20.画策
ぴたりと窓が閉められ、レースのカーテンからはやわらかな夕暮れの日差しが差し込む部屋で、イスに座っていた少女は忌々しげにテーブルを叩いた。
握り締めた手は強く握っているため白くなり、怒りのためか小刻みに震えている。
「まったくどういうこと! なぜ、王家の方々は、公爵とあの女のことを黙認しているの!?」
惚れ薬で一目惚れというのは、もう王都中の噂である。
そうであるのに、先日の王宮でのパーティーでは、まるで最初から薬の存在などなかったかのようなバード公爵や王家の反応だったことを思い出し、少女はさらにいらいらとしたように眉間にしわを寄せる。
「そうですねえ」
のんびりと返ってきた声に、少女はさらにいらいらをつのらせ、きっと声のした方を睨んだ。
「トリーヌ。もとはといえば、お前が失敗したのが原因なんですからね! 分かってるの?」
「はあ。ですが、最初から成功は難しいと申し上げた……」
「うるさいわね!」
自分に都合の悪いことには耳を貸さず、少女は指でとんとんとテーブルを叩く。
とにかく手を動かしたりして発散していなければ、腹が立って仕方がない。
「まったく、お父さまには怒られるし、散々だったわ」
薬のことなど、父親にも誰にも話すつもりなどなかった。
あのパーティーでバード公爵に見初められて、今一番注目を集めているのは自分だったはずなのに。
薬のことなど、口をつぐんでしまえば分からない。
自分たちだけの秘密。それですべてがうまくいくはずだった。作戦通りにことが進めば、惚れ薬のことをまわりに話すことなど絶対になかった。
あの日、ルノワール伯爵邸には他にも手伝いのメイドが何人も入っていたし、見慣れないという理由だけでは、トリーヌは不審に思われないはずだったのだが……。
思わぬ形でトリーヌがつかまったため作戦は失敗し、さらに悪いことにそれはもう薬を飲ませた後だった。
ペラペラと惚れ薬のことを話したトリーヌには腹がたったが、あの現状ではそれが最善の策だったと今は思う。何とか公爵を隔離させ、薬の効果が発現しないようにする唯一の方法だったのだから。
結局薬の効果は出てしまったのだが、その後惚れ薬のせいでバード公爵に気に入られた女への牽制にもなると、王宮内でとどめ置かれそうだった噂をそれとなく広めた。
そうすれば、薬で恋に落ちたなど周りが認めるはずがない。
そうなるはずだったのに……。
じろりと少女は目の前に立っているトリーヌをもう一度睨む。その髪に目をやり、ちっと舌打ちをした。
綺麗な衣服に身を包み、お嬢様然とした見た目とはあまりにもかけ離れた態度である。
「髪」
「……?」
「ずれてるわ。ちゃんと整えなさい」
言われてトリーヌは自分の髪をぺたぺたと触って確かめた。
その刺激で濃い茶色の髪がずるりと動き、その下からはらりと赤みがかった金髪が零れ落ちる。慌ててほつれた髪をきつく結い上げると、女は茶色いかつらを付け直す。
そんなトリーヌの行動を見て、少女は大きくため息をついた。
犯人が捕まり、そこから足が付くのを恐れて父親に話した。なんとか実行犯であるトリーヌを逃がしはしたものの、これでは彼女がつかまるのも時間の問題かもしれない。
こんなことなら、トリーヌを使ってマカリスター男爵令嬢を犯人に仕立て上げればよかったか。
だが、結局は口を割られ自分にたどり着かれてしまう可能性の方が高い。
本来なら、自分のすぐ側にではなく遠くへと逃がすなり、隠すなりした方が自分の身にも安全なのではあるが。
「それで、薬の売人には会えたの?」
実行犯をかねたこの女が、売人から薬を受け取り自分に届けた。
以前から自分に仕えていたこの女に、惚れ薬の噂を聞きつけて買いに行かせたのは自分だが、売人に直接あっているのはトリーヌだけである。
トリーヌから聞いた話では、売り子はまだ若い黒髪の少女だったという。薬師との仲介人を名乗った少女を訝しんで、薬の実験まで立会いで行わせた。薬だと言われて、ただの砂糖水やましてや毒を売りつけられてはたまらない。
その場で実験をして、一滴餌に混ぜて野ねずみにあたえたところ、しばらくして野ねずみはトリーヌにまとわりつき大変だったという。
体に這い上がってくるねずみに悲鳴を上げながら、なんとか振り切って帰ってきたトリーヌは、髪はぼさぼさ、衣服はねずみに這い回られたことによってかきむしり、かなりひどい格好になっていたが、おかげで薬の効果は実証された。
