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-きみがきみであるがゆえに-

作者: しえる


それは酷く幻想的な光景だった。

一瞬本気で白昼夢を見ているのかと思ってしまうほどに。


確かに自分は自宅付近の寂れた公園を訪れたはずだ。

けれど昨晩から降り続いた雪のせいか、見慣れた風景は一面こんもりと白いもので覆われて、植木や花壇や砂場までもが一様にその姿を隠してしまっていた。張り詰めた空気の中、水で薄めたようなゼニスブルーが丸裸になった木々の間を塗りつぶしている。きん、と耳鳴りがするほどに音はなく、まるで自分だけが世界から切り取られたようにすら思える。


静まり返った白銀の世界。

そこにあるのは、瞬きを忘れた眼と、凍てつく外気と、そこに溶け込む儚い人影。


例えるならば雪女だ。

桜庭樹季さくらば たつきは、痺れた脳がそう呟くのを聴いた。


彼の視線は、ただそこだけに注がれる。

六花に佇み真珠色の着物を纏う、その人に。

地に足がついているのがむしろ不思議だった。

後ろが透けて見えないのもおかしく思える。

精霊というものがいるならば、およそその人で間違いない。


息をするのも忘れた。


頬を撫でた気まぐれな風が時の流れを教え、それは同時にその人の髪をも靡かせる。その背に流れる烏羽色の髪は淡い色合いの名古屋帯のお太鼓にかかって、それをすっぽりと隠してしまっていた。


チリリ。


上品な鈴の音がしてその人がしゃがみこむ。

すると足元の白い海が瞬く間に黒く染め上げられる。


凍えそうなほど冷ややかな風が樹季の背中をぐい、と押した。

浮かされたように虚ろな頭のまま、足が勝手に前へと進む。

雪が擦れる音がする。その人に聞こえてしまわないだろうか。

思った途端、はっとその人が振り返った。


視線が絡んだその刹那、水をかけられたように動けなくなる。

残された距離は、自分の影2つ分。

魔法にかかるには充分すぎるくらいだった。


雪と見紛う純白の肌に、切れ長の目。絶妙なバランスで配置されたそれはもはや『美』という言葉では到底足りない。じっと見つめると、控えめに色づいた薄い唇がややあって小さく波を打った。

「……あなたは?」

狭間から滑り出したその声が鼓膜を揺さぶる。信じがたいほどに甘美な響きだ。

「あの」

押し黙ってその瞳に捕らわれていると、不審がる声色が耳を掠めた。そこでようやく忘れられていた現実に舞い戻る。霞んでいた風景がくっきりとコントラストを強め、木々のざわめきと傘を叩く雪の音が一気に耳殻へと雪崩れ込んだ。

「あ、その……いまさっき通りかかって。人がいるのが珍しくて、それで」

悴んだ樹季の口が、ぎこちなく開閉した。痺れの残る頭では上辺だけの会話すら浮かばない。景色がはっきりと色彩を帯びた分、今度はこの完璧なまでの美しさが酷く作り物のように思えてしまう。まるで日本人形だ。

「ここにはあまり人が来ないんですか」

頬から下が全く動かない。もしかしたら絡繰り人形かもしれない。

「俺はあまり見かけないけど。ここらの人じゃないの?」

「はい。ここから駅を六つ行ったところに住んでいます」

もし本当に人間なのだとしたら、おそらく年齢は自分よりも五つほど下だろう。全体的な雰囲気と立ち振る舞いからは妖艶な色気が漂うが、こうして間近で見てみるとなかなか目元が幼い気がする。


「ところで、こんなところで何をしているの?」

聞きたいことは山積みな気もしたけれど、まず気になるのはそれだった。近頃この公園で人と会うことなど一回もなかったのだ。だからこそ今日こうして足を運んだというのに。

その人は何やら地面を見下ろしている。樹季は傍へと近づき腰を屈め、そしてその手に有るものに目を落とし息を呑んだ。


「そこの上で冷たくなっていたんです」

その手の上にあるのは、雪とは相容れぬ毛色の黒猫。まだ片手に乗せられるほどに小さいが、死後硬直で手足は強張っている。

「ベンチの?」

「そう。そのままだと寒いでしょう?だから埋めてあげようと思って」

言いながら、猫の乗っていない方の手で厚い雪の層を掘り起こしていく。その手は薄紅色に染め上がってしまっていた。

「素手で穴を掘るの?」

「駄目ですか」

「いや、駄目って言うわけじゃないけど」

子供のような返答にたじろぐ。声はこんなにも深みがあって艶めいているのに、似合わず言動は幼い。

樹季が黙るのを横目に、その人はまた掘る手を進めた。白を掬うその朱があまりに痛々しくて、思わず口を開く。

「素手で掘るのは止めた方がいい。だったらスコップとかを使おう。じゃないと、雪はともかく土が凍っているから無理だ」

樹季はそう言って、ポケットからおもむろにハンカチを引っ張り出した。

「それに……君の手が霜焼けになってしまう」

一瞬躊躇ってから、手が触れ合ってしまわぬようその真っ赤な指をそっと包み込む。ちらりと顔色を窺うと、寒さのせいだろうか、その頬はうっすらと桜色に染まっていた。


「僕、スコップなんて持っていません」

「え」

不意打ちの衝撃に、つい声を上げてしまった。

その整い過ぎている美貌は恐ろしさをも感じるほどであるのに、あろうことかその唇が紡ぐ一人称は「僕」。樹季の常識の範疇では、雪の妖怪の一人称は「私」であるべきだった。雪女、という形容は些か間違いだったか。そう思い直さずにはいられない。


「スコップなら俺の家にあるから」

「貸して頂けるんですか」

「うん、いいよ。ただ、埋めるのは俺がやる。君は手を温めたほうがいい」

公園に墓を作るのはあまり気が進まない。けれどその人の静かな熱意に宛てられたのか、迂闊にも手を貸したいなどと思う自分がいた。


ひとまず家へおいでよと手招きする自分の後ろを、その人は何の疑いも持たぬ顔でひっそりとついて来る。樹季としても特にこれといった下心があるわけではないが、何しろその姿は視界に入れた途端にまた夢の中へと引きずり込まれそうなほど美麗なのだ。変に意識するなというのが無理な話である。

真っ赤な手がどうにも気がかりで、道中、樹季は自分の嵌めていたこげ茶色の革手袋を手渡した。頭のてっぺんから爪先まで白に占拠されているその人にこげ茶は些か不自然であったが、しかしそれに不平を漏らすでもなく、ありがとう、と儚くその人は呟いたのだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇




樹季には真奈美という婚約者がいる。けれど彼女との関係は大恋愛の末だとかいう類のものではなく、親同士が持ちかけた形ばかりのもので、お互い好意なんてありはしない。

そのくせ彼女は事ある毎に何かとうるさい。女性と少しでも関わり合いを持つだけで、夜通し電話で婚約者の自覚がないだのと罵ったりするから不可解だ。自分は樹季以外の男と関係がありながら平然としているくせに。

何にせよこの状況も、彼女の電話のネタになるのかもしれない。

樹季はちらりと視線を前に投げた。目の前にいるのは、洗面器に張ったぬるま湯に手を浸すその人。


樹季は今年で三十になるが、とりわけ好きな相手もいない。言い寄ってくる者もなくはないのだが、あの婚約者を説得して別れるほど好きにはなれない。面倒なことを厭う性格のため、積極的に婚約を解消しようという気にもさらさらなれやしないのだ。

彼女とは同棲もしていないし、住んでいる場所もここからやや離れているから、とりあえず真奈美とこの人が鉢合わせるという最悪な事態は起こらないだろう。訪問なども今まで一度もなかったから心配ない。


「今度はこっちに手をつけてくれる?」

色違いの洗面器に水を入れたものを差し出すと、その人は言われるがままそれにちゃぷ、と手を沈めた。そして冷たさに肩を震わす。

「寒い」

「そりゃ水だもの」

「冷えを治すのに冷たくしてどうするんですか」

「どうするもなにも、これが霜焼けの治療法なんだから仕方ないよ」

「でも」

「あとは確か、針を刺す方法があったけど?そっちにする?」

少し意地悪な気分で軽口を叩く。さてどんな反応が返ってくるかと顔を覗き込んだら、その人は妙な顔をしていた。驚いたような、それでいてどこか困ったような。

「ご、ごめん。嘘だよ。針は刺さないから」

冗談が効かない人なのだろうか。表れた沈黙に焦りを感じてそう口にすると、押し黙っていたその人がはっと顔を上げた。

「あ、違うんです。少しドキッとしただけで」

「うん。意地悪言ってごめ……」

「そうでなくて」

小さく笑いながらの謝罪は、やや強めの口調に遮られてしまう。じっとこちらを見据えるその底の見えない瞳に思わず口を噤むと、その瞼がそっと伏せられて弱々しい声が返ってきた。

