30.解毒薬
王家の執事が開けた扉の中にはいると、フィオンは眉をひそめた。
王への謁見室の中には、惚れ薬の件が最初に話されたときと同様、王と王妃以外にも数人の家臣がその場にすでにそろっていた。
あの時と違うといえば、王家付きの医師たちやバード公爵家御用達の医師までがすでにずらりとそろっていることだろうか。
まわりにそろっているものの表情をみると、どうやらこの部屋の異変はフィオンだけではなく、みなが感じているようだった。
なかには口元を押さえつつ、青い顔をしているものもいる。
王と王妃に一礼すると、フィオンはその疑問を口にした。
「何ですか? この匂いは」
吐き気をもよおすほどの強烈な匂いに、王も眉をひそめ、王妃は口元にハンカチをあてている。
微妙な表情をしながら、王は医師たちの方に視線を動かす。フィオンもその視線の先をちらりとみた。どうやら原因はあそこらしい。
フィオンが着席すると、王は苦しそうに咳を一つして口を開いた。
「説明を始めよ」
医師の中の一人、王家直属の医師として他の医師たちを取りまとめる立場である医師長が一歩前に進み出た。
その手には数冊の書物が握られている。
「まず最初に、フィオンさまが飲まれたと思われます『惚れ薬』のことについてご説明させていただきます」
持っていた本を上げ、医師長は続けた。
「『惚れ薬』の記載でございますが、もちろん禁忌薬の一つに上げられますもので、一般の医学書、薬学書にその記載はございません。呪い書などにはよく取り上げられておりますが、それも材料を見る限りほとんどがまがいもの、今回のような効果を期待できるようなものではございませんでした」
古今東西、好きな人をふりむかせたいという人の心にかわりはなく、いつの時代も『惚れ薬』のような薬や呪いなどの記載は人の心をとらえてやまない。正式な文書として残ってはいなくても、『惚れ薬』に関する記載は探せばかなりの量が出てくる。
しかしその効果が高ければ高いほど、その詳細は不明なものが多い。人々がすぐに調べることができるようなものは単なる気休め程度のものでしかなく、そのような媚薬、秘薬で本当に効果があるものは、禁断の処方として影で受けつがれる。それらの存在がおもてに出てくることはほとんどない。
「歴史を紐解いてみますれば、『惚れ薬』が使われたという事例がいくつかございます」
そう医師長が続けると、彼の近くに控えていた助手が、それらの書物を医師長から受け取り机の上にならべた。
それらの書物はどの文献も羊皮紙が変色をみせるような、かなり古いもののようだ。
「その中でも、『惚れ薬』の効果を消すことができたものとしましては、まずは歴史書『トリテュヌスの見解』の中に、古代ストラトス王家でありました『惚れ薬』事件があげられます」
医師長がならべた本の一つ。『トリテュヌスの見解』には、ストラトス王家の三代目の王が、『惚れ薬』を盛られて一人の愛妾に心奪われるという記載がある。
「されど、この惚れ薬の詳細はなく、解毒薬も王妃により手に入れられたものとしてのみ記載されているだけでございます」
古代王家の事件のそれを、後世になって歴史家トリテュヌスがまとめたものであるので、その詳細が明らかでないのも仕方が無いが、これは薬の効果を消すことができたと知ることができただけで僥倖だといわなくてはならない。
「もう一例はライセルト著『サーティス伯爵史』の中に、当時のサーティス伯爵であったハラスさまが伯爵家秘伝の惚れ薬を使用した記述がございます」
少し誇張されて書かれた部分はあるものの、実際の事件をもとにかかれた文書である。
当時サーティス伯爵であったハラスが、複数の人物に惚れ薬を服用させた事件の記録が書かれていた。その中の何人かは、偶然に、またはいろいろな解毒方法をためされたのちに、惚れ薬の効果を消すことに成功している。
「『惚れ薬』の解毒に成功したという記述は多くはございません。しかし、解毒が不可能では決してないということがこれにて分かっていただけると思います」
医師長は一呼吸つくと、まわりの理解を確認するようにあたりを見渡し言葉を続けた。