バード公爵と二人っきりで会うことは難しい。そのため場所やタイミングなど、いろいろ考えた上で何とか本番に臨んだというのに、まったくの無駄になってしまった。
現状がこの状態である以上、どうしても今解毒薬が必要なのだ。
バード公爵や王家のあの態度では、薬を解毒する気があるのかさえ疑わしい。
「すいません。交渉の場だったところには何度も行ったのですが、あれからあの女に会ったという人がいないんです」
もともと、交渉の場になっていたのは目撃されにくい場所だった。他の人間が、黒髪の少女のことを見かけないのも無理からぬことではある。
今、トリーヌを王都で動き回らせるのには危険が伴う。
しかし、それを押してもどうしてもその女を見つけなければならない。
父親には、今の時点で犯人に結びつく証拠などないのだから、おとなしくしていろと言われた。そのうち、王家が命じた医師や薬師たちによって、解毒薬が作られるからと。
だが、あれから何日もたっているのに、ちっとも解毒薬の話が出てこない。
その上の、バード公爵と王家のマカリスター男爵令嬢に対する態度である。
王宮でのパーティー。バード公爵は当たり前のようにマカリスター男爵令嬢をエスコートし、他の誰も目に入らないような状態で微笑んでいた。薬のせいであるのに、それが分かってのうのうと公爵の隣で微笑んでいるコレットに、はらわたが煮えくり返りそうだ。
あんな二人の姿を、これからも見せ付けられたらと思うとたまらない。
解毒薬が手に入らないとなれば、今後の方針も転換しなければならない。
「何か、手を考えましょう」
バード公爵とあの女を引き剥がす手立てを。
解毒薬は必要だ。だが、解毒薬がないからといって、いつまでも手をこまねいているわけにはいかない。
王都にあるバード公爵邸の書斎。
本棚がずらりと並び、そこには歴代の公爵が収集した本が天井高くまで収められている。
窓辺に背を向ける形で座っていたフィオンは、飴色に磨かれた木の机の上に広げた本に目を落とした。
羊皮紙でできたページをぱらりとめくる。
かなり古い書物らしく、羊皮紙の端には湿気でよれてしまったところや、茶色い染みが滲んでいるところもある。本の綴じられた部分が傷まないように、慎重にページをめくっていたフィオンの手がぴたりと止まった。
ドアをノックする音が、部屋に響く。
失礼しますと扉を開けて入ってきたのは、老執事のクレマンだった。
フィオンは目を通していた本を閉じる。
「旦那さま、馬車のご用意が出来ました」
「もうそんな時間か。わかった。すぐに行くよ」
部屋を出たクレマンを見送り、フィオンは読んでいた本を持ったまま立ち上がる。奥の本棚へと近付くと、目の高さの部分にある棚を少しだけ右ににずらす。カチリと音がして棚が手前にずれた。本が載ったままの状態で手前に引けば、それはまるで分厚い扉が開くように動く。その奥にある金属の扉の鍵を開けると、フィオンは今まで読んでいた本をそこにしまった。
再び鍵を閉めて手前に引いた本棚を戻すと、再びカチリと音がして棚は動かなくなった。
棚が動かないことを確認すると、フィオンはそのまま書斎を後にした。
バード公爵家の馬車が、ルノワール伯爵邸の門をくぐる。
あの日以来、初めての訪問となるその場所に降り立つと、迎えに出ていた伯爵家の執事がすぐにフィオンを室内へと案内した。
中で待っていたルノワール伯爵夫人は、フィオンの到着を玄関ホールにまで出て迎えた。
「ようこそ、当伯爵家へ。このたびは、当家の不手際により公爵には大変な事態となりましたこと、重ねて深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げる伯爵夫人に、フィオンはそっと手を伸ばし頭を上げさせた。
「こちらこそ、あの日以来伺いもせず申し訳ありませんでした。僕の方こそルノワール伯爵家には多大な迷惑をかけたと心配しています。陛下には僕からもしっかりと申し上げておきますので」
現在のところ、とりあえず伯爵家が直接的な関与はしていないものとされているが、犯人が捕まるまでは、ルノワール伯爵家では一切のパーティーを中止するよう王家から通達がでている
実際は狙われたのはフィオンであり、自宅でのパーティーを利用されたという点でルノワール伯爵家も被害者の一人なのだが、管理体制の甘さを指摘されてしまうと辛いところだ。
「今日は主人は出ておりまして、せっかく公爵がいらしてくださったのに申し訳ありません」
王宮の仕事で留守にしているのだから、私的な訪問のフィオンよりそちらが優先されるのは仕方がない。
