あの空にサヨナラを
わたしはキーボードから手を離したとき、泣いていた。
しばらく机に伏せて泣いて、それから、顔を洗いに行く。鏡に映った自分の顔がやけに醜くく見えた。
……なにをやってるんだろうか。自分でも信じられない。
「最低だな。アンタ……」
鏡に言ってやった。でも、不器用なわたしには、勝丼君との関係を断ち切るにはこれ以上の方法が見当たらなかった。
そう、わたしは彼に、ガンというウソをついた。信じたかどうかは知らない。でも、彼にそれが本当かウソかを確かめる術はない。わたしは彼から逃げた。
理由?
……わたしが馬鹿だから。
……楽しすぎた。元彼と別れてからの数ヶ月が、あの時のわたしには宝石のように輝いていた。いや、輝きすぎた。あんなに愛していた元彼がかすんで見えるなんて、ちょっと異常なくらい。
わたしは、勝丼君との"創作"という共同作業の中で、彼に特別な感情を抱き始めてしまったのだ。
顔も名前も知らない。ヘタレでハードル低くて、そのくせプライドだけは高くて偉そうにしてた、薄っぺらい男。……そんな彼の殻を剥いて剥いて剥いていくと、ホントは何かで自信をつけたい、そのためなら苦労もいとわない純粋な少年で、そのひたむきさには幾度となく胸が透く思いがした。
なによりこんなわたしを必要としてくれたこと。現実では薄情な彼氏に捨てられてピィピィ泣いてるしょぼいわたしを一心に信じ、叩いてもつねっても必死にわたしの後を追ってきた。
……こういうのを母性っていうのかな。一種のかわいさを覚えたんだよね。思えばこんな弟がほしかった気もする。
弟。……わたしの格付けは弟だった。恋愛とか、そういう対象には思えない存在だったけれど、その弟にある日、異変が起きた。
「勝丼:それでさ、蘭さん。その時、いいなって思う人がいたよ」
彼と学園祭の話をしていた時だ。わたしはなぜか胸が震えた。
ただ、そういう部分は幸い、チャットでは伝わらない。書き込みはあくまで平然と見えるのが便利だった。
「蘭:え? ホントに?」
「勝丼:うん。一つ下の後輩なんだけど、カキ氷屋に並んでた時にね」
「蘭:そっかぁ。話とかできたの?」
「勝丼:うん。カキ氷売ってたクラスの子だったんだけど、注文取りに来た時にちょっとしたトラブルがあって……」
「蘭:そうなんだ。仲良くなれそう?」
「勝丼:がんばるよ。でも印象は悪くなさそう」
「蘭:そう。よかったね」
よかったね。……言いながら、わたしは少し気分が暗くなった。
「勝丼:これで蘭さんの言う『恋愛をする』に一つ近づけたかな……」
「蘭:それが役立てばね」
心ここにあらずで、言葉を返す。
この時、わたしの脳裏には元彼と今付き合っている元友達、風香が浮かんでいた。
わたしの楽しい時間をその子にとられる!
……そう思ったのはもう少し後のことになるんだけど、とにかくわたしには、彼氏を寝取った風香にトラウマがある。
しかもこの話は、そもそもわたしが言った、
「蘭:恋をすればいい」
に、端を発しているらしいことを知り、なおさら打ちひしがれた。
とにかく勝丼君が言った"一つ下の後輩"が気になって仕方がない。
「蘭:例の子とうまくいってるの?」
つい……会うたびに聞いてしまう。そして、聞くたびに、わたしの心は落ち着かなくなっていった。徐々に近づいていく、彼とその子の距離。
わたしと彼とはどんなに手を伸ばしても、パソコンの画面を通した無限の距離を縮めることはできない。好き、愛しているという意味ではちょっと違う気もしたけれど、この無限の距離の間にその女が割って入ってくる……それが嫌だった。勝手だよね。
そのうち彼は、自分からその子との話をするようになった。焦るわたしの気持ちをよそに、それはそれは楽しそうに。さらに追い討ちをかけて、彼があの街にくる頻度も減っていった。
……つまりはわたしよりも楽しい時間を見つけてしまった……ということ。
ひどい……とは言えない。わたしには何を言う権利もない。当然だよね。こんな、顔もなにもわからない女よりも、目の前で笑ってくれる女の子の方がいいに決まってる。
そう、理屈では分かってる。わたしは表面的にはいいおねーさんを演じ続けた。黙って我慢しながら。
