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番外編:獣の作法と、抗いがたい羞恥心(第三話後)

 

 鹿を倒し、初めての狩りを終えた太一は、自分が Lv. 2 へとレベルアップしたことの興奮と、命を奪ったことへの激しい罪悪感に苛まれていた。彼は獲物の残骸から離れ、清流で全身の血を洗い流し、一刻も早く安全な寝床を見つけたいと考えていた。


(このまま森の中でウロウロしていても危ない。まずは……まずは落ち着かないと。それにしても、お腹が空いた。さっき食べた生肉は、鉄錆と獣の熱が混ざった味だったけど、妙に力が湧いてくるな…)


 太一は、仔狼サイズに縮んだ体を森の奥へと向けていた。だが、歩き始めて数分後、彼の内臓の奥から、抗いがたい信号が送られてきた。


「グルゥ……(え、ちょ、待て。これは……)」


 それは、紛れもない排泄の予感だった。


 前世で20年間、人間として生きてきた太一にとって、この生理現象は「トイレ」という密室で行う、極めて個人的な行為だった。しかし、今は違う。彼の体は、銀色の毛皮に覆われた四足の獣だ。トイレなど、あるはずもない。


(う、嘘だろ!?まさか、この場所で!?)


 彼の意識はパニックに陥った。周囲を見回しても、誰の目もない、広大な森が広がるばかりだ。だが、この獣の肉体は、そんな人間の羞恥心など無視して、刻一刻と本能的な要求を強めていく。


「グルルルルッ……(やめろ!俺は、そんな野蛮なことはできない!)」


 太一は、意地で四足のまま踏ん張った。人間としての自尊心が、「公共の場で用を足す」という行為を断固として拒否していた。


 太一が必死に抵抗を試みていると、彼の右後ろ脚が、意思とは無関係に、ふわり、と地面から持ち上がり始めた。


「キャン!?(な、なんで勝手に動くんだ!?)」


 彼の脳は「足を下ろせ!踏み止まれ!」と緊急指令を送っているのに、獣の肉体はそれを完全に無視していた。まるで、脳の指令系統と、右後ろ脚のケーブルが、物理的に断線したかのように、脚は優雅に、そして抗いがたく空中に弧を描く。


(なぜ、片足が上がるんだ!?)


 彼の人間としての知恵は、この行動の「獣としての意味」を瞬時に理解した。これは、マーキングであり、そして獣が排泄時に体を安定させるための、本能的な姿勢だった。


(いや、待て!俺は仔狼だぞ!?成獣のオスがやる、あの犬の真似事みたいなポーズを、なんで仔狼の俺が!?)


 彼の頭の中で、「羞恥心」という名の警報ベルがけたたましく鳴り響いた。前世の太一なら、恥ずかしすぎて地面に埋まりたいと思うレベルの状況だ。


 彼の右後ろ脚は、まるでバレエダンサーのように、地面とほぼ垂直の角度で停止した。姿勢は完璧。だが、彼の心は決定的敗北を喫していた。


「グルルゥ……(誰か見ていないだろうな……このみっともないポーズを……)」


 彼は、琥珀色の瞳を左右に忙しなく動かし、周囲の木々や茂みを必死に確認した。誰もいない…。


 羞恥心と戦う太一の意識とは裏腹に、解放の瞬間は訪れた。


(あ、もう、どうにでもなれ!)


 彼の理性はついに、原始的な肉体の要求に屈した。


 周囲に土と森の匂いが充満する中、彼の鼻腔を刺激したのは、彼自身のものであるはずなのに、どこか獣的で、非常に濃厚な匂いだった。


「グル……ルゥ……(くっ……なんだこの匂いは。前世の俺とは、スケールが違いすぎる……)」


 しかし、その強烈な匂いと同時に、太一の肉体には、極上の解放感が駆け巡った。それは、トイレを我慢しきった後の安堵感とは比べ物にならない、原始的な肉体が、その機能を完璧に果たしたという純粋な満足感だった。


 彼の脳内には、「ああ、これでスッキリした。最高に気持ちいい」という、極めて能天気で獣的な感想が、人間の意識を上回って侵入してきた。


(な、なんだこの多幸感は!?俺は、こんなことで喜んでるのか!?)


 太一は、すぐに後ろ脚を地面に下ろし、何事もなかったかのように真面目な顔で歩き出した。彼の心は、羞恥心と、獣としての満足感の板挟みで、大きく揺れ動いていた。


(だめだ。慣れてはいけない。俺は人間だ……。だが、体が勝手に動くなんて、これからどうなるんだ…?)


 自分の意思に反して体が動いたという事実に、この獣の肉体は、時に、太一の理性と知恵を、羞恥心という形で打ち砕くのだ。


 太一は、一歩踏み出すたびに、右後ろ脚が無意識に地面から浮きそうになるのを必死に堪えた。彼の「戦い」はこれからも続く……。

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