのような要求であろうとマカリスター男爵に断る権利はなくなる。
どんな理由を並べ立てても、決定権は王弟であり爵位の高位であるフィオンにある。フィオンが決定を下した段階で男爵にはそれを覆すことは困難なのだ。
フィオンの決定を変えることのできる人物はこの国にただ一人、王であるパトリックのみ。祖父である前バード公爵や王妃であるディアナも、彼に助言や苦言としての意見を述べることはできる。しかし、現在王位継承第一位にいるフィオンに対して、王以外の人物が決定を覆すことは難しい。ほぼ皆無である。
フィオンに問われ、男爵は口を閉ざした。
ここで意見を聞くということは、フィオンがその決定をマカリスター男爵に伝えるという意味になってくる。
否とも是とも答えることのできない男爵に、フィオンは静かに微笑んだ。
「男爵、この話はまた日を改めてすることとしましょう。ですがただ一つ言うのであれば、僕の気持ちはあのときと同じであるとだけ言っておきます」
その言葉にはっとしたように、男爵はフィオンを見た。
王弟であり、公爵でもある彼に不躾な質問をしたことを怒っている様子もないフィオンに、男爵はそれ以上言葉をつむぐことなく深く頭を下げた。