老いらく女子中生の恋
僕は美弥子が好きだ。
彼女はすごく落ち着いていて、物腰も柔かい。同級生とは思えない落ち着いた口調で、とてもきれいな言葉遣いで話す。きっと育ちの良さがにじみ出ているに違いない。
後姿は清らかそのもの。彼女が歩くたびに長く伸びた黒髪がさらさらと揺れて、僕はそんな姿を何度も何度も目で追った。
大和撫子。彼女にはこの言葉がぴったりと当てはまる。
そんな美弥子に告白しようと決心したのは、年度も終わろうとしている三月の初めのことだった。
「嬉しいわねえ。こんな私が若いあなたに慕われるなんて」
美弥子は僕の告白を聞くと、笑って言った。
「あの、オッケーってこと?」
僕の胸は高鳴った。なのに、美弥子の答えは僕には全く理解できないものだった。
「私は、本当は中学生ではないのですよ」
「えっ、飛び級した、とか……そういう事?」
「いえいえ、逆です」
「留年したん……だ」
「いえ、そうでなくて、ね」
「……よくわからないんだけど」
「私、若返ってしまったのです」
「……は?」
美弥子は急にもじもじしはじめる。ほんの少しうつむいて、何かを考えてるみたいだったけど、決心したように僕の方に向き直って、そして。
「私は、本当は八十歳のお婆ちゃん。ある日突然、こうして若い体に戻ってしまって」
あっけにとられた僕は、何も言い返すことはできなかった。
「………………」
「がっかりなさったでしょうね」
「………………」
嫌いだ、と言ってくれた方が何百倍もすっきりする。こんな馬鹿げた理由で諦められるわけがないじゃないか。
「はっきり言って、納得できない。他に好きな人とか、いるの?」
「あらまあ、私はもう人を好きになったりするほど若くはないもの」
何言ってんだこの子。どう見たって中学生の女子じゃないか!
「ば、バカにすんな! わかったよ!」
僕は泣きたくなる気持ちを必死に抑えながら、その場から走り去った。
「あ、ちょっと、待ってくださいな!」
美弥子が呼び止めたけど、僕はそれを無視した。
~~
「くそっ! くそっ! くそっ! バカにするにも程がある! 何が八十歳だ! こんな戯言で僕をあしらえると思ったのか! それほど僕は軽く見られてたって事なのか!」
家に帰った後も、ムカムカが止まらない。
今まで僕が見てきた美弥子の言動も、きっと彼女が自分で設定したキャラに成りきるための演技だったんだ。そんな演技にまんまと騙され、彼女を好きになってしまった僕に腹が立って仕方がない。
しかも、真剣な僕の告白を見ても、彼女は演技をやめなかった。
「すごく感じのいい頭のいい子だと思ってたのに……大した妄想女だよ、まったく!」
泣けてくる。下を向くと涙があふれそうで、僕は何度も天井を見上げた。
~~
次の日、眠い目をこすりながら家を出ると、すぐ近くの道ばたで美弥子が僕を待っていた。
「おはようございます」
正直に言う。僕はまだ美弥子のことが好きだった。
好きな子が朝、僕を待っていてくれる。そんな夢のようなシチュエーションが、僕を激しく動揺させた。
「何だよ……」
怒ったような口調て言ったつもりだけど、そんな風に聞こえたかどうかは疑問だ。昨日の彼女の言動やそれに対する僕の怒りがごっちゃになって心をかき回し、僕は彼女にどういう態度を取ればいいのかさっぱりわからなかった。
「昨日、ごめんなさいね。何だかとても怒っていたようだったから、気になって」
美弥子は澄んだ声で僕に言った。僕は何も答えずにただ道を歩く。彼女は僕の三歩ほど後ろを静かについて来ていた。
「せっかくお誘いいただいたのにね」
「……一つ聞きたいけど」
僕は立ち止まって彼女の方を向いた。彼女が僕を見上げて不思議そうな顔をする。
「何ですか?」
「好きな奴、いないってことで、いいの?」
「私は皆さんが好きですよ。仲良くしてもらって、ありがたいことです」
「いや! そうじゃなくて!」
「はぁ……」
「恋って意味で……彼氏にしたいとか、そういう……」
「いえいえ、私はとてもとても、そんな」
また始まった。美弥子は達観したような静かな笑いを浮かべ、婆臭い事を言い始める。そういう態度が僕を怒らせてるんだってのに。
「何で来たんだよ」
「謝りたいと思いまして」
「謝るって何だよ! どうせ付き合ってくれないんだろ!」
「いえ、嫌いではないのですよ。でも、私よりもっと若い子の方がいいでしょうし……」
僕の目の前にいるのは、僕の同級生、中学生のかわいい女の子だ。彼女より若い子っておかしいだろ、ロリコンかよ!
