小さな兆し
……………………
敏史は歩美に言った。
「ビーチボール買ったよ!」
浮気現場を目の当たりにされてもなお、彼は歩美を夏の伊豆に誘うようだ。
「パラソルも買ったから遊びつかれたら二人でゆっくり休もうよ」
まるで、あの日のことなどなかったような浮かれように、歩美は言葉を失っている。
「あ、砂場で棒倒しがしたくなった時のために棒倒し用の棒も買っといたよ」
「棒倒し……?」
「あれだよ。砂で山を作って、棒を倒さないように山を崩していく遊び、知らない?」
「知ってるわ。でもあの棒って売り物だったの……?」
「売ってたんだよ、通販サイト『やっほーショッピング』で。倒れそうになると警告音とともに自動復元装置が働くタイプ」
「復元するの?」
「ほら歩美、不器用だし、何度も倒しちゃうと落ち込んじゃうかもしれないだろ。歩美を悲しませたくないんだよ」
「優しい……」
「そう言ってくれるならよかった。あれ九万八千円もしたんだよ」
歩美は胸がジンと熱くなった。あたしのためにそんなに気を使ってくれるのか、と……。
「俺、歩美と実夏、どっちともうまくやってけるようがんばるよ!」
……………………
「蘭:最低だ! この男最低っっ!!」
断固抗議するわたし。
というか、ツッコみたい部分が多すぎてめまいがしそうだったのだけど、最後の台詞で全部吹っ飛んでしまった。
「蘭:何様なのよこの男は!!」
「勝丼:蘭さん、落ち着いて……」
「蘭:落ち着いていられると思う!? なに? 公認で二股かけようっての?」
実はラストを変えるために、勝丼君はその小説の描き直しを行っている。かなり大幅に変わっていて、あらためて別の小説を読んでいるような気分になっているのだが、
「蘭:親が金持ってるからって訳の分からない棒まで買って!」
「勝丼:蘭さん、こういう男キライなんだな……」
「蘭:あたりまえでしょーー!! 恋愛なんて、わたしだけを見てよ! なのよ!! わたしが歩美だったらバンバンバーンって往復ビンタしてそのまま帰る!!」
「勝丼:あはは。よかった」
「蘭:なにがよ!!」
「勝丼:蘭さんがそんなに一生懸命になってくれる小説になってきたのかなって思って」
「蘭:え……?」
「勝丼:始めのほうなんて、展開云々じゃなくて、物語的にどう壊れてるかばっかりだったからな。それを思えば少し前進してる気がしてちょっとうれしかった」
……。
わたしは少し言葉を失い、取り繕うように「まぁね……」と入力してみた。実際の気持ちは「ま、まぁね」と、もっと慌てたものだったかもしれない。
「蘭:まだまだだと思うから、のめりこむのはまだわたしくらいかもしれないけれど、それでも……ウン……わたしだってこの話がいい話になったらいいなとは思ってはいるし」
「勝丼:ありがとう。蘭さん」
…………。
胸が、一瞬、透き通ったような感覚がした。単なる文字の羅列。何の感情もないであろうその"ありがとう"が、優しく、暖かく、まっすぐ胸に飛び込んでくる。
「勝丼:俺、蘭さんと会えてよかったなって思ってる」
そのおかげでわたしは声も出ない。当然、キーボードにふれる指も、動かない。
「勝丼:悪いけどこの小説だけは最後まで手伝ってな。俺、この小説が有名にならなくてもいいって思ってる。蘭さんのためにも描き上げたいんだ」
「蘭:馬鹿じゃないの?」
指が、やっと動いた。
「勝丼:馬鹿でもいいや。昔に比べてもちょっとましな馬鹿になったろ?」
「蘭:馬鹿……」
なにその大人びた発言は……。
「勝丼:そんな馬鹿に一つ、教えてほしいことがある」
「蘭:なに?」
「勝丼:蘭さんがどんな恋をしたか……教えてくれないかな」
「蘭:え!?」
……わたしはさっきとは別の意味で絶句した。
「勝丼:俺、やっぱり近場でまだそういう気持ちになれなくてさ……。それでもこの小説をいいものにするために、恋愛を経験した人の話が聞きたいんだよ」
その言葉に、わたしはスローモーションをかけられたかのように心を鈍くする。聞いてるけど聞こえないというか、見てるけど見ていないというか……うまく言えないけれど、たぶん自己防衛本能。
ローマ字入力の手順を忘れた手が、動きを完全に止めていた。
「勝丼:もちろんしゃべりづらいことは言わなくていいから……お願いできないかな……?」
だってわたし、その話から逃げるためにここに来てるんだよ?ここにくればそのことを忘れることができたから。キミの小説を読みながら、わたしは別の、奇天烈な恋愛に生きていたから……。
「勝丼:蘭さん?」
夢から叩き起こされた気分だった。今、彼はわたしがどんな表情を浮かべているか、見当もつかないだろう。わたしも鏡は見たくない。
……あの恋には追い討ちをかけた後日談がある。
