弘前大学文芸部SONNET バックナンバー 平成22年度分
「ここはどこ? あなたは何?」
森里密は今日、何度目になるか分からない質問を目の前にいる物体にした。
目の前には大きな熊が立っていた。しかも、まさかりを担いで、オーバーオールまで身につけている。畑にでも出ていきそうな格好だ。
熊はそのクリっとした目でじっと密を見つめながら
「ボクは、クマだ」
と以外に可愛らしい声音の人語で答えた。
「見れば分かる! 思いっきり熊だよっ! で、ここは何処?」
「マヨヒガ」
「だから、そのマヨヒガって何?」
密はさっきからこの見事な二足で立つ、服着た人語を話す大きな熊とのやり取りを繰り返している。
正直に言って密はもう、我慢の限界をとうに超え、堪忍袋の緒が切れている状態だった。
密は今、鬱蒼と生い茂る森の中にいる。
何故自分がこんな所にいるのかは、密自身も知らない。
密はただ寝ていただけだった。
そして目を覚ましたら、目の前にこの熊がいたのである。
熊は密の姿を見るなり
「お帰り、密。ヌシ様が密に会いたがっている」
と言って、ぐいぐいと密を更に森の深い所へと連れて行こうとするのだ。
密は最初、これは夢に違いないと思い、目の前のクマを相手にしなかった。だが、クマは密の無視などものともせず、仕舞には密の腕を掴んで、凄まじい力で引きずっていこうとした。これには流石に参った密は、観念してクマの話を聞くことにしたのだ。
「あのさぁ、さっきからマヨヒガ、マヨヒガって言ってるけど、それって何なの? この森の名前?」
「森? マヨヒガはマヨヒガだぞ密。そんなことより、早くヌシ様に会いに行こう」
「そうそう、そのヌシ様ってのも何なの? マヨヒガの王様な訳?」
「ヌシ様はヌシ様だよ」
さっきからこのクマはこの調子で、密との会話は成り立っているのか、なっていないのかよく分からない状態であった。
クマがこんな感じなものだから、密自身は実はそれほど動揺していなかった。
普通であれば、とっくにパニックになっていたことだろう。気が付いたら、見知らぬ森の中にいて、更に目の前には人語を解する服着た大熊が仁王立ちしているのだから。
密はため息一つ吐き、覚悟を決めた。
「分かった、分かった。そこまで言うなら行くよ。じゃないと、話が進まないみたいだからね」
クマは口をぐいっと引き延ばして怖い顔をし、踵を返すと、のしのしと歩き始めた。
今のクマの表情はおそらく笑みなんだろうな、と密は思った。
密はクマの後ろを歩いて、森の中を歩いている。
先程から、密は妙な感覚に襲われていた。
何故か既視感があるのだ。
密はこの森の光景をどこかで見た気がする。更に言うなら、このクマの後ろ姿もどこかで見た気がするのだ。
密がその奇妙な既視感について首を捻っていると、突然森の風景が途絶えた。
それに従うかのように、クマは足を止める。密も足を止めた。
現れたのは橋だった。
それほど大きくもなく、立派でも無い。しかし丈夫そうではある木製の橋であった。橋の下には小川が流れている。
小川の先は、どちらの先も霧がかかっており、判然としなかった。しかも、その霧は橋の向こう側にも立ち込めている。
ほんの少しだけ、密は怖いなと思った。
「行こう」
クマはそう言ってから、再び歩き始めた。
密はクマについて行く。
靴が橋の床を踏み、足音が辺りに響く。
一人と一匹が橋を通り抜けた途端、霧は晴れた。
密は眼を瞠る。
橋はどうやら、高台に設置してあったのだろう。密の眼下には美しい田園風景が広がっていた。
教科書に載っているような階段状に続く棚田、小川に沿った水車小屋、畦道脇に建つ古くも確りとした造りの東屋。朽ち果てて、もう真っ直ぐ立つことを放棄した案山子。そして、田んぼの持ち主たちの家であろう、茅葺の屋根の民家がそこかしこにあった。
「マヨヒガ……」
思わず密は呟いた。
綺麗な所だな、と密は思った。
「ヌシ様の御殿は向こうだよ」とクマは指で遠くを示した。
クマの言う方角は他の畦道よりは整備された小道が延々と続いる方角だった。
クマは高台を降り始めた。
密はその後に続きながら歩いて行く。
足の裏で地面を踏む度に土の音がした。
密は少し歩いて気付いたのだが、このマヨヒガはどうも変わった地形をしている。
橋の所で見た小川が、ぐるりとこの辺り周辺を囲っているように密には思えたのだ。その囲いとなっている川の内側には小さめではあるが山すらあるのではないだろうか。実際に、密はこのマヨヒガに入ってから幾つか山は見たし、よしんば山でないにしろ、山と思しき急斜面やそれに類似するものを何度か目撃している。
里山というやつだろうか。
道は延々と続いていた。高台から降りて歩き続けていると、じっとりと汗ばんでくるのが分かった。真夏のような暑さだ。蝉が鳴いていて、田んぼの向こうには目に鮮やかな黄色の向日葵が見えた。
「ねぇ、クマ」
「何だい、密」
「ヌシ様って、どうして僕に会いたがっているのかな?」
クマはのしのしと歩きながら、のんびりとした口調で答えた。
「マヨヒガのヌシ様に会わないと、密がここから帰れないからだよ」
「どうして、僕が帰れないのさ?」
「そういう所だからだよ」
「どうして、クマは僕の名前を知ってるの?」
「それは、密だからだよ」
「どうして、ヌシ様は僕がここに来たことを知っているの?」
「ヌシ様はマヨヒガのことは何でも知っているからだよ」
質問の答えになっていない気がする。
密は最後に一番気になっていたことを尋ねた。
「ねぇ、クマ」
「何だい、密」
「ここには僕達しかいないのかい?」
はた、とクマが足を止めた。
「何で、そう思うの?」クマは振り返らずに言った。
密自身、何故今の質問が自分の口から出たのか分からなかった。
何故か、滑り出るように言ってしまったのだ。
この見事な田舎の景色にも何かが足りない、と密は感じていた。
そう、このマヨヒガに来てから密はクマ以外の人物を見ていないのだ。このしゃべる二足歩行の熊を「人」と勘定するならの話だが。
蝉の鳴き声が当たり一面にこだまする。
「なんか、人影がないなと思って」密は言った。
「それは……ヌシ様が望んでいないからだよ」
クマはそれだけを言うとまた、のしのしと二足歩行で歩き始めた。
それからはしばらく一人と一匹は無言であった。
密はもう少し、踏み込んだ質問をしようとも思ったが、先ほどのクマの態度が気になり、うまく切りだすことが出来なかった。それに、これ以上ヌシ様やこのマヨヒガについて質問をしてもクマは答えてくれなさそうだった。
道は段々と山間を縫うようになり、少しずつだが上り坂になっていった。
山の斜面に邪魔されるように大きく湾曲した道を通ると、道が二つに分かれている。
クマは迷わず向かって右の道を進んだ。
この道はてっきり一本道だと思い込んでいた密は二つの道をまじまじと見比べた。
密から向かって右はそのまま緩やかに昇っていく道であったが、向かって左の道はいきなり急勾配を登るものになっており、山の奥へと続くように見える。
密はクマの後に続いて歩きながら尋ねた。
「あの左の道はどこに続くの?」
「お寺だよ」
「寺? 寺なんてあるんだ。お坊さんがいるのかい?」
「ネズミがいるよ」
「ええ! 大丈夫なの? 経典とか食い荒らされたりするんじゃないの? もしかしてもう廃寺だったり?」
「ネズミはそんなことはしないよ。それにネズミがいるから廃寺じゃない」
「いやいや、鼠が出たりしている時点でもうだいぶガタきているだろう」
密はまたしても、クマと会話が噛み合っていないと思った。
鼠が出る寺なんて、昔話に出てくるお化け寺みたいだ。密は早くもこの話題についてクマと話をするのを諦めた。
クマもそれ以上は何も言わず、ただ黙々と歩き続けた。
再び大きな山が道を遮り、それを迂回する形の道を歩くと、遂にそれは姿を現した。
その建物は白かった。
周囲の森の緑が余計にその白さを際立たせている。
広く何処までも続くようにみえる白い塀。見上げるほどに高いその塀の上には黒い瓦がきっちりと並んで敷き詰められている。密達の正面には重苦しい色をした木造の大きな門があった。
道はずっとその屋敷に向かって真っすぐに伸びている。周りには道とその建物以外何も無い。
門の直ぐ傍に人影があった。遠くてよく顔が見えないが変わった服装をしているのは分かった。
クマがその門に向って歩くのに対し、その人影は門から離れてこちらに向かってくる。
密がクマと一緒に歩いて行くと、その人影の正体が分かった。
その人影は袈裟を身に着けていた。おまけに毛の無い頭が太陽の光で反射している。
密はやっと人に会えたと思い思わず声をかけた。
「あの、すみませ――」
密は声をかけて、とっさに口をつぐんでしまった。
その僧と思しき人物の頭部ばかりに目を奪われて気付かなかったが、その僧侶は髭が生えていた。
長い六本の髭が三本ずつ、口の周りから左右に。
しかもその僧侶は小柄で前歯が異様に飛び出ている。そして全身が灰色がかった体毛で覆われており、頭部のみ地の皮膚が見える。頭皮からは汗が噴き出ていた。
要するに、密の目の前には当に鼠の僧侶が立っていたのだ。鼻と口が本物の鼠の様に出ているし、人間の顔にはとても見えない。本当に鼠を大きくして二本の足で立たせ、袈裟を被せて仕上げに剃髪したような感じであった。
密があんぐりと口を開けていると
「いかがなさった、密殿? 拙僧に何か御用かな?」
お経を読む僧侶とは思えないほど、鼠の僧侶は甲高い声で言った。
「え? あぁ……いや、その……そのなんと言いますか、えっとこの屋敷にヌシ様はいらっしゃいますか?」
密はとっさに鼠の僧侶に質問した。
「ええ、いらっしゃいますとも……おや、後ろにいるのは、もしや」
「久しぶりだね、ネズミ僧正」
僧侶が見上げるのと同時にクマは言った。
ネズミはうれしそうに髭をぴくぴくと動かした。
「おお、おお、これはこれはクマ殿、お久しゅうございます。二年ぶりですなぁ。お体に変わりありませぬか?」
「お陰様で、どこもおかしくなっていないよ。それより、どうだい? 今年の『泉の儀』はうまく出来そうかい?」
クマが尋ねると、ネズミはひくひくと鼻を動かして答えた。
「ええ、順調ですとも。今年の儀式も例年通りうまくいきそうですわ。ウチの弟子たちも手伝ってくれますしねぇ。そっちの景気は如何かな? 大変でしょうに、ミミズク翁のようにはうまくいきますまいて」
ネズミはどうやらクマの身の上を心配しているようであった。密から見れば、ほんの短い付き合いだが、これだけのほほんとしていられればとても大変な状況だとは思えない。それとも見かけによらずこのクマは意外とこのマヨヒガでは重要な存在なのだろうか。それにネズミも自分の名前を知っているようだ。
「『泉の儀』って?」
密の問いに答えたのはネズミであった。
「『泉の儀』というのは十五年に一度行う、マヨヒガの重要な祭りなのです。ほれ、このマヨヒガの周りには川が巡っているでしょう? アレの水源は実はこの御殿の中にある泉なのです。十五年でその泉の水は枯れてしまうので、十五年に一度水寄せの儀式を執り行わなければなりませぬ。だから『泉の儀』というのです」
「儀式は、ネズミ僧正が執り行うんですか?」
「僧正などと大それた身分のものではありませんよ、密殿。拙僧はまだまだ未熟な坊主でございます。僧正の名も、このマヨヒガに一つしかない寺を任されているから拝命しているだけでして」
「それなら、弟子なんてとらなければいいのに」
クマが口を挟んで来ると、ネズミは苦笑しながら
「拙僧ももう年ですからなぁ。早いうちに弟子を育てておかぬと、寺の後が続かんのですわ」
「あんまり無理しちゃだめだよ」
クマがネズミの丸い目を見て言った。
「自分の身は自分が一番分かっております。弁えておりますとも」
ネズミはクマの視線から目を逸らして、密の方を向いた。
「ところで密殿」
「は、はい?」
ここで密に話を振られると思っていなかったのか、密は多少びっくりした様子で答えた。
「密殿はこれからヌシ様の元へといかれるのかな?」
「ええ、まぁ」
それならば、とネズミは言い
「御殿に行きなさるより、先にミミズク翁にお会いになられた方がよろしいですぞ」と言った。
「ミミズク翁? さっきの会話にも出て来た人のこと?」
「そうです、そうです。拙僧とクマ殿の共通の友人でしてな。是非とも引き合わせたいのです。それとも、お急ぎでしたかな? 急ぐと言うのなら無理にとは言いませぬが……」
密は別段、急いで元の世界に戻りたいと考えている訳では無かった。どうせ、質の悪い夢か何かだろう、と密は思っていた。もし、帰る手段が無いというなら何としてでも帰ろうとして、寄り道などする気も起きなかっただろうが、今の状態ではヌシ様に会えさえすれば帰れるようだから、この際寄り道するのもいいだろうとも密は思っていた。
「構いませんよ」
密の返答にネズミは大いに喜んだ。
「それは良かった。あの方もお喜びになられるでしょうに。では、早速参りましょうか」
ネズミがスタスタと歩き始めたので、クマと密は付いて行った。
ネズミはどんどん白い御殿から遠ざかり、今まで密達がやって来た道を逆行していく。
「ところで、ネズミさん」
「何ですかな、密殿」
「そのミミズク翁の家ってどこにあるんですか?」
「御殿と真逆のところです」
「えっ! じゃあ、またこの暑い中をあの何も無い道を歩くんですか?」
「そうするしかありませんな。輿があるわけでも、車があるわけでもないので」
密は胃が萎む思いになった。
密達が、先程寺があるとクマが言った地点まで帰って来た時、寺に続く山道から何者かがすごい勢いで駆け下りて来た。
「お、お師匠様っ! お師匠様っ!」
山から下りて来たその人物は青い作務衣を来た鼠であった。ネズミにそっくりだが、ネズミよりは若々しい印象を受ける。それに頭の毛は剃っていなかった。
「どうした? そんなに慌てて。仏の教えを修する身ならば一切は無常であると―――」
僧正の説法は弟子の耳打ちでピタリと収まった。
「……実は、イヌ――――言――直ぐに来る――」
密には微かにだが、弟子が師匠にする耳打ちが聞こえた。
断片的にしか聞こえなかったので、意味は分からなかった。
僧正は鼻を鳴らし、手振りで弟子に帰るように指示をした。弟子が再び山を登る姿を見て、鼠の僧侶はこちらに向き直った。
「申し訳ない。たった今、大変立て込んだ用件が出来てしまった。悪いがミミズク翁の所までご一緒することが出来ませぬ。拙僧はこれにて中座せざるを得ん。すまぬがクマ殿」
「何だい?」
「密殿の道案内をお願いいたしまする」
クマはしばらくネズミを見つめて、こくりと頷いた。
ネズミはそれでは、と言って山の道へと入っていってしまった。
「それじゃ、行こうか」
クマはそれだけ言うと、再び歩き始めた。
「ネズミ僧正には弟子がいるの?」
密の質問にクマは歩きながら答えた。
「うん。全部で四人いるよ。それぞれアカ、アオ、シロ、クロの四人。今のは青い服を着てたからアオだよ」
「変な名前」
密の子供じみた言い方に、クマはクスリと笑い
「名前はヌシ様から貰うんだよ」と言った。
ヌシ様というのは余程の人物なのだろう。今まで出会った人物たちの容姿から考えて、ヌシ様というのも人ではなくて何かの動物なのだろう。そういえば、ミミズク翁というのはもしかするとミミズクなのだろうか。
密は反射的に尋ねてみた。
「ミミズク翁ってミミズクなの?」
「え? そうだよ。ミミズク翁はミミズク翁だよ。それ以外の何者でもないさ」
これはしまったと密は思った。クマとこの手の会話を成立させるのは至難の技であるとさっきまでの経験で分かっていたはずなのに。
「じゃあ、ミミズク翁ってどんな人なの?」
突然、クマは顔を凶暴にさせた。
密は一瞬怖気づいたが、よく見るとクマは怒っているようではなかった。どうやら、考えているようだ。それにしても、このクマは無表情の時はそれなりの愛嬌というのがあるが、それ以外の表情をしようものなら、相手に恐怖しか与えない顔になる。笑ったり、考えたりするだけでこれなら、本当に怒ったときは一体どんな表情になるのだろうか。
「ミミズク翁はとっても頭が良いんだよ。それからこのマヨヒガのお医者さんでもあるんだ」
そう言ってから、クマはまた頷きながら頭が良くてお医者さん、と同じことを繰り返した。
それから、密達は歩き続け、密が最初に見たあの田園風景の所まで戻って来た。日は天頂より傾いてはいるが、まだ夕暮れには早いようだ。
「ミミズク翁の家はあっちだよ」
クマの指した方角には林があった。
密達がやって来た林とは違う林だ。やたら背が高く、規則正しく木が並んでいるように見えた。
クマが歩いて行くので密はついて行った。
土を踏む度にザクザクと音がした。
林の中を少し進むと、川が見えた。
川の端は見えなかったが、真中に橋が掛っていた。
クマについて橋を渡った。
密は先ほどから妙な匂いを感じていた。嗅いだことはあるのだが、何の匂いかは分からない。お世辞にもいい香りとは思えなかったので、もしやクマや自分の汗の臭いかと疑いもしたが、もしそうなら、それはそれで嫌なので考えるのは止めることにした。
だが、匂いの疑問は直ぐに解けた。
視界が突然開け、目の前に見渡す限りの青が現れたのだ。
それは海だった。
密達の目の前には白い砂浜と、群青色の海が果てしなく、何処までも続いていた。
先ほどまでの奇妙な匂いの正体は潮の香りだったのだ。波音は自分達の足音で余り意識出来ていなかった。
それにしても、このマヨヒガというのはここまで非常識なものだろうか、と密は思う。
突然、里山の風景が現れたと思ったら、平安風の御殿が現れ、おまけに林一つ抜けたらそこには大海原がさも当然のように広がっているのだから。この国にはこんな所きっと無いだろう。
「ミミズク翁の家はあれだよ」
クマが指示したのは林近くにある大きなボロ小屋であった。
長い年月を雨風に晒されてきたのか、至る所に穴が見受けられた。今にも倒れてしまいそうだ。小屋の隣には小さな畑があった。林から土を持ってきて作ったのだろうか。
その畑には鍬を持った人物がいた。
クマがおーい、と声を掛けたが反応は無かった。
「耳が遠いんだ」
クマはそう言って駆け出した。
