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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪役令嬢ですが、愛するヒロインが性悪王太子に誘拐されたので、無理矢理助けに行こうと思います

作者: 水落詩草

 透き通った翡翠の目、柔らかなミルクティー色の髪。まるで全ての人に愛されるために生まれてきたような可愛らしい少女。それがクリスティア・ロヴァンス男爵令嬢だった。

 彼女が歌えば小鳥がやってきて、彼女が笑えば花が咲く。可憐で庇護欲をそそる外見だけではなく、控えめで少し臆病だが、誰にでも優しいという内面も含めて男女問わず人気がある。

 クリスティアを一目見てしまえば、誰もが虜になってしまう。それはどんな堅物令息でも知的な王太子でも同じだった。



 ……というのが、エグランティーヌ・ド・ファンドレ公爵令嬢の記憶にある、『乙女ゲームのヒロイン』の概要だ。


 エグランティーヌは転生者だった。

 物心ついたときからこの世とは違う世の中の仕組みを知っていたり、存在しない物体の構造についてやけに詳しく知っていたり……。

 しかし彼女は人前で記憶の細部まで語ることはなかったため、周りからは単に想像力豊かな子供だと思われていた。


 だが、彼女は六歳の時に『輪廻転生』という概念を見つける。貴族の教養として読まされたその本は、エグランティーヌに「私は転生者なのだ」という明瞭な確証を与えた。


 とは言え、彼女が持つのは途切れ途切れになった記憶だけだった。人格形成や生活の上ではさして影響しなかったため、貴族社会に馴染むのにも支障はなかったのだ。

 そしてその一部分の記憶の中にあったのが、『若草の流星群』という名前の乙女ゲームだ。


 ゲームの中では、サンクトロメリアという名の地方にある廃城を再建して作られた魔法学院アルバーノという場所が舞台となる。


 アルバーノでは、ヒロインのクリスティアが魔法で頭角をあらわし、王侯貴族の子息たちと交流を広げる。そして彼らとの愛を育む中で、クリスティアは王国に降りかかる様々な脅威を魔法と愛の力で解決する。以上が大まかなストーリーだ。


 さて、物語には、特に恋物語には何かと障害がつきものである。その障害こそがエグランティーヌであり、彼女はいわゆる悪役令嬢という立場だった。


 悪役令嬢は、ヒロインとは対照的な、常闇のような黒髪に深紅の瞳を持つ公爵令嬢。才色兼備で文武両道、おまけに魔力量は王家をも凌ぐほどに多い。

 だが、エグランティーヌの記憶にある彼女自身は、高慢で打算的な合理主義者とも言い表されていた。

 彼女自身、記憶を得ていてもなお、たしかにそうだとは思っている。


(グズでのろまな人間を見ると吐き気がするし、愛想だけ良い脳みその空っぽな女どもはそれこそ大嫌いだ。自尊心は十分にあると自負しているし、記憶がなければ、将来の王妃という立場が揺らぐとは考えもしなかっただろうな。)


 なまじ何でもできてしまうせいで他人に求める基準も必然的に高くなる。エグランティーヌの中でも、自分の性格がキツイと言われている自覚はあった。


(まぁ、直す気もサラサラないが。)


 十六年間この性格で生きてきたエグランティーヌだが、特にこれまで大きな問題はなかった。それに今さら直したところで、旧知の仲の者には気味悪がられるだけだと開き直っている。


 そもそもサンクトロメリアは別名、古代遺跡の地とも呼ばれるほどに、古くからの姿のまま現存している数少ない地だ。地方全体に強い魔力が満ちており、滅んだとされている魔法生物もひっそりと暮らしているんじゃないかと、実しやかに囁かれてさえいる。

 今は人の居住が認められておらず、研究や儀式を行うための場としてのみ活用されている。魔法学院は人材育成の場として、三十年ほど前に特例で作られた施設である。


(そんな場所、何かが起こらないほうが可怪しいだろう。)


 エグランティーヌは自室で紅茶を飲みながら考え込んでいた。その頭の中にあるのは、明日の入学式の予定と、そこで会うことになるであろう男爵令嬢のことだ。


(前世の記憶によれば、婚約者である忌々しい王太子殿下もヒロインに惚れる者の一人だからな。恋愛は好き勝手してもらえば結構だけれど、こちらが迷惑を被らないようにだけ見張っていなければ。)


