13.湖畔
ゴトンと馬車がゆれた。
四人乗りの大きな馬車に乗っていたコレットは、馬車の窓から外をみると小さくため息をついた。
最近ため息のつきすぎだと、慌てて口元に手をあてる。
馬車に乗っているのはコレットと、付き添いで同行したメイドのノーラだけなのだが、無意識にため息をついてしまうのが癖になってはいけない。
ノーラはといえば、先ほどからコレットの向かいに座って、馬車の中をきょろきょろしながら見回していた。
馬車の内装はよく磨きこまれた飴色をしており、イスにはふんわりとしたクッションが敷かれている。居心地のよい馬車の中は、長旅でさえ耐えられそうなくらいだ。
その馬車の御者側の内装には、バード公爵家の紋章があった。
バード公爵家からの使者が来たのは昨日のことだ。
この前会った時に王宮でのパーティーの招待状をもらったばかりである。
来週にはまた会うというのに、バード公爵家の別荘への招待が来たのだ。
別荘といっても、誘われたのは王都の郊外。王都の西に広がるスティルス湖の湖畔にあるもので、王都から日帰りできる距離にある。
夏になると、涼を求めて別荘に集まる貴族でかなり賑わう場所である。
目上の貴族からの誘いや訪問は、貴族たちにとってはかなり名誉なことだ。バード公爵家とマカリスター男爵家の間で微妙な問題があろうと、その風習は変わることはない。
両親からの許可を受けて返事を出すと、次の朝にはしっかりと公爵家から迎えの馬車まで用意されていた。
(早まった……かしら)
コレットは窓の外に見える森と湖をぼんやり見ながら思った。
フィオンの切ない瞳に彼を拒絶できなかったコレットだが、拒絶できなかったことでフィオンの誘いに遠慮がなくなっているのではないだろうか。
もし拒絶していたとしても誘いがなかったとは限らないのだが、そう思わずにはいられなかった。
「お嬢様、あれじゃないですか?」
ぼうっとしていたコレットは、ノーラの言葉にはっとする。
湖のほとり、少し小高い場所に目的の場所があった。
白いお城のような建物は、緑色の森と青い空にはえてとても美しい。
大きな柵の門が開かれ、馬車はその建物にむかって走っていく。
近づくと、その建物の大きさがはっきりしてきた。
別荘であるのに、どうみても領地にあるマカリスター男爵家の荘園屋敷よりも大きそうだ。
しかしバード公爵家にとっては、各地にある別荘の一つ。それ以外にもいくつかの領地にそれぞれ荘園屋敷があると聞けば、どれだけバード公爵家の規模が大きいかがうかがえる。
決してマカリスター男爵家は貧しい貴族ではない。
王都にある町屋敷も領地にある荘園屋敷もきちんと手入れがいきとどいているし、メイドなどの使用人も必要な分を雇えるだけのゆとりもある。
それでも一地方領主の男爵家と、連綿たる歴史を持つ公爵家とではその差は歴然としている。
大貴族というだけでなく王族でもあるフィオンと関わるなんて、きっとこの事件が起こらなかったらなかっただろうとコレットは思った。
馬車が止まった。
入り口付近で待っていた従僕が、馬車の扉を開きコレットに手をかす。
馬車からおり、開けられた玄関に進もうとしたとのとき。
「よくきたね」
屋敷の中から、一人の青年が現れた。
さらりとした金髪にエメラルドの瞳。女性が思わず見とれてしまうような甘い笑みを浮かべながらコレットを出迎えたのは、ここ数日でよく見知ってしまった相手である。
「公爵、本日はお招きありがとうございます」
腰を落として、コレットはフィオンに頭を下げた。
フィオンはコレットに近づくと、そっと彼女の手をとり口付けを落とす。
「急にごめんね。どうしても君に会いたいのを、我慢できなくなったんだ」
呼び出すのが公爵邸ではあまりにも目立ちすぎるため、この別荘を選んだ。
