22.夕暮れ
応接室の扉を開けると、すぐにコレットに気が付いたフィオンと目が合った。目が合った瞬間、フィオンの顔に弾けるように微笑がこぼれる。
それだけで、窓から差し込む光には変化がないのに、応接室の中が明るくなったような錯覚さえ感じられた。
父であるマカリスター男爵と何か言葉を交わすとフィオンはすぐに立ち上がり、コレットがあいさつをする間もなく彼女に近づく。
コレットの手をとると、貴婦人へあいさつするように彼女の白い手に唇を落とした。
コレットのすぐ後から応接室に入ったアンリが、いきなり目の前で行われた行為に目をむいて、中に進もうとしていた足をぴたりと止める。
王宮に呼ばれたり、バード公爵家の別荘に招待されたり、パーティーのパートナーと務めたりと、薬の性とはいえバード公爵が姉に思いを寄せていることは聞いていた。聞いてはいたが、今まで遠くから見ることしかなかった王弟殿下の、そのとろけそうなほどに甘い笑みを実際に目の前でみせられると、自分の認識以上だったことを実感する。弟にでさえ言い負かされてしまうようなコレットが、バード公爵の甘い口説き文句に対抗するのはどうみても難しそうだ。
息を飲むような弟の気配を背後に感じ、微笑むフィオンのそのおくには、微妙な表情の父親の姿がある。
フィオンと会って、何度となく行われた行為。
だがさすがに家族の目の前でとなると、気恥ずかしさも違ってくる。
みんなの視線を感じ、コレットの頬が赤く染まった。年頃の女性が初々しく恥らっている姿は、とても可愛らしい。
「急な訪問で驚かせた? 近くを通りかかったものだから、どうしてるかなと思って」
コレットの手をとったまま、にっこりとフィオンが微笑んだ。
「お父上たちを驚かせてしまったみたいだったね」
王都を流れるセイズ川の辺、遊歩道としてきれいに石畳をしかれた場所で、歩を進めながらフィオンが言った。
突然のバード公爵の訪問に、父親であるマカリスター男爵もどうしていいのか分からず、平静を保とうとしつつも家の中は上を下への大騒ぎだった。
それを感じて、フィオンはコレットを散策へと誘い出した。
初夏の夕暮れ時、川べりでは涼やかな水音が響き、心地よい風が生まれている。
「とんでもありません。フィオンさまのご訪問は、父にとってとても栄誉なことですもの」
貴族にとって、目上の貴族の訪問は名誉なことに当たる。
その人から訪問を受けるということは、それだけ目をかけてもらっているということになり、交友関係がものをいうような貴族社会での立場を押し上げることにもなるからだ。
それが王弟であり、国内屈指の名門であるバード公爵家の当主であればなおさらである。
確かに突然のことで、平常心ではなかったようだったが。
「君は?」
「え?」
「コレットはどう? 僕が急に来て、迷惑だった?」
「そんなことっ! そんなこと……ない、です」
足を止めてコレットを覗き込むように見つめてきたフィオンに、コレットは慌てて否定する。
驚きはした。
まさかバード公爵自らが突然訪ねてくるなんてことは思ってもいなかったから。
ちょっと恥ずかしい気持ちも確かにあった。
家族の前でフィオンと一緒にいることは、嫌というのではないけれど、いつもよりもっとどうしていいのか分からなくなってしまったから。
でも、それでも、決して嫌ではなかった。
「そう。よかった」
にっこりと微笑まれ、コレットの心臓がどきんと跳ねる。それに気がつかれないように、コレットはそっと目を伏せた。
再び歩き出したフィオンに合わせて、コレットも歩を進める。
にこやかに話すフィオンに相槌を打ちつつ、コレットはちらりとフィオンを見上げた。
夕暮れ時、オレンジ色に染められた空気が、あたりをやわらかく包んでいる。
その光に縁取られ、フィオンの金色の髪がいつもより色を濃くしてきらきらと輝いていた。
とても楽しそうに微笑んでいるフィオン。
でも……。
コレットはさっき書斎でのアンリの言葉を思い出す。
もう何年も前の話である。
王位継承は行われ、現在はフィオンの兄であるパトリックが王としての地位を築いている。そんなに気にするようなことでもないのかもしれない。それでもまだ、その傷にフィオンが苦しんでいるかと思うだけで、なんだか胸がずきんと痛む。
王弟であり、バード公爵位をもつフィオンの苦労など、すべてがコレットに分かるわけではない。理解するなんておこがましいことも分かっている。
(それでも……)
コレットの視線に気が付いて、フィオンがコレットに視線を移した。
どうしたのかと優しく微笑む。
コレットは小さく首を振って微笑み返した。
自分が笑う、ただそれだけでフィオンが幸せそうな表情を見せるから、それだけでどうしてだろう、とても泣きたくなるほどに嬉しくなる。
フィオンには笑っていて欲しい。
王宮でのパーティーでみた切なげな表情よりも、幸せに笑っていて欲しいとコレットは思った。
