第八話:制御訓練と、絶対的な恐怖
その瞬間、脳内では「体躯変動のバグ」が発生していた。彼の意識は仔狼の小さな身体の重心と感覚に完全に慣れきっている。急激に体が若狼サイズへと膨張したことで、脳が認識している四肢の長さ、体重、慣性、そして重心が、現実の肉体と全く合わなくなったのだ。
(体が重い!この重さを支えるには、もっと深く膝を曲げなきゃいけないのに!なんで動かない!?)
脳の指令と肉体の動きが0.5秒のズレを生み、その結果、太一はただの巨大で不格好な姿になってしまった。
幸い、今回グレイウルフ以外に敵はいなかったが、新しい力が新たな不器用さを生んだという事実に、深くため息をついた。
(この能力、絶対に強くなれるはずなのに、このままだと次に強い敵が現れた時には役に立たない…。完璧に扱えるようにならなきゃ!)
安全な寝床へと戻り、そこで能力制御の訓練を開始した。
彼の訓練は、仔狼サイズと若狼サイズを頻繁に変えながら森の中を移動するという、無謀なものだった。巨大な体で木々を避け、次の瞬間には小さな体で木の根元を潜り抜ける。
意識は「ゲームのスティック操作」の感覚に近かったが、肉体は慣れない変化に追いつかない。
ドスッ!バキッ!
(あ!また!)(うわ、木の枝に引っかかった!)
訓練中、何度も木の枝に銀色のフワフワの尻尾を引っ掛け、何度も地面に顔から突っ込み、まるで巨大な不器用な塊のように森を転がった。
能力制御の訓練は、コメディの連続だったが、彼の地道な努力は着実に実を結び始めていた。若狼サイズに巨大化しても、以前よりは重心を意識できるようになってきた。
(よし、今日は訓練終了。次のレベルを上げるために、もう少し強い魔物を……)
そう考えた瞬間、鋭い嗅覚が凍りつくような冷たい匂いを捉えた。
それは、血や土の生臭さとは全く違う、純粋な「力」の匂い。そして、彼の身体が本能的な恐怖で硬直した。
「グルルゥ……(あれは……)」
すぐさま仔狼サイズに体を縮め、巨大な木の根元に身を潜めた。
木々の間から、ゆっくりと姿を現したのは、体長三メートルを超す巨大な白虎だった。その全身は氷の結晶のような硬い毛皮に覆われ、鋭利な爪と牙からは、冷気が立ち上っている。
(この冷たい毛皮!ただの獣じゃない!やばい!Lv. 3になったばかりの俺じゃ、絶対勝てない!)
すぐさま頭の中で鑑定の能力を発動させた。
「グルゥ……(鑑定、鑑定、鑑定!)」
琥珀色の瞳が、一瞬だけ淡く光るように見えた。すると、白虎の頭上に、ゲームのステータスウィンドウのような情報が浮かび上がる。
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種族:クリスタルタイガー
レベル:Lv.48
スキル:氷結、絶対零度
状態:空腹
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(レベルが違いすぎる!Lv. 48!?ステータスを確認しなくても分かると思っていたが、ここまで絶望的な差だとは!あれは、俺が今戦うべき相手じゃない!)
頭の中で冷静な分析力がパニックをかき消した。
『戦ってはならない。逃げろ。力を消耗するな。』
クリスタルタイガーは、辺りを見回した。その氷のように冷たい視線が、太一が潜む木の根元を一瞬だけ射抜く。だが、仔狼のサイズに縮んだ太一の気配は、すぐにその視界から外れた。
白虎は、太一が狩った獲物の残り香を辿り、その場で悠然と獲物を平らげ始めた。太一の潜む茂みから、骨を噛み砕く、凄まじい音が響いてくる。
呼吸すら忘れてその場に張り付いた。獣の本能が、この白虎の存在を「絶対的な恐怖」として心に焼き付ける。
(この森は、優しさだけでは生きていけない。そして、不器用さは、命取りになる……)
白虎が去った後、太一の体は汗と冷たい恐怖で濡れていた。
自分が生き残るためには、この森のルールに従うしかないことを痛感した。同時に、その冷酷な法則を前に、人間社会への渇望がさらに強くなった。
(このままじゃ、本当に人間としての心まで、あいつに食い尽くされちゃう。なんとか、人間と話す手段を……)
白虎の残した獲物の骨を避け、森の外縁部、人間社会の痕跡があるであろう方角へと、孤独な旅を再開した。




