大きな気持ち
蘭さんは、数多くのやりとりの中で一つ、宿題を出してきた。
「蘭:恋愛をしなさい」
頭痛も痛くなる(?)難題だ。ゲーム三昧だった俺にとっては、リアルの誰かと恋愛するなどという行為は、強大な龍を召喚することよりも、はるか遠い大陸での出来事といっても過言じゃない。
もちろんリア充に憧れたりはするが、そこにはもともと相手の好感度が百点中九十点以上あることが前提。でなければ振られて、あとでなんかいろいろ陰口叩かれるのが怖くて、そんな話に持っていくことなんてできたもんじゃない。
確かに蘭さんの、
「蘭:小説のことはよく分からないけど、恋愛の気持ちがよく分からないのに恋愛モノなんて書けるの?」
から始まった発言の説得力はもっともなんだけど……。
怖いよな。怖いよ。俺は決して自分に自信がある人間じゃない。クラスで女子を見れば、ケラケラ笑ってる女子が……というか、その女子たちのネットワークはすごく意地悪そうに見えて、あの喧騒がまるで地雷地帯にすら見える。
例えば告って、
「ごめんね~」
となるだけでもショックなのに、
「昨日勝巳に告られちゃったよ」
「うゎ、キモ……」
「キャハハハハ!! 里美(仮名)モテ期ーーー!」
「やめろって。家帰ってから塩まいたし」
……うん、高校生活終わるわ。
ネガティブすぎなのかもしれないが、あのケラケラはモテる気配のない俺にとっては、むき出しのナイフくらいの脅威がある。
……とはいえ、蘭さんは気にした。小説を書き進めることと同じくらいのウェイトで、ことあるごとに「いい子はいたか。気になる子はいるか」と聞いてくる。
なんでそんなに恋愛を気にするのか分からないけど、繰り返しそういう言葉に頭を叩かれるうちに、蘭さんの期待に応えられないと「また努力してない!」と、見放されるんじゃないかとすら思い始めていた。それは絶対にイヤだ。
この小説、『あの空に繋がるまで』を通じて、あの人は俺に、本当はイヤだったはずの、つらい失恋話まで晒して協力してくれている。それが小説のためにせよ、俺のためにせよ、俺に対してこんなに一生懸命になってくれる人が、今まで他にいただろうか。
俺がどんな阿呆なことを言っても必ず真剣に親身になって考えてくれる。俺よりも少し多く生きているだけなのに、俺よりもはるかにたくさんのことを経験しているように思えたし、それを彼女は惜しげもなく自分に披露して、導いてくれた。
もはや蘭さんは俺の生きる道しるべだったってこと。少し大げさかな。いや……。
本当はこの時、気づくべきだった。……俺は、この蘭さんをこそ、想い始めていたことに。
でもあの時の俺には、そこまでの感覚も余裕もなかった。
蘭さんの期待に応えるために、ゲームをすべて封印して執筆に明け暮れた。世の中の誰もが評価してくれなくても、彼女が「いいんじゃない?」と言ってくれればいい。俺はこの『あの空に繋がるまで』という小説で、まさに彼女に繋がるまで、遠く遠く、その手を伸ばしはじめた。
でも、それだけじゃ彼女からの要求に応えきることができない。彼女まで手が届くために、俺は恋をしなければならなかった。この際ウソでも。
どうせ会うこともできない、実際の俺を見ることもできないチャットなのだ。バレはしないだろう。
俺はある決意を固めて、"小さな街"の一角、いつも蘭さんと待ち合わせをしている、港の見える丘の公園に向かった。雨の降ることがないこの街には、今日も見渡す限りの青空が広がっている。
「勝丼:蘭さん、おはよう」
俺の呼びかけに振り向く蘭さんのアバター。ずっとおなじ服。ヘアピンのついたショートカット。少し眠そうだけど大きな目。無料アバターは貧相に見えるんだが、今の俺にはそんな彼女でさえもおしゃれに見えたし、そこから勝手に画面の向こうにいる蘭さんを想像していた。
「蘭:アンタのせいで風邪引いた」
「勝丼:え?」
「蘭:冗談。学園祭は楽しかった?」
「勝丼:うん。暑かったからカキ氷の店が長蛇の列だった」
「蘭:昼は暑いくらいだったのにね」
そう、この日は昼の暑さのわりに夜になってぐっと温度が下がった。おかげで、軽装だった俺たちは夜の打ち上げの際、肌寒さに震えたものだ。
思えば十月なんだから当然で、逆に昼の暑さが異常だったのだが。チキューオンダンカってやつ?たまに季節に合わず暑い日とかあるよな。
「勝丼:それでさ、蘭さん。その時、いいなって思う人がいたよ」
実際にはオンダンカはどうでもよく、学園祭の話を幸い、俺は反射的にそこに繋いでみた。
「蘭:え? ホントに?」
「勝丼:うん。一つ下の後輩なんだけど、さっき言ったカキ氷屋に並んでた時にね」
