31.余波
「ここにいたのか」
王宮の一室。
王弟としてのフィオンの執務室のドアを開けると、パトリックがその中にはいってきた。
執務をおこなうための机などが取り揃えられているその場所でソファに横になっていたフィオンは、声をかけられ体を起こすと、兄であり王でもある彼に立ち上がって一礼する。
パトリックはフィオンをソファに座るように促すと、自分も彼の向かいに腰をおろした。
「休んでいたのか?」
「ええ、さすがにあの匂いにあてられてしまいました」
先ほど紹介された惚れ薬の解毒薬。
さすがにあれほどの匂いにさらされてはと、フィオンは肩をすくめた。
「休むのなら、ここではなくお前の私室を使えばいい。以前のまま残してあるのだから」
王弟であるフィオンの部屋は、この王宮にもある。
幼い頃からバード公爵位を継ぐことが決まっていたフィオンであるが、爵位を継ぐまでは王宮とバード公爵家を行き来するような生活を送っていたため、王宮には以前フィオンが使っていた私室がそのままのこされていた。
「今日ぐらいは、王宮でゆっくりと休んでいきなさい」
王都内にあるのだから、バード公爵邸と王宮との距離がそんなに離れているわけではない。しかし、あの匂いにやられた後である。
馬車のわずかなゆれですら、体にこたえることもあるだろうと王は提案した。
王の言葉にフィオンはわずかに微笑んで、ゆるりと首をふった。
「いえ、帰ります。僕がここに長居をすれば、諦めがつかない人たちが多いようですから」
フィオンが王宮に滞在すれば、王位継承について諦められない人物たちも増えてくる。
それでは、何のために住まいをバード公爵邸へと移したのか分からない。
バード公爵位を継いだと同時に、フィオンはバード公爵家の領地と建物、それにまつわるすべてのものを祖父ヘンリーから譲り受けている。しかし、王弟という身分である彼は本来必ずしも王宮をさる必要はなかった。
王族であることと貴族であることは立場が大きく異なる。とくに外交面などでは、貴族であるか王族であるかで相手の出方は大きく変わってくる。フィオンが公爵家へと住まいを移したからといって、完全に一貴族となったわけではなく、厳密にいえば王弟としての立場の方がかなり大きい。
それらを加味した上、王宮に残るかまたは王弟としての別邸に移る選択肢もあるなか、フィオンはあえて公爵家へと住居を移した。
王宮内に、無用の火種を残さないために。
「そうか……」
王はそれ以上なにもいわなかった。
前王妃との確執があったとはいえ、パトリックには弟を恨んだりねたんだりする気持ちは不思議とおこらなかった。
王宮は、前王妃がいたころ、パトリックにとって決して居心地のいい場所とはいえなかった。
王位継承者の筆頭としてここから逃げることもできず、しかし、その後継者としての地位さえゆらいでいたあの頃から、フィオンはいつも自分を兄として接していた。王位を競う相手ではなく、自分の血縁である兄として。
現在でも、もしフィオンが王位を望むのならば、いや、望まなくてもその動きがあるだけで、自分はこの国の安定のためにその事態をほっておくことができなくなる。たとえ自分が弟を可愛がっていたとしても、そうなってしまってはもはや止めようもない。
それを分かっているかのように、フィオンの行動には一貫のゆるぎもなく、王家の一員としての役割をはたし、王弟として王の支えとなるべく務めている。
その彼を、パトリックは誰よりも信頼していた。
「兄上」
「ん? 何だ?」
「何かご用があったのでは?」
「ああ」
わざわざ自分の執務室まで足を運んだほどなのだ。何も言わない兄にどうしたのかとフィオンが尋ねると、パトリックは思い出したように口を開いた。
「ディアナがお前に話があるといっていた。帰る前によってやってくれ」
「義姉上が?」
何の用事なのか。それにしても……。