しばらく歩くと、セイズ川を挟んで遊歩道とは反対側にあるリアーズ・ガーデンの奥でにぎやかな声が聞こえた。
「もうすぐ夏至祭だから、その準備をしているんだろうね」
声に反応してどうしたのだろうと広大な王立公園の方を見たコレットに、フィオンは言った。
「コレットは王都での夏至祭は初めて?」
「地元のお祭りは行ったことがありますけど……」
夏至をすぎれば夏も本番へとなっていく。
王宮での夜会が終われば、だんだんと社交シーズンも終了へと向かい、夏至のころには領地に戻るものもちらほらと出てくる。
今年は事情が事情であるので、マカリスター男爵も夏至を迎えようとしている今でも王都にとどまっていた。夏至のあたりから秋の収穫の時期には領地での父親の仕事も増えるため、いつもはマカリスター領に戻っている。コレットにとってこの時期まで王都にいることは初めてだった。
「夏至のお祭りは、国中いろんなところで行われるからね」
夏になろうとするこの季節は、緑が萌えて色を濃くし、太陽はまぶしいほどにあたりを輝かせる。
生命力に溢れる自然を拝して、これからの大いなる恵みと繁栄を願い一年で一番夜の短いこの日を祝う。
「そうだ、夏至の日は僕がここを案内してあげるよ」
「えっ?」
「夏至の夜はこのリアーズ・ガーデンが開放されるんだ」
王家が管理するリアーズ・ガーデンは通常治安維持のため、夜間の出入りは禁止されている。
しかし普段は夜間門扉が堅く閉ざされているこの公園も、夏至の夜だけは毎年一晩中開放される。
フィオンからの誘いに、コレットの頬が無意識に赤くなった。視線が泳ぐ。
「予定がある? 他の人と」
「そう……ではなくて」
コレットはなんと言っていいのか分からず言いよどむ。
夏至祭は国中で催されるような、一般的なお祭りである。
もっとも自然の力が強くなるこの季節に、人々はいろいろな願いを持って祭りに参加する。
夏至の時期は昔から恋の季節とも重なるため、夏至祭は恋人達のイベントとしての意味合いも持っていた。好きな人と結ばれるように、ずっと一緒にいられるようにと願って共に時間を過ごす。
だから、異性からの夏至祭を一緒に過ごそうという誘いは、あなたを好きだと告白し、恋人になりたいという意味が含まれている。
コレットもマカリスター領で行われたお祭りに参加したことがあるが、いつも家族と共にである。口約束だけとはいえ、婚約者がいたコレットは他の男性と夏至祭に行ったことなどない。
それなのにさらりと誘うフィオンに、コレットは戸惑った。
王都では違うのだろうか……。
もしそうならば、自分だけがあたふたしているようで恥ずかしい。
そこまで考えて、以前ルノワール伯爵家でのレディ教育のときに、他の女の子たちとの会話で、みな素敵な相手と夏至の夜を過ごすことが楽しみだと言っていたのを思い出した。
「僕ではだめ、かな?」
「ち、違います」
フィオンの表情が寂しそうに曇るから、コレットは慌てて否定した。
誘われたことも、一緒に出かけることも嫌なわけではない。そんなことは今更である。
(でも……)
王宮で会ったアニエスの真っ直ぐな瞳が、ジュリアの憎しみのこもった視線がコレットの脳裏にうかんだ。
この場所は、別の人のものだ。
本来ならフィオンの隣に、コレットの居場所なんてあるはずもない。
それなのに、乞われるまま公の場にフィオンと出かけるのは、まわりに余計な刺激を与えることにならないだろうか。そうなれば、将来的にはフィオンにも迷惑をかけてしまうかもしれないとコレットは思った。
コレットと一緒に出かけることによって、まわりにはっきりと自らの意思を示しているフィオンの気持ちなど、コレットにはまったく分かっていない。
フィオンはコレットと向かい合うと、なんと言っていいのか迷っているコレットの手をとった。
「コレット」
「はい」
「僕は、君と一緒にいたい」
「……はい」
コレットはフィオンに握られた手をじっと見る。
フィオンの言葉は、コレットの気持ちを簡単に押し流し嫌と言わせなくするから、瞳を合わせることができない。
フィオンはコレットの手をつかんだままそれを持ち上げる。
手の動きを目で追っていたコレットの前で、フィオンは優しく彼女の手のひらに唇を押し当てた。
そのやわらかい感触に、コレットの体がびくりと揺れる。
「こうやって一緒にいるだけで、僕はとても幸せな気持ちになれるんだ」
まっすぐに熱っぽい視線を受けて、コレットは動くことができない。
「コレット。夏至の夜を、僕と一緒にすごしてはいただけませんか?」
「……」
何も言わないコレットに、答えを待つフィオンの瞳が一瞬不安げに揺れた。
それだけで、コレットの胸がぎゅっとつかまれるように痛む。
それをみて、どうして断ることなんてできるだろう。
「…………はい」
消え入りそうな声で、コレットが頷いた。
ぱっとフィオンの表情にあかりが灯る。
「ありがとう」
そういってとても嬉しそうに笑うフィオンから、コレットは目を離すことができなかった。