意外に、ウソがするすると出てくる。
「蘭:そっかぁ。話とかできたの?」
「勝丼:うん。カキ氷売ってたクラスの子だったんだけど、注文取りに来た時にちょっとしたトラブルがあって……」
「蘭:そうなんだ。仲良くなれそう?」
「勝丼:がんばるよ。でも印象は悪くなさそう」
「蘭:そう。よかったね」
「勝丼:これで蘭さんの言う『恋愛をする』に一つ近づけたかな……」
「蘭:それが役立てばね」
そして蘭さんは、めずらしく俺の言葉を待たずに続けた。
「蘭:ちょっと今日は病院に行ってくる」
「勝丼:どうしたの?」
「蘭:だから風邪だってば」
「勝丼:さっき"冗談"って……」
「蘭:"アンタのせいで"が、冗談だよ」
「勝丼:悪くないといいね」
「蘭:だるい」
「勝丼:無理してチャットしなくてもいいから」
「蘭:約束した時間に来ないとアンタがまた騒ぐかなと思った」
「勝丼:……ありがとう」
俺は小説の続きを握り締めていたが、それを心に隠して蘭さんを見送る。
その背中は、彼女のログアウトとともに、風に溶けるように消えていった。
不思議なもので、小説というものは描いてみた時は『ものすごくいいものができた』と思っても、すべてを読み返してみると、『なんじゃこりゃ?』と思う部分が必ず出てくる。とくに俺の場合、初期のデキがあまりにアレだったのもあって、それは顕著だった。
最近気になるのは恋愛描写のへたくそさ。
……なんというか、淡い恋的なものを描くとしたら、例えば白に近い桜色の色えんぴつで、なでるようにやわらかい表現を扱えばそれが伝わりそうなものなのに、俺がしてるのは赤いクレヨンで塗りたくって「さぁ! ここで好きになったよ、ハラショー!!」のような極彩色的表現。
これに徐々に気づき始め、推敲のたびに頭を捻って表現を変えてみてる。でも実際は相当に難しく、繊細に揺れ動く感情を如何に描くかが、恋愛モノの筆者たちの工夫のしどころなのだと痛感する。
工夫といえば、蘭さんはある時言った、
「蘭:この小説ってぜんぜんロマンチックじゃないんだよね。事実はわからなくないんだけど、もうちょっとムードを高めてほしい」
「勝丼:また訳の分からないことを……」
「蘭:恋愛モノ描きたいなら女の読者意識しないでどうすんのよ。恋愛モノは男の人よりよっぽど大好物だと思うよ。なら、ムードは絶対だと思う」
……これだ。
女の読者が"大好物"になる小説を描くって、どうすればいいんだろう。
俺はその答えを、少女マンガに求めてみた。人気のある恋愛モノの少女マンガに目を通せば、あるいは分かるかもしれない。
そう思って古本屋へ……。
いやしかし、そこは思った以上の魔境だった。少女マンガ売り場はピンク色の背表紙が並び、中学生くらいの女子がぽつぽつと立ち読みをしている。まずここに身をゆだねるバツの悪さに小一時間。これ、同じ高校の女子に見られたら高校生活終わるんじゃないか?
……ピンクの闇が広がるその空間を一度抜け出して、作戦会議に入った俺は、苦肉の策を思いついた。
……地元から離れよう……と。
電車で隣町まで行けば、ちょっとくらい変態扱いされたって二度と会うこともないだろう。そう信じて古本屋の場所に目星を付け、俺はとうとう少女マンガの前に立った。
そしてさらに一時間。
……俺、すっかりピンクの闇の毒気に冒されるの図。
……いろんな意味でかなわねえ……。
女子が恋愛モノに求めているものは、男のそれとはだいぶ違う。なんか、女性向けの恋愛モノは、作者が「こんな男にこんな風にされたい」といった願望を色濃く描いているように思う。
その機微は男には分からない。物語としては理解できても、そのこだわりというかフェチというか……そういうものが存在しない限りは自分の色として盛り込んでいくことは困難だった。恋愛モノって難しい……。
それを言うと蘭さんは笑う。笑いながら、
「蘭:それは確かに困ったね」
「勝丼:どうしたらいいかな」
「蘭:うーん……」
「勝丼:やっぱ俺、恋愛小説向いてないのかな……」
蘭さんがどう言うかを聞きたくて、俺はわざと大きく踏み込んでみる。
しばらく蘭さんのアバターは無表情のまま、でも画面の向こうでは首をかしげて考えてくれるものと思って、俺はしばらく待っていた。やがて、アバターがほんの少しだけ角度を変えた。
「蘭:そんなことないんじゃない? 少女漫画がわからない人だって、恋はするでしょ。どんなことでも、誰かに届けようって気持ちが一番大切だと思うよ」
俺は、微笑んでしまった。文字でもそれを伝える。
「勝丼:あはは」
「蘭:ん? どうしたの?」
「勝丼:そこは、「君には才能があるから大丈夫」って言ってほしかった」