「名前を呼ばれたのかと……思っただけ、です」

「名前?」

「はい。僕、『ハリ』っていうんです。漢字二文字で、王偏に皮と離れると書いて、ハリ」

――『玻璃』。それがこの壊れそうなほどに美しい人物の名前だというのか。

玻璃とは硝子の別名だ。あまりにも似合いすぎているが、両親は何故そんな名前をつけようと思ったのだろう。

「あなたは?」

頭の中を駆け巡るそんな思考に押し黙っていると、そんな質問が降ってきた。

「俺?俺はサクラバタツキ。桜の庭に樹と季節の季って書く」

「綺麗な名前ですね」

「そう?」

「ええ。よく似合っています。日本庭園に咲く満開の桜のようで」

「そんな大したものじゃないよ。それに綺麗さなら君の方が上だ」

そう言葉を返すと、何故だかじぃっと目の奥を射抜かれた。焼かれるようなその視線に、気まずさよりも焦りに似た気持ちが込み上げる。

「じゃ、ちょっとお墓を作ってくるよ。君は、そのまま手を温めてて」

澄んだ玻璃の眼差しが夢の扉を開ける前にと、樹季はそそくさと玄関に向かった。次いで玻璃がその背中に声をかける。

「ぬるま湯二分に冷水を数秒、ですか」

「うん、多分それくらい。十分くらいで戻るよ。誰かが来ても出なくていいからね」

「わかりました。子猫をよろしくお願いします、タツキ」

いきなりの呼び捨てに、ドックン、と一回心臓が跳ねる。悟られぬよう返事はせずに軽く頷き、ドアを開けた。


外は先ほどよりも強い風が吹いていて、それが傘を持つ樹季の右手に雪を叩きつけていく。

そういえば玻璃は傘を持っていなかった。帰る時には何かしら持たせよう。それとこの雪の中に和服では、どう考えても凍えてしまう。確か家には婚約者が何年も置きっぱなしにしているストールがある。少しグレーがかった色味だったはずだが、色合い的におかしくはないだろうか。いや、こげ茶色の手袋を渡した男が言えた義理ではない。あれを首に巻くといい。

気がつけばそんなお節介事が頭の中をぐるぐると回り続けていた。


つい先程まで見ていたはずの幻想は、跡形もなく消え去ってしまっていた。それは樹季のよく知っている寂れた狭い公園。白い地面に付いた足跡は、自分と玻璃が歩いた時のものだ。その先にぼんやりと黒いものが浮かび上がる。

樹季はそれをそっと穴へと寝かせ、そして丁寧に土で埋めていった。夜のように黒いそれがどんどん埋もれ、最後には白で覆われてしまう。土と雪をかけるのに、わざとスコップは使わなかった。刺すように冷たい雪が掌を朱く染めたが、あの薄紅色とはほど遠い。


本当は今日、樹季はこの雪に埋もれてみるつもりだった。

人目のないこの公園の深い雪を棺桶に見立て、誰も参列しない葬式の予行練習を執り行おうと思っていた。それで本当に屍となったならば本望だ。けれど自分は誰よりも自分に甘いから、おそらくそこまで追い詰まる前に公園を後にしただろう。そういうことをやり遂げる勇気すらないのである。


思わぬ先客が樹季の願いを叶えてくれたからか、それともあり得ない夢に出会ってしまったからか。今日はもうそんなことはどうでもいいと思えた。引いていく波のように体中の黒いものがどんどんなくなっていく。

「……帰るか」

黒いそれをベンチの真下へひっそりと寝かせて、樹季はもと来た道を引き返す。ふわりと広がる白い息が、哀しげな空の青にじわりと滲んでいった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




世の中には一期一会という言葉があるように、正直なところ玻璃にはもう会わないだろうと思っていた。

けれどその予想は次の日にあっさりと破られた。玻璃はわざわざ手袋とストールを返しに家にやって来たのだ。手袋もストールも使わないから貰ってくれと答えると、今度はお茶へと誘われた。その時は単に、お礼だったのかもしれないなと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもなかったらしい。玻璃はそれから三日とあけずに樹季の家を訪ねるようになった。

会社の上司や同僚との表面上の付き合いはあるにしても、「友達」として人と接するのは久しぶりだったため、始めのうちは少しぎこちなさが拭い切れずにいた。


元々人付き合いが苦手な性格ではあるが、特にここ最近は再就職をして以来仕事に明け暮れていたせいで深い人間関係というものからは縁遠くなっていた。とある理由から自主退社させられ、そうならざるを得なかったのだ。


きっかけは一つの報告書だった。確か自社商品の売上報告書だったと記憶している。上へ回してくれと頼まれたその書類の数字が明らかに間違っていたので、気を使って該当部を修正してから提出したのだ。しかし、それがいけなかった。どうやら樹季の部の誰かが搾取を目論み、書類に手を加えていたらしい。事に至る前に計画を叩き潰してしまったので被害も損害も出ずにそのことは片付いたわけだが、元々出世の見込みのあった樹季を妬んでいた者の犯行だったのか、その後の仕打ちは目も当てられない程に酷かった。身に覚えのない事柄で減給処分や始末書を数え切れないほど書かされて、会社にもまともに取り合って貰えぬまま結局は自主退社してくれと丸め込まれてしまったのだった。

自分はやっていないと、何度もそう訴えた。けれど、足掻いても無駄なこともあるのだということを、その時初めて知った。


そんな出来事を笑って流して生きていけるほど強くない自分は、退社してから一年間拒食症と過食症を往復して、何度も生死の狭間をさまよった。やっと体調が戻ってから就職先を探しても、まず最初に「この空白の一年間は何ですか」と尋ねられるようになり、それのせいで不採用となることがしばしばだった。

散々面接を受けてやっと雇って貰えたのは、ショッピングモールの一角を占める着物屋。知識の全くないままに駄目もとで受けたのだが、顔と佇まいが女性に受けそうだと誉められて採用となった。

最初のうちは種類や名称の多さに目眩がしたものだが、それも最近は身に馴染んでそれなりに上手く立ち回れるようになりつつある。


「タツキに笑顔で着物を勧められたら、きっと買う気のない人でも購入意欲が湧いてしまいそうですね」

仕事の内容を玻璃に話すと、そんな答えが返ってきた。

「そんなことないよ。あんまり売上だって良くないし、第一着物は高いからそんなにポンポン勧められるものじゃない」

「それ、営業のお仕事を否定する発言ですよ?」


職業上ピンからキリまでの着物を目にしている樹季には、玻璃の着物がかなり値を張りそうなものだと察しがつく。匂い立つ色気が漂う真珠色の布地に、足元からすっと生える淡い黄水仙の柄。帯もそれに合わせた上品な色合いで、帯留めはまるで冬の空気をぎゅっと集めたかのように澄んで美しい。

ただ一つ気になるのは、そこまで完璧に統一された美の中にぽつんと仲間外れにされた小さな鈴のことだった。帯締めに無造作に絡められてかろうじて留まるそれは、玻璃が少し動くと凛とした音色で鳴く。

「この鈴は、母の形見なんですよ」

視線に気がついたのか、玻璃は飴玉くらいの大きさのそれをちょっと摘んでそう言った。

「父があげたものらしいです。本当は棺に入れる予定だったのですが、祖母が持っててやってくれと、僕に渡してきて」

「それじゃあお母さんは……」

「僕は両親共に他界していますよ。……あ、不愉快でしたらごめんなさい」

「いや、いいんだ。俺の両親ももういないから」

しん、とした空気が二人の間をすり抜ける。けれどそれはぎこちなくも重苦しくもない。沈黙は嫌いな方なのに、玻璃と居る時の無音はむしろ心地いいくらいだから不思議だ。

おそらく玻璃の人間性のおかげなのだと、最近思い始めた。玻璃はきちんと気を使うけれども、過度に気を回しはしない。しっかりしているが淡白。絶妙なバランスで構成されたその人格は、ともすればとっつきにくく感じるかもしれないが、不安定な樹季にはそれくらいが丁度良かった。


「次はいつお暇ですか?」

別れ際にはそう切り出してくる。言わなければこちらから誘うつもりもあるのだが、毎回先手を打つのは玻璃だ。

「来週の水曜と……あとどうだったかな」

言いながら手帳を取り出す。パラパラとそれを捲っていると、隣でカチカチとやや硬い音がした。ちらりとそちらに目をやって、樹季は小さく溜め息をつく。

「本当なんていうのか、ギャップ凄いよね」

「え?」

「いやこっちの話」

玻璃が手にしているのは、雪と同色の携帯電話。そのキーを打つ指は痙攣しているかのように速い。純和風の美人天然キャラと、まさに現代っ子と言わんばかりの行動の間にはグランドキャニオン並みの渓谷が存在する。樹季はどうもそれを埋められる気がしなかった。

聞けば家ではインターネットを使いこなし、学校ではドロワー系ソフトを悠々と操っているらしい。学校に行っているということですら目玉を零しかけたというのに、専攻が美術系統だなんてもうわけがわからない。

それというのも第一印象が強烈過ぎたからだろう。人間離れしたその容姿に圧倒されて、まるで現実味のない物として捉えていたから。

けれどその実、接してみれば中身は普通の女性と何ら変わりない。否、少し人とは外れた所もあるけれど、まだ『天然』や『幼い』で形容しきれる範囲だ。


度々食事へと誘われて、食事だけでなくどこかに出かけないかとこちらから誘って。予定が合う日には約束をして何度も何度も会った。もちろん真奈美からは怒り心頭な電話が幾度か入ったが、それも軽くあしらい暇を見つけては顔を合わせた。別に男女が頻繁に会うからといって、誰しもが恋愛に繋げようとは思わないのに。少なくとも樹季にとって、玻璃は友人の枠をはみ出さない存在であった。