その鍬を持った人物は紺色の作務衣を着ており、頭の上から兎の耳の様にピンと二本の毛の様な物が飛び出していた。この人物も全身を羽毛に覆われており、足の形も人の物ではなく鳥類のそれになっている。
クマが近くまで駆け寄り、声を掛けた。
そこでようやく、その人物は振り返った。
ギョロリとした鳶色の目、鋭い嘴、古色蒼然とした羽の色、ミミズクの持つ特徴的な頭部の羽毛。
この人物(?)こそミミズク翁であろう。
クマに振り返った人物は大きな目をパチクリと瞬かせ、奇妙な物を見るように怪訝そうな顔をした。
「珍しい客が来よりおったのう、クマ」
「お久しぶりです。ミミズク翁。密を連れて参りました」
クマが振り向くのと、ミミズク翁がこちらに視線を遣るのはほぼ同時であった。
鳶色の大きな瞳がこちらに向けられると、密は背筋に寒いものを感じた。巨大な猛禽類に密自身が無意識に危険を感じ取ったのかもしれない。
「おう、そこにおるのか密。すまぬなぁ、ワシはもう歳じゃて。もうちと近くに寄ってくれんと、この老いぼれにはお前の姿が見えんのじゃよ」
そう言って、ミミズク翁は袖から出ている手と思しき翼でこちらに来い、というような仕草をした。
密はどうやって翼で鍬を掴んでいたのかという疑問をぐっと呑み込み、若干ぎこちなく翁に近づいた。
近くで見るミミズク翁は遠くで見るよりもより一層、年老いた風貌だった。体の至る所の羽が折れていたり、抜けたりしていて、決して綺麗な毛並みとは言えない。大きな目は端に目脂が溜まり、目 そのものも綺麗な鳶色ではなくなっていた。
昔は雄々しく、精悍であったろう猛禽類の姿はそこにはもう無かった。すっかり草臥れた年老いた鳥の姿があるだけであった。
密にはミミズク翁が痛々しく思えた。
ミミズク翁の濁った眼はそれでも確りと密を捉え、じっと密の黒い目を覗き込んできた。
突如密を奇妙な感覚が襲った。
濁っていて、年老いて、衰えているはずだが、ミミズク翁の目には誰にも劣らぬ鋭い理性と知性が秘められているようだ。
密の全てが見透かされている気がした。
そのまなざしを密はどこかで見たことがある気がするのだ。
寄せては帰る波の音がやけに気になった。
「ほう」
ミミズク翁が唸った。
「面白い目をしとるのう。先が楽しみじゃ」
翁はそれだけ言うと、密から視線をずらしクマに言った。
「こんな所までよく来た。冷たいもんでも出すから寄っていけ。積もる話もあるじゃろうに」
「いや、これから密をヌシ様に会わせないといけないから直ぐに出ないと――」
「そう急がんでもあやつは逃げも隠れもせんだろうに。暫し老人の相手も務めてはくれんかね。こんな所で一人暮らしていると、人恋しくもなるもんじゃよ」
ミミズク翁はそう言って、ほっほとフクロウの鳴き声の様な笑い声を出した。
ミミズク翁がそのまま鍬を持って小屋に入ってしまったので、クマも仕方無く、といった感じで入っていったが密の見る限り、どうやらまんざらでもないようだ。
密も小屋の中に入った。
小屋は以外に広く、玄関の土間がひんやりとしていて心地よかった。土間の脇には何かの植物の束が幾つも積み上げられていた。薬草だろう。更にその脇にはたくさんの引き出しを持つ薬棚と思しきものもあり、おまけに薬草をすり潰す器具も置いてあった。
飴色の框の奥は板張りの居間であった。中央には使い古されたと一目で分かる囲炉裏がある。
居間を囲うように襖があった。まだこの先に部屋があるようだ。
クマは既に居間におり、囲炉裏の前に座っていた。ミミズク翁は土間で何やらごそごそとやっている。
密は靴を脱ぎ、框の下の端に寄せて居間に上がった。良く見てみると、粗末ではあるが座布団が用意されていた。クマに促されたのでそこに座る。
ふと天井を見上げると、煤けた大きな梁が何本も見えた。この家は見た目以上に丈夫なのかもしれない。
「麦茶じゃ」
ミミズク翁はそう言って、密達に湯呑みを渡してきた。
湯呑みは陶器である事と中に冷たい液体がある為か冷たかった。湯呑みには孔雀のような鳥の図柄が青色で施されている。
密はそれをじっと見つめた。これもどこかで見た気がする。
「どうした密、ぼんやりして。 暑さでやられたのかい?」
クマが心配そうに尋ねてきたので、その既視感を振り払い「なんでもない、大丈夫」と返した。
密はそのまま麦茶をグイッと飲んだ。
キンキンに冷えていた麦茶は渇いた喉と、うだる様な暑さを納めてくれた。ただの麦茶のはずなのに、密には高価な玉露か何かに思えた。
それからクマとミミズク翁は世間話のようなとりとめのない会話を延々と続けた。話題が変わったのは翁がそういえば、と言ってからだ。
「そういえば、もうすぐ泉の儀じゃったな。ネズミのやつは準備でてんてこ舞いじゃろうに。この時期はいつも大変じゃからな」
ミミズク翁が懐かしそうに言った。
「そうでもないみたいですよ。いつも通りの平常心でやれば大丈夫だ、みたいな感じで言ってましたから」
クマは鼻を鳴らした。
どこかで見た仕草に密は感じられた。
ミミズク翁はクマの仕草に少し苦笑しつつ、窓の方へとその猛禽類の目を向けた。
「ふむ、もう日が傾き始めたか。お前たちも一日中マヨヒガの中を歩き回ったんじゃろう? だったら今日はここで休んでいくがいい。大したもてなしも出来んが野宿よりはずっとマシじゃろうに」
「それもそうですね。それではお言葉に甘えて、一晩厄介になりましょう」
クマが予想外にも泊まると言い出したので、慌てて密がそれを止めに入った。
「いや、僕はもう御殿に向かいたいんだけど……」
確かに急いでいるわけではないが、今日会ったばかりの見ず知らずの人の家に泊まる、というのは少し抵抗があった。しかも相手は人間ではない連中だ。警戒心を持つなというほうが難しいだろう。
ミミズク翁はほっほっほと笑いながら
「得体の知れない連中と寝るのは恐ろしいかな?」といたずらっぽくからかうように言った。
「いや……そういう意味では……」
図星だったので、密は内心穏やかではなく、自然と言葉にも力が無くなる。
ミミズク翁はそれでも気を悪くした様子はなく、穏やかな雰囲気で密に言った。
「まぁ、無理もない事じゃろうに。突然こんな場所にやって来て、暑い中一日中歩きまわされたら、辟易もする。じゃがのう、密。この辺りは夜になると危険になるのじゃ。昼日中ならまだクマもついておったし問題は無いのじゃろうが、夜になるとクマがいても危険なんじゃよ。万一、この辺りを抜けたとしても御殿の門は夜になると閉まるように出来ておる。行ったところで無駄じゃ」
「……だったら、仕方がないですね」
密が心底残念そうに言うと
「心配しなくとも、ここは安全じゃよ。クマはお前のこれ以上ない心強い味方じゃ。ここはクマの言うとおりにしておけ。そうすれば危険な目には会わん」
ミミズク翁はそう言うと、土間の方に向かって行った。
晩御飯の準備でもするのかもしれない。
それにしても、今のミミズク翁の言葉は一体何だったのだろう。
このマヨヒガは危険など何もないような平和な田舎に見えるが、夜になると山賊でも出るというのだろうか。それにクマといれば大丈夫というのも気になる。クマはまぁ、一見大きくて怖い顔もするが、腕っ節が強いという印象は余り受けない。むしろちょっとぽーっとしている所があるから、こっちの方が気を使いたくなるぐらいだ。
そうだ、このミミズク翁はクマよりも話が通じるみたいだから、いっその事このマヨヒガやヌシ様についても尋ねてみようと、密は思った。
「あのー、突然こんなことを言うのは失礼かもしれませんけれど、このマヨヒガって一体何なんでしょう?」
密はミミズク翁の背中に質問をぶつけてみた。
ミミズク翁は何かの野菜をザクザクと切りながら答えた。
「ワシの口からは言えんな。マヨヒガはマヨヒガとしか言えん」
応答の感触からするとクマよりは何かを知っているということだろうか。
「どうして答えられないんですか?」
「ワシから言っても、意味が無いからよ。他者の口から聞かされても理解しようとする頭がなければ理解は出来ん」
「僕、理解しようとしています」
翁は野菜に続いて何かの肉を切り始めた。
「マヨヒガはお前が思っているよりも単純な世界ではない。この世界が何なのか、お前が理解をするためにはお前自身が気付くしかないのじゃ。心配せずとも、お前は賢い子じゃからそのうち気がつくかもしれん」
一応、答えはくれたようだ。
「じゃあ、ヌシ様というのは? その人は僕を元の世界に戻す力があるんですよね?」
賢者と呼ばれる老いた猛禽類は切った野菜と肉を鍋に入れ、その鍋を囲炉裏に持ってきて釣鉤に掛け、囲炉裏に火を付けた。
囲炉裏を囲むようにして、密の右側に座る。
囲炉裏の火が老ミミズクを赤く照らし出す。
そういえば、クマの姿が見えない。
「あの、質問が変わって申し訳ないんですが、クマは今どこに?」
「ん? あやつなら奥に行ったのかもしれん。お前の為に寝床を準備しておるんじゃろう」
密はクマがそんなことをするとは思えなかったが、少なくともこのミミズク翁が言うのならそうなのだろうと密は思った。ミミズク翁の方が密よりもクマとの付き合いは長いようだし、何より仲が良さそうなので、クマの事もよく理解しているのだろう。
「アンサーがまだじゃったのう」
ミミズク翁がそう言って、密は自分がヌシ様について質問していたことを思い出した。
「ヌシというのはこのマヨヒガの頂点に立つ存在じゃ。奴がいないとこのマヨヒガは立ち行かん」
「僕を元の世界に戻せるのも……」
「そうじゃ、ヌシだけじゃな。ヌシはマヨヒガとそっちの世界の橋にもなるんじゃよ」
「つまりそれだけ権力があると」
密の言葉に翁は少し眉を顰めた
「それは少し語弊があるのう。ヌシには確かに権力はある。じゃがそれだけではない。アレはまさに絶対者なのじゃよ。アレがいないとこのマヨヒガは滅ぶ」
「え? どうしてですか?」密は随分な単語が出て来たと思い、訝る表情をした。
「マヨヒガには泉の儀というのがあるのは知っとるじゃろう?」
密は頷く。
「あの儀式は十五年に一度するんでしたよね」
「左様。十五年に一度御殿にある泉の水は枯れてしまう。その為、泉に水を補充する必要が出てくる。その儀式にはマヨヒガの中では何名かが立ち会う決まりなのじゃが、その中に必ず僧正とヌシが含まれておる」
僧正というのはネズミのことだ。
「何故ですか?」
「儀式には進行役が必要じゃ。その進行役が僧正なのじゃよ。僧正は何やら難しい文言を唱え上げる。これが所謂祝詞ってやつじゃよ。続いて、僧正は泉へヌシを誘う。ヌシはそこで己の血を泉に捧げるのじゃ」
「血、ですか」
密の顔色が悪くなった。密は血が苦手だ。得意だという者もいないだろうが。
「ほうじゃ、血じゃ。と言っても、そんな大量ではないぞ。ほんの数滴だ。指先から数滴の血を泉に注ぐ。それで儀式は終わりじゃ」
「じゃあ、その血が無いと……」
「泉は枯れてしまう。そうなると、当然まずいのう」
「雨とかは降らないんですか?」
「マヨヒガでは、雨もあの泉に依存しておる。泉が無いと雨が降らんのじゃよ」
「そんなバカな。たかが泉で雨が降らなくなるだなんて」
「それがマヨヒガなんじゃよ」
翁はそう言って、何処からともなく煙管を取り出した。
密はその煙管もどこかで見たような気がした。
さっきから時偶感じるこの既視感がいい加減気になって仕方ない。密はミミズク翁なら何か知っているかもと期待して尋ねてみた。
「泉の儀については分かりました。それでですね、もう一つ質問があるんですが……」
「なんじゃ?」
老鳥は煙を一吐きして答えた。
「はい。あの、尋ねるのもおかしいかもしれませんが、僕はここに来てから時々、何と言うか……デジャヴ見たいなものを感じるんです。僕について色々と知っているミミズク翁なら何かご存知ではないかと」
ミミズク翁は一度煙管を吹かした。
外が暗くなってきたようだ。窓から差し込む光量が明らかに少なくなってきている。
波の音は一定の間隔でこの小屋を通り過ぎていく。
言葉が無くなると、この庵は波の音と囲炉裏で火が爆ぜる音しかしなくなる。それと、微かだが火にかけられた鍋が美味しそうな音と匂いを発し始めていた。
ミミズク翁が口を開いた。
「一つお前にヒントをやろうかの。その既視感はこのマヨヒガの正体を掴む手掛かりじゃ。それが何なのか分かったら、お前の中で渦巻いてる引っかかりが解けるかもしれんな。それと、これは老婆心からなのじゃが――」
ミミズク翁は一度言葉を切って、煙管の中身を囲炉裏に落とし、立ち上がり薬棚に向かった。翁はそこから新しい煙草を取り出して戻って来た。
「事実は時として残酷な面を持つ時がある。もし、お前がその『残酷な事実』に直面した時――」
老賢者はここで再び言葉を切り、煙管に火を入れ、一度吸って煙を吐き出した。煙の彼方のミミズクの目が妖しい光を帯びる。
「それを認めずに拒絶することは容易い。まどろみの中に自己を埋没させる。それもよかろう。遍く選択というものは個人にとって自由なものじゃからな。じゃが、もしその事実から目を背けず、立ち向かいたいと心から思うのなら、答えは自ずと見えてこよう」
「その答えは」密が促した。
「答えは――認めること、受け入れることじゃ。完全にな――」
受け入れること。
ミミズク翁の忠告が一体何の役に立つのか密には分からなかったが、彼が自分に大きな宿題を出したように密には思えた。しかも、それは数学や科学のように、答えが明確にズバリと目に見えて分かる形をしていないものだ。クマはミミズク翁を医者だと言ったが、これでは医者というよりは哲学者に近い。
密が少なからず、今のミミズク翁の言葉の意味を思い悩んでいると感じたのか、老鳥は何も言わず煙管を吹かし続けるだけであった。
それから、しばらく会話は無かった。
外は完全に暗くなってしまった。明かりはもう、囲炉裏の火しかない。
ミミズク翁は鍋の味付けをして、味見をしてから「よし」と唸ってから密に言った。
「もう質問はないかな?」
「あ、はい。もう大丈夫です。ありがとうございました」
ミミズク翁は密が礼をする姿を見て、何とも言えない微笑み方をした。まるで弟子を可愛がる師匠の様な顔に密には見えた。
いや、違う。この顔、と言うよりはこの雰囲気もどこかで感じたことがあるような気がする。
その時、バチッと囲炉裏の火が爆ぜ、火の粉が舞いあがった。
火の粉の向こうには、ミミズクの顔ではない碩学の学者然とした年老いた男の顔があった。
「――え?」
驚いて目を瞬かせると、火の粉が消え去った時、密の目の前には古めかしい色をした草臥れたミミズクがいるだけであった。
「どうした、密?」
「……いや……なんでもないです」
ミミズク翁が煙管の火を消すと丁度、クマが奥の襖を開けて現れた。
「おう、来たな。それでは飯にするかね」
ミミズク翁がそう言って、鍋の蓋を開いた。
クマはミミズク翁の向かい側に座った。
それから三人はミミズク翁が作った鍋を食べた。
味は味噌味だったが濃くはなく、素材の味が染み出ている鍋だった。
密は汗をかきながらも、箸を止められなかった。それくらいこの鍋は美味しかった。
クマとミミズク翁は相変わらず思い出話をしていた。
鍋を食べ終わると、密は疲れと満腹感からか、猛烈な眠気に襲われそのまま横になってしまった。
密は直ぐに寝息を立て始めた。
それを見たクマは無言で立ちあがり、襖を開けた。
襖の奥は座敷だった。
そこには寝具が一式整えられていた。
クマは密の体を抱き上げ、密を敷布に横たえた。
そして上から布団を掛け、襖を閉じた。
「眠ったようだな」
ミミズク翁が言うと、クマは頷いた。
「良く寝ています」
「明日には御殿に連れていくのか」
「はい」
ミミズク翁は煙管を吹かし始める。
「――奴が黙っておらんぞ」
クマは囲炉裏を挟んで翁と向かい会う位置に戻って座った。
「分かっています」
ミミズク翁に向き直ったクマは、背後の闇に同化して恐ろしく大きく見えた。
居間には老いた猛禽類と大きな熊しかいない。
仄暗く橙色に染まる庵の壁に二人の影がぼんやりと映されている。
「あやつは手強い。ワシが手こずる位じゃからな。生半可なことでは揺らぎもせん。もし、御殿に入るなら奴を避けては通れぬ。必ず相まみえなくてはならない。覚悟して行け。ワシは止めはせん」
クマがキョトンとした顔をした。そして、ポリポリと自分の頭を掻いた。
ミミズク翁はクマの態度からクマの心情を読む。
「なんじゃい。ワシが反対するとでも思ったか?」
「はい、正直」
そう言って、クマは苦笑した。
「それ程お前にとって密は大切な存在なのじゃろう。なにせ密はお前の――」
ミミズク翁はクマの顔を見て、言葉を切った。最後まで言うのは無粋と思ったのだろう。
翁は飲みこんだ言葉の代わりに紫煙を吐き出す。
「ワシもお前も一度は煮え湯を飲まされておる。ワシは例の件があったから、丁度良いタイミングじゃったが、お前の場合は完全にイヌガミ大納言の謀りで左遷させられとる。再びお前が御殿に戻るなら、やつが何か仕掛けてくるのは間違いない」
「忠告痛み入ります、ミミズクの大臣」
ミミズクは肩を揺らし、静かに笑い
「もうワシはその名では呼ばれてはおらんし、これからもそうなることはなかろう。そういうお前の方はどうなんじゃ? かつての地位に返り咲く気はあるのか?」とクマに切り返した。
「ボクも二度とあの名前を与ることはないと思っています。ボクはただの――クマです」
老賢者は目の前の不器用な男をその叡智を秘めた瞳で見つめる。
男の目には強い意志が炎と共に宿っていた。
翁の影が揺れた。
「ならば、もう明日に備えて寝るとよい。老人は朝は早いが、夜も早い。そろそろワシも休むとしよう」
ミミズクの影は密が寝ている方向とは逆の襖に移動した。
すっと襖の開く音がして
「ジジイは夜が早いと言ったが、実はかなり早い時間に起きるんじゃよ。夜明けよりもずっと早くな」と影の主は言った。
もう片方の影の主が首をかしげると、翁は
「歳を取ると、小便も近くなるんじゃ。わしゃ、最近夜中に三度も厠へ起きる」
と、言って少しおどけるようにその真っ白な眉を動かし、フクロウの鳴き声のような笑い声と共に部屋の奥へと消えていった。
居間には波の音と囲炉裏の残り火が燻ぶる音とクマが残された。
