39.動揺
一人で庭園からホテルの中へと戻る出入り口付近に戻ってきたコレットは、そこまでくると歩調をゆるめた。立ち止まって振り向けば、父親がとある貴族に捕まっている姿がまだ見える。
父親であるマカリスター男爵と広間に戻るために庭園を歩いていた。それをほとんど面識がないといっていいノーフォーク伯爵に声をかけられたのは、つい先ほどのことである。
「先に戻りなさい」
にこやかに話かけてきても、コレットをあからさまに値踏みしたような伯爵の視線に、マカリスター男爵はコレットにそういった。
そのままその場をさっていいものかと父親を見上げたコレットに、男爵は優しく微笑む。
「伯爵、申し訳ございません。娘は失礼させていただいてもよろしいでしょうか。先約がございますので」
「ああ、かまいませんよ」
にやりとノーフォーク伯爵は口元を緩めた。
「父親として、聞かせたくないこともいろいろおありでしょうからね」
思い出して、コレットは小さくため息をついた。
ノーフォーク伯爵の表情は、どうみても好意的なものではなかった。
フィオンや王妃に守られている自分と違って、父親であるマカリスター男爵は今回の件でとても大変な思いをしているのだとあらためて感じる。
そんな中、父親を一人残したことが気にかかった。
父親と一緒にあの場に残っていたとしても、コレットに何ができるわけではない。一緒にいることによって、父親だけならうまく切り抜けられることを妨げることになるかもしれない。しかし、なんだかその場から逃げてきたような気がして、コレットは居心地が悪かった。
それでもあの場所に戻るわけにはいかない。
「もどらないと」
誰に言うでもなくつぶやくと、コレットはしっかりと前をむいた。
父親のことは気になるが、今コレットが戻らなければならない場所はフィオンのところだ。そのために父親がつくった機会を無下にするわけにはいかない。
フィオンのことだから、コレットが側にいなくても困ることはないだろうし、他に彼に話しかけたい人たちはたくさんいるはずだ。コレットがちょっと戻るのが遅くなったからといって、重大な問題が発生するわけではないと思う。
それでも……。
コレットの脳裏にフィオンと離れたときの彼の表情がよぎった。
さびしそうなフィオンの表情を思い出すだけで、コレットの胸がぎゅっと痛む。そして、先ほどまで一緒にいたはずなのに、すごく彼に会いたくなる。
その気持ちに従うように、コレットは広間へと続く入り口へと急いだ。
庭園からホテルへと続く入り口は、綺麗な格子模様の枠にガラスがはられた窓が並ぶ一角にある。ガラスごしに、建物の中からも庭園を楽しむことができるが、日も暮れた現在は庭園から中のきらびやかな様子がよく見えた。
その入り口の扉の前で、コレットは再び足をとめた。
開け放たれたその扉は、先ほど父親と一緒に庭園におりた際に通った場所である。決して狭くはないその入り口付近、ちょうどそこをふさぐように立ち止まって話をしている人たちであふれている。
何とか通れそうな場所をさがすが、コレット一人通る場所も難しそうだった。
人が通る通路にもなっている場所である。通りたい人がいれば、それとなくあけるのが礼儀でではあるが……。
ふさいでいる人物の一人と、コレットは目が合った。
そこにいたのは、ノーフォーク伯爵家のジュリアである。
ジュリアはコレットを一瞥すると、つんと顔を背けまた近くにいた人たちとの会話を続けた。ジュリアと話している人たちも、ちらりとコレットを見たがそのまま動く気配はない。くすくすと笑いながらこちらをちらりちらりと見ているのは、どうやらコレットが通りたいのをわかっていて、その反応を楽しんでいるといった様子である。
この状況では、声をかけたとしてもどいてもらうことは難しそうだ。
身分の高い人たちも多いこのパーティーの中で、フィオンのパートナーになっているとはいえ、一人でいるときのコレットはただの男爵家令嬢である。身分をわきまえるべき立場であり、楽しく話している人たちに声をかけてどけてもらうことも、無理に通ることもできない。
声をかけ相手をどかせるという行為は、コレットを気に入らない相手にたいし自分を攻撃する理由をあたえることになりかねない。
王宮でのパーティー、ジュリアはあからさまにコレットを嫌っていた。そんな彼女がいればなおさら気をつける必要がある。
(どうしようかな)
このままでは広間に戻ることができない。