そうして一年が過ぎていった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「じゃあ今日はこれで」

帰り際、薄い唇が微かに弧を描き、玻璃はふんわりと笑ってみせた。そしてからんころんと軽快な下駄の音を鳴らしながら、玄関ドアに手をかける。

「ああ待って。駅まで送るから」

樹季のその言葉に、玻璃の頬が少し色づいた。

「僕なら一人でも大丈夫ですから、お気になさらずに」

「だーめ。もう日が落ちて暗いし、女の子を一人で歩かせるのは危険でしょ」

ふと玻璃を覗き込む。すると今度は困ったようにはにかんでいた。気を使ってくれているのかもしれないけど、何かあってからでは遅い。結果的に樹季はあれこれと理由をつけて、電車に乗るところまできちんと見送ることに成功したのだった。


家に帰ってから、仕事の資料を確認しようとリビングへ向かった。数十分暗い中で過ごしていたため、まだ少し目が慣れない。樹季は大袈裟な瞬きを繰り返しながらソファへ腰かけた。そしてローテーブル上の紙の束を掴もうとして、不意に手を止める。

ガラス張りのテーブルにちょこんと乗っていたのは、玻璃がいつも持っている銀の刺繍の入った巾着だ。どうやら忘れていってしまったらしい。

樹季はジーンズのポケットからケータイを取り出すと、手早く玻璃の番号を呼び出した。一瞬嫌な予感が頭を掠めたが、案の定それは当たった。目の前の巾着が小刻みに震え始めたのだ。

大きく溜め息をつく。とりあえず電車に乗れたということから察するに財布は持っているということだ。仕方ないので次会う時に渡そう。ケータイが無いのは不便かもしれないが、明日は樹季も都合がつかないので我慢して貰う他ない。

申し訳ない気分になりながら今度こそ紙へと手を伸ばす。途端、樹季の方のケータイが音を立てた。

何事かと画面を開くと、そこに浮かんでいるのは知らない番号。間違い電話かと思いかけて、頭の番号が市外局番なことに気がつく。

「も、もしもし?」

『もしもし。ハリと申します。そちら桜庭さんのお電話で間違いありませんか』

聞き慣れた声に詰めていた息を吐き出した。

「ああよかった、玻璃か。ちょうど連絡を取りたかったところだったんだよ。これ、家の番号?」

『はい、そうです』

「そっか。あのさ、巾着忘れてったでしょ。どうする?」

『巾着ですか。それは大丈夫です。それよりもタツキの家のどこかに、僕の鈴が落ちていませんか』

「鈴?母さんの形見のってやつ?」

『はい』

「落としちゃったの?」

『ええ。さっき着いていないことに気がついて。駅で気がついたのですけど、見当たらなかったので』

「あらら。じゃ、探してみるよ。見つかったらまた連絡す……あっ」

会話をしながらきょろきょろと辺りを見回していたら、部屋のドア付近で金色の光がチカッと走った。寄っていって拾い上げ、玻璃の帯締めに絡んでいた品のいい鈴だと確認する。

「あったよ。ドアのところに落ちてた」

『本当ですか?それならよかった。では、今度会うときに巾着と一緒に取りに行きます』

「ん、わかった。じゃあ明後日ね。家電登録しておくから」

『お手数おかけします。それでは』

勿体ぶらず、ブツリと音が途切れる。素っ気ない態度はいつものことなので、気にせずケータイをポケットに戻し、拾い上げた鈴をまじまじと観察した。

これはもしかしたら純金製というやつではないのか。金属の知識が無いのでわからないが、普段目にする金色よりも一層澄んだ深みがある気がする。とりあえず傷つけてはいけない。そう思ったので巾着の中へと入れてしまうことにした。

片手でその窄んだ布地を開き、鈴を落とそうと覗き込む。

その時だ。微かに見えたのは、カードケース。しかもそれは透明で、その一番上に位置しているカードは、顔写真つきのものだった。ただの顔写真ならば気にも留めなかったろう。けれどそれに写る人物は、明らかに自分の知るその記憶とは違っていた。

鈴をコトリとローテーブルへ置き、おもむろに巾着の中へ手を突っ込む。カードケースの蓋を開けて、目を瞠った。

「在学証明書」

カードの最上部に綴られた文字を読み上げる。大学の学生証だった。

印刷された写真へと目を移すと、そこに写る玻璃は髪が短い。腰まで伸びる長い髪など存在しておらず、その毛先は顎のラインで止まっている。そして化粧をしていなかった。一応証明書の写真だから気を使ったのだろうか。けれどそれでも十二分なほどの美貌だ。

今度はその横に記された手書きの名前に目をやった。

『橘 玻璃』。几帳面な字でそう書いてある。おそらく『たちばな』と読んで間違いないだろう。名字を今まで知らなかった自分にも驚くが、問題はそこではなかった。

年齢の隣に書いてある、その一文字に絶句する。


『橘 玻璃 (24) 男』


文字列に頭をガツンと殴られる。

いや、もしかしたら見間違いだろうか。樹季はそんなことを思いぎゅっと力強く目を瞑って、またそこに目を落とす。けれどそれはどう読んでも『おとこ』としか読めない。

男。おとことは何だ。性別のことを言っているのか。玻璃がおとこ?嘘だろ?何かの間違いだ。


無意識に緩んだ口に気がつき、それをきゅっと引き結んだ。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




二日後、約束通り玻璃に会った。樹季は駅前で待ち合わせた玻璃に忘れ物を手渡しながらも、真偽の程を確かめたく思ってぎこちない態度を取ってしまっていた。


今日は雪だるまを作りたいからと、玻璃は例の公園へ足を進めて行った。何でも、作ったことがないので一回やってみたいのだそうだ。

雪の降る地域に住んでいながら雪だるますら作ったことがないとは驚きだ。もしかしてここらに越して来たのは最近で、生まれは違うのだろうか。それも知らない。知らないことが多すぎる。


「雪玉というのは、直径何センチメートルくらいですか」

「いや、決まりはないから好きなように作るといいよ」

玻璃は口調こそ静かなものだが、少し上擦った声が興奮を隠せずにいるようだった。今日の公園にもまた、人の踏み入れた痕跡はない。屈んで雪玉を転がす玻璃の下駄だけが、平らな地面に規則的な足跡をつけていく。樹季はそれを暫くぼうっと見守っていた。

青白い世界に佇む雪女。最初はそう思ったものだった。それがまさか男だったなんて。つまりは雪男ということになるのだろうか。けれどそんなイメージは全くない。今も目の前のその人は消え入りそうに儚くて、ぞっとする程美しい。

ふと樹季は玻璃の首元に視線を投げた。男女の体の差が出るならば、おそらく首と胸と手と足だ。胸と足は着物に隠れてしまっているし、手は手袋ですっぽりと覆われている。残るは首しかない。けれどそこには、樹季があげたストールがきっちりと巻かれていた。当然だ。外に出る時に肌をさらすと霜焼けになると教えたのは、他でもない樹季だった。なのに外してみてくれと思うのは理不尽な考えだろう。

