小さな恋の終わり
だが、そんなわたしのやわらかい感情は、次の一言で一変する。
「勝丼:蘭さんは誰かと付き合ってるの?」
「蘭:え……」
キーボードに触れる手が一瞬だけ震えたが、もちろん相手には、それは見えない。
どんな言葉を並べようか……何度か書いては消して、最後に「別れた」としてenterを押した。
「勝丼:最近?」
「蘭:……うん」
「勝丼:ごめん、聞いちゃいけなかった?」
「蘭:いいよ別に……」
それより、そんな気遣いのできる思考回路があったんだね、アンタに。
「勝丼:蘭さんを振る男なんて大したことない」
……勝丼君のその言葉が頭で反芻される。
「勝丼:あ、いや、蘭さんが振ったのかな。大丈夫だよ。蘭さんならもっといい人が見つかるから」
……うるさいな……。
このことについてはどんな言葉も聞きたくない。だから強引に話を打ち切りにかかる。
「蘭:アンタが気にすることじゃないの。とにかくアンタは恋してくること……約束だからね」
……思えばこの時の無茶な指示が、二人の分岐点となった。
勝丼君に遅れて三週間。わたしの新学期も始まった。
親元を離れて一人暮らしの大学生活で、通学は自転車でできる距離だ。しかし、そんな近い距離がどうにも遠い。
必修科目の大講堂、わたしの三列下の右斜め十七度に、意識をせずにはいられない同級生の後頭部がある。
少しパーマのかかった、ウェービーな髪の毛がジャニーズを意識してますか?的な長さで流れており、ライトブラウンに染まって、女を挑発する仕様に仕上がっている。
まつげは長くて、ほんの少し垂れ目の目力は強くて、顎はしゅっと整っていて……くやしいけど、かっこいい。
そんな憧れを抱きながら、始めの一年は彼の横顔をひたすら見ているだけだった。声なんてかけられず、正面の顔だってまともに見られず……。彼の方だって「あんな女子もいる」くらいの認識しかなかったと思う。
それが、ほんの偶然、電車で一緒になって、ほんの偶然、お互いの話題が合って、そこから少しずつ話すようになって……。
でも、ゴミだらけの富士山だったんだよね。彼が……じゃない。わたしが。
二年の始めにお酒に任せてぶち撒けてみたわたしの気持ちを、彼は受け止めてくれた。人生であれほどお酒に感謝したことはなかった。え?未成年?……一浪生は二年で二十歳なのよ。あの人もそう。
だけどわたし……佐久間雪乃っていう富士山を登り始めた彼にとっては、石と岩ばっかりのツマンナイ女だったらしい。
三ヶ月……たった百日。わたしの夢は終わった。
「ゴメンな。雪乃は違った」
彼の、別れ話の切り出し方だ。
「なにが……?」
その言葉……自分の背中が、まるでガラス細工だったかのようにひび割れて崩れる感覚さえした。
「三ヶ月付き合ってみたけど、雪乃は俺のフィーリングと違う」
平然と……彼は涼しい顔をしたまま、わたしの心を切り刻んでいく。
「だから別れよう」
「待ってよ! なんかおかしいとこがあれば直すし!」
キャンパスの噴水の前、夏休み直前の前期テストの記憶も内容も全部が吹き飛ぶような必死さで彼に詰め寄った。
「ねぇ、やだよ。別れるのなんて。わたし……いやだよ!」
「そういうのが重いっつーの。俺はもっとライトなつきあいがしたいのよ」
「……」
言葉が出ない。声を出したいのに、言葉にならない。
三ヶ月前、彼がわたしを受け入れてくれた時は本当に天にも昇るようだった。うれしくてうれしくてうれしくて、彼の言葉はその一言一言が神様みたいで、耳に入るたびに心臓の上辺りがカッと熱くなって呼吸が浅くなった。
……そんな具合だから、わたしは彼のすべてを受け入れた。なにをされてもなすがまま。彼がよければ何でもよかったし、実際それでわたしは幸せだった。
気持ち悪くてストーリーもよく分からないゾンビでろでろな映画も、二人で見れば乗り越えられたし、Hの時お気に入りの下着にハサミを入れられた時も彼なら許せた。
そんなわたしだよ……?こんなに濃厚に付き合わされたのにライトがよかったって言われても……。
余計なことを言って彼に嫌われたくなかったから失言もなかったはず。あれかな。あの時笑いすぎたのかな……。
なにが悪かったんだろう。なにが悪かったんだろう。
……頭の中で、ぐるぐるぐるぐるこの三ヶ月の記憶が回ってミキサーのようにかき混ぜられていく。なにがライトなのかも分からないまま、彼にまとわりつきたい気持ちを必死で抑えて、でも、彼にできる限り顔を近づけて、つんのめるような体勢で言った。
「わかったから。ちょうどいい感じでつきあう。……ね?」
「いや、もういいよ」
「よくない!!」
わたしの三ヶ月はそんな一言で全否定されるほど軽くない。彼はどうだか知らないが、わたしにとっては初めて肌を合わせた男なのだ。それだけ心を開いた人なのだ。
ねぇ、だからお願い!わたしにもう一度……!!
