あの空の色と匂い
だが数日後……、
そんな彼の姿を、意外なところで見つけてしまったわたしは、危うく手に持った紅茶をこぼしかけた。顔が、「え」の形のまま、わたしは凍りついている。
六月、だけど今年は空梅雨だ。嫌に乾いた空気が、凍りついた頬をなでた。
彼は画面の向こう。写メの中。in新江ノ島水族館。
それが、勝丼君のツイッターにアップされてある……のだ。『聖地巡礼』とか書いて。
ど・う・い・う・こ・と……?
なんて考えるまでもない。ウソのような話だけど、これがウソではない証拠なのだろう。
わたしは結局、勝丼君のことを何も知らない。仙台の人だったことも、藤井さんという本名も、こんな顔だったことも、あんな声だったことも……。
目がまわるような衝撃だった。なぜ神奈川に来た。なぜ……目の前にいるのだ。
明日、わたしは保険も含めた書類を渡しにいく。いったいどんな顔をすればいい?……ううん、彼はわたしのことを知らないんだから、わたしが何も言わなければ彼が気づくことは絶対にない。
深呼吸。落ち着いて、落ち着いて。……なんだかまるで、指名手配された犯人のような気持ちで動悸を抑えようとする。
……が、その動悸は次の日の朝になって、出社して、彼のアパートを尋ねに行っても、止まってくれようとはしなかった。
起伏の多い街。一つ丘を越えれば海が見えてくる街。故郷山梨には海がなかったから、住み始めたころはそれがうれしかったものだが、今となっては潮風に晒された後の肌のべたつきがわずらわしいとまで思うようになってしまった。
彼のアパートはもう少し内陸の、海岸から見れば丘の裏にあって、あまり見晴らしはよくないがその分安く提供されている場所だ。でもスーパーは近いし静かだし、個人的には悪くはないと思う。
わたしは高鳴る心臓に身を硬くしながら車を降りた。ドアを閉める音がやけに大きく聞こえ、自分でびっくりする。そんな、犯罪者でなければ少女のような敏感肌(?)のまま、彼の部屋へ。
二階建ての二階、手前から三室目。わたしはやけに大きな音のする階段をそろりそろりと昇って呼び鈴の前に立った。
バッグからコンパクトを取り出して顔を確認。……大丈夫。眉毛書くのを忘れてはいない。シャドウも合格。鼻は今日は高いほうを選んできた。
でも……。
わたしはもう一度コンパクトを凝視する。
……あの物語の中で勝丼君はこう描いていた。
顔も知らない。名前も知らない。声も、しぐさも、髪の長さも、身体の大きさも、指の長さも、どんな服を着ているのかも……なにもわからない。
だからなおさら、想像の中での蘭さんが雪だるま式に膨らんでいくし、美化されていく。
……勝丼君の中でのわたしは、相当美人なのだ。実物を見たことはないけど小野小町と同レベルなのだ。この顔がブスだとは言わないけども、小野小町と同レベルかと言われたら自信はない。
好きとか嫌いとか、正体を明かす明かさないの問題ではなく、期待メーター全開の勝丼君にガッカリされるのは嫌だった。
何も言わなければ何もバレないのに、そんなことばかりを考えてしばらく呼び鈴の前に立ち尽くす。
濃い色のタイトスカートにゴミは……ついてないね。ストッキングも伝線してない。目がちょっとかゆいけど化粧が崩れたら一大事だからまばたき三回でごまかす。
(うん……)
しばらくして、私は無言でうなずいた。
……大丈夫。今日はちゃんと用事があってきたんだから。話が途切れたら帰ればいいだけのこと。
えっと……。
では……。
押します。
……
…………
……やっぱちょっと怖……。
『早くしろ!!!!』
わぁぁ!!ごめんなさいっっ!!!