他にも別荘はあるが、王都からは遠い。
どうしても泊まりになってしまう場所は、最初から警戒心を生んでしまうかもしれないので、とりあえず今回は避けておく。
「それと」
すいっとフィオンはコレットの耳元に顔をよせた。
「フィオンと呼んでと、そういったよね」
空気のゆれさえ感じてしまうほどの耳元でそうささやかれ、コレットの肩がぴくりとゆれた。
無意識に頬が熱くなるのを隠すように、コレットは少し顔をふせる。
名前でなんて、人のいる場所で呼べるわけがない。
一度はフィオンを名前で呼んだコレットだが、さすがに人前であまり親密な感じを出すわけにはいかない。
いくらそれをフィオンが望んでいるといっても、けじめはつけなくては。このまま彼の言葉に流されてはいけないのだと、コレットは自分に言い聞かせる。
耳朶まで赤く染まったコレットに満足するように、フィオンはくすりと笑う。
「二人になったときは、名前で呼ぶようにね」
耳元に吐息を感じながら、コレットは小さく頷いた。
コレットの手をとり、フィオンは屋敷の中へと入っていった。
出迎えるために玄関にでてきたロイドは、そんな二人のやりとりを目にする。
本気でコレットを口説きにかかっているフィオンに、コレットがどこまで耐えられるのだろうかと、ロイドは小さくため息をついた。
やわらかな日差しの射す午後のひととき、コレットとフィオンは森の中を散策にでた。
コレットが持っていた白いレースのパラソルは、出たと同時にフィオンに奪われてしまった。
パラソルを持っていればある程度の距離が保たれるのだが、フィオンにとられてしまってはしかたがなく、コレットはそっとフィオンの腕に手を添える形になる。
今が湖での避暑のシーズンではなく、人影が少ないのがせめてもの救いといったところだろうか。
ふと、森の中から馬のいななきが聞こえた。
視線をさまよわせると木々の間から柵が見え、ちらりと馬の姿がみえる。
コレットの視線に気が付いたように、フィオンが声をかけた。
「馬が好き?乗ってみる?」
「えっ。いいえ。私、馬には乗れなくて……」
乗馬は貴族のたしなみの一つでもある。
しかしたしなみとはいえ、恐怖のためや、お転婆に見られるといったことで敬遠する女性も少なくはない。
コレットも興味はあるのだが、母親が女の子には危険だと乗馬を許可してくれることはなかった。
父はマカリスター男爵領を一緒に馬に乗って回りたかったらしく、何度か母親を説得していたのを見かけたが、今の今まで許可が下りたことはない。結局コレットは、弟のアンリが練習しているのを見ていることしかできなかった。
「大丈夫、そんなに怖くないよ。行ってみよう」
コレットの手をしっかりと握り、フィオンが駆け出す。
それに引っ張られる形でコレットも走り出した。
少し前を走るフィオンの顔は、すごく楽しいことを見つけたみたいに輝いている。
それをみていると、自然とコレットにも笑みがこぼれてきた。
なんだか、すごく楽しいことがあるような、そんなわくわくした気持ちになってくる。
本当は小さいころから、コレットも馬に乗ってみたかった。
弟が馬の背に乗って颯爽と走り回っているのを、すごくうらやましく見ていたのだ。
厩舎に近づくと、フィオンはそこにいた馬丁に声をかけた。
どうやらこの厩舎一帯の牧場は、バード公爵家の持ち物らしい。
散歩でしばらく歩いたと思ったら、まだまだ公爵家の敷地内だったようだ。
馬丁が馬に鞍をつけ、乗馬できるように調えるとフィオンとコレットの所まで連れてきた。
パラソルを馬丁に預けると、フィオンはひらりと馬にまたがる。
「コレット。手を」
そういうと、馬上からコレットに手を伸ばす。
コレットがフィオンの手をしっかりとつかんだのを確認し、ぐいっと彼女を引き上げた。
馬の上に横座りの形になったコレットは、ゆっくりとまわりを見渡す。