キーワードは別の女、それがわたしの友達……これで八十パーセントは語り尽くしたようなもの。
キャンパスの一角でいちゃついてた二人を見たわたしは、一瞬で胃に大穴が開いたかと思った。口を押さえて二人に見つからないように早足で別の道を行き、壁にもたれかかる。
身体の中に湧き上がった黒いわだかまりが、内臓を荒らしてずんと重くなる錯覚に見舞われたまま、わたしはしばらくそこから動くことができなかった。
涙も出ない。ただ、激しい怒りがこみ上げてくる。
彼氏に……ではない。友達だと思ってた女、美作風香。
わたしは彼に関するさまざまな相談や雑談の相手をあの子と定めていた。もちろんパンツ切られた話なんかはしないけれど、わたしがどんなに舞い上がってあの三ヶ月を生きていたかは彼女が一番知っていたはず。
それが……夏が過ぎたらいつの間にか彼女とわたしがすり替わっている。その間、わたしには一言の相談もなしだ。
ありえない……。
黒いわだかまりに冒されていく頭で、わたしはいろいろなシナリオを思い浮かべた。
二股?……わたしが付き合ってること知ってて風香も付き合いを始めたの?
それとも彼が風香にそそのかされた?……いや、その逆……?
「どうなの!?」
その夜、這うようにしてアパートに戻ったわたしは、携帯電話に叫んでいた。
「どういうことか説明してよ!!」
「そう言われたってしかたなかったんだよーー」
申し訳など、これっぽっちもなさそうな間延びした声が返ってくる。
「言っとくけど、付き合いはじめは雪乃が別れた後だから。だからそんなに怒られてもあたしも困る」
「アンタがそそのかしたんじゃないの!?」
「違うよぉー……」
あまりの剣幕に、さすがにしおらしい声をくれるが、わたしは構わない。
「じゃなくたって、普通の神経してたらそのタイミングで付き合わなくない!? どんな振られ方したか知ってるでしょ!?」
「あたしだって言ったんだよ。雪乃と付き合ってるよね? って……。でももう別れたって言うし……あたしだってちょっといいなって思ってたし……」
「やっぱりアンタじゃん!!!」
アンタが存在しなければわたしたちが別れることはなかった……わたしの声にそんな怨気が混じり……。相手もそれを察したらしい。あちらの声も怒気に包まれた。
「付き合ったのは別れた後なんだから、雪乃にそんなこといわれる筋合いはないよ」
「馬鹿じゃないの!? そんなの落とし主が分からないお財布だから中身もらっちゃおっていうのと一緒だよ!!」
気がつけば理屈にも合わないことまで叫び始めていた。……売り言葉に買い言葉。風香もそれに付き合ってくれる。
「なにが悪いのさ。どうせ他の人が拾って使っちゃうだけじゃない」
「それが近い友達のものでも!?」
「財布ならそうだけど、彼は雪乃の所有物じゃないよ」
幾分冷静な風香が、混乱しているわたしの屁理屈を次々と打ち崩してしていく。
そうじゃない。そうじゃない……とは思いつつも、彼女を説得する言葉が出てこない。いや……。
本当は、説得する言葉なんて、ない。
風香はなんらルールは侵していないのだ。モラルの問題はあっても、今のわたしに糾弾できる要素はない。
最後には黙って携帯を耳から離すしかなかった。よくある話?……冗談じゃない。わたしは彼氏と友達、両方を一度になくしてしまった。その絶望感といったら……。
……後に残ったのは、電話をしたことへの後悔だけだった。
「勝丼:気に障ったんならゴメン。もう聞かないから、なんか言ってくれないかな……」
頭がフラッシュバックしすぎてチカチカチカチカ……。わたしは勝丼君と話をしていたことさえ半ば忘れていた。
大きく深呼吸。横隔膜が泣いたあとのように震える。
「勝丼:ゴメン、ほんと……。だから戻ってきてよ……」
文字からでも分かるくらい彼は動揺していた。わたしはもう一度深呼吸をすると、
「蘭:おなか痛くなったからトイレ行ってただけだよ。ちょっとわたしがいないくらいでそんな情けなくならないでよ。男の子でしょ?」
まくしたてる。
「勝丼:だって俺、蘭さんいなくなったらどうすればいいのか……」
「蘭:大げさ大げさ。会ったことないわたしなんていてもいなくても一緒だよ」
「勝丼:会ったことないとか、そんなに大事なことかよ」
「蘭:え……?」
一転、勝丼君の言葉からブレが消え、わたしの発言の勢いを止める。
わたしがそれに答えられずにいると、今度は彼の方がまくしたててきた。
「勝丼:蘭さんの顔も声も知らないけど、俺は蘭さんがいるから変われると思ったんだよ。蘭さんに怒られて、蘭さんに励まされて、そのおかげで人生も変わっちゃうかもしれないんだよ? 変わるんだとしたら俺を変えたのは会ったこともない蘭さんなんだよ?」
「……なによ……」
今……わたしが説教してたんじゃないの……?