次の日、密が目覚めると既にクマは出立の準備を整えており、慌てて密は土間の台所を借りて身支度をした。
ミミズク翁の庵を出る前に密はミミズク翁に呼び止められた。
「こいつを持っていけ、昼飯じゃ」
笹の葉に包まれたおにぎりだった。
「ありがとうございます」
時代劇とかでしか見たことのないものを実際に持ってみると、ほんわかと暖かかった。
密はなんだか元気が出てくる気がした。
もう一度ミミズク翁に世話になった礼を丁寧に述べ、密はクマの後を追って歩き始めた。
今日も暑くなるだろうな、と密は海原と空を見て思った。
海も空も昨日と変わらず、どこまでも広がっていた。
太陽の光で、紺碧の海が煌めいている。
クマは相変わらず海側より森側に沿って歩いていく。
クマのまさかりの刃も太陽の光を反射して白く光っていた。
密はクマに言って笹の葉の包みをまさかりに引っ掛けてもらった。
昨日とクマは変わっていないはずなのだが、密にはクマが少し変わっているように見えた。
何が変わった、というわけではないのだが、強いて言うなら雰囲気だろうか。クマの放つ雰囲気が変わった気がする。
昨日の雰囲気は姿と同じでのほほんとしていたようだが、今のクマの姿はのほほんとしているが、放つ雰囲気がシャキっとしている気がする。
「僕が寝た後に、何かあったの?」
「え? いや、特には。あの後直ぐ寝ちゃったし」
クマは昨日と同じようなのんびりとした口調で言った。
密は適当に相槌を打って済ませたが、ミミズク翁はどうやらクマにも何か話したのではないかと、密はみた。
再び二人は森に入った。
潮の香りが遠ざかる。
波の音の代わりに土を踏みしめる音が耳に届いてきた。
川に架かっている橋を渡り、暫く歩くとまたあの田園風景が目に飛び込んできた。
クマに付いて密は歩き続け、昨日通ったあの蛇行した傾斜がある上り坂の入口にやって来た。
「やっと戻って来たね」
密がやれやれとため息交じりで言ったが、クマは何も答えなかった。
不審に思った密が名前を呼ぶと、クマは密に向き直った。
「密」
クマに突然名前を呼ばれて、密は少し驚いた。
「ボクは何があっても密の味方だ。それを忘れないでほしい。この先、何があっても」
やけにクマの語気が強く感じられた。クマの真っ直ぐな視線に圧倒された密は素直に頷いた。
クマはそれだけ言うとまた歩き出した。
蜩の鳴き声が辺りに響き渡っていた。
そよぐ風が木々の枝を揺らし、木の葉同士が擦れ合って夏の山の声を運んでくる。
密はまたクマの後を追って歩き始めた。
二人は曲がりくねった道を歩き続け、ネズミの寺の前の分岐点を通り過ぎ、巨大な白い建物が見える所まで辿り着いた。
御殿は相変わらず背後の緑や空の青に良く映える白さを誇っていた。塀の瓦と門だけが白色ではない。
クマは一度まさかりを担ぎ直し、門を目指して進み出した。
さっきからクマは何か意気込んでいるようだ。
密の経験上、こういう意気込みというのは普通、失敗の元だと思っている。意気込んだところで、どうにもならない時はどうにもならないのだから、自分の実力を出し切れるように心がけるだけでいいと思っている。
昨日はこの道でネズミ僧正に捕まり、そのまま正反対の方向まで強行軍をさせられたのであった。
何もないだろうとは思っているが、少し密は身構えてしまった。結局門に辿り着くまで何も起こらず、二人は門まで来た。
門は大きな木製の扉であった。映画とかで良く見るやつにそっくりだった。とても一人や二人で開くようなものには見えなかった。
クマは扉まで歩み寄ると、徐に扉に手を当てた。そして、驚いたことにそのまま無理くり扉を押し開けたのだ。地鳴りのような音を立てて、扉はゆっくりと開き始めた。
クマは力持ちだろうとは思っていたが、こんな大扉を片手で動かすとは半端な力じゃない。密は少し離れた所でクマが扉を動かすのを見ていた。
クマが扉を開け切り、こちらを向いて手招きをした。来いと言っているようだ。
門を潜るとクマは素早く扉を閉め、左右を見渡した。釣られて密も左右を見たが何もない。
密の正面には平安貴族でも住んでいそうな大きな、当に『御殿』が建っていた。地面には白い砂利が一面に敷き詰めてあり、一目で質が良いと思える、木材を使った平屋建ての建物が延々と広がっている。
余りにも広く大きいので、遠近感がおかしくなり不気味にさえ思える程だ。
密はこの御殿が奇妙に静かであることに気がついた。
誰もいないのだろうか、これだけ広いというのに。てっきり番兵でも出てくるのかと思っていたのだが。
「ねぇ、ここって誰もいないの? こんなに広いのに」
「そのうち出てくるかもね」
クマはぶっきらぼうに言うと、そのままのっそりと御殿の廊下に乗り上がった。
「ちょ、ちょっと、勝手に上がって大丈夫なの? 誰か来たら怒られるんじゃないの?」
「問題無いよ。どうせ来ないから。まだね」
「まだねって……」
後から出てくるということか、なら待った方が良いのではないだろうか、と密は思った。
「ほら、さっさと進もう。この御殿は広いからね。急がないとヌシ様に会う前に日が暮れるよ」
クマはそう言うと、わき目も振らず廊下を進み始めた。
密も置いてけぼりは嫌だったので、それに続いた。
廊下は右側に蔀戸が延々と続き、左側には白い玉砂利の地面がある。その玉砂利の向こうには御殿と同じ位、広い池があった。池には小さな島もあり、そこには橋が架けられていた。これが件の泉なのだろうか。
「クマ、あの池が礼の泉の儀を行う泉なのかい?」
「いや、あれはただの池。泉は御殿の一番奥にあるんだよ」
クマの口調は相変わらずで、説明を受けていても受けている気がしなかった。
この御殿は静か過ぎる。
外であれだけ煩かった、蝉や蜩の鳴き声も、木々が風で揺れる音も聞こえない。
密はこの静かさが気がかりだった。まるで、意図的に音を遮断してあるかのようだ。聞こえてくるのは自分の足が廊下を踏む時に板間が鳴る音くらいだ。
そういえば、クマの足音が聞こえない。のしのしと歩くクマの歩行なら、板張りの廊下にどすどすと響くと思ったのだが。
だが、良く耳を澄ますと、すっ、すっ、とクマの足が床を滑る音が聞こえる。どうやらクマはこの廊下に上がってから、歩行の仕方を変えたようだ。
クマの様子がおかしい。纏う空気やその仕草に若干ではあるが緊張感の様なものが透けて見える。
そこで密はふと思い至った。
もしかしたら、ここには誰もいないと思っていたが、実はこの蔀戸を一つ隔てた向こうにはたくさんの人がいるのではないだろうか。彼らは密達を監視するために身を潜めているだけなのかもしれない。そう考えれば、先程のクマの発言やこの静けさにも納得がいく。
そう思った途端、密はこの蔀戸から刺すような威圧感を感じ、歩く場所を廊下の中央から外側へと移動し、クマへと近寄った。
クマは黙々と摺り足で歩き続けた。
幾つかの渡殿を渡り、建物に移ったが、一向に廊下に果ては無く、相変わらず左の庭と右の蔀戸の風景に変わりは無かった。いい加減、嫌気がさしてきた密は堪らずクマに声を掛けた。
「ねぇ、まだなの? さっきから何時間歩き回ってるんだよ」
「もう少しだよ」
「もう少しって言うけどさっきから行けども行けども廊――」
密は最後まで文句を言うことは出来なかった。
その景色が途切れたのだ。
また渡殿が現れたが、その先は廊下ではなく建物の入口に直結していた。
「ここから先は四象殿って言うんだよ」
クマはそう言って渡殿を渡り始めた。
四象殿の入口には扉があった。
この扉も御殿の正面の門に似て木製の作りだった。ただし、この扉は四隅に黒い金具の装飾がある。
クマはこの扉の前で一度立ち止まった。
そして、密と名を呼び密を見た。
「密はここで待ってて、ボクが戻るまで勝手に動いちゃダメだよ。そうだ、お腹が減ったらおにぎり食べてて」
クマはそう言うと、まさかりに引っ掛けておいた笹の包みを密に渡すと密に有無を言わせず、扉を押し開けて奥へと入っていってしまった。
扉はクマが通るとそのまま閉まった。
それ程重そうな扉ではないようだ。
密はそのままその場に座り込んだ。扉の片側に背中を預け、ふうと一つため息を吐く。
クマはこの御殿に来てから様子が変だ。
一人で突っ走り気味な気がする。本人はあんなんだからほとんど自覚は無いんだろうが、こっちのことも少しは気にしてもらいたい。こんな不気味な所に一人で置いていかれたら、余計に不安になってしまうではないか。
密はクマに対して憤懣やるかたない気持ちになった。
それからしばらくしてもクマは帰ってこなかった。
密はだんだん気が気じゃなくなり、いっそのこと扉の奥に行こうかとも思ったが、クマを裏切る気がしたので何とか思い止まった。
しかし、いつまでもじっとはしていられない。そこで密はクマが残していった唯一の物であるミミズク翁お手製のおにぎりを食べることにした。
早速笹の包みに手を伸ばそうとした次の瞬間。
背中を預けていた扉とは反対側の扉が少し開き、中から緑色の物体がニュッと飛び出して来た。
密がギョッとして手を引っ込めると、その隙に緑色の物体はその包みを掠め取り、扉の奥へと消えた。
「――あ! コラ待て!」
密は間髪いれず飛び起き、扉を開け放った。
扉の奥は直方体の部屋だった。
正面に一つ扉があり、左右の壁にはいくつも扉があった。
左の扉のうち、一つが開け放たれている。多分あの緑色の物体が通った跡だ。
密は一瞬追おうか追うまいか逡巡したが、空腹の力か緊急事態だからと即決して、緑色の物体を追うことにした。
密は左の扉に飛び込んだ。
扉の先は暗かった。
完全に蔀戸の隙間がふさがれているのだ。だが、戸と戸の間には隙間があるらしく、一条の光が一定間隔でこの空間に切れ込みを入れていた。
その一条の光の中を緑色の物体が走り去っていった。
「待て!」
密はそれを追って走る。
物体は突当たりまで来ると、左に飛び込んだ。
密も左へ飛び込む。
すると、突然明るくなり密は目が眩んだ。
どうやら、外に出たようだ。
物体が砂利を蹴って、激しく音をたてている。
漸く目が慣れ、密も追跡を続ける。
物体は池の方まで来ると、そこに架かっていた橋を渡った。
密はそれを追いかけて走る。
ここで密はその物体の後ろ姿をまじまじと見たが、物体は驚いたことに着物を着ている。しかも色鮮やかで派手な所から女物ようだ。
密は自分の目を疑ったが、矢張り目の前を走る小柄な緑色の物体、いや人物は女者の着物を着ている。
緑色の人物はそのまま池を渡り切ると、池の向こうにある建物に入っていった。
その建物は四象殿やその他の建物に比べると小ぢんまりとしている。しかも、作りも寝殿造りっぽく無い。
密は建物に近づきそっと、扉の中を覗いた。
中は広い座敷だった。玄関の様なところを除けば後は全て畳ばかりの部屋だ。
密は扉を開け、中に入った。
風通しが良く、さわさわと木の葉が鳴った。塀の外の森に近いのだろう。密は玄関の様になっている所で靴を脱ぎ、そのまま座敷に上がった。
「失礼しまーす。おにぎり取り返しに来ました」
と、間の抜けた言葉を掛けたが誰も返事をするものはいなかった。
座敷は密から向かって右側に床の間が設けられていた。正面には縁側のようなものがある。密は縁側に向かった。縁側から外は庭だった。綺麗に整えられており、樹木や小さな池、生垣がとてもよくこの屋敷の雰囲気に合っていた。
ふと、庭の奥を見るとそこには手毬をして遊んでいるあの緑色の人物がいた。密は近づいて行ったが、その人物は手毬に夢中で気が付いていない。
「おい、おにぎり返せよ」
密がそう声を掛けると、その手毬をしていた人物はいきなり声を掛けられて驚いたのかギョッとして飛び上がり、遊んでいた毬を落としてしまった。
そして、酷く遅い仕草でこちらを振り向いた。
その人物は恐らく少女だ。
ただ、顔面や首の前を除いて、全身が緑色だった。
顔は目鼻立ちがくっきりとしていて、まるで日本人形のような顔をしている。肩口で綺麗に切りそろえられた碧の黒髪が着ている赤地に梅をあしらった着物に良く映えていた。緑色であることを差し引いても美少女だ。
「ひ、密お兄ちゃん?」
少女は酷く小さな声で言った。
「やっぱりきみも僕のことは知っているんだな? ってそんなことはこの際、どうでもいいんだよ。さっき僕から笹の葉の包みを盗んでいっただろう? あれを取り返しに来たんだ」
密はそう言って一歩詰め寄った。
少女は明らかに動揺しながら一歩引き下がる。
「また逃げようったって、そうはいかないぞ」
密は少女が動き出す前に少女の二の腕を掴んだ。
「ま、待って、お兄ちゃん。わたし、そんなこと………」
少女は何か言っていたが、余りにも声が小さい為に密には聞き取れなかった。
「ほら、早く返せよ。そしたら手を離してあげるから」
「わたし、知らない」
「え? 惚けんなよ。さっき僕の所から逃げる時に見たんだ。君の姿を」
密がそう言うと、少女は小さく息を飲んだ。何かに気がついたようだ。
「そ、その人はもしかして……」
少女が何かを言おうとした時、密の背後から突然声が上がった。
「おい、密。その手を離せ。さもないとお前のおにぎりはわたしが全部食べるぞ、コノヤロー」
密が振り返ると、縁側の上に笹の葉の包みを掲げた緑色の少女が仁王立ちしていた。
思わず密は自分が掴んでいる少女と見比べた。
そっくりだ。というか同じだ。
密はまるで鏡を見ている気分になった。
碧の髪、くっきりした目鼻立ち、着ている着物も同じ柄のように見える。
「ヤモリちゃん」
「待ってろイモリ直ぐに助けてやる」
ヤモリと呼ばれた少女が言うや否や、その少女は軽やかなステップで密に近づき、密めがけてドロップキックを仕掛けて来た。
その身のこなしに呆気にとられていた密はそのまま胸に少女のキックを受け、吹っ飛んだ。
密はしこたま腰と背中を玉砂利にぶつけ、悶絶した。
「へんっ! どうだ参ったかっ!」
キックをかました少女は華麗に着地まで決め、自慢げに胸を張る。
「ヤ、ヤモリちゃん。お兄ちゃんはおにぎりを……」
「あ、これ? 何か美味しそうな匂いがしたから行ってみたら、この鈍臭そうな密が持ってたんだよね。丁度お腹も空いてたし、思わず取ってきちゃった」
ヤモリと呼ばれた少女は悪びれも無く言った。
「そ、それはダメだよ」
イモリと呼ばれた少女は抗議をしたが、声が依然として小さいので抗議になっていなかった。
密は何とか上半身を起こし、怒鳴った。
「何すんだよ!」
「それはこっちのセリフだ。あたしのイモリに何すんだよ。このロリコンヤロー! 変態! 鬼畜! いくら密でも許さないぞ」
出るわ出るわ、密に対しての罵詈雑言。自分のやったことを棚に上げてよくぞここまで他人を罵倒できるものだと、密は狼狽した。
ヤモリはイモリに比べて途轍もなくアグレッシブなようだ。口調も全然違う。しかも、良く見ればヤモリの着ている着物はイモリと同じ赤地であるが、施された意匠は桜であった。
密が言い返そうとした時、新たな声が聞こえた。
「何ですか、先程から騒々しい」
声は凛とした鈴のような声だった。
声の主が座敷の奥から姿を現した。
その人物は縁側には出ず、廊下の際で立ち止まる。
そこに立っていたのは十二単を着た狐だった。
「キツネ御前様ぁー。密がイモリを苛めるんです。だからあたしが制裁を……」
「あら、密がここに来ているの?」
密はまだ若干痛む背中を抑えつつ、立ち上がった。
キツネ御前は密の姿を見つけるとその細く、流れるような眼を更に細め、やわらかく微笑んだ。
キツネ御前は確かに狐ではあったが、そうとうな美人に密には思えた。顔は完全に狐なのだが、全体的にほっそりとした印象で、目も切れ長だ。だが、薄情な印象は受けない。黄金色の毛並みは霊獣のような神聖さを思わせるほど整っていた。ピンとたった耳もこの人物の容姿を損なわせるものではない。
頭頂部から項にかけてたてがみがあり、そのたてがみは体毛と同じ黄金色でとても長かった。十二単を優に超える長さを持っている。
「密、随分と大きくなったわねぇ。お帰りなさい」
この世界の住人の多分に漏れず、キツネ御前にも密のことは知られているようだ。
この時密はまたあの既視感に襲われた。頭の中にこの光景がフラッシュバックする。壊れた映写機のようにコマ切れの画像が出来そこないのアニメーションのように展開された。
記憶の中のキツネ御前も美人で微笑んでいた。だが、奇妙なことに御前の顔がたまにぶれてハッキリしないことがある。
「えと、あの……」
密がうまく言葉を紡ぎだせないでいると、イモリが口を挟んだ
「御前様。あの……」
「どうしたの? イモリ」
「あ、あの、ヤモリが密お兄ちゃんのおにぎりを……」
どうやらそれだけでキツネ御前にはイモリの言いたい事が伝わったようだ。キツネ御前はヤモリに視線を遣った。
「ヤモリ」
ヤモリは思いっきりしらばっくれている。手の平を後頭部で合わせて、視線をあらぬ方向に向けている。まるで悪戯好きの男の子ようだ。
「ヤモリ」もう一度、キツネ御前は問い質した。
「いいじゃん。密のものなんだから。密の物はあたしのもの。あたしのものはあたしのもんなのよ」
どこかで聞いたことのある屁理屈を言うヤモリにキツネ御前は諭すように言った。
「そんなのは理由にならないわ。たとえ親しい者からでも無断で物を取るのはいけないことなの。さぁ、そのおにぎりを密に返してあげなさい」
ヤモリはむすっとした顔をしていたが、流石にキツネ御前には逆らえないのか、渋々密に笹の包みを返した。
そして、包みを返しながら、密にしか聞こえない位の小さな声で
「……悪かった」
と言って、直ぐに密から離れた。
何故か少しヤモリの顔が赤かった。
おにぎりの件が片付いたせいか、密は突然お腹が減ったことに気がついた。我慢できないほどの空腹だ。密は不躾だとは思ったが、目の前の貴人に尋ねた。
「あの……すみません。えーっと、この辺りで食事が出来る所ってご存知ですか?」
キツネ御前は密の様子にクスッと笑って
「そのおにぎりを食べたいのね。だったら、この座敷の奥を使って頂戴。積もる話もあるし……イモリ、ヤモリ。あなたたちももう戻りなさい」
「「はーい」」
イモリとヤモリはキツネ御前の言うことを聞いて、そのまま縁側から座敷の奥へと消えた。
密の目の前にはキツネ御前だけになった。
「それでは、わたくしたちも参りましょう」