僕は暴走を始めた。
「わかった! 好きな奴はいない! 僕を嫌いでもない! そうだな?」
「ええ……そうです」
「じゃあ、付き合ってよ! 嫌いじゃないなら、僕と!」
「あの……でも、私、お婆ちゃんですよ」
「いいよ! そういう設定ならそれで! 僕がいいって言ってんだから、別にいいだろ!」
「はあ……」
「今は好きじゃなくても、付き合ってたら好きになるかもしれないだろ!」
「好きじゃないなんて……いえいえそんな」
「どうなの? 付き合ってくれるの? くれないの?」
「困りましたねえ……」
彼女は心底困ったような顔をして、考え込んでしまった。道路の真ん中で立ち止まり、何とも言えない雰囲気で無言で向かい合っている僕たちを、通学中の同じ学校の奴らがチラチラと横目で見ながら通り過ぎる。
「くそっ……恥ずかしい」
けど、嬉しい。朝から美弥子と二人で歩けるなんて、本当に夢のようだ。
「……わかりました。お付き合いします」
考え込んでいた美弥子が、決心したように言った。
「けれど、若い女の子が好きになったら、いつでも言って下さいね。私は下がりますから」
「う、浮気なんかしないよ! そっちだって、浮気してほしくない!」
「はいはい、判りました。これから、よろしくお願いしますね」
こうして僕たちは付き合う事になったのだった。
~~
「おはようございます」
美弥子はあの日以来、毎朝僕の家のそばで僕を待ってくれていた。本当によくできた子だ。
「あのさ、嬉しいんだけど、毎朝ここに来るの、大変じゃない?」
「いえいえ、そんな事はありませんよ。毎朝歩くのは足腰にもいいですしね」
「うーん」
美弥子は相変わらず婆臭い。僕を好きなのかどうかも、さっぱり判らない。傍から見るとすごく尽くしてくれる彼女なんだろうけど、美弥子の場合はただ立場から生じる義務感だけでやっているようにも見える。
まさか美弥子、本当に八十歳じゃないだろうな……。そんな事を考えるようになった。
「お弁当も作ってきましたからね。季節のものをたくさん食べて、無病息災で……」
「なあ、デートしようよ」
「……え?」
「今度の休日、遊園地行こうよ」
「遊園地だなんて、私が? そんな」
美弥子は冗談を聞いたかのように笑った。けど、僕は本気だ。いや、中学生が休日に彼女を遊園地に誘ったからって、それのどこがいけないのか。全く健全そのものじゃないか!