 ふぅ、と艶やかな唇をため息で震わせ、読みかけの本を閉じる。側仕えに紅茶の片付けを頼み、紐で軽く留めていた髪をパサリと解いた。


(まぁ、優秀な魔法を使う人材と関係を持ついい機会にはなるだろう。)


 エグランティーヌは明日から始まる面倒事に憂鬱になりながらベッドに入った。








 なんてことを考えていた時期もあったな、とエグランティーヌはクッキーを口にしながら、ふと思い出した。

 彼女は今、図書館の横にある東屋でとある令嬢に頼まれて勉強を教えている。そのお礼にと令嬢がクッキーを作ってきてくれたのだ。


「エグランティーヌ様、どうですか……?」


 上目遣いで、恐る恐るといった様子でこちらをうかがう姿は小動物を彷彿とさせる。そのあまりの愛おしさに、エグランティーヌは加虐心が暴走しないよう努めるのに必死だった。なんとかよそ行きの令嬢口調とポーカーフェイスを保って答える。


「えぇ、とても美味しいわ。よく私好みの味に作れている」

「本当ですか?! 嬉しい!!」


 彼女は一言褒められただけで顔をほころばせる。エグランティーヌとともにいるこの少女こそ、乙女ゲームのヒロイン、クリスティア・ロヴァンス男爵令嬢その人だ。


「エグランティーヌ様、果実水がお好きだと仰っていたので、甘みの強いココネの実を入れてみたんです」


 紅茶の代わりに果実水をよく飲むという話は、先日魔法学の講義が一緒だった時にエグランティーヌが何気なく話したことだった。クリスティアはそれを覚えていてくれたのだ。

 我慢できずにエグランティーヌはクリスティアの頭を軽く撫でる。彼女はそれに照れながら、エグランティーヌの手に甘えるように笑った。


 初めの頃、二人の仲は良いとはとても言えなかった。入学初期のクリスティアはそれはそれは酷いほどに、勉強も魔法もできなかったからだ。

 かろうじて運動だけは人よりもできるようだったが、エグランティーヌにしてみればできて当たり前の範疇の中。

 その姿は、記憶から抱いていた優秀さとはあまりにもかけ離れていた。つまりは期待外れだったのだ。

 エグランティーヌは失望した。期待して損をした。やはりどうでも良い存在だったと認識を改め、他と同じようにクリスティアへも冷たく厳しく接した。


 それでも、講義や実習を重ねる度に、クリスティアは少しずつではあるが確実に成長していった。

 特に分からないことはとことん調べるタイプなようだ。普段から図書館に行くエグランティーヌは、そこで本を積み上げて勉強しているクリスティア姿をよく見かけた。


 そして二週間前の学力試験で、ついにクリスティアは首席のエグランティーヌに並んで二位まで上り詰めた。この結果には、エグランティーヌも目を瞠らざるを得なかった。


(頑張ったところで結果が出ない非効率な者は嫌いだが、成長できる子は好ましい。)


 さすがに入学して二ヶ月で魔法まで伸ばすのは難しいようだったが、それでも学力の伸びをみる限り、これからの成長は十分期待できる程にクリスティアは努力家だった。


 その姿を見たエグランティーヌも次第に態度を改め、図書館で会ううちに勉強を教える仲になっていた。


(こうして考えると、ゲーム内で令息たちが惚れ込むというのも少しは理解できる。)


 エグランティーヌは最後のクッキーをつまんで口に入れた。

 今のところ記憶にあるような展開が起こっている様子はないが、それも時間の問題だろう。正直これまで婚約者としてそのクズっぷりを幾度となく見てきたので、王太子だけとは恋愛してほしくない。


(まぁ、そうなってしまえば私が守れば良い。一応王太子側にも根回しをしておくか。)