「……ハァ。やっぱ重いわ」
「え……」
……その時……彼からこぼれたさりげない言葉が、石の飛礫のようになって、わたしの心を押し流した。ずっと心を支えてきた何かが崩れ、わたしの頭が、がくんと落ちる。
…………これか……。
……視線から彼が消えて、黒くて冷たいアスファルトが見える。
重いって……これか……。
でも、重くないってなに?そこまで好きにならないで付き合えってこと?
好きになったらこうなるじゃん。いちいちうれしくて、いちいち必死になって、いちいち気になる……そのたびにいちいち胸が締め付けられて、涙が出る。そうじゃないの?
今も、アスファルトをさらに黒く染めて、わたしの涙が広がっている。だって本気ってこういう気持ちでしょ。へらへら笑ってなんていられない。
「うまくやるから……」
でも、頭を落としているわたしは気づかない。……そんなわたしを見る、乾ききった彼の目に……。
「こういう茶番やめような。俺、もう冷めてっから。てかそんな燃えてなかったから」
「……」
トドメを刺す言葉のナイフは、わたしの最後に残っていたやわらかい想いを、容赦なくえぐっていった。
一緒にレポートを書いた日も、雨の日に二人で濡れながら走ったことも……笑顔も、キスも、冗談も……初めて二人で迎えた朝だって……全部が茶番。浮かれていたのも夢を見たのも舞い上がっていたのも全部わたし一人。……あざ笑われた気にもなった。実際そういうつもりだったのかもしれない。
……本当に、男女は付き合ってみなければ分からない。
いや、それぞれの場面にならないと気づけないことだっていっぱいある。ずっと盲目だったわたしが馬鹿なだけかもしれないけれど、まさか彼があそこまで冷たく人をあしらうこともできる人とは、まったく気づけなかった。
思えば、付き合う前には気づけない彼の癖などもたくさんあった。この大学の、この大講堂にいる誰が彼のそんな癖を知っているだろう。たぶんわたししか知らない彼を、わたしはいっぱい知っている。
いっぱい知っている彼のことを、わたしはまだ引きずっている。
講義を受けながら、彼の後頭部を見るだけで、失った気持ちを痛感してつらい。たまに彼が隣の友達と話して横を向くと、もうその横顔は見られなかった。
一年間あの横顔を見続けて、三ヶ月だけ夢を見て、また、ここに戻ってきて……。
……講義なんて頭に入らない。わたしの中で、別れたあの日のやりとりだけが、何度も何度も、疑問符を投げかけている。
その疑問符の中で、わたしは現実世界から逃げ出したくなったし、恋愛に対する自信みたいなのをすっかりなくしてしまった。人を想うのが怖い……一言で言えばそう。
人と付き合う時に結婚を前提に考えてた勝丼君のことも本当は笑えない。人のことだからああは言ったけれど、わたしだってそれくらいのつもりでいた。もちろん結婚!みたいな具体的な計画はなくても、たった百日で終わるような小さな気持ちではなかった。
勝丼君に言ってみた『とりあえず『いいな』って思った子と付き合ってみる』……は、残酷なことなんだろうか。
「蘭:どう? 気になる女の子、いた?」
だからわたしは、彼の小説よりもそっちのほうが気になった。勝丼君は「うーん」としばらくうなるような発言をしてから、
「勝丼:やっぱあんまり、そういう目で見らんない」
勝丼君にとって、クラスの女子はゲラゲラうるさいばかりで、ともすれば集団で男子をも馬鹿にしてるとこがあるんじゃないかというような傍若無人さがあり、あの中の誰かと溶け込みたい気持ちには、とてもじゃないがなれない……と言う。