そう言って、密を招き入れる様な仕草で座敷の奥に向かい始めた。
密もキツネ御前の言うとおりにして、座敷に戻った。
オーバーオールを着た大きな熊は四象殿の最奥の間まで来ていた。
マヨヒガのヌシの間は直ぐそこだ。
最後の渡殿の入口に立った時、反対側には何者かが立っているのを見つけた。
「畏れ多くもここから先はマヨヒガのヌシ様の間。部外者を入れるはことまかりならん」
地響きのように低い声だった。
クマはこの御殿での礼儀通りに頭を下げた。御殿の外の者は御殿の中の者には必ず頭を下げて対応しなければならない、というしきたりがある。
クマにはこの人物が誰かは分かっていた。
「急を要する事態であります。直ちにヌシ様にお目通りを願いたくここまでやって来た次第で候」
クマの声にはもうのほほんとした雰囲気はない。
橋の向こうの人物が答えた。
「ならぬ。何人もここを通すなとのヌシ様の勅命。速やかに立ち去れ」
「密が参ったのでございます、イヌガミ大納言」
そして、クマは頭を上げた。
目の前には黒い束帯姿の茶色い毛並みの狗が立っていた。
クマに負けないほどの長身だ。
目は鋭利な刃の様な形で赤褐色の双眸をクマに向けている。
黒い礼冠を頭に戴き、右手には象牙の牙笏を持っている。これぞ殿上人の模範とばかりに一糸乱れぬ厳然さを身に纏っていた。それはある程度歳を経た者でしか持つことの出来ないものでもあった。
この御殿の不気味なまでの静けさや、清廉さもこの男が創り出しているようだ。
農夫姿の熊と束帯姿の狗が渡殿を挟んで対峙した。
渡殿は水面のように磨かれており、あたかも鏡のように二人を映し出している。
威厳の権化のような大納言はクマがしきたりを破ったことを咎めることはせず、その険しい顔の眉間に更に皺を寄せた。
「密だと?」
「ええ。『あの』密です」
イヌガミ大納言がほんの一瞬、目を伏せた。
その隙をクマは見逃さなかった。
右手に持ったまさかりをイヌガミ大納言めがけて一振りした。
まさかりは刃と柄が綺麗に分かれ、刃の部分がイヌガミ大納言に向かって放たれた。
クマの怪力から放たれたまさかりの刃は目にも止まらない早さで大納言の頭部をかち割ろうと一直線に向かって行った。
しかし、大納言の反応も素早く、まるでクマのこの暴挙を予想していたかのようにすんなりと手にした笏で刃を弾いた。
束帯の袖が風を孕んで膨らむ。
クマは残った柄の両端を握るとそれを一気に引き抜いた。
すると、柄から抜き身の刀が現れた。
このまさかりの柄は仕込み刀だったのだ。
イヌガミ大納言が態勢を立て直す前に、クマは刀を構えて突進し
た。クマの巨体からでは考えられない速さだ。こんな速さであれば、刀で斬られずともぶつかっただけでただでは済まされまい。
後一歩踏み込めば大納言に刀が届く。
クマがどんっと一歩進んだ。
途端にクマの動きが止まった。
白銀の刀身には大納言の赤い血ではなく、赤褐色の瞳の色が映るだけである。
「なっ、何っ!」
クマの足元で何やら黒い墨で呪文のようなものが書かれた札がクマの足を縛りつけていた。しかも、その札はするするとクマの体や腕にまるで蛇のように這っていく。
クマが悪態をついて引き剝がそうとしたが、クマの怪力をもってしてもその札は剝がれなかった。
「お前がそう出ると思って、予め罠を張っておいた。お前は昔からここぞという時の思慮が足りない。だからこんな初歩的な罠に引っ掛かるのだ。」
イヌガミ大納言は鼻先三寸まで来ていた刀を笏でゆっくりとどかし、呆れたような表情で言った。
クマが刀を落とし、その場に倒れこんだ。
刀の落ちた音が静かな渡殿にむなしく響く。
「……ひ、密を、ど、どうする……つもりだ……」
そうとう苦しいのだろう。クマが息も絶え絶えで大納言に尋ねた。苦しさからなのか、怒りからなのか凄まじく凶暴な顔つきになっている。悪鬼さながらの形相だ。
大納言はクマを一瞥して言った。
「お前は知らなくてもいいことだ。密をここまで連れて来たこと、感謝するぞ。クマ中将」
「――お前、ネズミを抱き込んだな」
大納言の動きが止まった。
「何故そう思う」
明らかに大納言の言葉には不機嫌さが込められていた。
「簡単なことだ。あの人は嘘を吐くのが苦手だ。都合が悪くなるとやたらと鼻を動かしたり、鳴らしたりする癖を持っている」
「フン、あの坊主め。なんと不用心な男だ」
大納言の口調から忌々しさが滲み出ている。
「泉の儀で何をするつも――」
クマの詰問は途中で悲鳴に変わった。
大納言が呪縛を強めたのだ。
「貴様はそれ以上喋るな」
大納言はそう言うと、懐に手を入れ数枚の紙札を取り出した。
それを放ると、突然それは人間大の大きさになった。目や鼻、口の部分には切れ込みがあり、それが眼鼻に見えなくもない。
大納言が手を振るとその人型の紙の人形はもがき苦しむクマを担ぎあげた。
「そやつを牢に入れておけ」
紙の人形達はそのままクマをどこかに連れて行ってしまった。
「さて、それでは私も迎えに行くとするか」
黒衣の大納言はそう言うと、その巌の様な表情のまま滑るように渡殿を歩き始めた。
束帯の袖が風を受けて重たげに揺れる。
森里密は座敷の奥で食事をしていた。
奇妙な住人達の住むマヨヒガの、一番大きな屋敷の一角で密はキツネ御前という人物に出会った。キツネは密を食事に誘い、キツネと共にいたイモリ、ヤモリ姫の二人と共に今この座敷にいる。
四人でいるには余りにも広い座敷だった。
密は昨日ミミズク翁から貰ったおにぎりだけを食べるつもりだったのだが、あれよあれよと言う間に盆に載った御馳走がいつの間にか並び、密は思わずこれらの食べ物に手を付けた。
ほっぺたが落ちるというのはこういうことを言うのだろう。
ミミズク翁の庵で食べた鍋も良かったが、ここの料理は全て密の舌を唸らせるものばかりで、密も箸を置くことが出来ず、貪るように食べてしまった。
ようやく、密が食べ終わり箸を置いた時点で密は現実に戻って来た。
「……すみません。余りにも無礼なことを……」
密は身がすくむ思いで、その場に平伏した。
他人の家に上がり込んで、ご飯を御馳走になり、挙句その食べ物獣の様に全て平らげてしまうだなんて、品が無さ過ぎる。ここが、ミミズク翁の庵であれば、彼は笑って許してくれそうだが、この品を極めた様な御殿では、キツネが引いてしまうかもしれないし、第一怒られそうだ。
「密」
「はいっ!」思わず、声が上ずる。
「もう、いりませんか?」
「はい?」
「もっと、食べたくはありませんか? 欲しいのならいくらでも出してあげますが」
「い、いえっ! もう、結構です。はい。ご、御馳走様でした」
密が顔を上げると、キツネ御前は驚くほど長い黄金色のたてがみを揺らし、さも嬉しそうに微笑んでいた。
キツネの表情から、彼女が特に怒っていないことが分かると、密はホッと胸を撫で下ろした。
だが、ホッとしたのも束の間、密の隣から快活な声が上がった。
「よーし。それじゃ、食後の運動にもう一遊びするか、密!」
緑色の肌をした、活発そうな少女が密の右手を引く。
「密お兄ちゃん。わたし、お兄ちゃんに呼んでもらいたい絵本があるの。読んでくれる?」
密の左側にいた、同じく緑色の少女が控えめながらも密の左手を引く。
左右どちらからも引っ張られては密も何も出来ない。おろおろと二人をなだめすかそうとする。
「お、落ち着いてよ、二人とも。僕は体が一つしかないから、一度に両方は無理だよ」
「あらあら、密は人気者なのね」
「そんな、呑気なこと言ってないで助けください、キツネ御前!」
密の悲痛な叫びの間にも、密を引っ張る力は段々と強くなり、密はもう前につんのめりそうになっていた。
「イモリ、ヤモリ。密の言うとおりですよ。そんなに強く引くと密の腕がもげてしまいます。それじゃあ、こうしましょう。これからイモリが密と一緒に遊びます。」
「えー、嫌だぁ! 密はあたしと遊ぶのぉ!」
「イモリの後にヤモリが遊ぶのです。密はちゃんと遊んでくれますよ」
御前の提案を確認するように、ヤモリは密の方を振り返った。
「必ず、遊んでくれるか?」
密はここで首を縦に振らなければ、今度こそ腕を引き千切られると思ったので、力強く頷いた。
ヤモリはとびきりのプレゼントでも貰ったように、目を輝かせた。
「それじゃ、最初はイモリからね。適当な時間になったら交代よ。ヤモリ、こっちへいらっしゃい。書庫の整理を手伝って頂戴」
キツネ御前はゆっくりと立ち上がると、春の色彩が散りばめられた十二単を揺らしつつ、ヤモリを連れて奥へと消えた。
密はその姿を見送った後、傍らにいた少女に目を向ける。
イモリはようやく欲しいものが手に入った、というような恍惚とした表情で密を見つめ返していた。
「イモリは何の絵本を読んでほしいんだい?」
先程のイモリの発言から察した密が尋ねると、緑色の少女はどこから持って来たのか一冊の絵本を密へと差し出した。
「結構古い本だね」
密がそう感想を漏らすのも無理もない。密へと差し出された絵本は表紙も薄汚れ、今にも表紙が取れてしまいそうな程ボロボロだったのだ。何故か、表紙にも背表紙にも題名が書かれていない。正直絵本と言われなければ、そうだとは思えない。
「それは、御前様が書庫から持ってきてくれたものなの。わたしじゃ読めないから、お兄ちゃんに読んでもらおうって、思ってたんだ」
イモリは密の脇の下をすり抜け、胡坐を掻いていた密の足の上にすっぽりとその身を収めた。
密は多少動揺したが、小さな子供が絵本を読んでもらうには中々どうして理に適った位置だと思い、何も言わず口を噤んだ。
開いた絵本からは古い本特有の劣化したインクの匂いが立ち上り、密の鼻をついた。
絵本は題名もなく唐突に絵と文章から始まっていた。
むかしむかしあるところに、おとこのこがいました。
おとこのこはだいすきな、かぞくといっしょにしあわせにくらしていました。しかしあるとき、こわいひとがきておじいさんをつれさってしまいました。
おじいさんをなくしたおとこのこは、そのうちひとりまたひとりとかぞくをうしなっていきました。
きづいたとき、おとこのこはひとりぼっちでした。
おとこのこはかぞくをとりもどそうとけっしんしました。
おとこのこはいろいろなところにいきました。
おとこのこはやま、かわ、てら、もり、すなはま、おしろへいきました。
そして、おとこのこはかぞくをとりもどしました。かぞくだけでなく、たくさんのともだちもてにいれました。
おとこのこはいつまでもしあわせでした。
絵はまるで幼稚園児の絵のように雑だった。とてもではないが絵本と呼べるような代物とは思えない。文章も表現も稚拙で読み物としての価値もあるとは思えなかった。イモリがどうしてこんな本を気に入っているのか密には理解できなかった。それに、何故か密にはこの絵本が得体の知れない不気味なものに思えた。どうしてそう思うのか自分でも判然としないが、兎に角この小さな少女の持つ古ぼけた絵本が密に言い知れぬ焦燥感をもたらすのだ。
「なぁ、イモリ」
「なぁに、お兄ちゃん?」
「この絵本は御前様の書庫にあるって言ったよな?」
イモリはニコニコしながら頷いた。
「その書庫にはこれ以外にも絵本があるのかい?」
「んー、分からない。御前様がお兄ちゃんにこの本を読んでもらいなさいって言ってくれただけだから。書庫にははいったことないの」
「キツネ御前が僕に……」
密は言葉を切って考え込んだ。
キツネ御前がどうして自分にこの本を読ませようとしたのか、その意図が気になったのだ。
「この絵本おもしろかったか?」
「え? あ……うん……おもしろかった……よ」
イモリの目はこれ以上ないほど、泳いでいる。確実に嘘だ。密もこの絵本がそれ程面白いとは思わない。
「イモリ、キツネ御前の書庫ってどこ?」
イモリは一瞬キョトンとしたが、直に密の意図を察したのか、密のひざから飛び降りると密の腕を掴んだ。
「こっち」
密の腕を掴んだまま、イモリは座敷の奥へと進み始めた。
密はある扉の前に連れ出された。
白い漆喰で固められた扉だった。取っ手がなければ、壁と間違えて通り過ぎていただろう。
イモリはそのまま扉を開けた。
書庫の中は薄暗く、ひんやりとしていた。
巻物や和綴じの本がみっしりと本棚に並べられ、入りきらない物が床に散乱している。
イモリはそのまま部屋の奥へと進み始めた。密もそれに続く。部屋が薄暗いせいで、床にある本や巻物をうっかり踏みそうになる。密は注意しながら、イモリを見失わないように進むのに苦労した。
しばらく進むと、奥で灯りが見え始めた。
イモリが立ち止まった所に、キツネ御前はいた。
キツネ御前は読書スペースと思われる二つ繋いだ畳の段の上に腰を下ろし、読書台と思しき台に本を立て掛け、そこに視線を落としていた。何か読んでいるらしい。灯りは畳の両隣に置かれている燭台に灯っていた。
「そろそろ来る頃だろうと思っていました。私に何か聞きたいことがあって来たのでしょう?」
「はい。御前様にお聞きしたいことがあったので、ここまでやって来ました。少しの間お相手して頂いてもよろしいですか?」
蝋燭で照らし出されたキツネ御前の姿には先程までの優しさやしとやかさの影はなく、代わりに静けさと神聖さが前面に押し出されていた。自然とその姿に対応する密の態度も改まる。
キツネ御前はゆっくりと視線を上げ、密を見つめた。
体毛と同じ黄金色の双眸に蝋燭の光を受け綺羅星のような光を湛えていた。
その二つの瞳に見つめられると、密はもう何も言うことは出来なかった。
やがて、キツネ御前は重々しく口を開いた。
「イモリ、欅の棚の通路にヤモリがいるでしょうから、連れて先に座敷に戻っていて頂戴。ヤモリには密は直に行くからと伝えて」
イモリは何も言わず頷くと、この場を立ち去った。
キツネ御前は何も言わず本を閉じると、再び口を開いた。
「あの絵本のことですね?」
「どうして、あの本を僕に読ませようとしたのですか?」
密は単刀直入に尋ねた。
「……あなたはまだ気付いていないのですね……」
キツネ御前は言葉を切り、じっと密を見つめた。
その黄金色の眼差しは悲しみとも、憐憫ともつかない。密はどうして、自分がこのような視線を投げ掛けられるのか分からなかった。
「密はこの世界の事をどう思いますか?」
「え?」
キツネ御前の唐突な質問に密は戸惑った。
「緑豊かで、平穏で、何一つ酷い事は起きない……当に楽園の様な所……そうだとは思いませんか?」
密はマヨヒガに来てから一日しか経っていないので、断言は出来ないのだが、それでもキツネ御前の言うとおりなのだと思う。
自然に溢れ、平和で、のどか。どこか懐かしい原風景的な景色。素直に魅力的だと思う。平穏そのもののような世界だ。住人が皆人間でないことを除けばだが。
「いい、所だとは思います」
「私は、この世界が大好きです。皆仲良くて、優しくて、とても過ごしやすい。密はこの世界に住んでみたいと思いませんか?」
「えっ!? いやッ、何言ってるんですか! それは……」
無理と言おうとして、密は口を噤んだ。
密が出会った人々は密に敵対心を示しはしなかった。全員密に親切にしてくれた。密にとってもここは居心地がよかったのだ。現実の世界に比べてなんと優しい事だろう、と密は思った。
密が言い淀んでいると、キツネ御前が続ける。
「あちらの世界は楽しい事だけではありませんね。辛い事、苦しい事、どうにもならない事がたくさんあります。この絵本のように全てが幸せで終わる訳ではありません。私は……密にはこの世界にいて欲しいのです」
「……で、でも、僕は――」
「そもそも密はどうして、そこまでして元の世界に戻りたいのですか? マヨヒガにいても、あなたは何の不自由なく暮らせるのですよ? 何を好き好んで、あなたを苦しめる現実に戻らなくてはいけないのですか?」
キツネ御前は縋りつくような声で密に言った。
「ただ、あちらはあなたを苦しめるだけの世界なのに」
御前の金の眼には哀しみと懇願の情が渦巻いていた。
おそらく、この貞淑な女性は滅多なことでは感情を露わにしないのだろう、と密は思った。その無欲で、慎ましやかな女性が密に懇願しているのだ。
密は戸惑いを隠せなかった。
「ど……どうして、あちらの世界が僕を苦しめるとおっしゃるのですか?」
キツネ御前は今度こそ痛ましげな視線を密に向けた。まるで、目の前にいる少年が不憫でしょうがないと思っているようだ。
「あなたがここにいるからです。こんなことは今まで一度たりとも起こらなかった。あの御方はここしばらく一度も私達の前に姿をお見せ下さっておりません!」
キツネ御前は明らかに取りみだしている。語気を荒げ、肩で息をしている。
「お願いです、密。どうか、ここに留まると言って下さい。私に誓って下さい。そうすればもう何も怖い事はおきません!」
キツネ御前はそう叫ぶように言うと、密の前に身を投げ出し、密に本当に縋り着いた。
密は驚くよりも、彼女に恐怖を覚えた。
黄金色の美しい女が薄暗い書庫で少年に哀願し、纏わりつく。密着するキツネ御前の着物から芳しい香の匂いが密の鼻腔に侵入する。
密は咄嗟に、キツネ御前から飛び退いた。
そして、そのままキツネ御前に背を向け、走り出した。
キツネ御前がその背中に何かを叫んだが、密には何を言われたか分からなかった。
足元の書物に足を取られながらも、密は書庫を脱出した。
後ろからキツネ御前が追いかけてくる気配は無いが、振り返らずがむしゃらに走った。
自然と、足は元いた所である座敷に向かっていたようだ。密が気付いた時には見なれた、砂利玉が敷き詰められた石庭の見える座敷まで戻って来ていた。
そこにはイモリとヤモリがいた。
二人は密の姿を見ると、激しく息切れをした密に近づいて来た。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「う、うん。だ……大丈夫」
密は咳きこみながら答えた。
「密、なんだか怖いものをみたような顔してるぞ」
ヤモリが、密の顔を覗き込みながら言った。
密は息を整えてから考えた。
キツネ御前の迫力が怖くて逃げてしまったが、どうして御前は自分にマヨヒガにいるように頼んだのか、密には疑問だった。
まるで密の身を案じてくれているようだった。
そこではた、と密の裡に一つの疑問が持ち上がった。
自分はどうして、身を案じてくれる相手から逃げたのだろうか?