ならば室内にいる時はどうだったか。それを考えてはっとする。どんなに記憶を遡ったところで、脳裏に焼き付く玻璃はいつでもストールを巻きつけていた。


「タツキ?」

声をかけられて我に返る。至近距離に近づいた玻璃の目が、ぱちくりと不思議そうに瞬いていた。

「どうかしたんですか?さっきからずっと呼んでいるのに、何故返事をしてくれないのです」

「あ、ああ。ごめん。ちょっとぼーっとして」

考え事に集中しすぎて、全く聞こえていなかった。不審に思われるのも無理はない。

「何かあったんですか?」

「そういうわけじゃないよ」

「それならばどうして?」

「どうしてって、なにが?」

「僕に何か、話したいことがあるような顔をしていますよ」

ギクリとして、つい顔が引きつる。こんなに近いところで顔を合わせているのだ。それを玻璃が見逃すはずもなかった。

「何かあるなら言って下さい」

「いや、大したことじゃないから」

「大したことでなくても、言った方が楽になることもあります」

聞きたい、聞きたい。教えて欲しい。その気持ちは本当だ。でもどう切り出すべきかがわからない。それに真実を知って、傷付きはしないだろうか。

「いや、言うほどのことでもないよ」

傷付くというのはどちらがだろう。自分の方か、それとも玻璃の方か。


「僕のことについてですか?」


白い息と共に放たれた言葉に不意打ちをくらって、思わず目を剥く。すぐに取り繕おうと表情を和らげたが、もう手遅れだった。

「当たり、ですね。……いいんです。いつかこうなるのはわかっていたので。正直に言って下さい。巾着の中身を見たんでしょう?」

そんなことを言いながら、玻璃はふっと哀しげに微笑んだ。罪悪感と焦燥感と戸惑いが、一気に押し寄せてくる。

「ごめん、わざとじゃないんだ。鈴を入れようとしてたまたま目に入って、それで」

こんな言い訳が通るはずもない。それなのにそんなことばかりが零れ出る。

「どこまで見ました?学生証を見たんですか?」

「あ、うん」

「では、僕の名字は?」

「た、たちばな」

「ええ、そうですね。では、僕の性別は?」

言葉に詰まる。答えていいものだろうか。答えなくてはならないのだろうか。

「もう一度聞きます。僕の性別は?」

小さく唇がわななく。

「……おとこ……?」

消え入るくらい小さく答えた。けれど玻璃の耳にはしっかり届いただろう。もう取り消せはしない。


少しの沈黙があった後、雪玉を転がしていた玻璃がすっと立ち上がった。そしてこちらを真っ直ぐ見据えて口を開く。

「帰ります」

「え」

「帰ります。今日、会えてよかったです。それと今までありがとうございました」

その言葉の意味するところをわかってやれないほど鈍くはなかった。言い放ったきり走って逃げようとする彼の手首を捕まえる。ほっそりとした腕だ。

「離して下さい」

「どうして」

「もうあなたとは会いません」

「なんで」

「だって……軽蔑したでしょう?」

抵抗していた手から、ふっと力が抜けていく。俯いてしまったため、その表情は見えなかった。

「軽蔑?俺が君を?どうしてそう思うの」

「だって!」

いつになく声を大きくした玻璃が勢いよく顔を上げる。

「男なんですよ。男なのに、こんな格好して。気持ち悪いと思うのが普通です」

「俺は気持ち悪いだなんて思ってないよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

ピシャリとそう告げる。すると玻璃は一瞬驚いた顔をしてから、また力無く顔を伏せてしまった。繋いだ手は、そのままに。

「軽蔑なんて全然してない。ただ俺は、理由を聞きたいだけなんだ」

「理由?」

「どうしてそんなことをしているのか、それが知りたい」

その言葉を聞いて、玻璃はぎゅっと眉を寄せてこちらを見つめてくる。苦しそうな表情だ。

「言ったら多分、嫌われてしまう」

ポツリと、狭間から掠れた声が漏れる。

「だから出来れば言いたくない。……嫌なんです。あなたに嫌われるのがとても嫌だ。怖くて苦しくて。それならばいっそこのまま消えて、僕のことなど忘れて何もなかった事にしてくれた方がいい」

「嫌いになんかならないよ」

「まだ何も聞いていないのに、どうしてそんなことが言えるんですか」

「どうしても」

玻璃の目が『そんなの信じられるか』と、はっきりそう訴えていた。確かにその通りだ。信じろというのは嘘臭い。けれどそれは本心だった。掴みきれない何かが、きっと大丈夫だと囁く。むしろ彼から逃げることの方が悪である気がしてならない。

一歩だけ近くに踏み寄る。すると玻璃が一歩だけ後ずさる。捕らえた手首を心持ちしっかり握り直すと、ふらふらと視線を泳がせた玻璃が、ようやく口を開いた。

「なら、嫌いにならないと、誓って下さい」

「いいよ。誓う」

「それで、もし嫌いになっても嫌いになったと言わないで下さい」

「そんな心配はいらない」

そう言葉を返したら、ややあって捕まえた手首がするりと抜け、樹季のコートの胸の辺りをくしゃっと掴んだ。その動きに気を取られた瞬間、玻璃が重たそうに口を割る。


「僕はずっと、自分は女であるべきだと思って生きてきました」

震える息を吐き出し、布を握る手が力を増す。

「僕の母は、僕にそっくりだったそうです。出産してすぐに亡くなって、おまけに写真も残っていないので見たことはないのですが、祖母がいつもそう言っていました」

玻璃の祖母は実の娘である玻璃の母を溺愛していた。しかし母は病弱で常に寝間着姿のまま生活していたため、それを悔やんでかその娘の生き写しのような玻璃に、叶わなかった夢を託した。女物の着物やワンピース、時にはウェディングドレスを着てみてくれと言われたこともあったらしい。そんなようなことを、玻璃はつらつらと口にしていた。

「祖母は可愛い可愛いと誉めてくれました。最初のうちは、それが嬉しくて女装を続けていたんだと思います」

淡々と語る玻璃の表情はピクリとも動かない。

「じゃあ女装は元々趣味だったってこと?」

「そういう訳でもないです。あくまで祖母に喜んでもらう為の手段でしかありませんでした。それに、むしろ興味なら普通の男性用の服の方にあります。着ていた時期もあったのですけれど、すぐにやめました。色々と面倒だったので」

「面倒?」

「祖母に構って貰えなくなるだけではなく、その他にも色々と。僕の顔は女にしか見えないから、男の格好で出歩くとむしろおかしく見えるんです。だから中学高校はそれが大きな悩みでした。女の癖に男の制服を着ているのは何故なのだと言われ、散々苛められました」

子供というものは純粋だからこそ残酷だ。確かに目の前の玻璃は、男だと明かされた今ですらそうは見えない。


「それなら、何であの写真は男の格好で写ってたの?一旦は女装を止めたってこと?」

「はい。大学では男として生きて行こうと思ったんです。いい加減祖母から自立しなければと思って。けれどすぐに、また女装をし始めてしまいました」

「え、どうして?」

「それは……」

ええと、と返答が濁る。先程までは尋ねればポンポンと答えが返ってきたのに、急に黙りこくってしまった。その視線から何かを考えているのがわかる。

「あの……座りませんか」

少しの沈黙の後、玻璃は流し目でベンチを指した。急に言葉を出し惜しみし始めるだなんて、そんなにも言いたくないことなのか。

玻璃が例のベンチに腰掛けようとしたところで、樹季はその手を引いた。

「そっちはまだ濡れてる。右側に座って」

かろうじて積もってはいないものの、そこには溶けた雪の名残がある。だからそう勧めると、玻璃は一瞬だけ虚をつかれたような顔をし、そしてそっと腰を下ろした。樹季はそのベンチの裏へと回り、その木製の背に組んだ両腕を乗せて寄りかかる。

それで?と玻璃に続きを促すと、少し躊躇ってから軽くこちらに体を向けて話し出した。

「大学に入ってから、女と間違えて声をかけられる回数が格段に多くなったんです。最初のうちは嫌だったのですが、そのうちそれを利用することを思いついてしまって」

「え、どういう……」

いきなり飛躍した話に頭がついて行かず、眉根を寄せた。

「あなたには縁のない話だとは思うのですが。でも、知ってはいるはずです」

読めない行間に首を捻る。玻璃はこちらにちらりと目をやってから、深く息を吸い込んだ。

「……僕は、男です」

「うん」

「でも、僕は男が好きなのです」

「なっ……」

思考が一瞬ショートを起こす。男が好きな男。それを何というのだったか。

「つまり僕はいわゆるゲイです。ホモセクシュアルと言った方がわかりやすいかもしれませんね」

ニコリと笑ってはいるが、その顔の裏には余裕のなさが滲んでいる。ここで動揺してはいけないのだと、樹季は必死に気を張った。

「え、でも、そこに女装がどう関係するの?別に男のままでいいんじゃ」

そう口にすると、玻璃が腰を折って前へと手を伸ばし、一本の細い小枝を手に取った。

「世の中では、僕のような性癖を持つ人間はそういません。全然いないとは言わないけれど、やっぱり少ないです。普通の男の人は、女性に恋をする」

言いながら玻璃は雪に小枝を突き立てて、足下にぐるりと大きな円を描く。

「例えばここに沢山の人が居たとして、中から恋人候補を探すこととします。もしタツキが選ぶとしたら、まず第一段階として考えることは何だと思いますか?」

「……まず?」

不思議な質問に首を傾げつつ答えを探していると、玻璃は円を縦方向に半分に割った。そしてその左半分に大きなバツ印をつける。

「質問には答えなくてもいいです。けど今タツキはおそらく、群団の中の男性の存在を完全に無視し、この残された半分の『女性の集まり』を見つめているはずです。違いますか?」

「え、あ……」

図星を刺されて言葉に詰まった。

「それが普通の考えです。僕もそれを知っている。だからこそ女性に化ける意味がある」

ふ、と嘲けたような笑いが混じる。

「僕が男の群団にいたら、タツキのような異性愛者と恋仲になることなんて夢のまた夢になる。けれど、もし女性だったなら?女性の群団の中に身を置けば、選んで貰える可能性がゼロではなくなるでしょう?」

「それは……」

派手に引き裂かれた円の左半分を見つめていたら、そこに小枝が投げ出された。

「僕の考えはこうです。世の中にはゲイじゃない人の中にも、とっても素敵な人がいる。その人と恋をするには、恋愛対象という最低限のスタートラインに立たなければならない。ならば僕はそこに並んで、この容姿を逆手に女性としてその人を振り向かせる」

かちりと視線が絡む。

「そうでもしなければ、意識させることすら叶わないのです」

その涼しげな目元が、哀しい笑みを作った。それはまるで精巧に作られた人形のごとく無機質で、それが無性に胸を締め付ける。

言いたいことはわかる。同性愛者として苦しい部分があることも、自分の容姿を利用しようと考えることも、何となく理解は出来た。けれど実際それで上手く行くのだろうか。もう子供でもないのだから、肉体関係に持ち込まない男ばかりではないはずだ。そうすれば隠し通すことなど無理に等しいのではなかろうか。そう尋ねてみると、玻璃はあっさりと首を縦に振った。