「『惚れ薬』は名前こそよく聞く媚薬の一つですが、普通の薬とは違い、呪術的な要素も加味される秘薬にございます。また、それらの処方は闇にかくされ、効果があればあるだけ処方内容は不明な点が多い。今回の件でも薬が残っていない以上、どのようなものがつかわれたのかもはっきりしない状況でございますが、書物による記載を検討し、解毒効果のある薬を調べたうえでの処方となってございます」
いろいろな毒に対する解毒に用いられるもの、『サーティス伯爵史』のなかで薬の効果がなくなった人物たちが口にしていたものなど、それらを検討し、必要な薬を集め、抽出方法や処方の組み合わせを確認。
ようやく解毒薬の完成となったわけである。
「処方内容といたしましては、聖水と名高いグリーヴの泉の水をすべての抽出に用いまして、気持ちを落ち着かせる効果のありますハスの種子に解毒作用の強いヘンルーダの葉、レンギョウの果実、サイ魚の肝臓、青色胞子の付きましたミズホリダケ、牛の腸から取り出しました糞石をすりつぶし……」
次々と解毒薬に使われたものがあげられるが、それがどんどんあげられるたびにみなの表情が曇っていく。
聞いているだけで、気分の悪くなるものも含まれて、本当にこれが解毒薬として効果があるのかという以前の問題であるような気もしなくもない。
処方内容の説明が終わると、みなの前に、コトリと音を立て透明なガラスの瓶がおかれた。
ふたをしていてもその匂いを完全に遮断することは難しいらしく、そこからもれる匂いにまわりのものが眉をひそめる。
だが、ひどいのはその匂いだけではない。
透明な容器からみえるその中身。解毒薬として医師が説明しなければ、にごったように光を通さず、毒々しいまでの青紫色のこの液体が薬だと思えるものは誰もいないだろう。どうみても、口にしたいとは思えない代物である。
その薬を目にした後、みなの視線は自然とこれを口にしなくてはいけないであろうフィオンへとむけられた。
みなの視線が自分に向けられたことを感じると、今まで静かにことの成り行きをみていたフィオンはため息混じりで肩をすくめた。
「すいませんが、それを飲むことはできません」
ざわりと、あたりがざわつく。
「えっと、何でしたっけ? その薬に含まれているものは」
先ほどの説明にもあったが、長々といわれた薬の原料をすべてそらんじるのは難しい。
「もう一度確認しますと、グリーヴの泉の水に、ヘンルーダの葉、レンギョウの果実……」
「ああ、もういいよ」
医師長が長々と言い出すのを、フィオンはたいして興味もなさそうにとめた。
「いろいろ考えて作ったようだけど、これを飲んだほうが具合が悪くなりそうだ」
「フィオン……」
フィオンの言葉を静止するように名を呼んだ王でさえ、彼の言葉を否定するのは難しそうだった。
確かにこれを飲めといわれても、はいそうですかとはいいにくい。
「『惚れ薬』とみなは騒ぎますが、僕はちっともそれを苦にしていません。そのためにこれを飲むというのは、解毒というよりは服毒といえると思いますが?」
「いえ、ちゃんと実験によって毒性の試験はおこなっておりまして……」
確かに見た目はどぎつい色をしているが毒性はないと、医師長のそばにいた別の医師が答えた。どうやら彼が毒性試験をしていたもののようだ。しかし、この色と匂いである。まわりの反応から、語尾がよわくなるのは隠せなかった。
その言葉をうけて、フィオンは口元をゆるめた。しかし、向けられた視線のおくは、決して笑ってはいない。
「それなら、君が飲んでみる?」
その薬を。
いわれて、まっすぐに視線を受けていた医師はごくりと息をのんだ。
薬を飲むという事実よりも、フィオンのその静かな視線に圧倒される。
「窓、開けていただけないかしら」
雰囲気が重くなった室内に、王妃の声が響いた。
はっとしたように、みなの視線が王妃にあつまる。
そんなことは気にもしないように、綺麗なレースのハンカチで口元を押さえていた王妃は、窓のあたりで警備をしている兵士に直接声をかけた。
「窓。早くあけてくださらない?」
直接王妃から声をかけられ、兵士は慌てたようにあたりをみた。
家臣の一人が口をひらく。