わたしは天の声?にツッコまれた錯覚を起こして身をこわばらせ、勢いで呼び鈴を鳴らす。
「はい」
声がした。
「しょ、湘国不動産の佐久間です!」
「あ、はいー」
内側から開いてくる扉にわたしは一歩下がって避ける。危うく激突。近すぎた。落ち着けわたし。
そして出てきた勝丼君。これが……あの……勝丼君……。
前に一度、かわいい雰囲気の男の子とは言ったが、実際はわたしよりも背は高く、肩幅もある。童顔の原因と思われる頬や顎のラインはとてもやわらかそうで、まるでひげが生える前の男の子のようにすべすべしている。決して太っているわけじゃないんだけど、このキメの細かそうな肌がうらやましいっていうか、うらやましいっていうか……。
顔から男らしさみたいなものはあまり見つけられないけれど、わたしにこんな弟がいたらさぞかわいがるだろう。
しかしそれどころではない。わたしは今、指名手配犯なのだ。
「えと、……藤井さん、いくつか書類をお持ちしましたので、概要の説明をさせていただいてもよろしいですか?」
「はい、いっすよ。中入ります?」
「いや、え、え、え……えっと、あの……よろしいんですか……?」
「ええ、なにもないっすけど」
「ホ……ホントは玄関でもいいんですが、じゃあ、ちょっとお言葉に甘えます」
なんだこのあやしい不動産屋……。ヒールを脱いだわたしは、しきりに自分にダメ出しをしながら、心の中で「落ち着け」を繰り返す。
室内は彼の言ったとおり、本当に何もない七畳半のフローリングだ。端には彼が唯一実家から持ってきたのであろう大きなボストンバッグ。そして、その隣には一台のノートパソコンがハマグリのように口を閉じていて、コードで電源に繋がっていた。
「夜は暗くないですか……? 電気くらいはつけないと……」
今は南向きの窓から日が差しているからいいけれど……。
すると勝丼君は、ボストンバッグの隣に立てかけてあったビニール袋を拾い上げた。
「はい、そう思って朝、蛍光灯買ってきました」
「すみませんね。蛍光灯くらいは用意してもよかったと思うんですが……」
「いや、そんな高いもんじゃないし……ちょっと待っててもらっていいっすか?」
「はい」
天井に手を伸ばす勝丼君。三歳下……時期的には四歳下なのかな……。正直、実際に会いたいなんて思ってもみなかった。躍起になって彼を探したけれど、わたしにとっては彼はあくまで画面の向こうの人。応援だって見守るのだって、あくまで、画面の向こうからのつもりでいた。
あやまりたいという気持ちもウソじゃない。それでもそれはあくまで画面の向こうから。……わたしにとっての勝丼君は、それくらい現実味がなかった。
今の状態は、まるで画面の向こうの"キャラクター"が急に目の前に飛び出してきたようなものだ。『勝丼』という"キャラクター"でしかなかったものが急に現実味を帯びて、わたしの前で蛍光灯を取り付けている。……この事実がにわかに信じられない。
……しかしそれは同時に、認めざるを得ない事実であることも、彼が入居したことによって、ほのかに彼と混ざり始めたこの部屋の匂いが告げていた。
考えなければならないことがある。もちろんそれは、正体を明かすか否か。
彼が誰かを知ってしまった以上、わたしはずるい位置にいる。昨日のツイートを見て以来、その葛藤に溺れ続けているから、わたしの鼓動はいつまでも落ち着かない。
本来なら明かすべきだと思う。彼は特別な人だ。時期は一瞬でも、確かにあの一瞬、二人は繋がっていた。わたしは彼のおかげで、叩き落された絶望から救われた。ありがとうを言わなければならない。でも……。
わたしは……香雪蘭であるわたしは、ガンでなければならない。それも、相当末期のガンでなければ……彼を、裏切ったことになる。
とにかく、見極めよう。自分がどうしなきゃいけないのかを。ここで……。
「スンマセン、おまたせしました」
「いいえ」
気持ちもまとまってだいぶ落ち着いた。
書類を取り出すが、テーブルもないので床に並べる。そんな状態で説明をしていると、お互い猫のように丸まってしまう。二人で膝をつき合わせて、たまにおでこが近くなって……。
……二人で無邪気に小説を創っていた頃、ネットでの知り合いではなく、実際の友達だったら、二人できっとこんな風だったんだろうな……。
「え、俺、なんか間違いました……?」
「あ! ごめんなさいっ!」
気がつけば、わたしは必要事項を記載している彼を一心に見つめていた。彼がその目に気づいて、わたしは慌てて目をそらす。……ひたすら何もない部屋が目に映った。
「藤井さん、ゴハンちゃんと食べてますか?」
「はい、スーパーで安かったもやしとか、家から持ってきた、いかげそとか」
「ばっ……」
「え?」
思わず言いかけてしまった。馬鹿じゃないの!?