「それならば、誰かに申し付けてくださっても良かったのに」
わざわざ王自らが伝言することでもない。
「久しぶりに、弟とゆっくり話したいと思ったのだ。言付けはついでだ」
なんだかんだといっても、王妃である義姉にパトリックは弱い。
いつもにっこりと笑って、それで他の人たちを動かしてしまう王妃を思い出し、フィオンとパトリックは顔を見合わせて笑った。
王妃との謁見をすませ、王宮から退出するために歩いていたフィオンは、見知った人物を見つけて足をとめた。
相手もフィオンに気が付くと、フィオンに近付きふかぶかと頭を下げる。
「これはランデル子爵、先だっては見舞いに屋敷まで足を運んでいただきありがとうございました。あれからお会いする機会もありませんでしたが」
「なかなかお声をおかけすることもできずに、恐縮でございます」
「そういえば、監獄の責任者たちからの報告書、見せていただきましたよ」
ランデル子爵の親族もその中の一人である。
フィオンに惚れ薬を飲ませた犯人が投獄されていた監獄の報告書には、監視体制や脱出の可能性についてなどが書かれていた。
自分達が管理していた監獄での脱走は、管理者からすれば信じられないことであり、どれだけ厳重な警備だったのかが切々と語られていたのだが、逃げられたことは事実である。
「その後調査の詳細を提出するようにとのお話があったと思いますが、どうなっているか知っていますか?」
「他の監獄の責任者達とも確認しながらまとめているようですが、なかなか難しいようで……」
自分達の失敗を赤裸々に語るのは、なかなかに勇気のいることである。
やはり責任者だけに任せているだけでは難しいかと、フィオンはため息をつく。
信頼できるものに視察にも行かせ、その報告も受けているが、それだけでは十分ではないようだ。あまり自分が直接動けば、周りのものを信用していないようで避けたかったが。
解毒を望んでいなくても、犯人を捕まえることはフィオンにとっても重要事項である。
「近々僕も視察を兼ねて行きますので、よろしくおつたえください」
フィオンの言葉に、ランデル子爵は深く頭をさげた。
「まったく、大人しくしていろといっただろう!」
部屋に響くような大声で言われ、トリーヌの肩がびくりとゆれた。肩をすくめ足元を見ていた視線を、一緒に怒られている自分の主である少女へと移す。
少女は父親の怒りが納得できないように、憤然とした表情で父親を見ていた。
「お前達がしていることは、我々にとってかなりの危険を伴っていることがわからないのか。もしそこから今回の事件の犯人へと結びついたらどうするつもりだ!」
二人がしたことは、コレットへの嫌がらせ。
子供じみた嫌がらせの手紙を見つけ、大人しくしていると思っていた娘が何をしていたのかを聞き出した父親は、怒り心頭でこの剣幕なのである。
まだ、バード公爵を想う娘の嫉妬によるものだと苦しい言い訳がなんとか成り立つが、そこから惚れ薬とのかかわりを調べられたら終わりだ。現王派からは謀反を疑われ、自分の娘をバード公爵夫人にという王弟派からは、別の意味で睨まれる。そうなれば、現在の地位も危うい。
「でもっ! それでは、このまま黙って二人のことを見ていろとおっしゃるの!?」
父親が言っていた解毒薬はちっとも出てくる気配がなく、その間中あの女とバード公爵がまるで恋人同士のように一緒にいることが耐えられなかったと、少女は苛立ちを父親にぶつける。
「解毒薬はできた」
「それじゃ」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
しかし、父親の顔には眉間に皺がよったままだ。
「バード公爵は解毒薬を拒否された」
「そんな……」
悔しそうに少女は唇をかみ締めた。
自分が使った惚れ薬の効果の絶大さが、現在となってはなんとも恨めしい。
