イジワルばあさん、勝ち負けについて
「悪いねぇ。また私の勝ちだ」
流行りのテレビゲームの前で、彼女は私のほうを見て言った。老人とは思えないほどに豊かな表情で、精一杯の得意顔をしている。
「もう! いじわる!」
「イジワルなもんか。あたしのほうがゲームが上手ってことだね」
ヒッヒッヒ、と童話に出てくる魔女のように笑いながら、手元に置いていたせんべいをバリバリと音を立てながら食べた。おばあちゃんはお茶に浸しながら食べるものを、何の躊躇いもなく噛み砕くその様子は、増して魔女に見える。
「おばあちゃんは優しくしてくれるもん」
「あの人は孫に甘すぎだよ。世の中にはちゃんと勝ち負けがあることくらい知っとかなきゃねぇ。教育の一環さね。教育」
半べそで膨れ顔の私のおでこを、しわくちゃの人差し指でポンと小突くと、一口お茶をすすってから、さーて、と伸びをして出かけてしまった。一人ぽつんと取り残されたリビングで、読めない英語で勝ち負けを表示しているらしい画面を睨み付ける。
彼女は、何か事あるごとに私のおでこを人差し指で小突く。しわくちゃの骨張った指で小突かれても何の痛みもない。一度、何かのおまじないかと尋ねると、これまた、ヒッヒッヒ、と魔女のように笑ってから、秘密だよとイジワルそうな顔をした。その顔が、私の目には酷く恐ろしく映って、その日の晩の夢に出た。
私の学校の運動会には、決まって親が参加する種目があった。二人三脚や大玉ころがし、障害物競争。少しでもわが子にいいところを見せようと、張りきった親が参加するその様子に会場は笑いに包まれ、毎年大盛り上がりを見せる種目だった。
「今年の運動会、二人三脚だって」
二人でテレビを見ながら、私がポツリというと彼女は「ほお。そりゃあ、すぐにでも練習しなくちゃだねぇ」と顔をパッと明るくさせた。
「お父さんとでるから大丈夫だよ。お母さんもいるし」
「お父さんは、爺さんの運動神経が悪いのにそっくりだから駄目だ。お母さんは運動神経がいいが、あんたのお弁当とか写真とかで忙しいだろう。アヤコさんはこの前、腰が悪いと嘆いていたし、こうなったら私しかいないようだねぇ。ヒッヒッヒ」
私の少しの提案は彼女の主張と不気味な笑い声に軽く打ち消され、気が付けば私は夕方の公園で彼女と脚を手拭いで結ばれていた。鉄の錆がこびりついた遊具や、誰もいない砂場、徐々に暗くなる公園に私はびくびくしていたが、彼女とつながった途端、その恐怖はどこかへ失せてしまったようだった。
「じゃあ、せーのでつながった脚からだよ」
「うん」
「せーの」
手拭いでつながれた二人は、いち、にっ、とその場で軽快なリズムを踏んだ。思いの外息の合う二人は、止まることなくしばらくその場で足踏みを続けた。「仲がよろしいんですねぇ」とでも言いたげに、こちらをみてニコニコする主婦が公園の前を通るのが見える。
「よし、じゃあ、そこの、外灯まで、すすむよっ」
弾む息に合わせるように言葉を発した彼女は、私がうなずいたのを見てからもう一度、せーのっと掛け声を出した。
と、同時にさっきまでピッタリ合っていた脚がもつれ、私がその場にしりもちをつく。
「いたっ」
「あーもう、ほんとあの子に似てどんくさいねぇ。変なところが似ちゃったもんだ。ほらっ、もう一回。立って、はい」
お尻をさすっている私を心配する様子もなく、急かすように、つながっている方の脚をぐいぐいと引っ張った。
「もう! イジワル!」
「イジワルなもんか。いっぱい練習しないと、運動会で負けるよ。その時悔しいのはさっちゃんかもしれないけど、あたしはもっと悔しいからね。ほら、はい、せーのっ」立ち上がったばかりの私の脚を半ば強引に動かす。
すっかり闇に包まれた公園。その闇のなかに、外灯だけが煌々と浮かんでいるように見える。その周りを、虫に交じってくるくると回る私たちは虫の目には酷く奇妙に見えただろう。
公園からは二人で、いち、にっ、と奇妙な歌を歌いながら帰った。等間隔に並ぶ電柱、虫が舞う電灯、その下だけが不気味に明るく見える。
「よし、さっちゃん。あそこまでかけっこしよう」
突然暗闇をさした彼女の指の先を見るまでもなく、「よーい、どん」と彼女がスタートを切る。
「あっ、もう、イジワル!」
彼女はヒッヒッヒ、とそれこそ箒にのった魔女のように駆けて行った。遠くなる彼女の背中に、慌てて追いつこうとがむしゃらに走ると、普段より早く走れた気がした。
家の近くに漂うカレーの匂いに「あ、今夜はカレーだ」とうきうきしたが、家に帰ると今夜はオムライスだった。黄色い半熟の卵に、真っ赤ないい匂いのするケチャップライス。オムライスをペロリと平らげると、「また明日も練習しようね」といいながら玄関から出ていった彼女をみて、いつもほどはがっかりしなかった。
運動会当日、私はいつもの運動会より緊張していた。
運動会用に装飾された門をくぐり、教室で集合してから、みんなでグラウンドに降りる。まだ開会式も始まっていないのに、グラウンドの観覧席は我が子の雄姿を少しでも近くで見ようとする父母で埋まっている。おーいおーい、と子供に手を振る親達の姿は、どちらが子供かわからなくなるほど無邪気だ。
そしていよいよ、二人三脚の時間。