いつもの視界よりも高く不安がないわけではないが、それでも思ったよりも恐怖は感じなかった。
「怖い?」
頭上で聞こえた声に、コレットははっとして顔を上げる。
すぐ側で優しく見つめるエメラルドの瞳。自分の姿が映し出されているのが見えるほどに近くにあるそれに、コレットは急にドキドキし始めた。
馬に乗れることですっかり失念していたが、二人で乗るということはこういうことなのだと改めて気が付く。
フィオンの問いに答えるように、コレットは視線を少しずらすと、頭を振った。
さすがに吐息を感じることができそうなくらい近くで、フィオンを正視することなどできなかった。
間近で真摯な瞳を向けられては、いくらがんばったとしても無意識に頬が染まるのを止めることができない。せめてできるのは、それをフィオンに見られないように少し顔を逸らすことぐらいだ。
「しっかりつかまってて」
コレットの腰に片手をまわし、フィオンが手綱をとる。
ゆっくりと馬が歩き始めると、先ほどまで感じることのなかった空気の流れを感じた。
コレットの瞳が、楽しそうにキラキラと輝く。
そんな彼女を間近でみながら、フィオンはまぶしそうに目を細めた。
興味が乗馬に移っているためか、こんなに近くにいるというのにコレットの意識はフィオンにはまったく向いていない。それをちょっと不満に思いつつも、コレットが自然に笑う姿をみることができるならそれも悪くないと、フィオンは思った。
馬に乗ったまま湖のほとりを散策すると、湖からの涼しい風がコレットの頬をなでた。
湖は鏡のように空と森の景色を映し出し、波が起こるたびにきらきらと光を反射している。
いつもより高い視界から景色を眺めると、その景色がいっそう美しく見えてくるから不思議だ。
「きれい……」
コレットの口から感嘆のため息がもれる。
「夏になったらまた来よう。そのころにはボートに乗るのもいい季節だ」
「はい」
嬉しそうにコレットが頷いた。
景色の美しさと、初めての乗馬に心奪われていたコレットは、自分がこれからのことを約束してしまったことに気づいていない。
楽しそうに馬上の風を感じ、馬の首筋をなでる余裕ができてきたコレットにフィオンが口を開いた。
「乗馬に興味があるならやってみる?今度教えてあげるよ」
「えっ、でも……」
さすがにそれを願うのは図々しすぎる。
乗馬なら男爵家でもできるのだ。母が許可を出してくれさえしたなら。
「考えておいて」
「でも、お忙しいのにそんなことまで」
「君に会えるなら、どんなことをしても時間をつくるよ」
フィオンの言葉に、父に相談してみるとだけコレットは答えた。
興味はあるが、乗馬ともなればさすがに自分一人で決められることではない。
それに惚れ薬の一件もあることだし、あまりフィオンに迷惑をかけすぎるのも問題だ。
「まぁ、僕としては、コレットに乗馬を教えるのも楽しそうだけど……」
「?」
「こうして君を、腕の中に閉じ込める機会が減ってしまうのは残念かな」
そういうと、フィオンはコレットの腰に回していた手に力を込める。
力の方向にしたがうように、コレットの体がフィオンの方へ軽く傾く。
それだけで二人の間にあったわずかな距離が消えて、コレットの頭がフィオンの肩にことんと当たった。
頬に上質の絹の肌触りを感じる。
「フィオンさまっ」
思わずフィオンにもたれるような形になってしまい、コレットが抗議の声を上げる。
「ほら、しっかりつかまってないと危ないよ」
にっこりと微笑むと、フィオンは少しだけ馬の速度を上げた。
乗りなれていないコレットは、それだけでフィオンから離れられなくなってしまう。
しっかりと自分の服を握り締めるコレットに満足すると、フィオンは彼女の甘い香りを感じながら、楽しそうに馬を進めた。