だって、ここで嫌われたら、この宝石のような時間が終わってしまうから……。
でも、ほころぶ日が来た。
クリスマス。わたしたちにとってはただの平日だったのに、世間的に余計な意味をつけた日であったことが悔やんでも悔やみきれない。
「蘭:メリークリスマス。勝丼君」
わたしは赤と緑が輝くその日の夜に、彼が"小さな街"に来てくれたことがうれしかった。彼氏のいない一人暮らし。わたしにとってはとっても空寒いクリスマスだったから。
だからその「メリークリスマス」の言葉にはわたしの気持ちが込められていた。……のだけれど、当の勝丼君は今日がクリスマスであったことすら忘れていたらしい。
「勝丼:あ! クリスマスか!」
驚きようが笑える。
「勝丼:蘭さんはパーティとかやるの?」
「蘭:やってたら勝丼君と会ってないでしょ」
「勝丼:俺も一人だよ」
「蘭:彼女さんは?」
「勝丼:あぁ、うん……えっと……」
「蘭:どしたの?」
「勝丼:うん、ちょっと……」
「蘭:どうしたの。喧嘩でもした?」
「勝丼:あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……家が、夜の外出に厳しいらしくて……」
「蘭:そう……残念だね」
『別れた』って言ってくれたら、いいクリスマスプレゼントだったのに。
……わたしは自分の中の意地の悪さを押し殺しながら、彼と会話する。
その中で、彼は言った。
「勝丼:蘭さんと一緒にパーティしたかったな……」
わたしは一瞬、胸が高鳴った。
繰り返すよ?スキとかじゃない。と思う。でも、うれしかった。うれしかっただけに、つい確かめてしまう。
「蘭:彼女さんの代わり?」
「勝丼:ち! 違うよ! ほら、今俺と蘭さん、お互い一人でいるから、それなら一緒に遊びたいなってことだよ!」
それってやっぱり代わりじゃん。
なぜだろう……心が高鳴ったせいか、彼の言葉を素直に受け止められない自分がいた。
「蘭:無理だね」
「勝丼:ちょっと待って! ホントに彼女の代わりとかじゃないから!!」
「蘭:じゃあわたしはなんなの?」
「勝丼:え……」
二人の空が凍りついた。売り言葉に買い言葉とはいえ、言ったわたしも、思わずキーボードから手を引いてしまう。
わたし、彼の何なら満足なの?……わたしの動揺はそこ。
今、勝丼君には彼女がいる。じゃあ、わたしが望んでるポジションって何?
友達?……うなずく自分がいる。でも彼とわたしの間に彼女が入り込んでほしくはない。
……それって、ホントに友達……?
「勝丼:蘭さんに会ってみたいんだよ……」
真っ白い空気の中、彼がポツリとそう放った。
わたしだって彼となら会ってもいいと思ってる。でもそれは友達として……?
たまに、二人は、会えば、始まっちゃうんじゃないかと思える時がある。それくらい心を許している瞬間が、わたしにはあった。いや、どんどん増えていった。
それがわたしだけの単なる一方通行なら、それも嫌だけどまだいい。お互いが惹かれるようになったら……。
……頭によぎるのは風香だ。
繰り返すけれど勝丼君には彼女がいる。わたしが彼と会うという"危険"を冒すことは、わたしが風香になる可能性が出てくるということになる。
元彼はどうでもいい。でも風香のことはまだ気持ちが許せない。理屈や事実関係云々じゃない。感情的に、ユルセナイ。
勝丼君を”寝取る”ことは、わたしが許せない。
「蘭:無理」
無理……だった。あるいはあの失恋がなければ……。
しかし、勝丼君は……なぜだろう……それを許さなかった。
「勝丼:それって俺がガキだから?」
「蘭:え……?」
「勝丼:いいじゃねえか! そんなに俺と会うの嫌かよ!」
わたしは呆気にとられたが、だからとてくつがえせない。
「蘭:嫌……」
「勝丼:どうして!!」
会えば苦しくなるかも、だからだよ。気付いてよ鈍感!
「蘭:そのどうしてをそっくり返すけど、どうしてわたしがアンタと会わなきゃいけないのよ……」
「勝丼:そんなにか!!」
売り言葉に買い言葉、やりとりは急流に差し掛かったようにエスカレートして……。
そして彼は、言ってはいけない言葉を言ってしまった。
「勝丼:馬鹿でもいい!! 会ってくれよ!! 俺、蘭さんが好きなんだよ!!」
風香!!!!!!!!