 エグランティーヌは頭の中で王太子に近しい知人の顔を思い浮かべる。何人かは普段の王太子からエグランティーヌへの暴虐を知っているので、快く了承してくれるだろう。

 エグランティーヌは心惜しげにクリスティアの髪から手を離して立ち上がった。


「さて、午後の授業が始まるわ。そろそろ戻りましょう」

「はい。また明日も教えてくれますか?」

「えぇ、もちろんいいわよ」


 クリスティアの頭は色々な知識をスポンジのように吸っていく。エグランティーヌも新しい視点の発見になるため、彼女に教えるのは楽しかった。



 次の日、いつものように図書館に来たエグランティーヌは小さな違和感を抱いた。いつもは窓際の本棚に近い位置にいるクリスティアが、今日は入り口側の席に座っていたからだ。


「御機嫌よう。今日は珍しいわね」

「……あ、お疲れ様ですエグランティーヌ様。えへへ、実はちょっとだけ寝不足で。それで、窓際にいたら眠くなっちゃったから移動したんです」


 魔法書をぼんやりと眺めていたクリスティアは、エグランティーヌが声をかけるとハッとしたように顔を上げた。その目元には薄っすらと隈が見える。

 エグランティーヌは眉をひそめると、クリスティアの手から魔法書を取り上げた。


「それなら今日は休んだ方がいいわよ。勉強はそこまでにして、東屋で一眠りしなさい」

「でも……」

「こんな状態で勉強しても身にならないわ。午後も授業はあるのだから、休むなら今のうちよ」

「分かりました。せっかく来てもらったのに、すみません」

「私はあなたの横で勉強するだけだから、気にすることはないわ」


 そう言って、エグランティーヌはクリスティアの荷物をほとんど持って東屋へ歩き出した。クリスティアは慌てて立ち上がってついていこうとする。だが寝不足と焦りのせいか、足がもつれてバランスを崩してしまった。


「あっ!」


 クリスティアは咄嗟に目を瞑る。しかし、予想していた衝撃が彼女を襲うことはなかった。


「危なかったね。大丈夫?」

「は、はい。助かりました、ありがとうございます」


 クリスティアが顔を上げれば、至近距離に金髪碧眼の男子生徒がいた。目元は少し垂れていて、優しい印象を受ける顔立ちをしている。彼が彼女を支えてくれたようだった。


(……一番見つかりたくない人に見つかった。)


 エグランティーヌは彼の姿を見て内心舌打ちをする。しかし表面上は笑顔を浮かべて挨拶をした。


「御機嫌よう、王太子殿下」

「あぁ、久し振りだねエグランティーヌ。最近は何かと理由をつけて逃げられていたから、会えて嬉しいよ」

「殿下に会えず、私も寂しい思いをしておりました」

「……今日は猫被りなんだ。もしかして、こちらのお嬢さんと一緒にいるからかい?」


 エグランティーヌが話しかけると、王太子は途端に目を据えて、冷たくトゲを刺すような声で答えた。厭味ったらしくて仕方がない。


(あぁ、本当に気に食わない奴だな。わざわざ分かっていてクリスティアの前で言うのだからたちが悪い。第一、猫を被っているのはそちらの方だろう。)


 エグランティーヌは口角が下がりそうになるのを既のところで押し留める。

 この王太子はいつもそうだ。劣等感だか何だか知らないが、余程エグランティーヌのことが嫌いらしい。会うたびに突っかかってくる。

 自分は女遊びは激しいし、顔にかまけて努力すらしないのに、婚約者としての立場を指摘するなんて良いご身分だ。


「おっしゃる意味がよく分かりませんが、友人を助けて頂きありがとうございました。私たちは用事がありますので、失礼します」


 心にも思っていない感謝を述べて、エグランティーヌはクリスティアの手を引く。とにかくさっさと王太子の前から離れたかった。

 王太子とエグランティーヌは幼少期から結ばれた婚約者同士だが、その仲は決して穏やかではない。


「あの、ありがとうございました!」


 エグランティーヌに手を引かれながら、クリスティアは王太子の方を振り向いて言った。

 王太子は一瞬目を瞠り、クリスティアにニコリと笑いかけながら手を振った。

 エグランティーヌはそれを横目に、心にかかる靄を振り切るようにクリスティアの手を引く力を強めた。

 もしこれがきっかけとなって、前世の記憶で見た乙女ゲームのように王太子とクリスティアが恋愛をするとなったら、清く優しい友人のために、エグランティーヌは全力で阻止するだろう。それくらいには、エグランティーヌも王太子が嫌いだった。