確かにあの時のキツネ御前の迫力は相当なものだったが、だからと言って逃げ出す程のものであったろうか。よく考えてみると、あの時、密は恐れていたのだ――
「――何に?」
密は誰に聞かせるでもない、自分に聞こえる程度の声で呟いた。
自分は一体何に恐怖したのだろう。
視線を上げると、目の前には同じ顔をした少女達がいた。
「二人は、僕にこの世界にいて欲しい?」
密の口が自然とそう動いた。
二人は一瞬顔を見合わせると、輝くような笑顔で大きく頷いた。
「うん。お兄ちゃんがいるとわたしとっても嬉しいよ」
「当たり前だろ、お前がいないと調子狂っちまうんだから」
二人の笑顔は昂っていた密の心を落ち着かせた。
「そっか……」
そうして、密が言い知れぬ不安から胸を撫で下ろした直後、強烈な寒気が襲ってきた。
途端に、先程までほぼ無風状態だった庭に強い風が吹いてきた。
その強さたるや、半端な物ではない。
辺りの砂利を巻き上げ、庭の壁の瓦をも吹き飛ばしている。その暴風の渦の中心に赤褐色の光が二つ辛うじて密には確認出来た。
その瞬間、密は動けなくなるほどの恐怖を感じた。
さっきキツネ御前から感じたものとは別次元の怖さだ。
やがて石庭を占拠していた風の渦が収まると、砂利が吹き飛ばされ、茶色の土が円形状に露出した中心にそれはいた。
墨染の束帯姿の狗が立っていた。
象牙の笏と礼冠を帯び、厳然とした空気をその身に纏っている。
切れ長の赤褐色の目はキツネ御前と似ている形だが、その奥には優しさのひとかけらも望めない。鋭い刃のようにしか密には見えなかった。
密はこの人物を一目見ただけで戦慄した。この人に逆らってはいけないと、本能が密に命令したようだ。
束帯の狗は乱れてもいない服装を一瞬気にしてから、土の地面から砂利の地面へと足を踏み出した。
「――イヌガミ大納言様」
イモリが引き攣る顔で消え入りそうな程小さな声で言った。ヤモリは心なしか、少し身構えているようだ。
この二人もこの男を恐れているようだ。
「久しいな。イモリ、ヤモリ。変わり無いようで、何よりだ」
地の底から響くような太く、低い声だ。
黒依の大納言はそのまま密の正面まで来ると、その足を止めた。
「――会いたかったぞ、密」
密は何も答えられなかった。
口がうまく開かない。それ以前に言葉が思いつかない。
ただ只管怖かった。
それ程までにこの男の放つ雰囲気がこの場を凍りつかせているのだ。
密にはこの座敷が先程までに比べて暗くなっているように感じられた。
「お前を迎えに来た。一緒に来てもらうぞ」
密はどうしようもなく自分の膝が震えるのを感じた。
――侃――と大納言の沓が靴脱ぎ石を踏んだ。
「――珍しい方も来ることですね」
鈴を転がすような、涼風を思わせる声が密の背後に聞こえた。
振り返ると、そこには色鮮やかな十二単を纏った金の狐がいた。
いつこの座敷に戻って来たのだろうか。急いで帰って来たことには違いない。しかし、この狐も一糸乱れていなかった。この状況において、唯一目の前の男に対峙出来るような姿に見えた。
イヌガミ大納言は細い目を更に細めて訝しげに言った。
「何故ここでお前が出てくる、キツネよ。お前には密を庇いだてするような理由があるのか?」
キツネ御前が小さく足を踏み鳴らすと、彼女を中心として空気が揺らいだ。それはこれ以上大納言の侵入を許さないとでもいう、仕草にも見えた。
「私は招かれざる客と言うことか……」
「貴方に密は渡せません。立ち去っていただきましょう」
流麗な声にも明らかな拒絶が含まれている。場の空気が黒依の男ではなく、黄金の狐に握られていく。
「書庫は私の城です。例え大納言と言えども、私の許可無く入ることはできません」
「どうしても入れぬと申すか、キツネよ」
イヌガミの岩のような声にもキツネ御前は一寸とも揺らがなかった。
ここで始めて、イヌガミの表情に変化が見られた。
目を伏せ、明らかな嘆息を吐いたのだ。やがてイヌガミ大納言が口を開く。
「お前は状況が見えていない。密が大切なのは分かるが、危急存亡の危機だ。お前達の為、ひいては密自身の為でもある。もう一度だけ言おう。結界を解け、キツネ御前」
キツネ御前は動かなかった。じっとその金色の双眸を大納言の赤褐色の瞳に注いでいる。
「状況は変わったのだ、キツネよ。最早私は御殿を司る大納言ではない。この世界を運営する大臣でもあるのだ。世界の記憶の管理、記録を司る司空に命令する権限が私にはある」
大納言は横一文字に左腕を薙いだ。
ガラスが砕けるような音と共に、凍るような大気が座敷に流れ込んで来る。
そこからはあっと言う間の出来ごとだった。
その大柄な姿からは想像も出来ない程、素早く大納言は座敷に上がり込むと、一瞬で密の直ぐ目の前に躍り出て密の胸を軽く突いた。
次の瞬間には密はもう、座敷にはいなかった。
「――何処へ、とは聞かないのか?」
「どうせ、あなたの城でしょう」
イヌガミ大納言が恐ろしい程静かになった座敷の中心で座敷の主に尋ねると、主は憂いを帯びた表情で答えた。
「無駄なことではありませんか? 所詮、終わりは避けられませんよ」
「……私は諦めん。その最後の一瞬まで、な」
大納言は屹然と言い放ち、踵を返して庭に向かった。
大納言は円形状に抉れた地面で立ち止まると、現れた時と同じような突風が巻き起こり、彼の姿は忽然と消えていた。
「相変わらず、不器用なこと」
その様を微動だにせず見つめていた狐はポツリと漏らした。その顔は憐憫とも微笑ともとれるものであった。
密は板張りの大きな広間に立っていた。
正確に言えば「飛ばされた」というのが正しい言い方なのだろうが、密にはそう認識は出来ていないだろう。
寧ろ、唐突に場面が変わったように思えたはずだ。
あの黒依の大納言に胸を一突きされた途端、全ての音が消え、目の前が一瞬暗くなり、光を取り戻した時には御前もあの瓜二つな少女達も消えていた。
広さや造りは御前がいた座敷に似ている。しかし大きな違いもある。御前の屋敷は座敷であって畳張りであったが、ここは磨き上げられて鏡の様に光沢を放つ板間だ。そして最大の違いは異常な程に寒かった点である。
吐いた息が白くなる程寒い。薄着の密は全身の毛穴が急激に絞まる感覚を味わった。薄暗く、両側の壁際には一定の間隔で燭台がおかれ、光を放つのはそれだけしかない。乏しい光りながらも、床の磨き込まれた板間に自分の姿が映るのが見えた。
密の正面には板床から一段高くなった所に畳が敷かれ、座る場所があった。
密は歯をガチガチ震わせながら、恐る恐るその畳の床に近づいた。
「寒いか?」
不意に密の後方から声が降ってきた。
驚いて振り向くと、そこには大納言が立っていた。
大納言はお互いに手が届く位近くに立っており、一部の隙もない表情で密を見下ろしていた。
密が恐怖と驚愕でただ無言で歯を震わせていると、大納言は誰かを呼ぶように二、三度手を打った。
すると、先程までの冷気は嘘のように消え去り、部屋の温度は過ごしやすい温度に落ち着いた。
「あ、ありがとうございます……」
温度が上がり、安堵して緊張が少し解けたのか密が小さく言った。
イヌガミ大納言は密の礼を無表情で受け、そのまま密の横を通り過ぎ、畳の上に設えられた座所に腰を下ろした。
密も座ろうとしたが、板間の上に直に座るのは苦しいのでどうしようかと悩んでいると、今度は大納言が指を鳴らした。すると、いかにも座り心地の良さそうな座布団が密の目の前に現れた。
密はそれを使っていいものと判断し、小さく会釈してその上に腰を下ろした。
「お前は初めて私を見るか?」
密が座布団の上に落ち着くのを確かめてから、大納言は口を開いた。部屋の空気が振動するほど重低音の声だった。
密は頷いた。
「さっきのキツネ御前の部屋での邂逅を除けば、ですが」
自分でもここまで饒舌に答えられるとは思わなかったのか、密はそう答えてから少しその場でもぞもぞと居心地悪そうに身じろぎをした。
「私はイヌガミ大納言という。このマヨヒガの御殿の管理者だ。現在は大臣の座が空位の為、大臣の権限もヌシ様より委託されて行使している。先程は手荒な真似をしてすまなかった。だが、ああでもしなければキツネはお前を離しはしなかっただろう」
大納言は姿勢を崩さず、淡々と密に話し始めた。
「私は一度お前と会って話をするべきだと常々思っていた。お前は何故、自分がこのマヨヒガにやって来たのか分かっているか?」
密は答えに窮した。自分がどうしてここにいるのかだなんて分かるはずがないじゃないか、と密は言ってやりたかった。何故なら、密は気が付いたらもうこのへんてこな世界に迷い込んでいたからだ。
「――分かりません」
「では教えてやろう。お前はこのマヨヒガの救世主だからだ」
「――は?」
イヌガミが信じられない言葉口走ったので、密は随分と間の抜けた返事をしてしまった。
「今のお前には意味は分かるまい。分かるはずも無い事だ。お前がここにいるということがそれを証明している。ところでお前の相棒のことなのだが――」
密は咄嗟にクマのことだと悟った。
僕はクマの身が心配でならなかった。四象殿で別れて以降、消息が一向に掴めていないのだ。
「ク、クマは今どこにいるのですか? 無事なのですか? あ、あの、僕ら四象殿の前で別れちゃって、それ以降会っていないんです。クマの居所を知っているなら教えてください」
密は座布団からはみ出るのも構わず、身を乗り出すように大納言に言った。
必死の形相の密を何の感情も浮かばない瞳で見つめながら、大納言は静かに、だが厳かに口を開いた。
「クマは今この四象殿の地下にいる。少々暴れたので、力ずくで捕縛する必要があったが……」
イヌガミ大納言の言葉に密が目を見開き、体を硬直させ、食い入るように大納言を見つめた。
「――クマに何をしたんですか?」
「捕縛の呪を掛けたのだ。別にクマを殺したわけではないから安心しろ」
「ひどいです! 今すぐクマを開放してください!」
「それは出来ない」
密の叫びを大納言は切って捨てた。
「ど、どうして――」
密は自分の声がどうしようもないほど震えていることに気づいた。
イヌガミはしばらく沈黙し、そして言った。
「我々にはお前が必要だからだ。お前には何としてでもここにいてもらわなくては困るのだ。だが、クマはお前をあちらの世界に戻そうとしていた。だから、しばらく何も出来ないようにするしかなかったのだ」
「ぼ、僕にマヨヒガを救う力なんて、ありません。ヌシ様にでも頼めばいいじゃありませんか」
大納言は明らかに嘆息を吐いた。
「ヌシ様ではもう駄目なのだ。手遅れなのだ。もう時間がない。私にはこの世界を運営する義務がある。それにな、密よ」
黒依の宰相は一度言葉を切り、言った。
「お前がここに来てから散々悩まされている既視感の正体を知りたいと思わないか?」
「――どうして、それをあなたが知っているんですか?」
大納言は不敵に口の端を吊り上げた。
「知りたくはないのか? もし、私に協力してくれるならその正体をお前に教えてやろう」
密がマヨヒガに来てから感じ続けていた既視感。
クマの後ろ姿、お椀の柄、ミミズク翁とダブついて見えた初老の男、キツネ御前のやさしげな視線、二人の少女との時間、そして大納言に対する恐怖。全てが密には経験があった気がするのだ。
密はその正体が知りたかった。だが、それと同時に言い知れぬ不安も感じていた。知りたいのに、知りたくない。相反する気持ちが密の脳裏をぐるぐると駆け回る。
イヌガミは既視感の正体に気づいている。ミミズク翁もそうだった。ミミズク翁はもしかしたら密がその秘密を知る機会があるかもしれないと教えた。どうせ協力しないと言ったら大納言は強行手段に出るはずだ。それならば、今は大納言の言うとおりにした方が得策ではないだろうか。機会があればクマも救出することが出来るかもしれない。
密は熟考した末に静かに口を開いた。
「――分かりました。協力しましょう」
「宜しい。よくぞ決断してくれた。ではお前の協力する内容だが、それは私が用意した計画の歯車になってもらうことだ。その計画の実行は明日の日没前、泉の儀の終盤がお前の出番となる」
そういうと大納言はすっくと立ち上がり、不思議な表情をした。
密はそれが大納言の微笑みであることに気づくのに少々の時間の要した。憤怒している巌の様な顔がほんの少し緩む、といった感じなので一見すると、少しだけ呆れているような表情にも見えるのだが、これは笑っているのだ。
密はそう思いながら、またこの顔もどこかで見たことがあるなと思った。
泉の儀は四象殿の最も奥に位置するヌシ様の間の庭で行われる。
この庭は『庭』というよりは『湖』と言ったほうが相応しいだろう。
広大な湖には浮き島がいくつもあり、島と島との間に朱色の橋が架かっている。浮き島は水辺の方に固まっており中心部には一つしか島が無い。その島は完璧な円で、島全体が一つの台座の様だ。
中央には石造りの盆が置かれ、それを囲むように島の端々に憤怒の形相で剣や槍を持った明王像が七体設えられている。
湖の外側は白い漆喰の壁と黒い瓦屋根が延々と続き、その外側に鬱蒼とした森が広がっている。
この湖が泉なのだろう、とヌシ様の間の近くの物影に潜む密は思った。
凪いでいるこの空間では漣一つ起きないようだ。
否、この空間が凪いでいる方が正確か。
泉の儀以外で使用される事のないこの空間は、その時以外は作動しないのだろう。言わばここは空間の形をした装置だ。その装置の中では、自分の様な余所者は異物に過ぎない。
そのような事を考えながら密は何とも言えない居心地の悪さに小さく身じろぎをした。
この異様な空間にまもなく、今日の主役達が登場する。
西日が差し込み庭全体を茜に染め上げた頃、御殿の方から桧皮色の小さな船が出て来た。
乗っているのはイヌガミ大納言、キツネ御前、イモリ、ヤモリ姫の御殿に住まう殿上人の四名であった。大納言は何時にもまして荘厳さがあり、腰には二振りの剣を帯びている。
漕ぎ手はいないが、まるで吸い寄せられるかのように船は真っ直ぐ、静かに中心部の島へ向かって行く。
金色に煌めく水面を進む四人の船は中心部へと続く一段と長い橋の袂で動きを止めた。
四人は橋の入口の小さな島の脇に並び立った。
四人が並び終わるのと並行して、水辺の浮き島に人影が現れた。
密は一瞬我が目を疑った。
あのぼろぼろの毛並みとそれを包む衣服を見紛うはすがない。
その人物とはミミズク翁であった。
このような場所には一番不釣り合いな人物だろう。
紺色の作務衣は夕焼けの中、色を失いただの黒になり余計にみすぼらしく見えてしまう。
ミミズク翁はよたよたと覚束ない足取りで島々を渡り始めた。そして、大納言達とは幾分か離れた小島で立ち止まり、それきり動かなくなった。
夕焼けの空に浮かぶ雲が動き、太陽を中心に左右に分かれた。
唐突に泉に音が鳴った。
鈴の音だ。
泉の人物達が一斉に頭を垂れた。
御殿から複数の人物が現れた。
先頭は夕焼けに輝く禿頭を持つネズミ僧正であった。
その後ろにはイヌガミ大納言の式神の白い紙人形が同じく白い簾の掛った籠を担いでゆるゆると進んでいる。またその後ろにはネズミ僧正の弟子であろう赤、青、黒、白の作務衣を来た小さな鼠達がこまぎまとした祭器を持って続いた。
あの中にこのマヨヒガの支配者、ヌシ様がいる。
小柄な体躯のネズミ僧正は何とも不思議な歩き方をしている。右足と左足を交互にではなく、二歩ずつ進んでから交代させている。まるでびっこを引いているようだ。
密は物影から出て、少し浮き島の方まで近づいた。
イヌガミ大納言が合図をしたら直ぐに台座の所まで駆けつける手はずになっている。その為に密はもっと台座の方まで近づく必要がある。
茂みがる浮き島まで駆け寄ると、密は視界にミミズク翁の頭から飛び出た耳のような形をする羽を捉えた。しかもまずい事に、その羽がピクリと動いたように見えた。
気付かれたか、と密はサッと血の気が引くのを感じたが、ミミズク翁はそのまま二、三度耳をピクピクさせるだけで何もしなかった。
密は出来る限り気配を殺して、暫く身動き一つしなかった。
そうして、暫く時間を置いてから茂みの陰からこっそりと顔を覘かせ、中央の台座に注意を向けた。
絢爛豪華な袈裟を身に付けた僧正は大納言の脇を通り抜け一段と大きな橋を渡り、一番最初に台座に辿り着いた。
ネズミはその台座に深々と御辞儀をし、その台座の脇へと移った。
僧正が脇に移動をしたのを確認したのか、大納言はゆっくりと頭を上げると、良く通る声で泉全体に聞かせるかのように言った。
「御簾を上げまする」
少しの沈黙のうち、籠の両脇に控えていた紙人形が簾を捲り上げた。
そして、ゆっくりとその人物は現れた。
その瞬間密はこの泉がざわめくのを感じた。
その直ぐ傍にいた全ての者達がより一層深く頭を下げた。
その人物は真っ白な衣装を纏っていた。唯一腰から垂れ落ちる帯のみが紫色である。白い束帯と白い袴、白い沓を履き手には何も握られていない。背丈は大きくも小さくも無く、恐らく自分と同じ位であろうと密は思った。
この人物こそマヨヒガのヌシ様であろう。
マヨヒガの住民の多聞に洩れずこの人物の頭部も異様であった。しかも、それは他の住民たちとは種類を異にするものであった。
顔が見えないのだ。
戴いている冠から薄布が垂れており、顔をすっぽりと覆っている。
面縛でもヌシはちゃんと前が見えているようで、確りとした足取りで橋を渡り始めた。
ヌシが一歩踏み出す毎に泉が揺らめく。
ヌシは見ている方がじれったくなる程、ゆっくりと歩を進める。