……わたしは、そこにいられなかった。
混乱していた。
彼女がいる彼が、わたしに『好きだ』と叫んだ。ひょっとしたらこれと同じやりとりが、元彼と風香の間にあったのかもしれない。結果、わたし、佐久間雪乃は彼も友達も失って深い悲しみに沈んだわけだ。
いけない。自分を貫いたナイフを誰かに振り回すことは、自分を裏切るのと一緒。絶対に嫌だった。
でも……実はそれだけじゃない。いやむしろそれ以上に……
……本当に嫌なのは、その乱暴な告白の瞬間、風香の気持ちが少し分かってしまったところだったのかもしれない。
『好きだ』と言われた。わたしはその時、一瞬呼吸が止まった。それは確かに胸の鼓動が示した、"喜び"だった。
まるで勝丼君の顔、身体、吐息……彼の肉体がわたしの体温を感じるぎりぎりの距離まで近づいてきたように感じ、それが嫌じゃなかったのだ。
実際は決して届かない距離なのだけれど、これが本当に腕を伸ばせば届く距離で同じことを感じた時、わたしは理性を保っていられただろうか。風香は、理性を保てなかったんじゃないだろうか。それが分かるのが、とても嫌だった。
だからこそわたしは誓った。……この関係は、終わりにしなければならない……。
とはいえ、わたしも弱い人間であることには変わりがない。
勝丼君を散々ヘタレ呼ばわりしてるけど、わたしだって威張れたものじゃない。
彼にサヨウナラを言うのに、口実が必要だった。なぜかって、わたしのことを好きと言ってくれた、わたしも好きかもしれない人とお別れするんだよ?……ともすれば情に流されるし、ずるずるいくかもしれない。それを断ち切るのに、わたしにも十字架を科すような口実が必要となった。
だけど、いい方法なんて思いつかない。だって相手はインターネットなのだ。家に帰ればすぐに繋がる環境にあって、生半可な理由ではまた誘惑に負けてしまうし、そもそもわざとらしいウソを突き通す自信がない。
いっそのこと死んじゃえばすべてが解決するのに……。わたしのプアな脳みそが、疲れた挙句に極論を言い始める。
「死んじゃえば……かぁ……」
パソコンの椅子に腰掛けたまま伸びをして、天井を見上げるわたし。
幸い、相手には自分の様子がまったく分からないという特殊な状態。ひょっとすれば大胆な手品が使えるのかもしれない。
……挙句、わたしはわたしを殺すことにした。
あんなに慕ってくれている勝丼君にウソをつく。まったくひどい女だ。
でも本当に、他にいい方法が見つからなかった。自分自身、ひどい女になっても自分を裏切る女にはなりたくなかった。
年の瀬。明後日はお正月。まぁ、何の予定もないけどね。大学も休みだし、初詣に行く気分でもない。化粧したって誰も見てはくれないからすっぴんのまま。……佐久間雪乃二十一歳。……確実にオバサン化が進んでる。
今日わたしはウソをつくことによって、変われるだろうか。前に進めるだろうか。
"小さな街"は今日も晴れていた。昼も夜もないこの街で、わたしたちはたくさんの話をした。
「勝丼:蘭さんは甘いもの好き?」
「蘭:好きだよ」
「勝丼:例えばどんなもの?」
「蘭:餃子」
「勝丼:甘くないだろ!!」
「蘭:あぁ、まぁね。甘くないけど餃子も好き」
「勝丼:餃子かぁ……」
「蘭:餃子なら結婚してもいいくらい好き」
「勝丼:餃子と結婚したら子供も餃子?」
「蘭:そしたら毎日産むよ。酢醤油持参で」
「勝丼:共食いになるだろ!」
……くだらない。一つ一つはとってもくだらないんだけど、くだらない話ができる楽しさっていうのかな……。
生きるのに必要な言葉なんてほんの少しでいいし、業務連絡みたいなもので楽しさのかけらもない。生きることには直接必要のない、無駄な言葉こそ人を楽しませるし、そういう言葉遊びで楽しめるっていうのは、動物の中で唯一、言葉というコミュニケーションツールを持つ人間だけの特権だと思うんだよね。
……そんな時間をいくつも勝丼君と共有して、お互いに、普通の恋とはちょっと違う方向で惹かれていったんだと思う。
実際二人で小説を創り上げることも楽しかったけど、彼はそのやりとりの中で、失恋っていう崖から落ちていくわたしの手を掴んで、拾い上げてくれた。顔も声も何も知らない彼は……いや、顔も声も知らなかったからこそ、元彼の一件で人間不信におちいったわたしも、彼に心を預けることができたのかもしれない。
……そんな彼を煩わせるお荷物にはなりたくない。彼女さんの話を聞いていちいち嫉妬するわたしは、彼を傷つける前に消えるべきだった。
「蘭:クリスマスのこともあったから、いい機会だしハッキリしようと思う」
最後の日、この言葉は自分に向けてつぶやいた。わたしはその言葉で、自分の感情にもやをかけた。
キライな食べ物を息を止めて食べるように……とにかく、感情が働いたらまともに会話なんてできないわたしは、自らの心を遠くへ追いやるためにそうした。……その目はさぞ冷徹であったことだろう。
勝丼君はいろいろな声を発していたけれど、私には届かなかった。
「蘭:勝丼君。わたしもう、ここで勝丼君と会うのやめようと思う」
言った瞬間、彼の勢いが止まる。わたしに見えているのは基本無表情なミニキャラだ。彼が今画面の向こうでどんな顔をしているのかは見当もつかなかったけれど、とにかく、その時の沈黙はまさに潮が引くようだった。
「蘭:もう会いたくないの」
「勝丼:どうしてだよ! ちょっとわがまま言ってみただけだろ!?」
そう、そのわがままが彼女さんを殺すんだよ。
やめようね。一足先に悲しい思いを経験しているわたしが、新たな悲しみを作り出さないようにしてあげなければならない。
「勝丼:理由を……聞かせてくれよ。俺、納得できないよ……」
うん、聞かせてあげるよ。とっておきのウソを。
「わたし……ガンなの」