 その一件があった後から学院では、忌避していた通りに段々と王太子とクリスティアが一緒にいるところをよく見かけるようになった。どういう風の吹き回しか、王太子がクリスティアを生徒会に誘ったらしい。

 予想通りの結果に、エグランティーヌは舌打ちをした。


(こうなるから嫌だったんだ。乙女ゲームだなんてくだらない。)


 色々な噂が飛び交う中、エグランティーヌは前までクリスティアと毎日共に使っていた東屋で本を読んでいた。

 クリスティアが王太子と共にいることが増えたので、必然的にエグランティーヌといることは減ったのだ。しかし今日は、この後久し振りに会いたいとクリスティアの方から言われている。


 クリスティアと仲良くなる前までは、もともとここはエグランティーヌが一人で使っていた場所であった。そのはずなのに、どこか居心地が悪い。

 特に思い入れがあるわけではなかったが、どうしても隣にいたクリスティアを思い出してしまうのだ。


「……遅い」


 エグランティーヌは、横に置いておいた懐中時計を見てボソリと呟く。約束の時間からはすでに三十分近く経っていた。

 クリスティアに限って約束をすっぽかしたりすることはないだろう。ただ、疑わしいのは王太子だ。


 彼はエグランティーヌのお気に入りをいつも横から取っていこうとする。王太子の才は平凡だが、性格に至ってはクズそのものだ。

 もちろんそうならないように、クリスティアの方にも王太子の方にも手は回しているし、周りにも牽制はしてきた。

 しかしそれで諦めるほど王太子は謙虚じゃない。エグランティーヌを負かすためなら敵でも味方でも容赦なく利用しようとする。クリスティアがその被害に遭っていないか、ただそれだけが心配だ。


(ここまで入れ込む気はなかったんだが……。仕方がない、今日は他に用事はないし、気長に待つとしよう。)


 どうせ生徒会の仕事が長引いたか何かだろう。

 エグランティーヌはそっと懐中時計をしまって、再び本に目を落とした。

 しばらくして日が傾き始めた頃、誰かが東屋に近づいてくる気配にエグランティーヌは顔を上げた。


「こんばんは、エグランティーヌ。こんな時間に珍しいね」


 柔和な笑みを浮かべて話しかけてきたのは、王太子の側近で友人でもあるエレオノールだった。

 彼の家である北端の侯爵領はファンドレ公爵家の領地とも近く、エレオノールはエグランティーヌが子供の頃からの知り合いだ。

 王太子は王太子で性格が悪いが、エレオノールはどちらかというと腹黒い。王太子が感情的で幼いのに対し、彼は頭が切れて理性的に物事を処理する。まだ十六歳でありながら王太子派閥の参謀とまで言われるほどだ。


 エグランティーヌは本に目を移してぞんざいな返事をした。


「何の用だ?」

「人を待ってるんでしょう?」


 エレオノールの意外な返答にピクリと反応する。てっきりまた婚約者に対する態度を改めるよう、忠告に来たのだろうとエグランティーヌは思っていた。


「……だったらなんだ。エレオノールには関係ないだろう」

「その口調、やっぱり直したほうがいいよ。綺麗な顔から男勝りな言葉が出てくるの、毎回頭が混乱するんだけど」

「雑談なら他でやってくれ。私はお前に付き合ってられるほど暇じゃない」


 エグランティーヌは面倒だという表情を少しも隠さず溜息を吐いた。エレオノールはそれでも笑顔を絶やさずに続ける。


「いいの? 君の大切なご令嬢が殿下に取られても」


 エグランティーヌはその言葉に、ゆっくりと顔を上げてエレオノールを見上げた。その顔はひどく楽しそうで、企みが成功した時のような愉悦に塗れている。

 ご令嬢とは、十中八九クリスティアのことだろう。


「……どういう意味だ」


 エグランティーヌは今までにない低い声で問う。エレオノールはその反応にニコリと笑顔を深めた。


「クリスティアさんだっけ? 彼女、今頃うちの王子様の隣で寝てるんじゃないかな? まぁ、そろそろ眠らせてから時間が立つから、薬も切れてきてるだろうし、情事の途中で起きるかもね」