「ええ。その通りです。付き合えば大半はセックスをしようと言われて、性別を明かす羽目になります」

「え、それは大丈夫なの?」

「大体は。してしまえば考えが変わるのかもしれませんね。そこからゲイに目覚めてしまう人もいました」

「そ、そうなんだ……」

あられもない玻璃の言葉にたじろぐ。もし自分が誘われたらどうだろう。そんな考えが頭を掠めたが、すぐに振り払った。


「けど、上手くいくばっかりではないんですよ?」

きゅ、と膝の上の拳を握り締めた玻璃が続ける。

「何年か前のことです。僕は当時、すごく、すごく好きな人がいて、いつものように女性のふりをして恋人にまで漕ぎ着けました。それで暫くしてそういうことになって、男だと明かしたんです」

食い込んだ指先が皮膚を更に白く染めていく。

「そうしたら彼は勿論驚いて。僕はそれでもいいと言ってくれるのを期待していたんです。でもダメでした。嘘をついたことに呆れられてしまったんです。何で最初からそう言わなかったのかと。僕はその時、初めて自分のしたことを後悔しました」

うなだれた玻璃は、自業自得でしょう?と力無く嘲笑ってから、その出来事のすぐ後に、祖母が亡くなったのだと告げた。

「女の格好をして嘘をつくなと言われ、誉めてくれる人もいなくなって。僕にはもう女装をする意味など無いのだと思いました」

玻璃が大きく息をつくと、ふわりと白が滲んでいく。

「けど今さら、男の格好なんて出来ないんです、僕は」

「え?」

「だって、おかしいでしょう?僕が男の格好なんかしたら」

「どうして。おかしくなんかないよ」

樹季の言葉を振り切るように激しく、玻璃が首を横に振る。

「駄目です。人は、その人に相応しく生きるべきです。男の人は、男らしいからこそそうあって然るべきなんです。でも僕には、そんな『らしさ』の欠片もない。女顔で、男の人が好きで、これではまるっきり女性だ」

語尾を小さくした玻璃の顔が、苦しそうに歪んでいる。それがあんまりにも哀しく見えたものだから、つい後ろから腕を回してしまっていた。両腕で玻璃の頭を抱え込み、あやすようにその艶のある髪を撫でる。

「ひとつ良いことを教えてあげるよ、玻璃」

そのままポツリと呟く。

「俺も含めて大半の人は多分、相応しいとかそういう難しいことは考えてない。考えるのは、自分がどうしたいのかってことだけ。俺は玻璃のしていることを間違いだとは思わないよ。そうしたいって言うんならね」

腕の中で硬直した玻璃が、小さく息を呑む気配がした。

「玻璃はこれからどうしたいの?」

「……できるなら、男になりたいです」

はっきりとそう告げる。それならそうすればいいと樹季が言うと、玻璃はまた首を振った。そして、それは怖いと呟く。

「何が怖いの?」

「僕には男らしい魅力なんてないから、だからきっと幻滅されてしまう。それが怖いんです」

しゅるしゅると玻璃が小さくなる。樹季はうーん、と低く唸ると、少し考えてから言葉を繋げた。

「ちょっと俺、今から無責任なこと言うよ」

ふと、玻璃が目を上げる。

「俺は正直、玻璃が男だろうと女だろうとどっちでもいいんじゃないかと思ってる。でも別に、玻璃の悩みが大したことないっていう意味じゃないよ?ただね、男らしいとか女らしいとか、そういうのって何か違うじゃん」

「……?」

「月並みな言い方しか出来なくて悪いんだけどさ、男とか女とか性別を決めたところで、玻璃の中身がまるごと変わっちゃうわけじゃないでしょ。少なくとも俺はそう思ってるし。玻璃の魅力っていうのは、玻璃が玻璃であるから存在するわけであって、性別に左右されるものじゃないと思うんだ。……意味伝わった?」

そっと覗き込むと、呆気に取られた表情のままの玻璃がこくりと頷く。

「だからどっちでもいいんだよ。どっちでも君は変わらない。自分で決めたことが、多分この場合一番正しいんじゃないかな」

薄く開かれた桜色の唇が、小さく波を打つ。顔を綻ばせて笑いかけると、玻璃の目からぽとりと雫が零れた。

「ご、ごめんなさい」

「なんで謝るの」

ごめんなさい、ともう一度言って、慌てて口を押さえる。その様子に吹き出すと、玻璃の目元も小さく笑った。

「それでも、まだ怖い?」

そっと尋ねると、小さな頭が横に振れる。

「あなたがそう言ってくれるのなら、怖くない」

涙を押し殺すあまりに掠れるその声が、途切れ途切れにそう呟いた。

「これからはさ、不安になったら俺に言って。力になれるかはわからないけど、一人で悩むよりずっと楽だし、答えも見つかり易いんじゃないかと思うから」

玻璃の耳殻へそんな言葉を吹き込む。するとその瞼の端から光が筋を引いて頬を伝い、それが樹季のコートに幾つもの濃い染みをつけた。


「ありがとう……」


絞り出したその声が、寒空へと溶けていく。

けれど溶けきらないうちに次の言葉が滲み出て、それが段々と空気を温めていくような気がした。


今日は凍えるほどに寒い。けれど凍てつくのは体の表面だけだ。少しの言動が、間接的な熱で内側をじんわりと温めてくれる。

自分の拙い言葉の熱は、腕の中で啜り泣くこの人に届いているだろうか。届いているなら、どれくらいだろう。

全身はきっと無理だから、せめて胸の真ん中だけでも温めてあげたい。君がくれた分だけぬくもりを返したい。


そんなことを思った。





◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





あの衝撃の告白から一ヶ月が経つ。

あまり言動には出さなかったけれど、これでも相当驚いた。けれど嫌悪感なんてものはさらさらなく、むしろ男だとわかって良かったと思う。これで思う存分友人として付き合えるからだ。

玻璃はというと、樹季の言葉に影響されてかあの日からもう着物を着なくなった。服は全て男物を着ることにしたらしい。一緒に買い物に付き合ったのだが、シンプルで体のラインの出やすそうな物ばかりを好んで買っていた。化粧もせず、腰まであった艶やかな黒髪もバッサリと切って、今では頬にかかる程度の長さだ。元々視力が悪かったらしくスマートなデザインの黒縁メガネを着用するようになり、ますます知的な好青年という言葉が似合いそうな外見になった。

それでいてあの完璧なまでの美貌は衰えないのだから、世の中不公平なものだ。女だと思っていた時は美人だなと思うだけで留まっていたけれど、同じ男だと考えるとそれはまさに美少年で、魅力が無いだなんてどの口が言うのかと問い詰めてやりたくなる。


外見が変われば気も外交的になるのか、大学の友人たちとも上手くやっているみたいだった。そもそもあの携帯の早打ちは数をこなして体得した技術なのだろうから、前から相手は居たということだ。まるっきり対人関係に疎い樹季とは違う。

結果的に良かったと思うべきなのだろうが、ただ一つ気がかりなことがある。玻璃の恋愛に関することだ。今までのやり方で出来なくなって不自由していないのだろうか。そう思ってこの前試しに聞いてみたら、玻璃は少しの間押し黙ってからこう言った。

「それは大丈夫です。今は、そんなことしなくてもいい相手を見つけたので」

そうは言うけれど本当に良かったのかと念を押すと、困ったようにはにかんで「というか、してもしなくてもきっと変わらないからいいんです」と付け足された。少し罪悪感が胸に残るが、本人がそう言うならば割り切るべきなのかもしれない。


玻璃の件は一段落したとして、自分の問題がなかなか山積みになっている。そちらを片付けなくてはならなかった。

というのもここ最近センスのいい玻璃の助言のおかげで着物のコーディネートが格段に上手くなり、売上が伸びて新店の方に異動してみないかという声がかかったのだ。

新店は今勤めているところよりもずっと大きい建物に入るようだし、噂によれば給料も多少なりとも上がるらしい。出世街道を見事に踏み外した男にとって、それは些細だが心機一転とも言える大イベントだった。気合いを入れて仕事に取り組まなければならない。

どこから聞きつけたのか、婚約者の真奈美からも電話が入っていた。本勤めになったら一緒にどこか食事にでも行きましょうとも言っていた。正直なところ祝い酒ならば玻璃と飲みたいところだが、仮にも相手は婚約者だ。式の予定がいくら先延ばしにされているからといってお互い何ヶ月も顔を合わせないのは非常識だろう。


季節はもう真冬に入ろうとしている。そろそろ春物を小出しに勧めてみてもいい頃だと玻璃は言っていた。それならばこの前入荷した桜の散りばめられたあの着物に、緋色の帯を合わせるのはどうだろうか。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「悪いんだけれど、君の契約を今月いっぱいで切ることにした」


次の日の朝、出勤してすぐ店長に言われた言葉だった。

突然の衝撃について行かない頭のまま、樹季はゆっくりと目を瞬く。

「え?」

「いや、自主退社したいって言うならそっちでも構わないけど、どっちがいいかな。君が選ぶといい」

「ちょ、ちょっと待って下さい!理由を……」

「理由?そんなの君が一番わかっているんじゃないのか?」


――理由は、売り上げの横領。そう言われた。

もちろん全く心当たりがなかった為、自分はやっていないと何度も繰り返した。けれど無駄だった。目撃証言もあるから、警察に引き渡したくないし、君さえ引き下がってくれれば丸く収まるんだからと、最後にはそう諭されてしまった。