「あのねえ美弥子さん。頭ん中は八十歳かも知れないけど、自分の外見にいい加減慣れなよ。自分の体、毎日見てるんだろ? いや……へ、変な意味じゃなくて」
「はあ……まあ」
「あちこち動き回ったり、若さを生かしたり、そういう事しないとさ」
「そうでしょうか」
「だから、訓練だ! 中学生の女子は遊園地を楽しむもんなの! わかった?」
「……判りました」
「よしよし! 健全な精神は健全な肉体に宿るって、言うじゃないか」
「あらまあ、うふふ。私がこんな事を言われるなんて」
~~
そしてデートの日。家を出るといつものように美弥子は僕を待っていた。が。
「うっ……その格好……」
何という婆スタイル。いくら美弥子がかわいいいからって、こんなファッションセンスの子と一緒に歩きたくないぞ。
「なあ」
「あ、おはようございます」
「いや、今日はやめよう」
「え?」
「買い物に行こう。美弥子さんの服さ、それダサすぎだよ」
「そうですか? 暖かくて腰にもいいんですけど」
「いやいや……もっと女の子らしい服、買おうよ」
「はあ」
彼女を若返らせるのは相当苦労するぞ。僕は心の中で覚悟した。
~~
再びデートの日。この前買った服を着てきた美弥子は、やっぱりすごくかわいかった。
「そうそう、こうじゃないとさ!」
「何だか、まだおかしな気持ちですねえ」
「慣れればいいよ」
遊園地に着いた後も、僕の苦労は続いた。美弥子はありとあらゆる乗り物に乗るのを嫌がり、僕はそのたびに彼女を説得しなければならなかった。
「死んでしまいます、心臓が止まりますよ」
「大丈夫だよ、若いんだから。あれくらいのジェットコースター」
「ああ恐ろしい! お一人で行って来てください!」
「ほら、行くよ」
「あぁ~! 嫌です、嫌ですぅ!」
ジェットコースターに乗せようとした時なんか、彼女は乗る前から絶叫して、衆目を集めたりもした。
めげるもんか。がんばれ、僕。
「ね、大丈夫だったでしょ」
「まだ、脚が震えています……」
そういって僕にもたれかかる美弥子。これは、老人の態度なのか、彼女としてのそれなのか……。
~~
「ハンバーガーなんて、初めて食べました」
「そう。おいしかった?」
「はい、思ったよりは」
僕たちは観覧車に乗っていた。遊園地デートと言えば、シメはこれに決まってる。
「これは平気なんだね」
「そうですね。高い所は、昔から大丈夫でした」
僕と美弥子は遠くに見える街の風景を見ていた。
「あのさ、昔の街って、どうだったの?」
「ええ、あんな高い建物なんか全然なくて……私があなたぐらいの歳の時は、焼け野原で」
「へぇ」
「恋なんてできずに、毎日生きるのが精いっぱい……って」
「ん?」
「もう、私の事、お婆ちゃん扱いしないんじゃなかったですか?」
「ありゃ……そうだった」
僕たちは笑った。そして。
今思うと、本当に大胆だったと思う。
「………………」
僕は突然彼女に近寄って、キスをした。
軽く触れた、唇。彼女のそれはとても柔かくて、やっぱり若々しかった。
「……初めてですよ」
しばらくの沈黙の後、美弥子が静かに言った。
「八十年生きて、初めて」
僕は答えた。
「僕も、初めて。十四年生きて、初めてだ」
~~
「美弥子さんさ、何かすごく変わったよね」
「あら、そう?」
満開の桜の木の下を一緒に歩きながら、僕は美弥子に言った。彼女は相変わらず毎日僕の家まで迎えに来てくれる。彼女の朝歩きは、年寄りの健康法の一環かと思ってたけど。
「何ですか? 私のどこが変わったんです?」
「いや、若返った」
「あはっ、面白い。中学生にそんな事言うなんて」
美弥子がケタケタと笑った。確かに、彼女は若返った。
「八十歳だって言ってたろ?」
「ええ。昔はね。でも今は違いますよ」
「……うーん、やっぱり嘘だったのか」
「そんな事はないですよ。だって、お料理とか、お裁縫とか、全部覚えてるもの。年の功、ですね」
彼女の作ってくれる弁当は栄養バランス抜群で、色とりどりのおかずが毎日僕を楽しませてくれる。他にもボタンのほつれを直してくれたり、こまごまと世話を焼いてくれたり、そんな態度を見ると、確かに以前は老婆だったのかな、と思えなくもない。
ただ、他の子よりはおしとやかな方ではあるものの、彼女は以前よりずっと無邪気になった。
「恋をすると」
「……ん?」
「恋をすると、女は若返るんですよ。何歳であっても」
「えっ……それって、さ」
「それ以上は言わないもん! あははっ」
彼女はいたずらっぽく僕に微笑むと、軽やかなステップで走り出した。
「へえ」
彼女が本当に老婆だったのか、本当のことはよくわからないけど、どうでもいいさ。あいつは僕のことが好き、それを知っただけで十分。
「待てよー」
彼女の後姿を追いかけて、僕も走り出した。