昔もらった手紙
私の手元に、一枚の手紙がある。
そこには、諸々の近況報告に加えて、最後にこう書かれている。
「ちゃんと、大学に行っていますか?」
これはもう何年も前……自分がまだ大学生だった時に受け取った手紙である。
大学にはきちんと通っていた。ということは、この手紙の送り主の心配は杞憂だったのか。
否。そうではない。そもそも、この手紙の送り主は私が大学に入学したこと等知るはずもないのである。私がこの手紙を受け取った時大学生であったのは偶然といえば偶然である。もっとも日本人の半数が大学に進学するような時代であり、年齢的にそう低い確率ではなかったが。
そもそもこの質問は、具体的な答えを求めているわけではないように思われた。他のことは自分のことしか書いていないのだ。私に関することはただ二つ。元気か。大学へ通っているか。それだけであった。
私の生活にさして興味があるわけではない。それは確かだ。彼は、そもそも私という人間が存在していることを疑っていたのではないかと思われた。彼はただ、日本人の二十歳が大学へ通っていることが多いだろうという、それだけの先入観を持ってこの質問を書いているに過ぎない。受け手が私だからこの質問を書いたわけではないのだ。
そう。手紙を受け取る私が二十歳であることだけは彼は知っている。それだけを頼りに彼は私を想像した。
いや、想像しなかったのだ。具体的な私という人間を想定していないのだ。いないと思っている。彼は、私が存在することを信じていない。
十二歳で中学校に。十五歳で高校に。そして十八歳ごろから大学に。そのスケジュールだ。彼にとって人生とはそのスケジュールのことであった。その先には就職や結婚、家庭を持つ、家を買う、子供が独立する、定年で退職する、その程度の漠然としたイメージはあったかもしれない。
彼にだって、それが「一般的な人生」でしかない、言い換えれば「誰かの人生」ではないということはわかっていただろう。問題はそこだ。彼がその、汎化された人生観でしか私のことを考えることができなかったということだ。なぜそれ以外のことを想像しなかったのか。できなかったのか。
それが悲しかった。
彼とは、十歳の私である。
彼は、想像することができなかった。自分に、十年後の人生というものがあることを。死ぬと思っていたわけではない。生きているとは思っていた。ただそれだけだった。何ら具体的な像を結ばなかったために、彼は書きなさいと言われて書いた「二十歳の自分へ」という手紙に、さして個性を想像することの必要ない質問しか書けなかったのだ。
十年後の未来を考えることのできなかった十歳の私。彼は、人生がけして期待するに値しないことを知っていた。自分が望む幸せは望むだけで終わり、訪れるであろうと信じた喜びは横を通りすぎて行く。人生がどうもその繰り返しでしかないらしいことは、十年も生きていい加減にわかっていた。
生きている今にさえ期待できない彼が、十年後とやらに何を期待できようか。果たしてそんなものがあるのか、彼はそう思っただろう。だがどうも周りの人間の話からすると十年後の自分というものはいることになっているらしい。
いるなら、どんな奴だろうか? 彼はそう考えたが、何も浮かばない。当然だ。だがしかし彼は焦った。手紙というのは相手に何か尋ねるもので、それは知っていた。それで元気かと尋ねてみた。そういうのを挨拶代わりに尋ねるものらしいからだ。だがそれ以上は何も浮かばなかった。十年後の自分を想像することができないからだ。
彼には将来の夢などなかった。もちろん大人に聞かれた時用にその時々で答えを用意はしていたが、目指す等思いもよらなかった。何年も前に宇宙飛行士と答えたときも彼の脳裏には宇宙服すら浮かんでいない。そういうフレーズが子供の掲げる夢として期待されているらしいと考えただけだった。
しかしともあれ手紙を書かなければならない。何か、何かないか。彼は日頃培ってきた大人の期待する答えを用意するアルゴリズムを起動し、かろうじて一般的なライフステージの知識から大学生という言葉に思い至った。当時学校へ行くことを辛い責務と認識していた私は、十年後の私にも同じ責務を果たしているかを質問することにしたのだった。
この手紙を受け取った当時。二十歳の私はこの質問に大笑いした。うわ、こんなこと心配されてるよ、と。しかしすぐにその手紙に現れている興味の薄さが残念になり、もう少し書けよと思ったのを今でも憶えている。
今、私は思う。遠い昔の十歳の私が感じたことは、当たっている。
人生には期待できない。
彼がその後、期して待ったことはことごとく彼を裏切った。いつか訪れるだろうと漠然と思うことは何も訪れなかったし、起こったらいいなと思ったことは思うだけで終わった。
だが、一方で彼はまだ、この先の人生に山ほど起こることを知らない。それは彼が期待などしていないことであり、そうでありながら全くもって素晴らしい経験なのだ。時に彼をうちのめし、彼に牙をむかせ、彼に死を決意させることすらあるが、いずれも彼をまだ知らない世界へ連れて行く。その中で彼は学ぶ。期待はできないが、希望は持ってもよいということを。その違いは大きく、しかしわかり難かった。十歳の私がわからなくともそれは仕方がない。
ただ、これだけは知って貰いたかった。
未来は、ある。
それがどんなものかは、わからない。ただ、それがあるということだけは、知って貰いたかった。十歳の私がその存在を信じなかった二十歳の私は、ちゃんといる。彼はおそらく十歳の私には想像もつかない人間になっているが、確かに存在して、十歳の私の延長線上にあるのだ。そして私もまた、二十歳の私のはるか延長線上にいる。二十歳の私も、今の私のことはまったく知らない。
最後に一つ付け加えよう。
十歳の自分に何も期待されていなかったことは寂しくもあるが、反面、何のプレッシャーにもならずに済み、ありがたくもあった。私が何をしようとも彼は怒りはしないだろう。彼は図らずも、孤独と自由をくれた。