「は?」


 口角をつり上げたエレオノールとは対照的に、エグランティーヌの顔からは全ての表情が抜け落ちたようだった。

 その言葉が意味することを理解できぬほどにエグランティーヌも子供ではない。あの王太子は、エグランティーヌからクリスティアを奪うだけに足りず、クリスティア自身にトラウマを植え付けようと

しているというのだ。

 エグランティーヌの怒りは頂点に達した。今まで王太子にドレスを裂かれようとも、自分の研究成果を奪われようとも、悪女だと噂を流されようとも動じなかった。毎回屈せずにそれを返り討ちにしてきた。

 しかし、今回の件は別だ。王太子はエグランティーヌの一番大切な存在に手を出した。


(……まて、王太子を監視させていた者たちから、なんの報告もないのはどういうことだ?)


 エグランティーヌはふと頭の理性的な部分で考える。監視を任せたのは一人ではない。誰かしらからは情報があっても良いはずだ。


「その反応、最近王太子の周りに変な奴がいると思ったけど、やっぱり君のとこの偵察だったんだね。おかげで女子生徒一人さらうのにも苦労したみたいだ」


 エレオノールはやれやれと他人事のように言った。まだ学院内の何処かにいると考えていたエグランティーヌは、さらったという事実に立ち上がって焦りをあらわにする。


「クリスティアはどこにいる!?」

「そんなに怒らないでよ。俺はむしろ君とあの子を助けるために教えに来たんだからさ」

「どういう意味だ」

「クリスティアさんの居場所を教える。俺なら今から案内しても間に合う。だから、なるべく派手に救出してほしい」


 エレオノールは彼にしては珍しく真剣な態度でエグランティーヌに言った。普段の彼なら笑いながら傍観していそうなものだが、エグランティーヌは不思議に思う。

 もちろん彼に言われなくても、自分で調べて助けに向かうくらいは造作もない。たとえ監視を任せた者たちが動けなくされていたとしても、生徒会室に行けば粗方のことは分かるだろう。だが、時間がないのは本当だった。

 それに、エレオノールがここまでするのは珍しい。


「何が目的だ?」

「エグランティーヌなら分かるでしょ。こちらとしても、今回の件は王太子の外聞的にまずい事態だってことだよ。今まで周囲が黙ってたのは、あいつの身分と令嬢側の同意があった上で、君が我関せずを貫いていたからだ」


 エレオノールは険しい顔をして続ける。


「でも今回は違う。よりにも寄って最近社交界でも名を挙げてきたロヴァンス男爵家のご令嬢だ。その上同意なく手を出そうとしてる。しかも、君の怒りを悪い方向に買う方法で……、流石に俺としても看過できない」

「派手にというのは?」

「一度は反省してもらわないと、今後国王に立ったときに響いてくる。今まで君に返り討ちにされても懲りてないんだ。それに、学院だと他国や自国の貴族全員に醜聞が広がるが、離宮なら必要分で済む」


 その言葉にエグランティーヌは嫌な顔をする。


「王太子更正のために利用されるのは非常に気に食わないが、間に合うんだな?」

「俺が明言して嘘だったことある?」

「ないな」


 エグランティーヌはすぐさま断言して腕を組む。彼は誤魔化し煙に巻くことは多いが、断言したその点においてだけは信頼できた。

 エレオノールはエグランティーヌの返事に満足したようにニコリと笑って、胸ポケットから小さな石を取り出した。


「これがあれば離宮に張られている結界を通り抜けられる。俺は王宮に入ったら正面から離宮に入る。その間に時間を稼ぐから、エグランティーヌは裏から入って。彼女がいるのは王太子の寝室だ。場所は分かるね?」

