今はまだ愛してくれなくてもいい、私より多くを生きてくれるなら一生をかけて惚れてもらうから
アデニウム第一皇子は子どもの頃から表情筋があまり動かない男だった。下手に整った顔をしていたので、少し目があっただけで睨まれていると感じる者もいた。ある女はそれが良いのだと言い、ある男は何ものにも動じない強さなのだと言った。つまるところ彼は、王族として正しく尊敬と羨望を集めていたのだ。しかしながら、今現在の彼を見てそれを語れる者がいるのだろうか。
「あの、殿下…」
「何だ」
「殿下のなさることでは、その、無いので」
「…!」
「そのような顔をされましても」
黒い絹糸のような髪を梳かすブラシが止まる。花の細工があしらわれた確実に女性物のそれを皇子が持つ日など国民の誰もが予想しえなかっただろう。いつもの様にエレナの部屋に来たテオドルは女官の持っていたブラシに興味を持ったかと思うと、彼女らからそれを奪いエレナの黒髪を梳きだした。勿論エレナは断ったし、女官たちも自分たちの仕事だと言ったが彼は聞かなかった。ちなみにエレナの言うそのような顔というのは喜劇役者が劇中に見せる大袈裟に驚いて見せるような顔だった。
「人の髪を梳いたのは初めてだったが、何か不手際でもあったか」
「不手際というか」
「もう一度許して欲しい、注意する」
テオドルは願いを請うに相応しく膝をついてエレナの前に傅いた。エレナは握られた手を思わず握り返しながら固まることしかできない。男慣れしていない彼女にとってテオドルの端正な顔は毒にしかならなかった。頬が熱くなっている自身に恥じつつエレナは口を開いた。
「殿下は皇族でいらっしゃいます」
「そうだな」
「高貴な血筋のお方です」
「ああ」
「…その身支度などは女官の仕事です、殿下のなさることではございません」
「何故だ」
「な、なぜ、って」
「私の父もよく母の世話をしていた」
「え!」
エレナは思わず近しい者に言うように聞き返してしまった。テオドルは慌てて口を押えるエレナを小さく笑いながらブラシを置き、今度は茶器を弄りだした。エレナが立とうとするのを視線で押しとどめて、白い陶器の茶器に茶を注ぐ。姿勢正しく立つ姿は皇族というよりは軍人のそれであるのに、その手つきには無駄がなくとても慣れている。
「ニュンパエアでは知らんが、アデニウムでは基本的に女の地位は非常に高い」
「…さようで」
「信じてはいないか」
「そのようなことは」
「確かにアデニウムでは女が官職に就くことはあまりない」
「存じ上げております」
「それは何故だと思う」
差し出された白い茶器には薄い琥珀色の茶がお行儀よく収まっている。エレナは茶器を受け取りながら、どう返すが正しいか考えなければならず苦笑いをしてみせた。ニュンパエアでは魔力が全てだった。男女差よりも魔力で物事の優劣が決まり、その次に知性で最後に体力だった。魔力持つ者は貴賤の関係なく尊敬を集めたが、逆もしかりでそこに男女の差はなかった。ただ比較的に女性の方が強い魔力を持って生まれてくることが多く、高級魔道士や官職に選ばれる比率も高い。その点ニュンパエアから見るアデニウムは異質だった。剣や斧を振るうのはまだ分かるが、魔力の強い女性が一切表舞台に出てこないのだ。外交官は勿論、アデニウムで開かれる晩餐会で女官が出席した例はない。ニュンパエアではあの国には女がいないだの監禁しているだのと噂が飛び交う程で、エレナも連れて来られるまではアデニウム人の女性を見たことはなかったし、女官としてニュンパエアの彼女らと同様に働いているのを見て驚いていた。
茶器に口を当てて眉間に皺を寄せるエレナをもう一度笑いながらテオドルが言った。
「女は生まれながらに地位が確約されているからな、働く必要は基本的にはない」
「え、では彼女らは…」
「皇族の妃付きの女官はそれでも人気がある、本来なら遊んで暮らせるがそれを捨ててでも得たい職なのだと、後はまあ婿探しだろうな」
「はあ」
「この国では昔から生まれてくる男女比がおかしい、子どもが3人生まれたとしてその中の1人が女だったらかなり良い方だ、だから男たちは少ない女に選んで貰えるよう子どもの頃から貢物をしたり自身の強さや知性を示して常に売り込んでいく、女に悪い話じゃないだろう?」
「…私は、自分で働きたかった口なので」
「そうか、それもいい能力を示しさえすれば官職にだってなれるだろう、ただしこの国の女は外の男と関わる仕事の一切を禁じている」
テオドルはエレナの後ろに回り込み座っている彼女をそのまま抱きしめた。エレナはびくりと肩を震わせたが茶器を大事に持ちながら大人しくしている。
「これは聞かなくても分かるだろう、下手に外の男と接触でもされて連れてでも行かれたらことだ、前例があってな」
「そうですか」
「少しは怯えると思ったが」
「道理でしょう、彼女らが納得しているなら別段騒ぎ立てることでも」
「怖ろしいか」
「…いえ」
「私は怖ろしい、あなたは何かの拍子に居なくなってしまいそうだ」
「え、きゃ」
エレナの持つ茶器を奪い机に置くと、テオドルは彼女を抱えてぐるりとその場で回った。エレナが驚いてテオドルにしがみ付くと声をあげて笑った。
「ふふ、エレナはもう少し肉をつけた方がいいな、この軽さではドラゴンどころか大鷲に連れて行かれてしまう」
「そんなことありません!もう!」
「長生きをしてほしい、できれば私より、頼んだぞ」
「ちょっ!きゃああ!やめ、止めて下さい!目が回る!」
「返事は?」
「分かりました、分かりましたから!」
「あはは、約束だぞ、我が妃必ず」
ぐるんぐるんと回されてエレナの世界もぐらぐらと揺れてテオドルに抱きつきながらあーだのうーだの言っていたが、彼はそれを太陽でも盗み見するように見つめた。
未だニュンパエアより使者は来ず、速鳥も戻らない。




