「薫」
煙草の匂いが、風にまじって香ってきた。鉄の踊り場、非常階段の下の方。トーボがいた。夜の風が通り抜け、排気ガスと、どこかの厨房から漏れてきた焦げ油の匂いが鼻の奥にまとわりつく。ビルとビルの隙間、裏路地のその真ん中で、トーボは煙をくゆらせていた。
どこか遠くで、乾いた音がした。銃声だった。階段をトトト、と降りる。最後数段を飛んで降りると、鉄板がわずかに軋んで、足の裏に冷たい硬さが返ってくる。鉄網の上、トーボの隣に足を投げ出すように腰を下ろした。ずっと先にある、大通りのネオンが霞んで見えた。
「……俺さ、もうやめようと思ってるんだ。この仕事」
トーボがぽつりと言う。煙の向こうで、声が少しかすれていた。
「なんだって急に」
「ガキが出来たんだ。まだ生まれてきちゃいないがな」
「そっか」
俺はなんて返したらよいのかわからず、そのように返した。
「……お前、靴はどうした」
僅かな沈黙の後に、トーボはプラプラと揺らす俺の足を見て、こいつは何をしているんだと、呆れる様にそのように問いかけて来た。
「中に置いてきた。前にここに履いて出てきたら、ヒールが金網に引っかかって壊しちまって叱られたんだよ」
「そうか」
トーボは煙を吐き出し、また黙った。
「金か?」
少し間をおいて、俺が訊いた。
「なにが」
「なんでやめるなんて言うんだよ」
「金もそうだけど、こんな街でこんな仕事やってられないさ」
そのように言いながら、トーボはビルの間の暗がりをぼんやりと眺めていた。その声は、どこか乾いていて、情けなくも、少し優しげだった。それが俺には妙にこそばゆくて、落ち着かなかった。
トーボの胸ポケットに手を伸ばすと、まだ二、三本だけ残っていた箱の中から一本を抜いた。
「お前、吸えないだろ」
「吸ってみないとわからないだろ」
そう返すと、トーボは何も言わずに視線を戻した。
トーボに火を貰って、たばこを少しだけ吸った。
吸い込んだ途端、焦げた紙と湿った灰の匂いが微妙な甘さを持って鼻の奥にひっかかった。苦くてくさいのに、トーボの匂いがしてなんだか嫌じゃなかった。指先で煙草を転がして、火が芯に届くのをじっと見ていた。俺は足の裏に夜の冷たさを感じながら、息を吐く。
もう休憩時間が終わる。そろそろ戻らないといけない。そう思いながら、もう一本くすねると、俺はポケットに滑りこませた。