入場門に集合してください、というアナウンスがされると、気合が入った様子のお父さんやお母さんが続々と門の近くに集まってきた。彼女はその中に、そこにいるのが当然という様子で混じり、私の姿を見つけると大きく手を振る。周りにいた若いお父さんたちが「おい、あんな婆さんが参加してるぞ」とばかりにニヤッとしたのが分かった。
「いやー、すごい人だね。さっちゃん見つけるのに一苦労だよ」
腕まくりをしながら、時代遅れの運動靴の紐を結ぶ姿からみなぎる気迫は、他の人たちに負けていないと、子供ながらに思う。
「よし。今日は絶対勝つよ。こんなババア、と思っている連中に一泡吹かせてやるのさ」
いっちにー、と体操をしながら言った言葉の意味はよく分からなかったが、周りの人がさっと顔を逸らしたところを見るとまたイジワルなことをいったのだろう、と思った。
先生から整列の指示が与えられ、おとなしく二列に並ぶ。さっきまで先生の指示を聞かずに怒られていた男子たちが、父親の隣だと大人しいのがなんだか面白かった。
流行りのアニメソングに急かされるように、グラウンドに入場し自分のコース上で座る。
かなり後ろのほうに並んでいた私達だったけれど、思っていたよりも早く順番がきた。先生の指示に従って脚を手拭いで繋ぐ。「勝つよ」と彼女が小さく言ったのが聞こえた。
すっかり聞きなれた号砲を聞いて、練習通り、いちっにっ、とまずその場で足踏みする。いつも通りの軽快なリズム。タイミングを見て、彼女が「せーの」と一層大きな声を張りあげる。
いちっ、にっ、いちっ、にっ――――
脚を一歩踏み出すと、不思議と周りの歓声は聞こえなくなった。聞こえるのは、隣で肩を組む彼女の息遣いと地面を蹴る脚の音だけ。
真昼間のグラウンドのど真ん中。私は真夜中の公園にいるような気持になっていた。もしかすると、彼女もそうかもしれない。
何の音もしない真っ暗な公園。闇に浮かぶ外灯。その周りを、虫のようにひらりと回り、そのあとは外灯に照らされた自分の影を追いかける。いちっ、にっ。すぐ目の前にある鉄棒に触れば、ゴール。彼女と手を取り合って喜ぶ―――。
そう考えていた私は、ゴール目の前で青空を見上げていた。お尻が、あの日のようにジンジンする。どうやらこけたらしい。さっきまで聞こえていなかった歓声が、風船を針でつついたように頭の中に広がった。
隣の彼女が「ほらっ、立って」といつものようにつながった脚をぐいぐいと引っ張った。慌てて立ち上がって、ゴールしたが、周りからはパチパチと拍手が聞こえる。その拍手が、横を見なくても、私たちに順位を知らせていた。彼女は上がった息を整えながら、静かに手拭いをほどいた。急に自由になった脚は、居心地が悪いのかまだつながれたままのように固まって動かなかった。
先生のホイッスルに促され、今度は退場門へと小走りで急ぐ。
門をでると、他の人が子供の頭をなでたりするなか、彼女は「負けちゃったねぇ」と悔しそうな顔で私に言った。私は、ヒッヒッヒ、と笑ってくれることを期待したけれど、彼女は笑わなかった。すると、急に彼女に悪いことをした気になって、途端に目から涙が溢れた。
「負けちゃった。私のせいで。ごめんなさい」つぎはぎの言葉を並べながら、土のついた手で目元をぬぐう。
「悔しいかい?」と聞く彼女の言葉に、私は涙と土で汚れた顔を縦に振った。
ヒッヒッヒ、と笑い声が聞こえる。その笑い声に誘われるように、私は顔を上げた。
「これが負けるってことだよ。彩月、初めての負けだね」
彼女が言っている意味は分からなかったけれど、何故だか大粒の涙がこぼれた。
「あれだけ一生懸命練習して、誰かのために戦ったなら、彩月は、負けた!って胸を張らなくちゃいけない。一生懸命にもならず、自分のためだけに走って勝てなかったなら、それは胸を張れない負けだ。勝ち負けだけが全部じゃなくて、どう頑張ったか、誰のために頑張ったかが大切なんだよ。それが分かったなら、今日の彩月は負けの優勝だ!」魔女のように大きな目を一層大きく開きながら彼女は言う。
「彩月、ありがとよ」イジワルな顔をして、しわが深く入った手のひらを、ぽん、と私の頭の上に乗せた。彼女は大事な話をするときだけ、私を「彩月」と呼ぶ。
「あいにく、あたしは子供のころから二人三脚では負けなしでねぇ。二人三脚の菜月だなんて呼ばれてたんだが。今日人生はじめての黒星だよ。」
頭を掻きながら、ヒッヒッヒ、と彼女は笑う。イジワルな顔をしていなかった。
帰り道、私は彼女と脚じゃなく手を結んで帰った。
「ねえ、あそこまで競争しようよ」
今度は私が、夕暮れに浮かぶ寂し気な道路を指さす。きっと乗ってくると思ったから、彼女の顔は確認せずに「よーい、どんっ!」と走り出した。
必死に走る私を大人げなく追い抜いて、上がる息を押し殺しながら「あたしの勝ちだね」と自慢げに、彼女は言った。
「もう、イジワル!」
二人で示し合わせたように、ヒッヒッヒ、と高く大きく笑った。今夜はきっとカレーだ。
だんだん文字数が増えてきました。
実はこれ、長編の一編にしようと思ってたんですが、いかんせん他の話が思いつかず断念。イジワルばあさんのキャラクターは気に入っているので、また何か話を書けたら面白いかなーと思っています。もう一編だけ思いついているので、次はそのお話を投稿するかなぁ。