ヌシが橋を渡り切る頃には日はもう沈みかけていた。空に群青色の帳が降り始めている。
ヌシが台座の島に足を踏み入れると、もう疑いようも無く空気が振動しているのを密は肌で感じ取っていた。ヌシが直立不動の姿勢で立ち止まると、その脇に控えていた僧正が甲高い声で祝詞を唱え始める。
これが儀式の始まりの僧正の文言だ。
ネズミは覚えられるのが不思議な程長い祝詞を延々と唱え続けた。
そうしている間にもゆっくりとだが、厳かな動きで台座の中央に鎮座した盆にヌシが近づいていく。
そしてヌシは袖から小さな小刀を取り出した。
鞘を抜き、手を翳す。
いよいよこの儀式の最終局面である。
この血の数滴でこのマヨヒガは変わるのだ。
密はそろそろ来るであろう合図に身を固くした。
大納言がゆるりと手を挙げた瞬間――
凄まじい水飛沫が轟音と共に橋の中央の隣で起こった。
その場の全員の目がそこに注がれる。
西日を受け輝き踊る水飛沫の中、密の目には何か大きな物体が橋目掛けて飛び込んでくるのが映った。
橋の中央には巨大な熊が濡れて輝く一振りの剣を携えて、仁王立ちしていた。
「き、貴様ッ!」
イヌガミ大納言がカッと目と口を見開き、牙と殺気を漲らせた視線をクマへと向ける。
密は我慢できずもう飛び出していた。クマが無事に生きていた事が嬉しく、居ても立ってもいられなかった。
この前代未聞であろう部外者の闖入という事態にいち早く反応したのは最もクマを警戒していた大納言ではなく、何とネズミ僧正であった。
僧正は見た目通りの素早い動きで長い袈裟の袖から一本の巻物を取り出し、地面に広げそこに手をついた。巻物から白煙が巻き上がり、それと同時に四つの影が飛び出した。その特徴的な色彩でそれが何なのか密には直ぐに察しがついた。
それは、ついさっきまで殻になったヌシの籠の周りに侍っていたネズミの弟子達だ。
慌てて密がその方向に目を向けてみると、案の定そこにはもう四人の姿は無い。
ネズミの弟子達は素早くヌシに近づきそのままヌシを担ぎあげた。それと連動するように僧正は泉に向かって手を一振りした。すると、地響きと共に泉が割れ、その割れ目から黒い石造りの橋がぐんぐんとせり上がって来た。。
弟子達はヌシを担ぎ挙げたままその石の橋に移り、一目散に盆がある島から離れて行く。
「後は頼みましたぞ。ミミズク大臣!」
ネズミは現れた橋の先にいる人物に呼び掛けた。
出現した橋はミミズク翁のいる島まで掛っていたのだ。
「おのれ! そうはさせんぞ、裏切り者めがッ!」
これ以上ないと言う程憤怒した大納言が半ば吼え猛りながら、朱色の橋に進み出て出現した橋に向かい印を結ぶ。
途端、大納言の周りの水がまるで意思を持つかのように逆巻き始める。
「――させるか!」
クマが大納言へ踊りかかろうとしたが、それを阻むように紙人形が立ちはだかる。
大量の質量を伴い、水は逆巻きながら立ちあがり波となった。それは最早波とも呼べぬ一種の壁のような様相である。これに巻き込まれれば情け容赦無い破壊がもたらされるのは間違いない。
だが、その波は橋を飲みこむ前に見えない壁にでもぶつかったかの様に動きを止めた。
黒い橋には印を結んだネズミ僧正が、巻き起こる風と水の嵐の中袈裟をはためかせ立ちはだかっていた。
「ネズミ、貴様も私に楯突くか」
「お前のやり方には賛同は出来ぬ」
「迷うだけで何もせぬ貴様に何が出来る!」
「拙僧はもう迷うのは止めたのだよ。そうでなければこんな事もしない」
苦々しい表情で大納言は続けた。
「クマを逃がしたのは貴様だな。その上あの禹歩もただの禹歩ではあるまい。結界を外す為の物だったか……」
ネズミとイヌガミの力が拮抗している間に弟子達とヌシは橋を渡り切り、ミミズク翁に伴われて御殿へ向かった。
ネズミはフッと笑った。
「気付いても遅い。窮鼠が犬を噛んだな」
「鼠に噛まれた所で痛くも痒くも無い。このまま押し潰してくれる!」
イヌガミが口走ると、同時にイヌガミからの圧力も強くなったのかネズミに苦悶の表情が浮かぶ。
徐々にだが水壁が黒い橋へと進んでいく。
「じゃあ、熊に噛まれたことはあるのかい?」
紙人形を倒したクマの剣の刃が宙を閃いた。
「――むっ!」
クマの不意の攻撃に気を取られた大納言は咄嗟にその刃を避けたが、結んでいた手の印が崩れた。
その途端、支えを失ったか、水は叩きつけられるように水面に戻り、大量の水飛沫がほとばしる。
ネズミは力尽きたかのようにそのまま崩れ落ちるように膝をついた。
その最後の西日を受け、金剛石のように輝く水の霰の中、狗と熊が壮絶な斬り合いをしていた。
大納言は腰の剣を抜刀し、その長身の体躯から繰り出す軽やかな動きでクマの剣をいなし、切り結んでいる。
密は正直、大納言という男はもっと文官的で策謀などの頭を使う戦闘に長けているのだと思い込んでいたが、やはりイヌガミ大納言の力は底が知れぬということを思い知らせた。
対するクマも大納言に負けず劣らず素早い振り抜きだが、いかんせん鋭すぎる。それが長所でもあり、短所であるのだろう。余りにも切っ先に迷いが無い為、動きが直線的すぎるのだ。もちろんあのような太刀筋は常人では捌けられないであろうが、相手が悪い。
イヌガミ大納言に全ての手が封じられているように見える。
二人の手数などは密に見えはしなかったが、それでも二人が死力を尽くして切り結んでいるのは理解出来た。
「まだ分からんか、クマ中将! 貴様がやろうとしている事は余りにも非現実的なのだ。両方を助ける等とまだほざくのかッ」
「非現実だろうが、幻想だろうが構わない。たとえ、適わない夢であろうとそれに向かい全身全霊を尽くす事こそに、未来を変える力がある!」
クマとイヌガミの間で一際強い剣戟が響くと、二人は同時に飛び退き、間合いを取った。
朱色の大橋で二人が向かい合う。
「そう、教えてくれたのは他ならぬ貴方です。お父さん」
クマは沈痛な面持ちで目の前にいる男に告げた。
その言葉を聞いた時、密は絶句した。
二人の会話を聞く限りでは二人が只ならぬ関係である事は予想していたが、まさか二人が親子だとは知らなかった。
真夏の夜風は生温く、肌に当たる感触は纏わりつくようで気色が悪い。まるで真綿で包まれた様だ。真綿の風が大納言の束帯の袖を揺らす。
もう潮時だろう。
イヌガミ大納言はもう密に言ってしまうだろう。
あのことを――
マヨヒガの秘密を――
密が感じていた既視感の正体を――
それはいけなイ。
それはイけナイ。
ヒソかにはシラセるわけニハいカナい。
ヒソカ二シラレルマエニ――オワラセテシマオウ。
『ボク』ハテニモッテイタモノヲシッカリトニギリナオシタ。
「くだらんな。ここで全てを密に教えるか? 教えた所で何も変わりはしない。非生産的かつ無価値な行為だ。密、そこにいるな」
突然、名前を呼ばれた僕は驚いた。大納言には僕の動きなど予想できていたのだろう。
「そろそろお前に全てを教える時が来たようだ。お前が今まで疑問に思っていた事について解答を出そう。よいか密、このマヨヒガはお前が――」
その時、突然甲高い悲鳴が泉に響いた。
その悲鳴は黒い橋の方からだった。
僕は何が起きているのかよく理解できなかった。
辺りがもう夕闇に覆われてきているせいもあるのかもしれない。薄暗い中でネズミ僧正が中腰で立っている。
そしてその胸には、銀色の小刀が突き刺さっていた。
刀を握っていたのは――ヌシ様だった。
「ネズミさん!」
叫んだのはキツネ御前であった。
ネズミは立っていることもやっとなのか、息も絶え絶えでヌシの
衣装にしがみついている。
ヌシは掴んでいた剣を離し、その手で今度はネズミの首根っこを
鷲掴みにした。そしてそのままネズミを宙づりにして、まるで地面
を滑るように動き始めた。
向かう先は、中央の台座だ。
「僧正!」
クマが助けに行こうと中央の島へと走り出した。
だが、クマが台座に辿り着く前にヌシ様は既に盆の前に立ってた。
僧正は力なくもがくだけで、ヌシ様の拘束からは逃れられない。
「しまった! 最早手遅れだったか」
大納言が明らかに狼狽する。
こんな姿は大納言らしくない。
そこからは僕には全てがスローモーションに見えた。
ネズミ僧正が先程までとは比べ物にならないほど激しい苦痛を訴
える悲鳴を上げ始めた。
そして、突然ネズミ僧正が燃え上がった。
馬鹿でかい松明でも焚かれたように、光を失った泉が仄かに姿を
現す。
炎に包まれたネズミの断末魔の悲鳴が泉を木霊した。
永遠に耳に残りそうな声が止むと、もうヌシ様の手にはネズミ僧
正の姿は無かった。
ヌシ様はそのまま諸手を天に翳した。
夜空に輝き出した満点の星空を掴む様な仕草だ。
そして、勢いよく両腕を開いた。
石盆が火を噴いた。
天をも穿たんばかりに爆音と共に火柱が泉の中央から巻き起こっ
た。
立ちあがった炎の柱は天高くまで昇り、爆ぜた。
流星群のように炎の塊を辺り一面に撒き散らしていく。
それは、この世の物とは思えない一種の出鱈目な花火のようにも
思えた。空から火が降り注ぐ中、イヌガミ大納言がその場の全員に指示を出した。
「全員退避だ! 御殿まで走れ!」
その掛け声で全員が我に返った。
僕も急いでその場を離れる為走り出した。
キツネ御前やイモリ、ヤモリも同時に走り出す。
「クマ、お前は密と女子供を連れて先へ行け」
「大納言はどうするのです?」
大納言が一度大きな柏手を打つと、盆を取り巻く様に佇んでいた明王像達が命を吹き込まれたかのように一斉に動き始め、ヌシ様に飛び掛った。
「私にはこの御殿の中で起きること全てに対処する責任がある」
クマの大きな目が更に見開かれた。
「駄目だ! いくら貴方でも勝ち目はない。相手はこの世界の支配者です。この世界に住まうものでは勝てる道理がない!」
「――聞け、息子よ……お前はこのマヨヒガの中将だ。中将の役目は何だ? 申してみよ!」
炎の塊が朱色の橋を直撃した。
豪と炎は勢いよく燃え盛り、朱色の大橋を焼き尽くしていく。
橋の向こうで、激しい音が聞こえた。石の砕ける様な音だ。ヌシ様に飛び掛った明王の石像が破壊されたようだ。
大納言は燃え上がる橋を背に振り返った。
巌のような険しい表情が、橙色の明かりの中浮かび上がる。
鋭い赤褐色の双眸に怒りは見えなかった。
炎の明かりに反射して、瞳の光が揺らめいている。
クマは噛み締めるように、一言一言を絞り出すように言った。
「――マヨヒガの治安、及び脅威となるものの排除――そして、住民たちを守ることであります――」
「では、それを遂行するのがお前の役目だ」
大納言はそう言うと前に向き直った。
その目は炎を貫き、その先にいるであろうヌシ様を捉えている様に見える。
クマは大納言の背をじっと見つめている。
「クマッ!」
僕はクマに声を掛けた。
そうしなければクマはイヌガミ大納言と残りそうだと、僕は思ったのだ。
クマが剣を鞘に収め、イヌガミ大納言に静かに一礼をし僕に言った。
「行こう、密」
そうして、僕たちは御殿へと目掛けて走り出した。
炎の霰の中、僕たちは出来る限り急いで島々を渡って行った。
もう、マヨヒガは昼なのか夜なのか分からない。
空には星が輝いているのに、周りは地面の小石が見えるほど明るい。泉の周りの森も炎上している。
マヨヒガが燃えている。
あの美しい森や泉が、荘厳で静かな御殿も音を立て燃え上がる。
僕には燃えていないものなど、もうこの世界にはないのではないかとも思えた。
最後の橋を渡り終えると、そこには立ち尽くしたキツネ御前達がいた。
「キツネ御前様! 無事だったんですね」
急な全力疾走で酷く痛む脇腹を抑えつつ僕は言ったが、キツネ御前は無反応だった。どうしたというのだろう。
無反応なキツネ御前に近づくと、その傍らに御前にしがみつくように佇む二人の姫が僕の目に入った。
二人は酷く怯えているようだ。
イモリに至っては御前の着物の裾に顔を埋めている。
「どうしたと言うんで――」
僕はキツネ御前の視線を追って、言葉を失った。
それは惨状であった。
御殿の庭先は白い砂利を敷き詰めた石庭だった。
だが、その石庭には大量の血が流れ出ていた。
その血の池の中には、鼠の弟子達が持っていた祭器の破片と、もう元が何だったのか分からないほどバラバラにされた肉塊が転がっていた。その肉塊に見覚えのある布切れがある。
恐らく、元は作務衣か何かだったのだろう。
ということは、これはネズミの弟子達とミミズク翁のものだろう。もう、そうとも判別出来ないほど彼らの肉体はズタズタにされている。これもヌシ様がしたことなのだろうか。
そういえば、再び現れたヌシ様の姿は白くなかった。あれは光のせいだと思っていたが、そうではなく恐らく彼らを殺した時についた返り血で白い着物が全て赤くなってしまったのだろう。
「ク、クマ……これは」
「ヌシ様だ」
「なんてことを……」
クマはその惨状を一瞥して、ぐっと顔を険しくする。
「御前様。ここは危険です。御殿から脱出しましょう」
「どこへ逃げろと言うのです?」
キツネ御前は無表情で言う。
「待って、クマ。一体何が起こっているの?」
僕を置いて次々と展開する事態に僕の理解する余地は無いのか。僕はクマに尋ねた。クマは困った表情をしながら言った。
「密、このマヨヒガはもう限界なんだ」
「世界として成り立つことすら出来ないのです」
続きはキツネ御前が言った。
「そ、それはどういうことですか」
キツネ御前は僕の方を向いて言った。
「――時間もありません。もう、気付いてもいい頃合いでしょう。答えは貴方が既に持っているのですよ。こうなったら、もう貴方に全てを任せるしかありません。何を選ぶも、貴方の自由です」
「――それって、どういう……」
「危ない!」
クマが鋭く叫び、僕を突き飛ばした。
その瞬間僕がいままで立っていた所に空から火の球が落ちて来た。
火は瞬く間に燃え広がりキツネ御前達と僕とクマを隔ててしまった。炎の向こう側にキツネ御前と二人の姫が取り残されてしまった。
そして、僕には聞こえた。
炎の爆ぜる音の中で不自然に響く、沓が地面を踏みしめる音を。
そして、とっくに炎上している御殿の橋からヌシ様が歩いてきた。
体を嘗める炎など気にもしていないようで、実際に服も顔の紙も一切燃えてはいない。ヌシ様の服は様々な人物たちの返り血で最早白だったとは思えない程どす黒く染まっていた。
ヌシ様は沓音を響かせながら、ゆらりゆらりとキツネ御前達に近づいて行く。僕にはヌシ様がキツネ御前を狙っているように思えてならなかった。
「止めろ!」
僕は叫んだ。
その人を殺さないで。
その人は僕の――
僕の『何』なのだ――
彼女はただの他人では無かったのか。
どこかで見たことがあると思うからか。
分からない、分からない何も分からない。
僕の脳髄の中で疑問が堰を切ったかの如く溢れ出してきた。
僕は一体どうしたというのだ。
どうして僕はこんな所に来てしまったのだろう。
寝ていた、というのは覚えている。
でも、どこでだ。
そもそもどうして僕は寝ていたのだろう。
僕は突然頭が割れるかと思うほどの激痛を覚えた。
僕は頭を抱えて、蹲る。
それは雷が去来し、晴天を割り砕く勢いだった。
「あ、頭が……うっ」
言葉が口から出るだけで、頭が割れそうだった。
痛みが閃く度に僕の中で声がする。
――お前の変わりなど、いくらでもいる――
――出来そこないのごくつぶし――
――名門だからってみんな優秀なわけじゃない――
――お前は森里家の長男、その自覚がお前にあるのか――
――弟や妹達の足元にも及ばない――
――お前も、あいつみたく家を出たらどうだ――
止めろ! もう、止めてくれ! それ以上僕を責めないで。僕は出来そこないだから。何にもできない役立たずだから――
「もう、止めてくれ!」
顔を上げると、ヌシ様が見えた。
ヌシ様は緩慢とした動作で血に濡れた手を振り上げる。
その時、一陣の強い風が吹いた。風は狙い澄ましたかのように密達とキツネ御前達の間を通り抜け、両者を隔てていた炎の壁を取り払った。
炎の壁がなくなると蹲る僕の傍にヤモリが来て僕を心配する。
「だ、大丈夫か密。頭、痛いのか?」
ヤモリは今にも泣き出しそうな顔で、どうしたらいいか分からないようで、ただ僕の傍に跪き、僕の顔を覗き込もうとしている。
割れそうな頭を抱えながら、何とか視線をヌシ様の方に向けるとヌシ様は手を振り上げたまま固まっていた。手は振り下ろされていない。
ヌシ様の手を掴んでいる別の手が見えたのだ。
毛並みの良さそうな茶色い毛が腕を覆っている。手には鋭い鉤爪があった。
「あ、あなた……」
キツネ御前の声が震える。
「お父様!」
イモリがキツネ御前のかげから叫んだ。
ヌシ様の手を止めていたのはイヌガミ大納言であった。
イヌガミ大納言は立っていられるのが不思議なくらいのいでたちであった。傷ついていない所を探す方が難しい程、その体はボロボロだった。
体を覆っていた束帯は破られ、茶色の毛が大納言の体を覆っているのが見て取れた。その毛も自身の血で濡れそぼり、汚らしく体にこびり付いている。冠ももうなく、ピンと立った耳の片方も削ぎ落とされている。更に、イヌガミにはもう右腕が無かった。口からも吐血の痕が見られる。
「……私の家族に手を出すな」
ヌシ様は時間に取り残されたようにゆっくりと振り返る。
炎の揺らめきに濡れる髪を風になびかせるキツネ御前が、大納言に向かって叫んだ。
「あなたもう止めてください。これ以上は無理です。このままじゃ、あなたも死んでしまう! 夢幻の為に命を賭けると言うのですか!」