「幼少期の記憶が間違っていなければな。それにしても、なぜ場所まで把握しているんだ?」

「単なる追跡魔法だよ。側近には、主の居場所を把握する義務があるでしょ」


 エレオノールは肩をすくめて言った。こういうところが怖い男だとエグランティーヌは思う。敵には回したくない。


「馬車はすでに呼んである。急ごう」

「あぁ」


 エグランティーヌはエレオノールから石を受け取り、二人は足早に東屋を離れた。







 ベネディクト・ディア・オルスティード。

 それがオルスティード王国の王太子である彼の名前だった。

 眉目秀麗であり成績も優秀、そして立場に劣ることのない勤勉さを持ち合わせている。……ただ少し、天才が度を越したような幼馴染が二人いただけだ。

 それでも、ベネディクトが優秀であることには変わらなかった。


 しかし、彼が時間をかけてようやく成し遂げたことを、エグランティーヌとエレオノールという二人はものの数分で片付けてしまう。

 一人にはどれだけ努力しても愚図だと切り捨てられ、一人には将来を見据えろと口煩く言われる。

 同年代だと言うのに大きすぎるその違いに打ちひしがれ、ベネディクトは幼いながら最大の挫折を味わった。


 発狂しそうだった。劣等感に苛まれ、何故自分はできないのかと何度も何度も自分を責め続けた。それでも変わらない現実を、そういうものなのだと受け入れるには、まだ彼は幼すぎた。

 そんなある日、ただ一つの偶然が彼を変えてしまった。


 六歳の誕生日、エグランティーヌとの婚約が結ばれた。両親の笑顔と婚約者となった彼女の冷たい表情の差に、これが俗に言う政略結婚なのだと思い知らされた。

 せめて華のない人生に、伴侶だけでもと夢を見たのがいけなかったのだろうか。ベネディクトは絶望した。これでは愛など育めるはずもない。

 これから一生、この幼馴染に人生を蝕まれながら国王として矢面に立たされるのだ。その憂鬱感は尋常ではなかった。

 だから、両親から親睦のために外で遊んでこいと言われても、とても乗り気にはなれなかった。



「私はベネディクトを王としての技量があるとは認められない。」


 いつも通りの尊大な態度で、外に出た途端に幼馴染に言われた言葉はベネディクトの胸に深く刺さった。

 結局有無を言わさず庭に出された、その直後の一言だった。突き刺さった言葉の剣は、ベネディクトの心を蝕んだ。


 なぜ、自分がそれほどまで言われなくてはいけないのか。王太子としての教育も、良王になるための努力も、しゃがみ込めば鞭打たれる訓練も一度だって欠かさなかった。


(それなのに、なぜ?)


 気づけばエグランティーヌを突き倒していた。

 何かを言いかけていたような気もする。だが、そんなことはどうでもよかった。

 一瞬見えた、彼女の驚いたような表情。か弱く悲鳴を上げて倒れ込む姿。地面で擦り切れたドレスの裾。その全てに手が震えた。

 すぐに助け起こさなくてはいけなかったのに、謝らなければならなかったのに、ベネディクトにはそれができなかった。

 エグランティーヌは余程衝撃的だったのか、座り込んだままベネディクトを見つめている。その表情が、彼には滑稽で仕方がなかった。


「ははっ……」


 その瞬間、彼の中で壊れてはいけなかった何かが音を立てて崩壊した。

 気持ちが良かった。鼓動がドクドクと音を立てる。興奮と歓喜が体を巡る。あの幼馴染に、こんな表情をさせたのは自分なのだ。

 ベネディクトはしゃがんでエグランティーヌと目線を合わせた。


「ばーか。お前の許可がなくても僕は次の王だ。お前は王にはなれない。僕の上には立てない、いいな?」



 その日を境に、王太子ベネディクト・ディア・オルスティードは変わってしまった。勤勉さは鳴りを潜め、代わりに自由奔放になった。何にも縛られず、すべてから逃げ出し、怒られてもヘラリと笑って反省しない。

 まるで自分がすべての掟なのだと知らしめるかのように自己中心的な命令をするようになった。


 しかし、外に出せば完璧な王太子を演じる。城の中と外でのあまりの違いに、城の教育係たちは困惑した。

 それはある意味では当然だった。彼は努力を絶やさなかった。表面上では婚約者に反発するために自由奔放の限りを尽くし、裏では誰にも見つからないように今まで以上に自分を追い込んで努力した。いつかの日に幼馴染を越えられるように、そう願いながら。