その時になって気がつく。自分はまた罪をなすりつけられている。

横領の証拠だと見せられたあの書類に書かれていた、取引先の名前。あれにはどうも見覚えがあった。必死で記憶を辿って、思い出されたのはそれとは別の何かの書類。尋常でない金額が印字されていたはずだ。何の書類なのかと内容に目を通そうとしたところで……

……ああそうだ。後ろから店長に声をかけられたのだった。


全ての元凶はあれなのか。けれど自分は別に告げ口などしない。後ろ暗いことは大嫌いだが、一時的に見て見ぬふりを出来ない程子供ではない。今そう言えば、契約を延長してもらえるだろうか。


いや、やめておこう。

そんな言葉で納得するならば、最初から首を切ろうとなんてしない。彼の頭には、樹季を上手く扱って関係を保とうという気など毛頭ないということだ。何を言ったところで今更遅い。


デジャヴ、などという言葉はこの場合甚だ軽すぎる気がした。


抗いたい。けれど抗わない。もがけばもがくほど自分の首が締まることがわかっているからだ。

所詮、自分など手駒に過ぎないというだけの話じゃないか。知っていたはずだろう、そんなこと。もうずっと前から。


実刑判決を下された被告人はこんな気持ちなのだろうか。

脳天から切れ味のいい刃物で真っ二つに裂かれたみたいに、痛みすら感じられなかった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




今日はもう何も考えずに酒でも飲もう。そう思って近くのスーパーでワインを買ってから帰った。

酒は大抵玻璃と呑むことにしている。けれど今日は駄目だ。いま顔を合わせたら弱い部分から全てが崩れ去ってしまいそうだから。年上としてのなけなしのプライドが、それを許すはずもない。玻璃にこんなみっともない姿は見られたくなかった。


ポケットでぬるくなっていた鍵を、凍てつく鍵穴へと差し込む。

ドアを開けば、そこは自分だけの空間。誘わなければ誰も踏み入れないし、そもそも強引に踏み込むメリットすらないだろう。

ふ、と息をついて、樹季はコートをソファの背へと放った。次いでネクタイの結び目を左右に揺らして少し緩める。胸元を撫でる冷気に、どっと解放感が溢れ出した。


さて飲むかとローテーブルにグラスを用意したその時だ。不意にコートの中の携帯が音を立てた。一瞬、玻璃だろうかと考えたけれど、携帯のディスプレイに浮かんでいたのは知ってはいるがあまり目にしない名前だった。

『あ、もしもし?良かった通じて』

「真奈美。どうかしたのか?」

婚約者の真奈美が電話をかけて来たのは、一体何日ぶりだろうか。

『いまどこにいるの?静かみたいだけど、家?』

「ああ。それで、用件は?」

『せっかちね。ちょっとは世間話くらいさせてよ』

「あいにく余裕が無いんだ。だから用があるなら単刀直入に言ってくれ」

今はこの鼻にかかる高慢そうな声など聞きたくもない。出来ることならば一人で音のない世界に閉じこもってしまいたいくらいなのに。

『余裕が無いっていうのは、会社をクビになったから?』

「!」

いつも思うのだが、何故こんなにも情報を手に入れるのが早いのだろう。驚きに声も出ず黙っていると、それを肯定とみなしたらしい真奈美が言葉を続けた。

『今度は何をやらかしたの?』

「俺は何もしてない。前の会社を止めた理由と同じだよ。責任を押し付けられたんだ」

『またその言い訳?』

電話口で大きく溜め息を付いたのか、風切り音が聞こえる。

『前も言ったけど、あなたの証言なんて信用できないのよ。言葉だけならどうとだって言えるもの』

「だから違うんだって言ってるだろ。そもそも証拠って報告書じゃないか。あんなのちょっといじれば誰にだって作れるし、俺の名前に書き換えて罪を被せることだって簡単に」

『前回のはそうってことにしても、今回はやったんでしょ?』

「だからやってないって……」

駄目だ、埒が明かない。それに真奈美にわかって貰ったところで何が変わるわけでもないのだから。

「もういい。クビになったのを確認したかっただけなんだろ?切ってもいいか」

これ以上の話し合いは無駄だ。けれども真奈美は、まだ用件は終わってないのよと引き留めた。

『もっと大事な話があるんだから、まだ切らないで』

「……なに」

『何日か前に、あたし宛ての郵便物が届かなかった?』

「郵便物? ああ、届いたけど」

今すぐ開けてくれないかと言われ、樹季は部屋の隅に追いやっていたそれに手を伸ばす。少し大きめの茶封筒。電話を肩に挟み、手をかけたその中には薄い紙が一枚だけ入っていた。裏返しに取り出したそれをひっくり返し、息を呑む。

『請求書』。一番上にはそう書かれている。下へと目を落とすと、そこにはズラリと文字が続いていて、それを読み進め唖然とした。

それは婚約破棄による経済的損害、精神的損害への損害賠償を請求する旨のものだった。正当な理由もないのに一方的に婚約を破棄された、とも書いてある。

『読んだ?』

「……どういうことなんだ」

文面の下の方に記載された自分の貯蓄と同額程度の請求金額に目を落としながらそう唸る。

『そのまんまよ』

「わけがわからない。いつ婚約を破棄したっていうんだ。それに賠償金って」

『そうね。実際婚約を破棄してくれとは言われてないわ。けどあなた、あたしに隠れて浮気してるでしょ?それは破棄したと取ってもいいんじゃないかと思って』

「は?浮気?俺が?」

『とぼけても駄目よ。ちゃんと調査頼んで写真も押さえてあるんだから。美人な人よね。まだ大学生なんですって?』

大学生、という言葉で、玻璃のことだと気がつく。

「あの人はそんなんじゃない。そもそも男だ」

『はぁ?何その苦しい言い訳。馬鹿にするのも大概にして頂戴』

「馬鹿にしてるのはどっちだよ。調査会社通したんなら大学の登録で性別が割れるはずだろ。そんなことで俺を釣れると思ったら大間違いだ」

図星だったのか、電話の向こうで歯噛みする気配がした。

「別にお前が婚約を破棄したいっていうなら、今すぐしたっていい。けど俺から賠償金は取れないよ。こういうのには婚約指輪とか、そういった証拠がいるんだ。俺はそういうのをあげたためしもないし、それに賠償金は結婚までの費用を返すのが主な目的だから、その点でも無理だろうね。式場の予約もしてないし同棲もしてない。精神的損害っていっても、お前だって色々遊んでた自覚あるだろ?だからとにかくこれは諦めた方がいい。裁判に持ち込んでも金の無駄だ」

早口でそうまくし立てる。本当のことだ。お互いがお互いをどうしたいとも思っていないのならば、無駄な争いは避けるべきだろう。

すっかり黙ってしまった真奈美の次の言葉を待っていると、スピーカーから鋭い舌打ちのような音が聞こえてきた。聞き間違えかと耳を深く押し付けると、いつもより低いトーンの声が這うように鼓膜に届く。

『ほんっと、どこまでも使えない男』

聞き慣れない声に眉をひそめると、次いで信じられない暴言が降りかかった。

『会社クビになるって聞いたから最後に絞り取ってやろうと思ったのにさぁ。馬鹿なくせに変なところインテリだから面倒くさいわ』

「お前、何言って……」

鼻で軽く笑いながら告げられて、唇が小さく波打つ。

『あんた出世しそうだったのにねぇ。なのに何?責任押し付けられて自主退社しますとか言った挙げ句、体壊して、やっと再就職したらまたクビになって。金を稼いで来ないなら、もういいところ何も無いじゃない』


真奈美が自分に恋愛感情も、好意も持っていないのは知っていた。けれどまさかそういう風に見ていただなんて。

「……金が目当てだったのか」

『そうよ』

「じゃあ今まで女性関係にうるさかったのは何だったんだ」

『大事な金づるが他の女に投資しないようにするためかしら』

頭の中がすうっと真っ白になった。目の前がぐにゃりと歪んで、目眩がする。こんな言葉を聞かされて、傷つかないとでも思っているのか。

「なら、俺はもう用無しってことか」

声が震えてしまいそうになる。それをぐっと押さえ込むが、ざっくりとどめを刺された。

『っていうか、あんた自分が金抜きであたしに好かれるほどいい男だと思ってるわけ?生真面目で仕事馬鹿で、つまんないばっかりじゃない。いい加減自覚したら?』

床が抜けたみたいに、体がふっと下へと沈み込む。もうやめてくれ。そんな言葉がこだまする。

「……わかった。もう終わりにしよう。この書類は破棄しておくから、何もなかったことにしよう。もう、二度とお前には会わない」

最後が少し掠れてしまった。まともに息を吸っていなかったから、一息で言うのには無理があったのだ。

聞こえただろうかと様子を窺うと、「あらそう。じゃあさよなら」と、有り得ないほど素っ気なく電話が切れた。


スピーカーから漏れる無機質な電子音。

規則的で静かなその音とは裏腹に、胸は苦しいほど騒いでいた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




樹季は携帯をソファへと投げ出し、僅かに震えるぎこちない手でグラスをこちらへ引き寄せた。栓を抜いたボトルを傾け、足の長い透明なそれに注がれる澄んだワインレッドを見つめる。