しばらくここで待っていれば、他にもこの入り口を利用する人も出てくるだろう。それまで待っているか、それとも……。
コレットは建物にそって続く石畳に視線をうつした。この小道は庭園を散策するものであり、ホテルの他の入り口にも通じているはずだ。
広間にもどるための入り口はここだけではない。
一番近い場所はここだが、ホテルの客室の方から庭園に出るための入り口がいくつかあったはずだと、コレットはここを案内されたときに聞いた説明を思い出す。今日はこのホテルの客室はパーティーの休憩室として使われている場所もあり、そちらの出入り口も使用できる。
まだパーティーの最中である。休憩室を使用している人数は少ないだろうし、あまりまわりの目にさらされることもないだろう。
しかし、客室側の出入り口となると、ここから少し離れてしまう。
ここで待つべきか、別の入り口から戻るべきか。
もう一度扉に視線を向けるが、さらに知り合いがとおりかかったのだろうか。人は増えているばかりで通れる気配はない。
どうしたものかと、コレットはもう一度石畳の小道を見ると、そのまま視線を上に上げた。
パーティーの会場はホテルの二階。先ほどの人でふさがれた入り口から中に入り、一階ホールの大階段を上がっていけばすぐである。上を見上げれば、パーティー会場のバルコニーが見えた。
ひとつひとつの窓によって区切られているバルコニーには、いくつか人影がみえる。
先ほどまでその一つにフィオンと一緒にいたことを思い出し、コレットの頬が熱くなった。中からはカーテンの影となっていたとはいえ、もしかして外からは見えていたのではないだろうか。
あの時は、そんなことまで考えることもできなかったが。
熱くなった頬に手をあてて、そのまま視線を動かしたコレットの視界に、金色の光がよぎった。その光のもと。建物の中からの光を受けて、遠めにみてもきらきらと輝いているように見える人物に、コレットの鼓動が跳ね上がる。
先ほどコレットと一緒にいたときそのままに、まだバルコニーにいるフィオンにコレットの鼓動がドキドキと高鳴った。それを押さえるように、胸に手をあてる。
心は正直に、コレットの体を支配していく。
自分の側にいないときのフィオンをのぞいているようで、コレットの口元が少しゆるんだ。が、次の瞬間コレットの表情が固まった。
バルコニーの上。フィオンの隣に見えた人物には見覚えがあった。
そこにいたのは、数日前にあったばかりの少女、ジェシカ・ランデルである。
コレットのいる場所から二人の会話など聞こえるはずもない。しかし、楽しそうに会話している二人の姿にコレットの胸にさざ波がたつ。
他の貴族と話すことはフィオンにとって当たり前で、それはコレットがどうこう思うようなことではない。しかし、どうしてだろう。他の女の人と話しているフィオンの姿をみていると、胸が痛い。
それなのに二人から目をそらすことができないで一人庭にぽつんと立っている自分は、フィオンからとても遠いように感じられた。
会話の中の流れなのだろうか。フィオンがジェシカににっこりと微笑みかけた。
にこやかに会話をすることは当たり前のことなのに、コレットの心がズキリと痛む。
ふとジェシカと目が合ったような気がして、コレットは隠れるように建物側に移動した。なんだか心臓がドキドキして、じっとしていることが心もとなくなる。それ以上ここにいることができなくて、コレットは足早にその場を離れた。
まるで逃げるようにあの場を離れたコレットは、人気がない場所までくると歩調をゆるめた。
なんだかすごく疲れたような気がする。
(別に、逃げる必要なんてなかったのに……)
フィオンとジェシカが話していた。ただそれだけのことなのに、すごくショックを受けている自分に驚く。
ゆっくりと歩いていた足が止まった。
一度目をつぶり、大きく息を吸い込む。
どのような状況であろうと、自分は今日フィオンのパートナーである。社交の場であるこの場所で、まわりに振り回されてパートナーとしての役割をおろそかにしてはいけない。
「もどらないと……」
フィオンのところに。
力なくコレットはつぶやいた。
パーティーの会場から離れたため、庭園は人気もまばらで少し薄暗い。
喧騒から離れて静かな場所で一人たっていると、なんだか自分の足元がおぼつかないような気がしてくる。
フィオンを見つけたときのドキドキも、バルコニーで一緒にいたことも、なんだか今はすごく遠くに感じられた。
自分の立場は、分かっている。