キツネ御前は悲鳴に近い思いを吐露する。
ああ、キツネ御前もこの人に死んで欲しくないんだ。
御前にとってもこの人は大切な人なんだ。
イヌガミ大納言の声は、体が満身創痍になっているのにも関わらず良く通る。
「夢でも構わぬ。幻でもよい。譬え消えゆく運命であろうと、お前は私の妻だ。イモリもヤモリも――そしてクマも、皆私の子供達だ! 家族を愛おしいと思わぬ父親がどこの世界にいるッ!」
イヌガミの目には果て無き想いを秘めた光が灯っていた。
キツネ御前の目には涙が浮かんでいた。
大納言の必死の言葉にもヌシ様はなんの反応を示さない。ただ、その血が付着した面縛の布が風で揺れるだけであった。
イヌガミはどん、と一回大きく地面を踏み鳴らした。
すると大納言とヌシ様の間で強烈な光が輝き出した。光は少しずつ大きくなり、今にも二人を飲みこもうとする。
「大納言、止めて下さい!」
クマが叫ぶ。
「止めるな息子よ。私にはこうするしか道がないのだ!」
どういうことだろう。
もしかしたら、イヌガミ大納言は自爆をする気なのか。
家族を守るために。
ヌシ様は掴まれた手を振り解こうともがくが、決してイヌガミはその腕を離さない。
イヌガミの抵抗に苛立ったのか、煩わしそうに暴れ出した。
その姿が僕にはなんだかとても子供じみているように思えた。まるで、悪い事をした子供が父親に叱られようとしているようだ。
だが、その聞き分けの無い子供は無慈悲なまでの力を容赦なく傷だらけの父親に振るう。
ヌシ様の自由な手が刃の様に振るわれた。
パっと無数の血飛沫が華の様に大納言の体から噴き上がる。
「止めて、もう止めてぇ! お父さんが――お父さんが死んじゃう! 死んじゃうよぉ」
イモリが泣き叫び、届くはずも無い小さな手を伸ばす。
ヤモリもその場で泣き崩れていた。
舞い上がる血飛沫と血煙りの中、二つの赤褐色の光は真っ直ぐにヌシ様に突き刺さっている。
大納言はそれでもヌシ様の手を離さなかった。
腸が飛び出し、顔面も半分近く削られているにも関わらず、イヌガミ大納言は一歩たりとも引き下がっていなかった。
燃える御殿を背に逆光と自身の血で黒く染まりながらも、その目だけは爛々と光り続ける。それは佛弟子の悟りを助け、佛敵を討ち滅ぼす、明王の様だ。その姿は最早死にかけの生物が表せるようなものではない。全てを圧倒し、押し潰す様な気迫に満ちていた。
僕は大納言の姿に体が粟立つ程の畏怖を覚え、その場にひれ伏したい気持ちに駆られた。
いよいよ、光が大きくなり危険だと判断したのかヌシ様も有らん限りの力で大納言を振り解こうとする。しかしイヌガミは石にでもなったかのように絶対にその手を離さない。
イヌガミ大納言はぐっと食いしばり、死んでも離すまいと固く心に誓ったのか渾身の力でヌシ様を睨みつけ、その腕を掴んでいる。
その余りの力で、ヌシ様の子供の様に細い腕はみしみしと骨をきしませ、大納言の鉤爪が食い込んでいる。
限界だと悟ったのか、ヌシ様はその場で大納言に飛び掛り――
拘束されていない手をイヌガミの頸元で一閃させた。
イヌガミの首から真っ赤な血が噴き出した。
壊れた蛇口から噴き出す様に血が溢れ出る。
イヌガミの体がぐらりと揺れた。
そして、その体はゆっくりと前のめりに倒れ込んでいった。
イヌガミ大納言の顔から表情が消える。あの巌の様な表情からどんどん力が、命が抜け落ちていくようだ。
僕の目はイヌガミ大納言の目に釘付けになっていた。
大納言が、一瞬僕の目を見た様に思えた。
辺りが燃えているせいなのか、その目にはまだ光があるように思えた。
僕は大納言の牙がギラリと炎の中で光るのを見た。
半分に取れかけた首でイヌガミ大納言はヌシ様の頸に喰らいついた。
深々と牙が頸筋の柔らかい肉に突き刺さる。
ヌシ様も真逆、あの状態から大納言が反撃に出るとは思っていなかったのだろう。
大納言はそのままヌシ様に覆い被さるように崩れ落ちた。
大納言の巨体はヌシ様には大き過ぎる。
ヌシ様はなんとかこの巨体をどかそうとするが、体格差がありすぎてどうにも出来ない上に、首筋には大納言が喰らい付いているので身動きすら取れない。
普通であれば、悲鳴や呻き声を洩らすだろう。ヌシ様は喋ることが出来ないのか。しかし、ヌシ様の動きからもう彼に余裕が無い事は明白だ。必死に逃げようとしているのが、言葉が無くとも伝わってくる。
二人の間にあった光は急速に大きくなり、そして二人を飲みこんで炸裂した。
爆風と閃光に目が眩み、僕は暫く目を開けることが出来なかった。
次に視界を取り戻すと、石庭が跡形もなく吹き飛んでいた。
大きなクレーターが出来ており、その中心にヌシ様がいた。
イヌガミ大納言はもういない。
頸から血を流しているものの、ヌシ様はのっそりと立ち上がりクレーターを登り始めた。
すると僕の目の前にすっとクマが立ち塞がった。
「密、キツネ御前達を連れて逃げるんだ」
クマはゆっくりと白鞘を引き抜いた。
「い、嫌だよ。ク、クマまで、クマまで死ぬって言うの?」
「父さんがそうだったように、ボクも自分で決めたんだよ」
僕はクマの行動を理解したくなかった。
勝てるわけがない。
イヌガミ大納言の決死の攻撃でも殆ど無傷なのだ。
それを剣一本のクマが止められるはずも無い。
死んでしまう。
「や、止めてクマ。一緒に逃げよう」
どこに逃げると言うのだろう。
僕は自分で言っていることがおかしいと思った。
マヨヒガの支配者から逃げた所でここがマヨヒガである以上逃げ切れるはずもないのだ。
僕は、無力だ。
クマを止めることも、キツネ御前達を助けることも、まして自分の身さえ守れない。
ただ、目の前で起きることを見つめ続けることしかできない。
面縛の支配者は突然けたたましく嗤い出した。声が子供の様に甲高く大納言とは真逆だが、よく通る。
正気を失ってるとしか思えない。ヌシ様の笑いは常軌を逸しており、聞いた者全てを戦慄させる。
ヌシ様は抉れたクレーターの土壁を凄まじい勢いで昇り始めた。よく聞き取れない呪詛の言葉を吐き散らし、土に爪を食いこませ、みるみる這いあがって来た。
クマはその様子をじっと見つめながら、剣を大きく振り被る。
クマの裂帛の怒号とヌシ様が崖を這いあがるのは同時だった。
刃は弧を描いて振り下ろされ、ヌシ様の背を叩き割った。
だが、ヌシ様は動きを止めずそのまま腕を槍の様に突き出した。
腕は真っ直ぐクマの腹に根元まで突き刺さった。
クマは刀を手放しそのままヌシ様の頸を鷲掴みにすると、渾身の力でヌシ様を振り上げた。
クマの出鱈目な怪力がなせる技だ。
ヌシ様が棒切れの様に空中を舞う。
そして、ヌシ様の足が丁度真上を向いた時、クマは全体重と力でヌシ様を頭から地面に叩き落とした。
人体が地面にぶつかる鈍い音とともに何かが潰れる水っぽい、嫌な音も聞こえた。
一瞬全ての音が止んだ。
炎がマヨヒガを焼く音も、イモリとヤモリの啜り泣きも、全て僕の耳には届かなかった。僕の目は、たった今クマが作った人間を逆様にして地面に突っ込むという気味の悪い物体にしか神経が集中していなかった。
どうか、このまま動かないで。
もう、何もしないで。
僕は心が張り裂けんばかりに、そう願った。
だが、僕の願いは届かなかった。
ヌシ様の四肢がぴくりと動いた。
ヌシ様はそのまま虫の様な素早い動きでクマから離れると、ぎこちなく立ちあがった。
電池の切れかけた機械の様だ。
首は完全にへし折れており体からぷらんと垂れている。
ヌシ様はそのぶら下がっている頸を持つとそれを元の位置にもどした。
ヌシ様はゆっくりと歩き始めた。
その歩みの先にいるのは僕だ。
ヌシ様は僕を標的にしたらしい。
ゆらりゆらり。
ヌシ様はのらりくらりとした動きで汚れた衣装を風に揺らしながら近づいてきた。
僕は後退りしたが、直ぐに背後の火でそれ以上引くことが出来なくなってしまった。
ヌシ様は屍のようにぐったりしたまま、僕に擦り寄ってくる。
そのヌシ様を突き飛ばす形でクマがヌシ様に飛び掛った。
だが、ヌシ様はそのクマを五月蠅い虫を払うようにあしらい、クマを逆に大きく吹き飛ばした。
地面を転がるクマは先程の爆発で隆起した岩石にまともにぶつかり崩れ落ちた。
だが、クマは間髪入れずに立ちあがると、またヌシ様に飛び付いた。しかし、それが功を奏すことなくクマは再び跳ね返され、地面に叩きつけられる。
クマはそれを何度も繰り返す。
何度も、何度も繰り返した。
クマの体はみるみる傷ついていく。
ヌシ様の腕が突き刺さった所からはとめど無く、赤い液体が零れ落ちている。クマは馬鹿の一つ覚えの様にヌシ様に突進しては毬のように弾かれた。
クマも勝てないと分かっているのだ。それでも諦めない。否、諦めることができないのだ。
自分が引けば、大切な人が死んでしまう。だから引かない。
僕はこの光景を見た気がした。
イヌガミ大納言と同じ光景だ。
「や、止めてクマ。クマ、死んじゃうよ」
「クマ兄ちゃん止めて。お願いだから……もう――止めてぇ」
ヤモリの声は精も根も尽き果てたかのように、か細かった。
クマが何度目になるか分からない突進をした時、ヌシ様はイヌガミ大納言の時と同じものをクマにも感じ取ったのだろう。足元に転がっていた剣を手に取り、すれ違い様にクマを斬り付けた。
ヌシ様はクマが倒れ込むのを見計らって、その背を足で踏みつけ動きを封じた。手にはクマの剣が逆手に握られている。その切っ先は辺りを取り囲む業火の光でちらちらと妖しく輝き、真っ直ぐにクマの心臓を狙っている。
危ない。
僕の体は僕が動けと命じる前にもう動いていた。
思考なんてしていられなかった。そんなことをしていたらクマが死んでしまう。
もう、失うのは嫌だった。
僕は刀を振り上げるヌシ様の腰に抱きついた。
ヌシ様の体は細く、小さく子供のようだった。
着てる服がぐっしょりと血で濡れ、噎せ返るほど血生臭くまるで腐った蜜柑のような感触だった。
僕は羽虫を払うように跳ね退けられた。
僕はもんどりうって地面に倒れたが、そのまま飛び起きヌシ様に飛び掛った。
ヌシ様はそれを難なくかわし、僕に足を引っかけ転ばせた。
地面にまともに顔から突っ込んだからか、口の中に鉄臭い匂いが立ち込め、どろりとしたものが広がった。
あきらめるものか。
ここで諦めたら、死んじゃうんだ。
森の中、何も出来ずただ途方に暮れていた僕を助けてくれた、あのちょっとずれていて、でも誰よりも優しかったクマが、死んでしまう。
そう思うと、僕の体は脳の命令を待たずに勝手に動いた。
僕はヌシ様の足に飛び付き、腕を巻き付け、力を振り絞ってしがみついた。
クマに比べたら取るに足らない力だ。そんなことは分かっている。でも、やらなきゃならないんだ。
腰も膝もまともに立たず、文字通りしがみつくだけの僕をヌシ様は遂に敵と見なしたらしい。
次の瞬間僕は自分の顎に強烈な熱が広がるのと体が宙に浮く感じを覚えた。
周りの音は何も聞こえない。
僕はどうやら蹴り飛ばされたらしい。
空中に何か白いものが飛んでいる。それが僕の歯だと気付くのにも少しだけ時間が掛った。
全てがこま送りのように遅く時間が過ぎて行ったが、僕の背が先程の大納言の自爆で隆起した岩石に激突した所で音と時間が戻って来た。
耐え難い激痛と吐き気を覚え、僕は吐く物も無いのに嘔吐した。
出たのは吐瀉物ではなく、大量の血だ。
顔を上げると、赤黒い面縛の布が僕を真っ直ぐに見据えていた。
クマが何とか己を踏みつける足をどかそうともがくが、ヌシ様の足は動かない。
少し離れた所で、イモリとヤモリが何か叫んでいる。
僕がまずい、と思う暇も無くヌシ様は僕に向かって刀を投擲した。
刀は真っ直ぐに飛来し、寸分の狂いなく突き刺さった。
――キツネ御前の背中に――
「――ご……ぜん様」
僕の視界には橙色の灯りに照らされた金糸が揺らめいていた。それはまるであらゆる危害から守ってくれる魔法のベールのようでもあった。
キツネ御前が僕を包んでいた。
母が子供を守るように、優しく、力強くその胸に僕を掻き抱いていた。
麝香の香が僕の鼻腔を満たし、暖かく柔らかで丸みを帯びた感触が僕を隙間なく覆い尽くしている。
刀は御前の色彩豊かな十二単の背を貫いていた。
キツネ御前は呻くでも叫ぶでもなく、ただ「ああ」と何かを確かめるように言っただけであった。
「無事だったのね、密」
キツネ御前の手が僕の頬を優しく撫でる。
その手はお母さんのように慈愛に満ちて、優しかった。いつまでもそうしてもらいたかった。
御前の手は急速に冷えていった。
御前の口から一筋の血が流れ落ちた。
ああ、駄目だ。失ってしまう。
「どうして、僕なんかの為に……」
「決まってるじゃありませんか……あなたも私の大切な――」
――家族だからです――
キツネ御前は二度と口を開かなかった。
そして、水中花がその花びらを広げるかのように僕は全てを思い出した。
僕は静かにキツネ御前だったものを横たえた。
僕は全てに目を瞑りたかった。
こんな惨劇を起こしたかった訳じゃないのだ。
ただ幸せでいたかった。
外の世界が嫌だったのだ。
僕は立ちあがり、辺りを見渡した。
全てが赤かった。
燃える森、茜色に染め上げられた泉、天をも焦がす火柱、焼け落ちていく伽藍の御殿。
全てが燃えて行く中、空には満点の綺羅星が最後と言わんばかりに強く輝いている。
僕はそのまま視線をヌシ様に向けた。
ヌシ様はゆっくりと、だが確実に僕に近づいて来る。
今までの僕なら、この人が怖くて仕方が無かったろう。
でも、もう僕は恐れない。
辛かったんだね。
全部、無くしてしまいたかったんだね。
僕もがくがくと震える足で立ち、ヌシ様に向かって歩き出した。
一歩を踏み出すことすら、今の僕には苦しかった。
ほどなくして僕はヌシ様の直ぐ目の前で立ち止まった。
「密! ヌシ様から離れるんだ」
クマがうつ伏せの状態で叫ぶ。立ち上がる力すら残されていないのだ。
大丈夫だよ、と言おうとして僕はクマに向かって微笑んだ。
体に鈍い衝撃がする。
ヌシ様の手が僕の胸に突き刺さったのだ。
でも、不思議と嫌ではなかった。
痛い。想像を絶する程痛い。
でも、怖くはなかった。
僕の胸と口から大量の血が滴り落ちた。
視界が歪み、体の力が抜けていく。
僕はやらなければならない。
まだ終わってはいないのだ。
救うのだ、マヨヒガを。
助けるのだ、皆を。
あの人は僕に言った――受け入れるのだ、と。
僕は最後の力でヌシ様の面縛を剥ぎ取った。
「キミは僕だ」
面縛の下には今にも泣き出しそうな顔をした幼い僕の顔があった。
次に気が付いた時、僕は浜辺に立っていた。
時刻は夜なのだろう。
太陽ではなく、丸い月が地平線に浮かんでいた。
月の光を受けて、黒い海は波間から白い煌めきを覗かせている。
波の音と磯の香りが不思議と心地よく感じた。昼に感じた時は不快に思ったにも関わらずゲンキンなものだ。
僕の心情も、この海のように静かで穏やかだ。
僕はこの景色を一人で見るのはもったいないと思った。誰かとこれを見に行きたい。
夜の浜辺の静寂を存分に味わっていると、僕の背後で声がした。
「全て――終わったか」
僕にはこの声の主が誰か分かっていた。
「ええ、終わりましたよ――ミミズク翁」
振り返ると、紺色の作務衣を纏った年老いた猛禽類が立っていた。
ミミズク翁は今にも綻びそうな口元で手を後ろ組にして、その老いを感じられぬ大きく澄んだ瞳で僕をじっと見ていた。
僕はミミズク翁に言った。
「マヨヒガの主は僕です」
「ほうじゃ。マヨヒガはお前が作ったものじゃ。全てを知ったようじゃな。そして、全部を受け入れた。ワシの忠告を覚えておいてくれたか」
僕は頷いた。
ほっほっほ、とミミズク翁は梟の鳴き声のように笑い、僕を誘う様な仕草をした。
「では、全て話して聞かせよう。まだお主が理解しきれぬ所もあるじゃろうしの。その前にちと、場所を移そう。ここも風情があって良いのじゃが、矢張りこの話を聞かせる場所はあそこの方がふさわしかろう」
ミミズク翁が指差す先には、立っているのが不思議なくらいの朽ち果てた小屋があった。
ミミズク翁の家だ。
僕は老鳥と共に夜の浜辺を歩き始めた。
砂が靴の中に入り込んできたので、僕は靴と靴下を脱ぎ手に持って歩き始めた。
浜辺の砂は、極め細やかで肌をすり抜けて行くようだった。
「いつの頃だったじゃろう。お前がこの世界を創り始めたのは」
「僕が小学校三年生くらいの時だと思います」
「ほう、もうそんなに昔なのか。お前がワシの家に来たのは……」
この『家』というのはミミズク翁の家のことではない。
僕らは連れだって、家に入った。
ミミズク翁の家は昨日来た時と変わっていない。
唯一違う点と言ったら、囲炉裏に火が入っていないこと位だろう。
「こっちじゃ」
僕はミミズク翁の指示通りに、ミミズク翁の部屋の前まで来た。
ミミズク翁はゆっくりと襖を引いていく。
そして、僕は懐かしい光景と再会した。
部屋中の壁と言う壁全てに本がある。
古今東西の本という本に天井まで埋め尽くされた部屋だ。
そして、正面の大きな窓。
本来はここから、マヨヒガのような緑豊かな原風景が見えるのだが、今は真っ暗で何も見えない。
その窓の下には大きなコの字をした机がある。これが、ミミズク翁の机なのだろう。
その机と一緒におかれている椅子は高級そうな革張りの回転椅子だ。この現代的な部屋や家具は密のよく知る人物の物だ。
本来はこの机の前に来客用のソファが対に置かれているのだが、今は簡素な椅子がコの字型の机と向かい合わせで置かれているだけだった。
