Goodbye my lover....
途轍もない衝撃が彼の身体を貫いた。全身の骨が粉々になったかのような感覚。いや、実際にそうなったのかもしれなかった。
今までの思い出が走馬灯のように脳裏に閃く。家族の事。学校の事。
でもどうしても、真っ先に浮かんでくるのは彼女の事で。
彼女の顔も見ずに逝くのがたまらなく悔しくて。
だから彼は、自分を撥ねたトラックの運転手を睨んだ。
彼女と出会ったのは、中学三年の秋だった。家庭の都合により、彼の通う中学校に彼女が転校してきたのである。
地元の難関私立高校であるL高校への受験を考えていた彼はその頃、日々頭脳と精神を酷使する受験勉強に疲労困憊だった。半ば受験ノイローゼのようになっていた。
彼女の席は偶然にも、彼の隣だった。彼女の積極性のおかげで、二人はすぐに仲良くなった。受験ノイローゼになりかけていた彼も、彼女の笑顔を見れば元気が出た。
秋も深まり、もうすぐ冬になると言う頃、彼は意を決して彼女に告白した。恋文をしたため、放課後に彼女に渡した。
彼女の返答はイエス。付き合ってくれると言う事だった。
彼は狂喜乱舞した。受験勉強の疲れも吹き飛ぶようだった。
もちろん、そうそううまく行ってばかりではなかった。彼女とケンカする事もあったし、そんな時は受験勉強もはかどらない。そんな時は決まって、近所の公園に行って野原に寝そべり、日光をたっぷり身に浴びるのだった。
ある日、彼と彼女はまたケンカをした。きっかけは他愛もない事だった。そしてその日も、彼は公園に行った。
そんなに大きな公園ではなかったが、小さな丘のある野原は気持ちがよかった。今日は晴天である。
「……こんなところで寝てたんだ」
女性の声がした。薄ら目を開けると、声の主は彼女だった。
「……ん」
気まずく思いながらも、彼は起き上がった。
「よく来るの?」
彼女は屈託のない笑顔を浮かべながら尋ねてきた。ケンカなどしていなかったかのようだ。
「まぁ、ね。気分転換に」
「気持ちいいね」
「うん」
少し肌寒くはなっているが、まだ秋の気候である。太陽さえ出ていれば何と言う事はない。
「ここに寝そべっていれば、色々忘れられるかなと思って」
「ふーん」
彼は再び体を横たえた。彼女もそれに倣い、彼の隣に寝転がった。
甘いような香りが、ふわりと彼を包んだ。
「……ごめんね、今日は」
不意に彼女が言う。突然の謝罪に、彼は面食らった。
「いや、あれは……」
自分が悪かった、と彼も謝った。
それから、二人で笑いあった。
楽しかった。こんな下らない日常も、遊園地でのデートも、学校での冷やかしも、すべて楽しんだ。幸せだった。
「あたし、L高校に行く」
ある日唐突に、彼女が言った。その時彼は、え、と首を突き出したのだ。
「二人で同じ高校に行きたいの」
もともと彼女はそんなに成績のいい方ではない。難関校であるL高校に入学するには、想像を絶する受験勉強が必要になるだろう。
彼は念のためその事を説明してみたが、彼女は、
「分かってる」
と毅然とした表情で答えたのだった。彼には最早何も言えなかった。
それから彼女は猛勉強した。人と遊ぶ時間を削り、睡眠時間を削り、L高校に入学するために凄まじいやる気を見せた。そしてそれは、間違った方向には向かっていないように彼には見えた。
しかし彼女は、日に日に弱っているようにも見えた。これまで受験勉強で衰弱していた彼だからこそ分かる、微妙な変化だった。
「大丈夫?」
「うん? 何が?」
彼女はそんな風に気丈に振舞っていた。だからこそ、彼は心配だった。そんなにも自分と同じ高校に行きたいのか。自分の生活を、身体をすり減らしてまで自分と関係を保ちたいのか。
もちろんその気持ちは嬉しかった。彼も、彼女と同じ高校に行けたらとは思っていた。だがそのために、自分の猛勉強を棒に振る気にはなれなかった。
彼女は自分の生活を棒に振るような形で、彼について行こうとしているのだ。それは本当にいい事なのか。彼は大いに悩んだ。
しかし受験が間近に迫ると、彼自身そうも言っていられなくなった。彼女の事を気にかけていられるほど勉強は完璧ではなかったのだ。彼もやはり、最後の追い込みを掛けていた。
そして受験の結果は、
「あ! あった!」
「178……あれだ!」
二人とも合格だった。
これでまたしばらく、二人の関係は続いていく。そう思っていた。
思っていた、のに。
それは思わぬ形で幕を閉じるようだ。
彼の身体が、硬い地面に打ち付けられる。視界が揺らぐ。トラックのブレーキ音が聞こえた。運転手が駆け寄って来る。彼の周りはすでに赤く染まっている。
それを見た途端、鈍っていた痛みが再び彼を襲い、彼は意識を失った。
彼の名を呼ぶ声がする。
「――……」
何度も、何度も。その声は反響していくつも重なり、彼の頭を揺すぶった。
薄ら目を開けると、ケンカ別れして公園で寝そべっていたときのように、彼女の顔が目に入った。
「――!」
目を真っ赤に腫らして、もう一度彼の名を呼ぶ。その顔には、見る見る歓喜の色が広がった。
「……?」
状況を理解できていない彼は、きょとんと小さく首を傾げた。自分はトラックにひかれて死んだのではなかったのか。ここはどこだ?
「大丈夫!? って、大丈夫な訳ないよね……」
彼女は再び悲しげに顔を歪めた。彼女の瞳の下には、幾筋もの涙の跡が残っていた。
「ここ、は?」
ままならない口を動かして、彼女に尋ねる。
「病院。トラックに撥ねられて気を失ったんだけど……運転手さんが素早く救急車を呼んでくれて、手術で一命を取り留めたの」
途中で鼻をすすり上げながら、彼女は言った。
そうか……自分は助かったのか。
意外に思った。ついで、安堵が込み上げてきた。
「……よかった」
言ったのは、彼だったか、彼女だったか。
「本当に、よかった」
言って、彼女は彼の頭を優しく抱いた。あのときのような、甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「……うん」
彼も小さく頷いた。心からよかったと思った。
やはり、彼女との生活はもう少し、続いてくれそうだった。それが何より嬉しかった。