呆気にとられている先で、勝丼君のミニキャラが空を仰ぐ。
「勝丼:これから先、一生に一度も会えないかもしれなくても、今、この"小さな街"には、確かに俺と蘭さんがいて、同じ空で繋がってる。俺は本当にそのことに感謝してるんだよ。蘭さんがこの街に来てくれたことに。蘭さんとこの街で会えたことに」
「……」
「勝丼:……俺にとって蘭さんはいてもいなくてもいい存在じゃない。会ったことあるとかないとか関係ないよ。今の俺には蘭さんっていう人が必要なんだよ。いてもいなくても一緒とか言うな!」
「……」
目頭が熱くなった。一瞬、大好きだった元彼と友達の姿が頭をよぎる。
……わたしははたして、彼らにこれほど必要とされていただろうか。
なんだろう……「いらない」と捨てられた人形を、焼却される直前に抱きしめられた気分だった。
顔も知らない勝丼君の胸が、寒い焼却場の隅で芯まで凍りついていたわたしの心を溶かしていくような、そんな感覚が、元彼と風香を上書きするように胸によぎり……、
深呼吸。胸が震えた。……涙腺から、頼んでもいないのに涙がこぼれだす。でも、それを悟られたくはなかった。幸いチャットだ。わたしの指が軽快に動き出す。
「蘭:長い長い。もっと言いたいことは端的にまとめなさいよ。小説家でしょ?」
「勝丼:ゴメン……まだヘタなんだよ」
わたしは泣きながら、まるで気にしてないことのように文字を並べていく。
「蘭:わかった。わたしの恋愛なんかが役に立つなら話してあげる」
「勝丼:え? いいの?」
「蘭:くっだらない話だよ? まぁだけど、それでこの小説が少しでもマシになるんならしかたない」
それが、暖かい涙をくれたキミへのお礼になるのなら……。
「勝丼:マシって……」
「蘭:マシにしなさいよ。アンタが何を言ったって、わたしだっていつまでもこのチャットにこれるかわかんないんだからね」
わたしは「ちょっとお茶とってくるね」と書き残し、そのウソで与えられた時間で、涙に震える心を落ち着けようとする。
目を、閉じてみた。
……話すならちゃんと話したい。訳の分からない話にならないようにしなきゃ……。そのためには、自分に対して、過去に対して……とにかく冷静にならなければいけない。
しばらく……しばらく……目をつむったまま、心が透き通っていくのを待つ。それはほんのひと時だったはずなのに、静かに開いたわたしの目に飛び込んできた"小さな街"の青い空は、さっきとはまったく違って、やけに広く見えた。
それから、わたしは長く長く……話し続けた。
ホントは誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。わたしは体の膿を全部吐き出しているのかと思うほどに、言うつもりのなかったことまでを書き連ねている。
画面の向こうの勝丼君は聞いているだろうか。飽きて向こうでゲームを始めてしまったかもしれない。
それでも……わたしは吐き出し続けた。
舞い上がるほどにうれしかった気持ち、なにも見えなくなるほどの幸福感。崩れ去るような絶望感、友達をなくすほどに当り散らさなければ収まらなかった怒り。悔しさ。
……どれほどの時間を費やしただろう。
わたしの気が済んだ時、キーボードを打ち続けていた両手は、自分の意思とは別に、机からこぼれ落ちた。
長い間、時間が止まったようになる。画面の中の"小さな街"はよく晴れていて、胸のすくような青空が広がっていた。