 エレオノールは突然変わった彼を心配したが、ベネディクトはそれを無視した。彼にとってはエレオノールも忌まわしい幼馴染の一人であり、憎むべき対象であった。


 願いはいつの間にか呪いとなって彼を縛った。

 いくら努力しても足りない。自己嫌悪に沈み込む。その度にベネディクトはエグランティーヌから大切なものを奪って壊した。崩れる彼女のポーカーフェイスに溜飲を下げていた。その後に来る仕打ちなんて、その瞬間の表情に比べればなんてことはなかった。


 だが、何年かしたころから、エグランティーヌは何をしても表情を変えなくなった。

 満たされない。蓄積するストレスはベネディクトを蝕み続ける。


 だから、彼はクリスティアの存在を見つけた時に興奮した。

 偶然はいつだって彼を地獄の甘美な呪いに突き落とす。


 図書館で二人に会った時に、ベネディクトは瞬時に「彼女は利用できる」と考えた。

 それからの行動は早かった。

 仲を深めるために、そしてエグランティーヌから引き離すために生徒会に誘った。同じ一年生として、仕事が手に負えないという先輩の助けになりたいから手伝ってくれと言えば、彼女は快く首を縦に振った。


(本当に扱いやすくて助かる。)


 内心でほくそ笑みながら、ベネディクトはクリスティアと仲良くなっていった。

 そして生徒会室に二人きりになっても警戒されなくなったその日、ベネディクトはクリスティアを城に閉じ込める計画を決行した。

 ことは驚くほどスムーズに進んだ。睡眠薬を吸わせる時に強く反発されたせいで手首が痛いが、馬車に乗せてしまえばこちらのものだった。

 城に着いたら、そのまま部屋で寝かせた。起きたら一度彼女の身も心も傷つけた後に、二、三日監禁してじっくりと心を壊していくのだ。それから、エグランティーヌの前で完全に堕ちるように仕向ける。


 横で眠る存在がエグランティーヌに愛されている事実に今すぐ首を絞めてやりたくなるが、彼女の歪む顔を見るために押しとどまる。


「ん……」


 クリスティアは一度身動ぎした後に、ゆっくりと目を開いた。


「……あれ、王太子殿下? ここは?」


 いまいち状況を理解できていないらしいクリスティアに、ベネディクトは笑みを浮かべて教えてあげる。


「ここは城の離宮で僕の部屋。君、エグランティーヌのお気に入りなんだってね。……悪いけど利用させてもらうよ」

「?!」


 パチンとベネディクトが指を鳴らせば、光る腕輪がクリスティアの両手を拘束する。クリスティアは目を見開いてほどこうとするが、ガッチリと固定されているおかげでびくともしない。


「ほどいてください!」

「嫌さ。今から君には傷ついてもらわないといけないんだ」


 ベネディクトは拘束した両手を左手でベッドに押し付け、クリスティアの片足を右手で持ち上げた。

 まだ薬が効いていて力が入らないのか、クリスティアは強く抵抗できないようだった。


「どうしてこんなことを?」

「どうして? 決まってるだろう。エグランティーヌを絶望させるためだよ」

「エグランティーヌ様を……?」


 クリスティアはさっと顔色を変える。怒りと驚愕と恐怖と、いろいろな感情が詰まったような表情は、よく見る貴族らしくなかった。


(エグランティーヌは、こういうところに心惹かれたんだろうか。)


 ベネディクトには、まるで愛らしいとも興味深いとも思えなかった。強い瞳で見つめてくる少女に、彼は自嘲気味に笑う。


「酷いと思うかい?」

「っ!」


 ベネディクトは足をつかむ手の力を強めて問う。

 攫う際に抵抗したとき、足をけがしたのだろう。クリスティアは痛そうに顔を歪める。

 だが、それでも彼女は瞳に宿した光を消すことはなかった。


「……いいえ」

「は?」

「いえ、もちろん酷いとは思います。でも殿下、今日はずっと辛そうでしたから。本当はこんなことしたくないんじゃないんですか?」


 心臓がドクンと嫌な音を立てた。真っ直ぐ見つめてくる瞳に一拍遅れて否定した。まるで見透かされているようで怖かった。


「……違う」

「エグランティーヌ様から王太子殿下との昔の話を聞きました。エグランティーヌ様と殿下と、もう一人エレオノール様という方と幼馴染で、殿下も昔は優しくて勤勉だったって」