「蘭:あら、気が効かなくてごめんなさい」
「勝丼:うわっ、棒読み!」
「蘭:わかる?」
「勝丼:悲しくなるほどに」
「蘭:芽吹く前から才能なんてわかんないよ。花開くかはアンタ次第でしょ。ま、がんばって」
「勝丼:うへぇ、丸投げ」
「蘭:丸投げならこんなに何度も何度も同じ小説読んであげないよ……」
「勝丼:そうでした。スンマヘン」
……こんなやりとりが最近、楽しくてしかたない。
それにしても、
「蘭:例の子とうまくいってるの?」
この質問は困ってしまう。なにせ『架空の恋』なのだ。俺は小説を進めるのと同時に、この架空の恋のシナリオを練って蘭さんに会わないといけない羽目になった。
「勝丼:うん。話してみたら結構話が合うんだよ。趣味が近いのかも。今度遊びに誘ってみようと思う」
「蘭:最近、表現がうまくなってきたよね。そういう実生活の変化みたいなのが役立ってるのかなぁ」
そうじゃない。俺を変えてるのは『架空の恋』なんかじゃなかった。純粋に小説に賭ける時間の濃さが違う。それがきっと、成果になって現れ始めたってだけだ。
いや……あるいは『架空の恋』のおかげだったのかもしれない。実はそのことにちょっとずつ気づき始めた自分がいる。
俺は本当に『架空の恋』をし始めていたことに……。
「蘭:彼女さんはどう?」
「勝丼:うん、おとといの日曜日、水族館に行ったんだよ」
「蘭:まんぼういた?」
「勝丼:まんぼう? まんぼうって、あのでっかい顔だけみたいな魚?」
「蘭:わたし好きなの」
「勝丼:そうだったんだ! 写メ撮ってくればよかったね!」
もちろん、本当は行ってないから撮れないのだが、蘭さんが喜びそうなことは何でも言ってみようと思った。
「蘭:まんぼうはね。フラッシュ撮影ダメだからね」
「勝丼:そうなの?」
「蘭:臆病だからストレスになっちゃうんだって」
「勝丼:詳しいな」
俺の振った話題に蘭さんが乗ってくれるとうれしくなる。
「蘭:地元にイルカの養殖に成功してる水族館があるの」
「勝丼:蘭さんは水族館好きなんだ」
「蘭:大好き」
そうか……。
「蘭:その水族館の常連さん」
「勝丼:そんな好きなら、今度どこかの水族館に行ったら、おみやげ買ってきてあげる」
「蘭:アハハ、どうやって送ってくれるの?」
「勝丼:住所教えてくれたら送るよ」
「蘭:何言ってんだか……」
住所……、蘭さんの住んでるところはどんな空が広がっているんだろうか。
「勝丼:なぁ、今日は蘭さんの話を聞かせてよ」
「蘭:なにが聞きたいの?」
「勝丼:なんでもいいよ。蘭さんの話が聞きたい」
俺は、気がつけば必死に腕を伸ばしていた。どこへ?方角なんて分からない。蘭さんの方へだ。
顔も知らない。名前も知らない。声も、しぐさも、髪の長さも、身体の大きさも、指の長さも、どんな服を着ているのかも……なにもわからない。
だからなおさら、想像の中での蘭さんが雪だるま式に膨らんでいくし、美化されていく。
そんな蘭さんが不器用そうに自分のことを語り始めれば、他愛もない話でもすべてを胸に刻みつけようと思った。
大学二年生、親元を離れての一人暮らしで、もともとは山梨に住んでいたこと。今は神奈川に住んでいること。餃子とまんぼうが好きなこと。
父方は代々武士の家系。母方は代々ガン家系。いとこに三つ子がいて、今もどれが誰だかわからない。
……話題、話題のパーツを組み上げて創り出す蘭さん像。でも足りない。いくら聞いても彼女に手が届く気がしない。
会いたい……会いたい……会いたい……、
これを恋と呼べるのか……その時の俺にはわからなかった。
彼女はもはやかけがえのない人だし大好きだけれども、この文字だけの関係が普通に考える恋とは違うものであることは分かっている。
蘭さんの言葉に支えられた。蘭さんの言葉で、俺は変われた。でも、いくら手を伸ばしても届かないこの距離を越えて、俺の気持ちは確かなものなのだろうか。
だからこそ、それを確かめたいからこそ、なおさら蘭さんに会ってみたくなった。しかしだからとて、「好きだから会ってくれ!」などとはとても言えない。この関係が大切だから、変なこと言って気まずくしたくないから、俺には、直球を投げることはどうしてもできなかった。
その代わりの言葉を、ずっと探していた。そしてある日、俺は決心する。
「勝丼:なぁ蘭さん」
「蘭:何?」
「勝丼:もし、この小説をなにかのコンテストに出して、どこかで表彰されることがあったら……その表彰式には……蘭さんも来てくれるかな……?」
「蘭:アハハ、約束するよ」
……この日ほど、うれしかった日はない。