なんか……彼のためとか思いつつ、結局自分のための時間であった気持ちになった。ぶちまけた膿は、あまりに臭く、汚すぎる。長い間、"小さな街"は静寂に包まれていたけれど、わたしはその時、彼が途中で飽きて別のことをはじめていても仕方がないことだと思った。
でも……勝丼君は、いた。
……いてくれた。
「勝丼:俺の物語の軽さがよくわかった」
ポツリと返ってくるその言葉……。わたしはまた、救われた気になる。
「勝丼:蘭さんが、実際に恋をしてみろって言ってくれた意味もよくわかった」
わたしは、そのポツリポツリを聞きながら、返す言葉を探していた。
「勝丼:まいったな……こりゃ……」
でも、その時は思いつかなかった。『聞いてくれてありがとう……』なんて言えない。
結局、その後もいろいろポツリポツリがあったけど、ようやく落ち着いたわたしは、
「蘭:役立つなら光栄」
とだけ告げた。
「蘭:ねぇ、ここの、"違和感を感じる"って日本語としてありなの?」
「勝丼:あー、思わず使ってたけどどうなんだろう」
「蘭:あとここ、"雑踏に踏み込む"」
「勝丼:うん。調べてみる」
「蘭:それと、これはいくらなんでもダメでしょ。"胃が腸捻転になりそうだ!"」
「勝丼:やっぱり? あはははは」
「あはは」とは書かないけど画面の前で笑うわたし。勝丼君は書き込んだけど、画面の向こうでは本気で笑っただろうか。
「蘭:あとさ、略すのってどうなんだろう。"この間"を、"こないだ"って描いてあるけど、ちゃんと書いたほうがいいのかも?」
「勝丼:めんどいも……」
「蘭:それくらいやれ!」
「勝丼:あ、そうじゃなくて、"めんどくさい"を、"めんどい"とも描いてるけど……」
「蘭:いいのかなぁ、読者が分かれば」
「勝丼:そこはいいと思ってみた」
「蘭:じゃ、いっか」
「勝丼:まーー、大丈夫だろ」
「蘭:あ、だけど、"MK5"みたいなハヤリ言葉は微妙じゃない? 十年後わからない人もいるかもよ」
「勝丼:十年後にこの小説誰かが読んでくれるかな……」
「蘭:心構えの問題だよ」
なんだかんだ……何度も何度も話し合って、今になってもまだ『あーでもない、こーでもない』といい続けている二人。気がつけば、窓を全開にして風を感じていた季節はとうの向こうへ過ぎ去って、紅くなった木の葉も寒さに震える季節になっていた。けれど、"小さな街"で物語をこねているわたしたちはそのことにすら気付かない。
最近、小説談義を終えたわたしの心には不思議な充実感がある。わたしが描いているんじゃないのに、まるで勝丼君と一緒に一つの大きなものを創っているかのようで、小さな画面の中に納まっている"小さな街"の存在は、わたしの中でどんどん大きなものになっていった。
たぶん、当の勝丼君よりも登場人物の敏史や歩美に思い入れがあったと思う。彼の物語を受け取るたびにワクワクしたし、そのうち彼が来ることにワクワクしていったし……だから、大学で元彼が風香と一緒に歩いていてもどーーーでもよくなっていた。
勝丼君も似たような気持ちでいたと思う。だって彼は結構なスピードで続きを描き、手直しをし、わたしを待っていたから。きっと今、彼も描くのが楽しいんだろうなと思える。
でもお互い学校をサボらないのは約束だった。だから勝丼君がテストで忙しい時はわたしもおとなしく待ったし、月曜日はわたしが遅くなるけど、彼が不機嫌だったことはない。
ついでに、彼の学園祭の日も、彼は「遅くなるからたぶん無理」と言ったのに待ってしまい、挙句に画面の前で眠ってしまった。
その日は思いのほか寒くて、大風邪をこじらしたりもしたけれど、とにかくそれくらい、わたしは彼と会うことが楽しくなっていた。