「蘭:徒党を組んじゃうとそう見えるかもね」
でも、女子一人ひとりは決して強いわけじゃない。だから、徒党を組んで楽しい時間の中にいる気にならないと不安になる。
この部分については女子には女子の言い分がいろいろあるのだけれど、わたしは今の精神状態がアレだから、それを伝える気にはならなかった。
「蘭:……まぁ、できるだけがんばってみなさいよ。わたしにできることなら協力してあげるから」
「勝丼:ありがとう」
勝丼君の、会った頃に見せていた斜に構えた態度は、すっかりナリを潜めていた。実力はどうしようもな……いやいや、まだまだなものの、本気で小説家になりたいんだね。彼の文章は稚拙だけどひたむきさも見え、わたしが言ったことを必死に投影しようという姿が見えた。
ということは、逆に言えばわたしがちゃんとしてあげないと彼は道を踏み外すことになる。その責任は軽くないように思えて、わたしも街に溢れる恋愛モノの小説に手を取ることが多くなった。
「蘭:あのさ、この小説、ラストを少し変えない?」
「勝丼:え?」
「蘭:恋愛小説読む人って、恋愛に憧れるからこそ読みたいんだと思うんだよ。こういう男の人女の人と恋愛したい! とか」
……だから当然、読者にとっての異性が魅力的でなければいけないのだけれど、それ以上にその人たちがうまくいかないと、読者は不完全燃焼に陥る。……気がする。
「蘭:実際、話題作はハッピーエンドが多いんだよ。いろんな物語があっていいんだと思うけど、"恋愛"を前面に出した小説を描きたいなら、最後はハッピーエンドがいいと思う」
……つまり勝丼君の小説はそうではない。物語のバリエーションとしては一工夫されていて、これはこれでありなのだろうけれど、恋愛物語を見たい読者にターゲットを絞るのであれば、やはり求められているのは最後に主人公とかヒロインが幸せになることなのだ。
「蘭:わたしもそんなにいっぱい恋愛小説読めたわけじゃないけど、ちょっと思うのが、意外に、新しいものなんて求められてない気がする」
恋愛モノに限って言えば、結末は要するにうまくいったかいかなかったかの二つしかない。恋愛モノを読みたい読者の求めているものはある程度決まっているのだろうから、物語はどんなに趣向を凝らしても、一つの大きな土台と幹から逃れられない。
「蘭:だけど人は飽きっぽいから、まったく同じじゃダメで、そこに『今までの物語とは違う』って錯覚させる何かがないとダメ」
だけど、新しすぎるものは多くの人に受け入れられない。さっき言った土台と幹を挿げ替えたような作品を恋愛モノに見ることはない。少なくとも、わたしが手に取った作品にはなかった。
「蘭:だからね。人が求めてるのはたぶん、ちょっとだけ新しいもの」
そういう意味で勝丼君の小説のラストは奇抜だった。まぁコノヒトの発想力はもともとだいぶ奇抜なんだけど、ジャンルを恋愛モノにするのなら、あまり褒められたものではない気がする。
「勝丼:なんだか難しいな……」
「蘭:まぁ、がんばろうよ」
「勝丼:やってみる」
「蘭:うん……」
文字に感情はないはずなのに、彼の情熱が伝わってくる。なんでだろう。
うすっぺらい文字、意思に満ちた文字……同じ日本の文字なはずなのに、確かに違うものを今、彼が発する文字に感じる。不思議なことだけど、それらの分厚い文字に、わたしはどんどん夢中になっていった。