少女の父親が調べても、解毒薬の件は王宮内でもあまり細かな情報は確認できなかった。王家として王はこの惚れ薬事件にたいしてかなり慎重になっているようだ。
それでももれ聞こえてきた話では、完成した解毒薬をフィオンが服用することを拒否したという事実である。
カツンと室内に足音が響いた。
父と娘のやりとりを出入り口の扉のそばでぼんやりと聞いていたトリーヌは、急に近くに現れた人影にぎょっとして体をのけぞらせた。
主人である少女とその父親も、はっとして入り口の方に振り返る。
「まったく、その話をするには無用心ですね」
入ってきた人物は、勝手知ったるように部屋の中へと入ると、ソファに腰をおろした。
「お前か……。あまり驚かせるな」
「叔父さま」
現れた人物に、少女はほっと胸をなでおろした。
さすがにこの会話が誰かに聞かれると大変だという自覚はある。
「まったく、大人しくしていなかったとは困ったお嬢さんだね。トリーヌをせっかく獄舎から出してあげたというのに、これでは自分で犯人だと名のり挙げてるようなものだよ?」
「それは……」
父親には反発していた少女だが、叔父という男性の言葉には素直に反省の色をみせる。
「ふむ。それで、バード公爵が解毒薬を拒否したというのは本当ですか?」
ソファに座ったまま足を組むと、男性は少女の父親にたずねた。
「ああ。それは間違いない」
緘口令をしいたとしても、完全に人の口をふさぐことは難しい。
「そうですか……。そうなれば、仕方ありませんね」
「叔父さま?」
男はにっこりと少女に笑いかけた。
「解毒薬など無くても、事足りる。そう王弟殿下が解毒薬の服用をこばんだとしても問題はないよ」
「だが……」
このままでは、フィオンからコレットを引き離すのは難しい。
惚れ薬が関係しているといっても、王家として二人を引き離す動きはみられない。フィオンだけでなく、王妃までもがコレットを気に入っているという噂まである。
「相手がいなければ、惚れ薬の効果など問題ともなりません」
そう、惚れ薬が問題となるのは、その相手がいるから。
相手さえいなくなってしまえば、薬の効果などあってもなくても同じこと。
フィオンは王弟として、バード公爵として家系を守る義務がある。次代に後継者を残すために、彼はどんな状況であろうといつかは必ず結婚する。そう、相手が誰であったとしても。
「あの女をけせばいい」
男の言葉が、室内にやけに大きく響いたような気がした。
叔父の言葉に、少女は大きく目を見開く。
今まで、解毒薬でフィオンへの薬の効果がなくなることばかり考えていた。しかし、確かに相手さえいなくなれば、薬の効果など問題にならない。
「そう……ですわよね」
そこまで考えもしなかった少女は、すべての解決策を見つけたように叔父に微笑んだ。
少女の叔父は、まるで自宅であるかのように近くにあった呼び鈴をならした。
メイドに伴われて、一人の男がその場に入ってくる。
入ってきた男は帽子をとると、深く頭をさげた。
「彼は?」
「こちら側の人間ですよ。トリーヌ、お前は面識があるだろう」
急に話を振られた上、みんなの視線があつまったことにより、トリーヌは視線をきょろきょろと動かしながら中に入ってきた男をみた。
確かに見覚えのある顔に、自分を見ている主人にうなずいてみせる。
監獄から出るときに、自分が入っていた牢の鍵を開けた人物である。
あの時、さすがにどうなるのか、どこにつれていかれるのかと不安だっただけに、相手の顔が脳裏に焼きついていた。
「兄上、この件に関して異論はありませんね?」
「仕方あるまい」
少女の父親は、しぶしぶといった様子でうなずいた。
「カイサル、お前の仕事はただひとつ。マカリスター男爵家、コレットを始末しろ」
「はい」
「失敗は許されない。だが、成功すれば、どんな褒章でも望みのままだ」
男の言葉に、カイサルと呼ばれた男は、ニヤリと口元を緩めながら頭を下げた。