何をそんなに動揺する必要がある。

いつかはこうなるだろうと、むしろそうなることを願ってきたはずなのに。この空虚感は何だ。


真奈美を愛してなんかいない。縁を切られたところで、自分にとっては何の不都合もない。むしろ年々会うのが苦痛になっていたのだから、ここは肩の荷が降りたと思うべきはずの場面だろう。

けれど、胸の奥が小さな悲鳴を上げている。

彼女を非難すればいい。金だけが目当ての最悪な女だったのだと、そう卑下してしまえば、自分は被害者になれる。

それが今できないのは、心のどこかで彼女の言葉を肯定している自分がいるからだ。


労働力を捧げて、金を作るだけの生き物。面白みや人格なんて、あって無いに等しい。

だって社会の中で愛想笑いを浮かべる自分は、本当の気持ちを押し殺してそこに立っているのだから。


出る杭は打たれる。そんなこと知ってる。だから頭を下げる。苦しくたって辛くたってそうするしかない。社会という枠組みから一瞬たりとも見放されれば、この国では生きていくことさえままならなくなってしまう。

そうして自分の感情を押さえつけていくうちに、いつしか感情を持つことさえ億劫になっていく。何を触っても感じなくなり、頭はついに物を考えなくなる。

そうなってしまうのは怖い。だから表向きは従順で感情の無い人間を極力演じ、内面の自分はそのままでいたいと思っている。

けれど演技をしているうちに、役と本人との境界線が曖昧になる瞬間がある。虚偽を重ね過ぎて、本当の自己が見えなくなる、そんな時が。


嫌みの無い完璧な笑顔の仮面を被った、あの男は偽物だ。

自分は心まで社会に飼われるような安っぽい人間ではない。

そんな言葉で境界線を確かめる。

けれども、ならばその仮面を外して本当の顔を見せてごらんと、そう囁かれると困る。

仮面の縁に指をかけて、力いっぱい引き剥がそうとしたところで、無意識のうちに癒着したそれは取れない。そして、境界線などもう無いのだと気づいてしまう。


知っているなら、教えて欲しい。


自分って何だ。

個性って何だ。性格って何だ。

特徴って何だ。長所って何だ。価値って何だ。


俺が俺でいる意味って何だ。


「!」

足元に感じるヒヤリとした感覚に正気づく。ふと目を落とすと、グラスから溢れ返ったワインがローテーブルから床へと滴り落ち、豪快な水溜まりを作っていた。手にしたボトルは既に空になっており、丸々一本分を零してしまったのだと知る。

樹季は慌てて近くに放置されていた布巾をひっつかむと、スリッパに侵入しかけている赤い液体をそれでせき止めた。次いで手当たり次第タオルを手繰り寄せて、事を収拾させる。

そして安堵の息を洩らす。


ちら、とグラスに目をやると、ワインロゼは表面張力でかろうじて体裁を保っているといったところだった。少しでも触れれば重力に負けてしまいそうだ。

樹季はそれにそっと口を付け、波立たないよう優しく吸い上げた。


ソファの上の携帯が鈍い音で鳴く。バイブということはメールだ。玻璃だろうか。

そっと画面を開くと、思った通りの名前が表示された。

『明日はお暇ですか?よろしければ連絡を下さい』

明日はハローワークに行く予定だから駄目だ。そう返信するのすら億劫で、樹季は携帯をまたソファへと投げ出す。

玻璃のメールを無視するのは初めてじゃないか?

そんなことを思いながら上品な色合いのワインを一気に流し込んだ。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





今日の空は、まさに快晴という名称がよく似合う。肌を乱暴に撫でる風は刺すように冷たいが、カラッと澄んで爽やかでもある。

ハローワークが入ったビルは、樹季の家の最寄り駅から二つ行った駅前に位置するので、素直に電車を利用することにした。今は丁度昼に差し掛かる時刻で、いつもはぎゅうぎゅうの駅のホームに幾らか余裕があるように見える。


電光掲示板を見上げると、樹季のいる三番線には回送電車が通るとの通知が流れていた。特に急ぐわけでもないし、時間があるならば少し階段から離れたところまで歩こう。どうせなら混雑しない車両がいい。そう考えて足を進める。

普段はどんなに混んでいても階段を降りてすぐの車両に乗るので、ほとんどホームを歩くことなどない。おかげで随分と駅というものは縦長なのだと知った。前から回送電車のランプが見えても、まだ端には辿り着かない。


ふとポケットから携帯を取り出す。画面を見ると、着信が一件とメールが二件届いていた。その全てが玻璃からだ。

昨日返信しなかったことが引っかかるのだろう。どうしたのかと心配する文面になっていた。

まだ返事をする気にはなれなくて、またポケットに戻してしまう。


迫っていた電車が、辺りの空気を無理矢理押し広げながらホームへと滑り込んだ。ぶわりと重苦しい風を正面から受けて、思わず目を眇める。同時に反対側のホームからの、どこか遠いアナウンスが耳に届いた。

『○時○分発の快速○○行きは、人身事故のために遅れが出ております』

ビリビリと低い声があちらこちらに反響して、樹季の耳殻をくすぐる。


人身事故、か。


通勤ラッシュはとうに過ぎているから、ホームで人の波に押し流されて線路に入ってしまったというのは考えにくい。とすると足を滑らせたか、それともやはり自殺だろうか。

そんなことを思いながら周りをきょろと見回す。けれど他の利用者は多少苛立った様子は見せるものの、事故を心配する様子はなかった。

ただ携帯を片手に佇んでいたり新聞を広げて眉を寄せていたりするだけ。

それもそうか。所詮は他人事なのだから。


他人事。自分に利益がなければ、他人なんてどうでもいい。人は損得勘定で動いている。そう言っても過言ではない。

そうか。自分は他人にとって利益の無い存在なのだ。だからいつでも、惜しみなく放り出される。


自分は、例えるならば嗅覚を失った犬だ。

危機も悟れず回避も出来ない、鈍く錆び付いた愚かな犬。

特化した特徴が欠けたこの存在は、明らかに利益を損なう。

放り出されるのも無理はない。


特筆するならば、自分は人よりも従順な仮面を被る犬だった。

けれど手放されては意味がない。主人がいなければ、忠誠すら誓えやしない。社会に囚われた男の唯一の取り得さえも、発揮の仕様が無くなってしまった。


主人がいない犬は『野良犬』と呼ぶべきか。

彼らだって、世には沢山いるし各々きちんと生きている。あんな風に生きればいいのかもしれないが、自分はそれにすらなれる気がしない。

この瞬間も、自分の首には枷があるのだ。主人はもういないはずなのに、自由へ向かうとギツリと首が締まる。


見えない首輪と鎖。手綱の先に、居るのは誰なのか。

目を凝らしても見えないはずだ。だっておそらく、鎖を辿った先にいるのは、自分だから。


社会が自分を縛っていたのは事実だろう。けれど会社に辞表を提出したあの瞬間、首輪は外されていたはずだ。

それを拾ってまた付けた。首元を涼しくしていることで周りから野良犬だと判断されたくなかった。自分は飼われる程の価値があるのだと、そう思い込むために首を締めた。


未練がましいにも程がある。

『お前に価値など無い』と、現実がはっきり教えているのに。


ふと、脈絡もなく昨晩のワインを思い出す。

口きりいっぱい、表面張力のみで重力に逆らう頼りない液体。あれは自分の精神状態に酷似している。

少しでも触れられればあっさりと崩れてしまう。だから些細な刺激をも怖がる。

犬の口では、ワインを啜ることも出来はしない。鼻がぶつかり赤い波が立ち、堪えていたものがぶわりと溢れる。

自分では自分を救えない。では誰ならば。

両親?兄弟?恋人?…どれも自分にはいない。

ならば残されたのは他人だけ。けれどただの他人が、落ちぶれた今の自分に手を差し伸べてくれるのか。その可能性は皆無だ。


朝から晩まで零れてはいけないと気を張って、夜を跨いで次の日も同じ。それの繰り返しだ。だからいつでも心は忙しい。自己防衛を怠るなとうるさい。

傷つきたくないと、傷つきながらそれに気づかないフリをしてまで自分を守り続けることに、何の意味があるというのだろう。


三番線に電車。そんなアナウンスが聞こえる。

線路を辿って遠くに視線を投げると、微かに光る二つのランプが見えた。それはじっくりと近づいて大きくなっていく。


嵐の前の静けさのごとく、しん、と風が止んだ。

研ぎ澄まされた空間の中、樹季の耳が捉えるのは、車輪が鉄を擦る音と、嘘のように規則的な鼓動。


こんなにも胸が苦しいのは、この心臓が脈を打つからなのか。


近づく電車が、風をどんどん圧縮する。


苦しんだ先には、もうきっと何もない。


背後の空気が鉄塊の切っ先に吸い込まれていく。


ならば、楽になりたい。

馬鹿みたいな期待すら出来ない程に、遠いところへ行きたい。



もう疲れた。



目を瞑る。右足を踏み出す。攫われるように、体が風に乗る。

右へ傾く。倒れそうになる。けれど、風圧がそれを許さない。

右手に衝撃。鞄が跳ね飛ぶ。

吸い込まれていく。体だけでなく、頭の中身までも。全て。


ああ、これでやっと終わりにできる。









◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇









全身を駆け抜ける大きな衝撃に、樹季は薄く目を開いた。


四肢が末端までビリビリと痺れて力が抜け、左手が焼いたように熱い。

だけど、それだけ。

感覚さえもがいかれてしまったのか。そう考えた途端、右手首のあたりがちり、と痒くなった。

ゆっくりと目を瞬く。

だんだんと視界が明るくなり、そしてやっと気がついた。

自分は線路に落ちてすらいない。確かに右手の鞄は無くなっているようだ。けれど、その目の前では先ほどの電車が平然と速度を落としながらホームに収まろうとしている。左手に目を落とすと、皮膚が赤く火傷になっている。