どういう状況にいるのかも、分かっているつもりだ。
いつか薬の効果は消えてしまうもので、今の状況はそれまでのもので……。だから、自分にはフィオンが誰と一緒にいようと、楽しそうに会話をしていようと、それを気にするだけの立場にはいない。
分かっている、はずだったのに。
フィオンを好きだと思う自分の気持ちを止めることができなかった。それでも、フィオンの側にいればそれも駄目ではないような気持ちになっていた。
そんな自分は、今の自分の立場というものを失念していたのだろうか。
震える手に力を込めて、コレットは胸の前でぎゅっと握り締めた。思考を振り払うように頭を振る。
今はこんなことを考えている場合ではない。
不安があるのはわかっている。それでも、側にいたいと思ってフィオンを好きになったのは自分なのだ。今、パーティーの最中、フィオンのパートナーとして彼に迷惑をかけることだけは、絶対にできない。
好きだから、自分の務めをしっかりと果たさなくてはならない。
例えそれが、どんな状況であろうとも。
大きく息を吸い込むと、呼吸を何度か繰り返す。そうしてなんとか気持ちを落ち着けると、ゆっくりとあたりを見渡した。
ここはパーティー会場から少しはなれたものの、ホテルの客室がある建物の近くだ。ここからなら、別の入り口もたいした距離の違いはなかったと思う。先ほどの広間近くの入り口に戻っても通れるかどうかわからないなら、別の入り口から中に入った方がいいだろうとコレットは歩き出した。
それ以上に、少し気持ちを落ち着けるだけの時間が欲しかったということに、コレット自身気がつかないまま。
綺麗なバラのアーチを抜けると、建物の入り口が見えてきた。
これで広間に戻れるとほっとしたとき、ふいにコレットの肩がぐいっと引き戻された。驚いて振り返ろうとするが、その前に口をふさがれたため動きがとれなくなる。
口をふさがれた手には布のようなものが握られて、それを口元に当てられれば薬品のような匂いが鼻についた。くらりと、めまいのように視界がゆれ、体から急速に力が抜けていくような感じがする。
口にあてられたその手の大きさと硬さ、そして自分を拘束する力の強さに、直接相手が見えなくてもそれが男性であることがわかる。
コレットの脳裏に夏至祭のときのことが思い出され、体が震えた。
なんとか離れようと体をよじり、口をふさがれた手をどけようとする。
「静かにしろ」
見知らぬ男の声の後に、カチャリと耳元で音がした。
こめかみの辺りに感じる冷たい感触に、コレットは頭を動かすことができないまま、目だけを動かしてそちらをうかがう。
短銃の銃口がぴたりと押し当てられている。コレットの体が恐怖で震えた。
だが、体が思うように動かない。
この辺りは休憩室となっているホテルの客室へと通じる出入り口である。まだこの時間では利用している人もほとんどいない上、コレットがいる場所は男に引っ張られたことにより建物の明かりが直接はあたらないようになっていた。薄暗いこちらの場所は、明るい場所からは死角となり、意識して見なければ気がついてはもらえない。
ずるずると引きずられるように庭園の奥につれていかれそうになり、コレットは震える体をなんとか動かし逃げようと試みる。しかし、夏至祭のときとはかってが違う。
逃げようと思うのにに、思考がうまくまとまらず、体も言うことをきかない。
女性と男性ではその力に根本的な差がある以上に、今のコレットの力では一人では到底逃げることはできなかった。
ガシャンと器の落ちるような音がして、コレットは驚いて体を震わせた。反射的にぎゅっと目をつぶる。
しかし、それが自分を捕らえている男が立てた音ではないことに気がつき、コレットは音のしたほうに目をやった。そこにはここの従業員かどこかのメイドらしき少女が、手にしていたであろうトレイを落とし、こちらをじっと見つめていた。
気がついたものがいたことで、コレットはなんとか今の状況を理解してもらおうともがく。
その動きにいらだったように、男はコレットの口を押さえている手に力を込めた。その手を引き離そうとしてもまったく動かず、反対に呼吸がどんどん苦しくなっていく。
そんなコレットの耳に、少女の悲鳴が聞こえた。
不意にこめかみのあたりに当てられていた感触がなくなったと思うと、どさりとコレットの体が地面に投げ出される。
何が起こったのかわからないまま立ち上がることのできないコレットの耳に、痛いほどの銃声が響いた。