でも、絶対そんなんだと思った。もうね、事務所いた時から不摂生オーラ全開だったし。
「身体壊しちゃいますよ……」
「まぁ、今はガマンっす」
「……そんなにガマンして……」
「え?」
……そんなにガマンしてまで、何しに来たの……?この街に……。
頭の中で言っていたつもりが、途中までつぶやいてしまっていたらしい。口をほとんど開けずにふつふつと発した言葉に彼が反応していた。
「なんか言いました?」
「……藤井さんは、ここに何か思い入れとかがあるんですか?」
「ありますね。でっかい思い入れが」
「……」
……まさかこの人、本気でわたしに会いに来たとか言わないよね。
ツイッターでの『聖地巡礼』を見た瞬間から、にわかに生まれた心のしこりであった。
間違いないのは彼が目をキラキラさせてそんなことを言い出したら、わたしの感情のコンパスは"うれしい"よりも、"こわい"を示すこと。
だって彼の中での香雪蘭は、もう亡くなっていてもおかしくないのだ。……あるいは信じなかったの?わたしが言ったこと……。ガンのこと……。
いや、そんなはずはない。それならあの小説のラストはあんなじゃあるまい。
わたしは怖い気持ちを抑えて、もう一歩、踏み込むことにした。ここで聞かなければ、わたしの心は、また檻に閉じ込められたようになってしまうかもしれない。
「もしよければ……その思い入れを聞かせてもらってもいいですか?」
「えーーー、べつに大したハナシじゃないっすよ」
「さしつかえなければ……」
「うーん、まぁなんか……知らない人に話すのもアレなんですけど……」
正座だった勝丼君があぐらに直る。
「俺、小説家目指してるんすよ」
わたしは目を見張った。実物を見てもなんとなく信じられずにブレていた勝丼君と彼との焦点が重なりだす。
「でも……もう、心が折れそうなんす」
あれからずっと……いくつもの物語を生み出した。中には自信作もあった。コンテストや小説サイトに投稿した作品も数多くある。
……しかし、そのことごとくが無視され続けた。どんなに文章で自分の魂を叫んでも、その声が誰かに届くことはなかった。……彼はそんなことを言い、自嘲気味に頭を掻く。
「もう……やめちゃおうかなって思ったんすけど、そんな時、ある恩人にどやされた気分になったんです」
「どやされた?」
「馬鹿じゃないの? アンタのその薄っぺらさに腹が立つ。って……」
「……」
……わたしだ。
彼に連呼していた『馬鹿じゃないの?』。小説でも幾度となく使われていた。彼の中でも印象に深い言葉なのだろう。……だけど、わたしの印象ってそんな?
……なんというか、底意地の悪そうなイメージが出来上がっている気がして困る。気になる。
「その恩人は、コワイ人なんですか?」
「怖いっすね」
絶句に近い形で黙り込むわたしに、彼は「誰も言ってくれないようなことを何の躊躇もなくぶちまけてくるのも怖いんですけど……」と笑い、目を細めて静かに言い放った。
「……そんなあの人に嫌われるのが一番怖いっす」
わたしの呼吸が浅くなった。もちろん彼に気づかれるような変化じゃないけれど、少しだけまつげが揺れて、わたしは目を伏せる。
「その人の街なんすよ。ここ」
「……その人に、会いにきたんですか?」
「会いたいっすね」
わたしは正座を崩すように動いて足を逃がすそぶりをして、彼の笑顔を受け流した。
「……でも……会えないと思ってますし、それに、ホントは会いに来たわけじゃないんす」
「そうなんですか?」
意外な言葉だった。わたしの中で一気に彼が見えなくなる。
「本当はなにをしに?」
ほとんど直球だが、もはやなりふり構っていられない。知りたい。教えてほしい。キミが何を考えているか。
彼はそんなわたしを少しの間、じっと見つめる。怖い。ほんの少しの間なのに長い間ずっと見つめられてる気持ちになる。わたしは目をそらしながら、彼が何かを言い出すのを待つしかなかった。やがて、
「言ってもわかんない話かもしれないすけどね……」
と、前置きした彼が言った言葉。
「心が折れないために……っすかね」
「え……?」
わたしはその言葉自体よりも、彼の表情に胸が締め付けられる。
勝丼君は、こちらの背筋が寒くなるほどに真顔だった。その眉間があまりに男らしくて、わたしは固唾を飲み込んでしまう。
「ここはあの人の街だから……心を折るわけにはいかないんすよ」
「どうしてですか?」
「小説を描いている間だけ、俺はあの人と繋がっている気がするんです。小説を描くのをやめたら、もう彼女には届かない……それを……あの人がいた空と同じ空を眺めていれば、きっと忘れない」
そのために彼はこの一年、死に物狂いでアルバイトをしてお金をためたらしい。ただ一心に、わたしの影を追って……。
……彼はこうも言った。
「今の俺は本当の俺じゃないんす。本当の俺はやらない言い訳ばっかり考えてたヘタレで……そんな俺でも、あの人へ手を伸ばしている間は、夢を追えるんす。そして……」
彼は瞬きもしない。険しいような、苦いような表情を浮かべて、わたしを見据えている。
「夢を追うのをやめたら……俺はきっと、彼女に嫌われます。だから……このニセの自分を……失くしちゃいけない」
だから……この街に来た……。
……わたしは、何も言えなかった。かろうじて伏せた視線を腕時計に落とし、「こんな時間……」とつぶやいてみせる。
「ではわたし、仕事がありますので……失礼します。ご契約ありがとうございました」
立ち上がるわたしは彼と目をあわせられなかった。