「それを知って来たのですから、僕の方こそ急な訪問を謝らなければなりません。そういえば、ルノワール伯爵とは先日王宮でお会いしましたけれど、かなり責任を感じていらっしゃったようでした」
あの日、別の用事がありパーティーに直接参加していなかったルノワール伯爵であるが、事件の現場が妻の主催したパーティーで、それも自分の邸宅で起こったことである。
息子ほども年の離れたフィオンに、平身低頭に詫びていたルノワール伯爵を思い出す。伯爵がいる状態では、おそらく彼の平謝り状態になってまともに話など出来そうもない。
「あまり気にしないようにと言ったのですが、耳に入ったかどうか。伯爵夫人からも、僕がそういっていたと伝えて置いてくださいね」
「もったいないお言葉ですわ」
会話をしながらフィオンを応接室のソファに促すと、ルノワール伯爵夫人もその向かいに腰を下ろした。
すぐにメイドが飲み物をテーブルに用意する。
「当家でお飲み物を飲まれるのは、気が進まないかもしれませんけれど」
一言添える伯爵夫人に、フィオンはにっこりと微笑んだ。
「とんでもありません。僕は今の状態を喜びこそすれ、愁いてなどはいません。喜んでいただきます」
そういうと、フィオンは気にすることもなく、入れられたお茶を口に運んだ。
パーティーの日、にこやかにコレットを誘っていた状態そのままのフィオンに、ルノワール伯爵夫人は、やれやれと肩に入っていた力を抜いた。
「今回の件、王都中で一番落ち着いていらっしゃるのは、当人であるバード公爵だけのようですわね」
「そうですか? 今回のことで僕は大切な人と巡り合えたのですから、喜んでいるのは確かですけど」
「まあ、世の女性陣が聞いたら、卒倒しそうなお言葉ですこと」
「ただ……」
「どうかなさいました?」
「コレットのことです」
「マカリスター嬢がどうかしまして?」
少し考えるようにして、フィオンは言葉を続けた。
「嫌われては、いないと思うんです」
フィオンの言葉にコレットは困惑したような表情はしても、嫌がるそぶりはない。
フィオンが触れれば赤く染まる頬を見れば、どちらかといえば好意を持っていると思ってもいいのではないかと思う。
「でも、どうもコレットに僕の言葉がちゃんと届いているのか、分からなくなるときがあります」
「まあ」
フィオンの言葉にルノワール伯爵夫人は驚いたような声を上げた。
が、すぐにくすくすと笑い声が洩れる。
「何かおかしいことをいいましたか?」
「申し訳ありません。でも、バード公爵も一人の男性だったということですわね。とても女性におもてになるから、女性の気持ちなどすべてお見通しかと思っていましたわ」
笑うのをやめると、ルノワール伯爵夫人はお茶に口をつけた。
「バード公爵。わたくしはマカリスター嬢をある程度存じているものとして申し上げますけれど、それは仕方がないことですわ」
「仕方がない、ですか?」
「惚れ薬を飲んで好きになったという相手の言葉を、どうしてすべて信じることができるでしょう」
フィオンの甘い言葉に心揺らされながらも、自分の立場を考えるだけの思慮を持つことは大変なことだと思う。なにせ、薬のせいとはいえ、愛を囁く相手は本気に口説いてくるのだから。
だが、それがどこまでが本気で、どこまでが薬のせいなのか。それを判断することは難しい。
そうなれば、コレットの立場上、フィオンの言葉すべてを信じるわけにもいかなくなる。
「やはりそこですか」
フィオンはふうっとため息をつく。
たとえ薬のせいだったとして、フィオンにそれを解く気などまったくない。それでも、薬を飲んだということだけで、自分の気持ちが届かないのではどうしようもない。
薬を飲んでいない状態で出会っていればどうなったか。
それは今となっては誰にも分からないのだから。
「フィオンさま、女性の気持ちを動かすにはある程度の時間は仕方がありませんわ」
事態が事態であるし、ましてやコレットは婚約を解消したばかりである。すぐに気持ちが切り替えられないのも仕方がない。
今まで女性から声をかけられることはあっても、これだけ口説いて振り向かれなかった経験などないであろう目の前の青年に、ルノワール伯爵夫人は小さく肩をすくめた。
「すぐに手に入らないからと諦められるのであれば、それも仕方がありません。でも、諦めないのでしょう?」
「もちろん」
そんなことなら、最初から望んだりなどしていない。
諦める気など毛頭ないと、フィオンは悠然と伯爵夫人に微笑んだ。