ミミズク翁は勝手知ったる部屋の様にその回転椅子に腰かける。
僕もそれと向き合うように置かれた椅子に座った。
この部屋から全ては始まったのだ。
「この部屋はお前の祖父の物だ。お前がここに始めて来たのが、小学三年生の夏休みだったのう。小さなお前は好奇心旺盛でこの部屋の至る所を引っかき回して遊んでいた。そして、これを見つけた」
ミミズク翁は机の上に一冊の本を置いた。
それは柳田國男が書いた『遠野物語』であった。
祖父は国を代表する民俗学者であった。この部屋にあるのはその祖父が自身の研究と趣味で集めた、祖父の全てである。
「お前は面白半分にこの本を開き、最初に目にとまった単語に興味を示し、それを祖父に尋ねたのう」
「ええ、それを祖父はマヨヒガだと言い、東北地方の山間の村々で伝えられる伝承だと教えてくれました」
「正確には東北地方等じゃ、密よ。マヨヒガは迷い家とも書き、山で遭難した者が誰もいない大きな家に辿りつき、そこで幸福を貰い無事自分の住む村まで辿り着くが、もう一度行こうとしても、二度とその家へは行けないという話じゃ。お前の祖父はそれと一緒に『隠れ里』の話もしたはずじゃが……」
「よく、覚えていません」
「まぁ、そうじゃろうな。覚えておったならマヨヒガ等と言う名前はつけんじゃろう。隠れ里というのはマヨヒガとよく似ているものじゃよ。山の奥、つまり秘境において旅人が迷ったりすると突然現れる。そこはこの世の極楽のような世界なのじゃ。深い山の中にあるにも関わらず、食料は尽きず、水もいくらでも出る。水や食料だけではない、そこに暮らす全ての人、生き物たちは皆幸せで永遠に歳を取ることなく生き続けると、言われておる。お前はマヨヒガの話よりも、寧ろこの『隠れ里』の話に興味を持った、違うかの?」
「はい、その通りです。幼かった僕はマヨヒガと隠れ里の話を混同してしまったようです」
「マヨヒガという衝撃力のある単語と、少年の心を掴む夢物語の話がお前の記憶に強く残ったようじゃ」
ここで、ミミズク翁椅子から立ち上がると、今度は壁の本棚の方へと足を運んだ。
ミミズク翁は一つの本棚の前で立ち止まった。
それは本棚というよりは、陳列棚と言った方がいい。
小さな取っ手が付いた観音開きの扉がその本棚には付いている。扉は飴色の木で作られた品の良いものだ。
ミミズク翁はそれを勢いよく開いた。
中には、祖父が生涯掛けて集めた民芸品の蒐集品がずらりと並んでいた。
「お前がこの書斎で遊んだ時、これらの蒐集品も目にしていたはずじゃ。これらもマヨヒガと同様、強烈な印象をお前に残した」
ミミズク翁は扉を開け放したまま、椅子へと戻った。
「やがてお前はすくすくと成長していく。そしてお前が十二歳の夏、お前は父親に連れられて森里財閥の幹部会議に連れられて行った。そこでお前は父親や周りの連中から非常に高い期待を寄せられていることに否が応でも気付くことになった」
――ほう、彼が会長の御令息――
――会長の御子息であれば、この程度の事――
「中学校は名門私立中学に入れられたな。お前の父、の意向で。お前は訳も分からないまま非情な競争社会に身を投じていくことになった。想像もしていなかったじゃろう。周りは社長、会長の息子、娘ばかり。やれどこそこの社長の息子です。父は政治家、資産家、弁護士です――やがて、学級はいくつかの派閥に分かれていく。どこの学級でもある程度起こる現象じゃが、お前のいたあの環境では派閥としての括りも、よりはっきりと浮き彫りになっておったじゃろうに。もちろん、その派閥にあぶれる者もな」
ミミズク翁はそこで懐から煙管を取り出し、机の引き出しから燐寸を取り出し火を付けた。
煙を燻らせながら、ミミズク翁は話を続ける。
「お前にとって、更に衝撃だったのはお前の想像以上に、お前の弟がデきた息子だったことじゃな。お前の一つ下の弟は中学に入った途端、その他者を惹きつけて止まない性格や言動、行動で一躍学校の中心人物に仲間入りを果たした。彼は急速に力をつけていった。そして、代わりにお前の周りからトモダチはいなくなっていってしまった。それはそうじゃろう。彼らはお前ではなく、お前の後ろにある森里財閥を見ておったのじゃろうからのう。同じ森里財閥を背負い、尚且つ魅力的であったろう良嗣にかしずくのも無理はない。お前は一人になってしまった。悲しかったじゃろう。寂しかったじゃろう。お前の唯一の遊び友達は家に帰った後で相手をする双子の妹達だけじゃった」
紫と碧のことだ。
僕は二人と遊んでいる時だけに心が安らぐのを感じた。
紫は内向的で大人しい子だ。逆に碧は活発で太陽の下で泥だらけになって遊ぶのを好む子だった。二人はよく間違われ、その度に碧が憤激していたの覚えている。
弟は兄の僕から見てもとても利口で利発だった。ちょっと理解し難い所もあるけど、とても人から好かれ易い質であったと思う。
「お前はもうその時から少しずつ歪み始めていたのじゃ。お前が中学三年の時、もうお前の周りには誰もおらなかった。挙句、お前は会社側からの期待をすっかり裏切ってしもうた」
そうだ。僕は中学三年の時には受験ノイローゼに近い状態になり、胃痛が酷くなった。
そして、僕は見事に受験に失敗した。所謂、有名高校を受けたのだが、駄目だった。
翌年、良嗣は何の苦もなくその高校に合格した。
「会社側もお前に失望し、最早お前は全てに見放された気分になった。誰も自分を見てくれない。だから――お前は自分の世界に逃げ込んだのじゃ。じゃが、一体誰がお前を責められようか。そうでもしなければ、お前は本当に死んでしまっていたじゃろう。心が弱れば、体が弱る。それは当り前のことでもあるのじゃ。それに気付いてやれなかった父親も父親なのじゃが、奴もかなり大きなものを背負い込んでいた。全てが奴の責任とはワシは言わぬ」
ミミズク翁は悲しげな表情で、小さくため息をついた。
ミミズク翁も僕に話すのは辛いのかも知れない。
僕の生涯を僕は忘れようとしたのだ。
そのつけを僕は今回の事件で払うことになったのだろう。
疲れ果てたかのような年老いた猛禽類は再び口を開いた。
「そうして、お前は少しずつこの現実を離れ始めた。最初は妄想、次は夢、次は白昼夢、そして遂には夢と現実をすり替えるようにお前の脳がお前の意識に働きかけてしもうた。その際役に立ったのが、お前の遠い記憶じゃ。」
マヨヒガの記憶だ。
祖父の書斎で見た、あの強烈な印象。
こんな世界があったらいい。
こんな所に行きたい。
僕を傷つけるだけの世界なら、そんなものはいらない。
「マヨヒガと隠れ里、そして民芸品。これらの符号はお前の中で大いに活用された。現実をカモフラージュする為、その世界の住人達は皆人の姿を取ることは許されなかった。お前を苦しめる現実など一切いらぬ。お前の心穏やかであった時代を象徴する、あの夏休みを過ごした祖父の村の風景をその世界の舞台とした。お前が最も欲したのは何よりも家族の温もりじゃ。恐ろしく厳しくも、見守ってくれる父の役はイヌガミ大納言が引き受けることになる」
巌の様な恐ろしい顔。でも笑う顔は意外と優しかった父さん。
「如何なる疑問にも答え、お前を導くのは知識の象徴である祖父役。つまりそれはワシじゃな」
幼かった僕の拙い言葉にもじっと耳を傾け、優しい言葉で諭してくれたお祖父さん。
「お前に良く似て、少し気弱。だが、甲斐甲斐しくもお前の事を何かと気にかけてくれるのはお前の父を恐れた叔父じゃ。この役にはネズミ僧正が抜擢された」
父との確執の末、失脚し出家した叔父の頭は綺麗に剃られ、陽光が当たると綺麗に反射していた。
「現実と同様にお前が一緒に居て心が安らいだ者は必要不可欠じゃな。これは勿論イモリ、ヤモリ姫の役目よ」
怒りっぽい碧はいつも僕に対してつっけんどんな態度だが、偶に僕が彼女の為に何かしてやると子供らしく可愛らしい笑顔を浮かべた。紫は常に僕に構ってほしく、本や人形を持って来て僕と遊んでもらえるように様々な手を使ってせがんできたものだ。二人の七五三の衣装は碧が桜で紫が梅をあしらった赤地の着物であった。イモリとヤモリの衣装がそれだったのは、二人の妹の晴れ着が僕の記憶に強く残っていたらからだろう。
「そして、現実世界でお前を守ることはなかった弟をお前は自分の為だけに働く従順な近衛兵とした。クマのことじゃ」
弟は小さなころは怖がりで、夏休みの縁日の太鼓の音さえも怖がっていた。雷が鳴っている時は眠れないから一緒に寝て、とぐずりながら僕の布団に入って来た。
「お前は物心つく前に母を失っておる。お前の母の役には少し特殊な役目が与えられる事になった。幼き頃に失った母に対してお前はほとんど記憶を持ち合わせておらん。よってこの母役は最初から最後まで全て密のオリジナルの母としてのイメージが当て嵌められることになったのじゃ。それと同時にマヨヒガにいる密には現実の密の記憶は知られてはいけない。だからそれを管理する書庫――つまり記憶とそれを運営する管理人が必要だったのじゃ」
大納言と御前の会話はこの事を言っていたのだろう。
キツネ御前は僕に気付かせたかったのだ。
あの絵本は全て僕のことだったのだ。
そして、御前は死の間際――その役目を終える瞬間、母であることを告白したのだ。
あの人達は僕を愛してくれていたのだろうか。それともそれすらも僕が勝手に彼らにやらせたことだったのか。
「そして、お前の為だけに存在する楽園には主が必要じゃ。その主はそこで何の心配も不安も無く、ただ平穏に家族と共に過ごせばよい。そうすることによって辛うじてお前の精神は保たれておったのじゃ」
マヨヒガには最初からこの八人しかいなかったのだ。
それ以上は必要ない。僕が求めたのはただ、普通の家族だけだったのだから。
「マヨヒガの住人達は皆人の姿ではないが、どうして狗や熊になったかは分かるかの?」
僕は視線を民芸品の棚に目を向ける。
ミミズク翁は愉快そうに目を細めた。
棚には木彫りの熊、狐のお面、鵂の剥製、井守と守宮が載っている図鑑、狗神をモチーフにした幽霊画、鼠の妖怪画が収められているのを僕はそこで目撃しているのだ。
「これらの事はもう、全て思い出したのじゃろう。ではもう少しだけワシの話を聞いて貰えぬかの。何となくは予想ついているじゃろうが、どうしてこのマヨヒガが崩壊してしまったかについてじゃ。マヨヒガは元々本当の物ではない。これは森里密の中だけでのみ効果を発揮する代物じゃ。じゃが、森里密はマヨヒガの主であると同時に現実世界の一個人でもある。密がマヨヒガで精神を癒している間にもあらゆる物事が現実の世界では起こっていく。その中の一つは祖父の死じゃ。」
祖父は僕が一六の時に死んだ。僕はそれが酷く悲しかったのを覚えている。祖父の葬式の時は、周りの音や動きが酷く遅く聞こえ、まともに感じられなかった。
「その死はお前に相当な衝撃を与えた。だが、その衝撃はお前の認識が及ばぬ程にお前の精神に大きな影響を与えたのじゃ。近親者、それもお前が最も尊敬していた祖父の死はそのままマヨヒガにも影響を及ぼした。つまり、祖父役であったミミズク大臣は消えねばならなくなってしまったのじゃ。現実で死んだものを、お前の中の『現実』であるマヨヒガが拒否することは出来ん。しかし、何としてもワシを消したくなかったお前はワシから大臣という符号を剥奪することによってワシを消したことにした。そしてワシは御殿を出奔し、生と死の狭間の世界にいるなんとも中途半端な存在となった。ワシが今こうしてお前と話しておるのは、ワシが完全なるマヨヒガの住人ではないことの何よりの証なのじゃ。ワシが住んでいた場所はどこか分かるな? 橋を渡ってこの浜辺に来たじゃろう。その橋こそ、マヨヒガと外、この場合は死の世界を繋ぐ文字通りの橋だったのじゃ」
そうだ、あそこには川があった。川は異界を示す境界だったのだ。それにクマやミミズク翁が家から出るのを止めた時も危険だと言っていた。それはそのまま僕が死の世界に引き込まれるのを危惧していたことを示すのではあるまいか。
「当然、もう住人ではないワシを暴走したマヨヒガの主が殺せるわけがない。もうワシはマヨヒガの中では死んだ扱いだったのじゃからのう。一度死んだ者を二度も殺すことは出来ん。さて次に起こったことは、このマヨヒガが密の精神と体を騙すことに限界を迎えたことじゃ。現実世界のお前はますます孤独を深め、もう妹達でさえお前に近づかなくなってしもうた。唯一の支えすら失ったお前の精神はいよいよ立ち行かなくなる。そしてよりマヨヒガに依存する。だが、所詮マヨヒガは幻なのじゃ。密という自我は騙せても森里密という個人全てを騙し切るのには限界がある。お前の肉体は徐々に弱まり、一七の時からはもう寝床から起き上がることすら難しくなってしもうた。体も心も弱まった為に更にマヨヒガに対する負荷は重くなる。その時位からじゃな、マヨヒガの中でも色々問題が発生し出したのは。まず、主の様子が明らかにおかしくなっていった。激しい幼児退行と暴力を振るい、そこらにあるものを片っ端から薙倒す。慌ててそれを諫めれば、今度はわんわんと泣く。お前の分身はもう限界を迎えてしもうたのじゃ。主の限界により、動きを強めたのはイヌガミじゃな。奴はマヨヒガでの役目を超える動きを始めた。手始めに空位だった大臣の座を手に入れマヨヒガの実質的な全権を手に入れる。そこから奴はマヨヒガの立て直しを図った。その計画とは密の分身たる今の主を排し、本当の密を新たに主として迎えるというものじゃった。当然これには今の主を守る立場にあったクマが猛抗議をした。譬え主が正気を失っていたとしても密の分身を排除するだなんてことは奴には到底、容認出来んかったのじゃろう。こうして二人の確執は深まっていき、遂にクマは御殿を追放されてしまったのじゃ」
ミミズク翁は一度大きく煙管を吸い、長く煙を吐き出した。その目はどこか遠くを見つめているようにも見える。
「イヌガミも必死だったのじゃ。イヌガミは家族を愛しておった。どんなことをしてでも助けたかったのじゃろう。密の死はマヨヒガの崩壊を意味し、全てが無くなることを意味している。奴にとってはお前もキツネやイモリ、ヤモリも同様に守らねばならない大切な存在だったのじゃ。多少強引じゃが、奴の考えた事は辻褄が合う。こうして、主の弱体化により主の意図を超えて住人達が行動を始めてしまったのじゃ。泉の儀がどういう意味かお前にはもう分かったじゃろうか?」
「あれは世界の維持を司るものですよね?」
「そうじゃ、それと同時に主にマヨヒガが如何なるものかを刷り込むものでもある。そうすることにより、より強くマヨヒガを支配する事ができるのじゃ。じゃが、イヌガミの計画もクマの想いも支配者の力の前では無意味だったわけじゃが……そうこうしているうちに遂に最悪の事態が発生したのじゃ」
「それは――」
それは、現実の僕がしたことだ。
僕は病室のベッドの脇に乗っていた果物を切るナイフに目が止まった。気だるい体を何とか起こし、僕はそのナイフを掴みそれを自分の手首に押し付けたのだ。
「お前の出現じゃ、密よ。現実世界のお前が自分の生に意味を見い出せず、死を選んだのじゃ。そうしてお前の意識の本体がこのマヨヒガに迷い込んできた。丁度、遭難した旅人が山中異界にて迷い家を見つけるように。これを好機と見たのはイヌガミじゃ。逆に危機と思ったのはクマじゃな。そしていち早く動いたのもクマじゃ。先にお前と接触し、お前と大納言を引き合わせまいとした。まぁ、後は言わなくともよかろう。主の方はと言うと、主はもう完全に壊れてしまっておったから、恐らく今のマヨヒガを全て滅ぼして密を那辺へと連れ去ってしまおうと思っておったのじゃろう。じゃが、マヨヒガの主と言うても所詮は意識の分身。本体からの干渉には成す術はない。お前の勇気ある行動で、あの哀れな分身はお前の内に戻っていったようじゃな」
もう僕には目の前の老人がミミズクには見えていない。
そこにはミミズクの様に立派な眉を持つ碩学の哲学者のような枯れた老人が座っていた。
「事の顛末は以上じゃ。では最後にワシはお前に聞かねばならぬ。お前は戻るのか、それとも――」
「戻ります」
僕は祖父の目を見て答えた。
僕の中で既に答えは決まっていた。
「本当にそれでいいのじゃな。あちらのお前を取り巻く環境は辛いぞ。ちょっとやそっとじゃ跳ね退けられん。もしかしたら傷つくだけかもしれん。それでも、行くのか?」
「はい」
祖父は皺だらけの顔を一層しわくちゃにして破顔した。
「よかろう。ワシはお前に脱帽じゃ、密。辛い現実から永遠に遠ざかる手段が目の前にあるにも関わらず、敢えて辛い選択を取る。これはそう決断できることではないぞ」
「僕の心が命じるのです。こうすべきだと――」
イヌガミやクマがそうしたように、僕も自分の心に従うことにした。それが正しいことだと思ったからだ。
僕の選ぶ道はとてもつらいことなのかもしれない。事実僕は一度それから逃げ出した。僕は弱い。
でも、そんな僕をマヨヒガの人達は守ろうとしてくれた。たとえそれが、僕の意志であったとしても、彼らがあの時あのように動いてくれた、その思いに――偽りは無いと僕は信じている。
「出口はあそこじゃ」
祖父は頷きながらそう言って壁のある一点を指差した。
それは何の変哲もない扉だった。
僕は椅子から立ち上がり礼をし、その扉に向かった。
取っ手に手を掛ける。
次に僕が目覚めるのは病院だろう。
もし、次家族にあったら何と言おうか。
答えは決まっていた。
浜辺で海を見よう。
月が照らすあの白く煌めく海を一緒に見に行こう。
〈完〉