でも、それだけ。


チリリ。


聞き覚えのある音。それが樹季を正気づける。はっと振り返ると、見覚えのある顔がそこにあった。

「は、玻璃……」

端正で美しい顔立ち。それがくしゃりと歪んで、樹季を睨めつける。


固まっていた頭がようやく動き出した。様々な音が耳殻へと流れ込み、周りの風景が現実味を帯びる。

痒いと感じた右手首に目を落とすと、玻璃の手がそれをしっかりと握り込んでいた。自分の立っているのは、線路ギリギリにある黄色い線の上。

どうやら線路に飛び込む直前に、玻璃が手を引いて引き戻したらしい。そこまで状況がわかったところで、樹季の頭が物を言う。


死ななかったんだ。


我ながら淡白な感想だ。周りはこんなにも騒然としているというのに、当事者の自分はまるで他人事のように平然としている。


気持ちとは裏腹に、体の方は相当緊張していたらしい。ぷつりと糸でも切れたように膝がかくんと折れる。崩れる樹季を抱き留めたのは、あんなにも華奢に見えた玻璃の両腕だった。

「何を、やっているんですか」

厳しい表情の玻璃がこちらを見下ろして、ようやく呟く。

「あと少しで死んでしまったかもしれないんですよ……」

玻璃の腕がガクガクと震えている。重さのせいなのか、それとも。

「……死のうと思ったんだ」

白い息が狭間から滲み出た。

「死なせてくれれば良かったのに」

口元だけで嘲笑う樹季を、玻璃の真っ直ぐな瞳がジリジリと焼く。それを見上げると、僅かに潤みが加わった。けれど雫が落ちる気配はない。

「何があったんですか」

「何もないよ」

「何もない人は飛び込み自殺なんか図りません」

「本当に何もない。……ないから死にたいんだよ」

腕の限界が来たらしく、玻璃は樹季を抱えたままその場にしゃがみ込んだ。

「どうしたんですか。こんなに弱って、あなたらしくない」

その言葉に、俯いた樹季は乾いた笑いを放つ。

「俺らしい……?俺らしいって何?そんなの君の妄想でしかないだろ」

「そういう物言いをするところから既にです。いつものあなたならそんなこと絶対に」

「だからそれが妄想だって言ってるんだ」

玻璃の言葉を遮って、苛立ちの混じった声を上げた。

「いつもの俺が本当の俺だとでも思ってるの?それならとんだ勘違いだ。こっちが本来の俺だよ。そんなに強い人間じゃない」

冷めた言い方。酷薄な目を向けると、玻璃の当惑した目が逃げる。

「君を前にしても取り繕えないなんて終わってるな。幻滅しただろ?だからもう見捨ててくれていいよ」

手を離してくれないか。

玻璃の腕から抜けながら、そんなことを言う。しかし玻璃の手は樹季の手首を捕らえたまま離さない。

「ああ。君に別れの言葉も無く逝こうとしたのは悪かったよ。でも最後にまた会えたし、もう充分だ。手を…」

解こうと左右に振る。玻璃の白い手は、駄々をこねる子供のように頑なに離れようとしない。

「離してくれ」

「嫌です」

「離せ」

「嫌だ」

「いい加減にしてよ。俺が死にたいって言ってるんだから、君に止める権利なんて有りもしないだろ。君には一切関係ない」

次の瞬間、頬に衝撃が走る。パン、と乾いた音が耳へと届き、左頬がぼうっと熱くなる。やや間があってから、自分が平手打ちをくらったのだと知った。玻璃が、その右手でこの頬を力いっぱい叩いたのだ。


「関係無くなんかない!」

驚きに、玻璃を見上げる。その目からはぼろぼろと大きな雫が零れ落ちていた。

「確かに僕にはあなたを止める権利なんてないのかもしれません。けど、これが我が儘でもいい。それでもあなたが死ぬのだけは嫌だ!」

縋るような、崩れた表情。時の流れさえ忘れるほどのあの美麗さは、涙でぐしゃぐしゃに歪んでしまっていた。


何で君がそんな顔をするんだ。


「僕はあなたの友達ではないのですか。つらいのなら、何故頼ってくれないんです。僕ばかり助けられて、僕もあなたの力になりたいのに」

「……お礼をしようとか、そんな気持ちならいらないよ」

「そうじゃない!」

手首が解放される。次いで両肩をしっかりと掴まれて、真正面から向き合う体勢になった。

「僕はあなたと対等でいたいんです。あなたが僕のことを友達だと言ってくれたその日から、僕を肯定してくれたあの日から、僕の中であなたの存在以上に僕を救ってくれる物はない」

骨が軋むほどに強く力の入る手。相変わらず小刻みに震えている。

「だから僕も、あなたのそういう存在になりたいんです」

伏せた玻璃の目から光る粒が零れ落ち、それがホームに幾つもの染みを作っていく。泣きじゃくるその細い肩が、跳ねるように上下する。

樹季はしばらくの間それをじっと見つめていた。


どうして君がそんなに泣くの。


思うと同時に、右手をゆっくりと持ち上げ玻璃の目元をそっと拭った。

濡れた目が丸く見開かれる。


「……怖いんだよ」

ぽつり、小さく言葉が転がり出た。

「皆から、世の中全部から見離された自分を見るのが怖い」

「そんな…見離すだなんて」

「わからないだろ」

袖口で涙を拭きながらの玻璃の反論を遮る。

「今が大丈夫でも、明日、明後日、明明後日…何が起こるかわからない。わからないけど、きっと自分は捨てられるって、それだけはわかるんだ。だから怖い。それで逃げようってもがいて現実に怯えて、そんなの疲れるばっかりだ。だから断ち切ってしまえばきっと楽になれると思ったんだよ」

せき止めていた、何かが外れた。負の感情がぼろぼろと溢れてしまう。みっともない。そうは思うのに、止め方がちっともわからない。

「それでも止めるの?逃げないで、生きろって言うわけ?」

「……そんな無責任なこと、僕には言えません」

けど、と玻璃は続ける。

「僕はあなたを捨てたりしない。これだけはわかって下さい」

耳へと流れ込むその言葉に息が詰まる。喉まで迫り上がっていた黒いものが、すっと空気に溶けていく気がした。けれど全部は無くならない。

君のその言葉を信じたい。だけど。

「わからないよ」

凍てつく風が、涙で頬に貼りついた玻璃の髪を攫っていく。

「君がいつ心変わりするともわからない。今この瞬間良くったって、もしかしたら明日にでも愛想を尽かすかもしれないじゃないか」

いつの間にこんなにも人を信じられなくなったのか。錆び付いた心が、何もかもを否定していく。

「期待するとさ、その分の反動って凄いんだよ。だから」

「僕は」

強めの口調のそれが、樹季の言葉を遮った。その目にもう涙は浮かんでいないが、酷く苦しげに見える。

「僕は明日、あなたに会いに行きます」

「え?」

唐突な言葉に、樹季は虚を突かれた。

「だから明日までは、絶対に生きていて下さい」

「何を……」

「約束して下さい」

鋭い視線で射抜かれ気圧された樹季は、首をどちらにも振れずに閉口した。すると玻璃が、続きを口にする。

「それで死にたいと思うのなら、僕に直接そう言って下さい」


格好なんかつけなくていいから、思ったこと全部を僕に吐き出して下さい。一人で溜め込んで一人で結論を出さないで、少しは僕を頼って下さい。

そうしたら、僕は僕なりの答えを返してあげられるから。

捨てられるのが怖くて、僕もまた信用出来ないって言うのなら、これから証明してみせるから。

だからお願いです、今すぐには死なないで下さい。


終わりに近づくにつれ小さくなっていく玻璃の声。

それは懇願のようだけれど、加えて車の下で怯える子犬に話しかけるかのような、そんな優しさがあった。


「……他人の君が、どうしてそこまで俺を気にかけるの」

放たれたその疑問は、微かに震えながら白く溶けていく。

「どうしてって」

滲んだ白の先にある玻璃の顔がくしゃりと綻ぶ。


「僕にはあなたが必要だからです」


 他の誰でもない、あなたが。


――欲しかった。その言葉が。ずっと。


頭のどこかで切望していた。焦がれていた。

こんな自分を求めてくれる欲心を。

逃げ惑う自分を、引き留めてくれるほどの熱情を。


生きる価値があるのだと、教えてくれる存在を。


ぼうっと、下の方の景色が滲んだ。

そして迫り上がる透明な膜に、世界はじんわりぼやけていく。


俺の生きる意味は何だろうか。

俺に生きる価値はあるのだろうか。


答えはきっと明日、君が教えてくれる。


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