「王妃さま、重要な議題について話しているところですので、窓を開けますというのは警備の面で問題があるのではないかと……」
「こんな匂いでは、まともに話なんてできませんわ。いいですわよね、陛下?」
隣に座っていた王は、王妃の顔を見るとしぶしぶといった感じでうなずいた。
「ここは二階だ。窓下にしのんで話を聞くことはままなるまい。窓を開け、階下の様子に注意を払うように」
王の言葉に兵士はふかぶかと頭をさげ、部屋の窓を開けながらそのつど外に人の気配がないかを確認していく。
風が通りやっと匂いが落ち着くと、王妃は口元にあてていたハンカチをはずし、ほうと息をはいた。
やっと呼吸が楽になる。
「お話の続きですけれど、お毒味をしてみればよろしいのではなくて?」
「ですから、毒性の検査は……」
「それは先ほども聞きましたし、みなを信じてもいますわ。でも、これだけのものを解毒薬だから飲めといわれましても、フィオンだって戸惑ってしまいますわ。違いまして?」
「それは、そうかもしれませんが……」
「私も可愛い義弟に、得体の知れないものなんて飲ませられませんし」
王妃はみなをゆっくりと見回すと、最後に隣に座る王ににっこりと微笑みかけた。
「ね?」
この場で王妃の言葉に反対できるものは、いなかった。
しかし毒味をするとして、誰がこの薬を飲むかである。
「毒味役でも呼ぶか」
「あら、それにはおよびませんでしょう」
「どういうことだ?」
「だって、これを作られた方は、これが人が飲めるものだと判断されたわけでしょう? 飲んでいただいたら?」
「ディアナ……」
「それに、味がわからなければ改善のしようもないでしょうし」
王妃の言葉に、医師長は静かにうなずいた。
「わかりました。私が」
「いえ、私がいただきます」
医師長の言葉をさえぎるように、さきほど毒性試験をしたというものが名乗りを上げた。
自分が行った毒性の検査に間違いはなかった。もしこれにより王弟の命が奪われるような事態にでもなれば、その試験をした自分もただではすまない。それならば、いっそ自分で証明してみせるとばかりに、彼は一歩前に進み出た。
その申し出の真意をはかり、王は許可をだす。
瓶のふたがはずされると、薬がゆっくりと銀杯の中に注がれた。
注がれたというには薬の粘性が強く、ねっとりと容器の中に落ちていったというほうがただしいかもしれない。杯にあけられた薬により、部屋には窓を開ける前以上の匂いが充満していく。
そこに味と香りを調節する目的として赤いワインが注がれ、銀のスプーンでゆっくりとかき混ぜられたが、それが薬の匂いや味をどこまで押さえ切れているのかはなはだ疑問である。
部屋にいるものたちはみな一様にその匂いに顔をしかめ、家臣の中には思わず吐き気をもよおして慌てて視線をそらし口元を押さえたものまでいる。
呼吸をすることさえ苦しくなるようなこの匂いの中、医師たちだけは多少顔をしかめた程度だった。解毒薬の研究の際に、すでに匂いに麻痺がでているのではないかと疑いたくなるほどだ。
出来上がった薬がテーブルの上に置かれる。
毒味を申し出た医師は、その銀の杯を両手で持ち上げると目の前までもってくる。ごくりと息を飲んだ後、覚悟を決めたように一気に薬をあおった。
タンッと、銀杯がテーブルの上に戻される。
服用した医師は、大丈夫であることを知らしめるようにあたりを見渡し。
倒れた。
まわりにいたものが慌ててその体を起こすが、まったく反応がない。
「どうした!」
「気を、失っているようでございます」
どうやら匂いと刺激に目を回してしまったらしい。
気力でなんとか服用したものの、吐き出すこともできず、直接脳天に響くほどの刺激臭にやられてしまったようだ。
倒れた医師の一人を目にして、やれやれといった様子でフィオンは肩をすくめた。
「話になりませんね」
人に飲ませることを前提として作られたとは到底思えない。
「これでは……フィオンに飲めとはいえませんわね」
運ばれていく医師をみて、王妃もそうつぶやく。
その光景にため息をついて、王は額に手をあてた。
「解毒作用も大事だが、人が飲めるものを作るように」
これでは解毒どころの話ではない。
王の言葉に、医師一同が冷たい汗を感じながら頭をさげた。