「違う」

「幼馴染二人との違いや、自分だけができない劣等感。……本当は、一言でもいいから二人に褒めてほしかったんじゃないんですか?」

「違う!!!!」


 叫ぶように拒絶した。

 クリスティアから手を離してシーツを蹴る。広いベッドの端に追い詰められた手は、カクカクと震えていた。ハッハッ、と息が短くなる。


「違わない。……褒めてほしくて、失望してほしくなくて、隣にいたくて、いてほしくなくて、好きだけど、嫌いになるから困る」

「っお前に、何が分かる!!」


 いつの間にか、体が逃げていたのはベネディクトの方だった。端まで追い詰められて、ベッドから降りれば良いとは分かっているのに、足も腕も言うことを聞かなかった。


「分かりますよ」


 目の前まで迫ってきたクリスティアは、真っ直ぐベネディクトの目を見て言う。そして首にかけられた、瞳と同じ翡翠のチョーカーに手をかける。スルリと外れた後に見えたのは、女にはあるはずもない突起。

 クリスティアはもう一度口を開く。


()()()()ですから」


 ベネディクトの耳に届いたのは、少女と言うには低すぎる声だった。







「待って。たしかに、派手にとはっ、言ったけど、ここまでじゃない!」

「何を言っているんだ。これが一番早いだろう」


 エレオノールはエグランティーヌに腰を抱えられて森の中を飛んでいた。

 学院を出る前にズボンスタイルの騎乗服に着替えた彼女は、髪を一つ結びにして軽々と枝から枝へと移っていく。

 今は王宮の正門を通り抜けて、本城の裏にある森からまっすぐに離宮まで向かっている最中だ。

 裏の森は普段は狩りに使われるような場所である。魔物やら魔木やらがうじゃうじゃ存在している。


「チッ、邪魔だ」

「ヒェッ……」


 ザクッと音がして目の前の貴重な素材を落とす魔鳥が刺殺される。

 障害物はすべてなぎ倒しにしていくエグランティーヌの姿に、エレオノールは悲鳴を上げていた。もちろん、この後請求されるであろう森の修繕費用を想像して、だ。


「あのさっ、もう少し、ゆっくりお願いしてもいい?!」

「無理だ。お前がいなきゃもっと早く着いてる」


 エグランティーヌはエレオノールの言葉を聞いてくれる気はないようだ。このままでは三半規管が確実に死ぬ、と彼は薄く笑った。


 本当だったら、正門からはエグランティーヌとは別れて行動するはずだった。

 それなのに今日は、よりにも寄って宰相であるエレオノールの父親が登城していたのだ。

 宰相は王太子を何としてでも汚点のない国王にしようと尽力している王太子派の筆頭だ。こんな計画がバレれば即捕まって阻止される。国の中枢として働く彼の父は、もちろん即席の口八丁なんかには騙されてくれない。それは二人とも重々わかっていた。


(だからって、二人して離宮に乗り込まなくたっていいだろうが!!)


 エレオノールは内心叫びたい気持ちを抑えてエグランティーヌにしがみつく。そうしていないと振り落とされて死ぬからだ。

 たしかに、エグランティーヌが森を突き抜けるというとんでもない選択をしてくれたおかげで、護衛や離宮で働く者たちの注意をそらす必要はなくなった。しかしそれとこれとは別問題だ。


(これが終わったら、森への騎士団配置も進言しなきゃいけないな……。)


 エレオノールは新たに発見された守りの穴と、そこから当たり前のように侵入していく幼馴染の姿に頭を抱えた。


「!! 見えたぞ!」


 エグランティーヌが前を見たままそう告げた。

 視力強化の魔法をかけてようやく見えるのは、離宮の最上部分らしき緑色の飾りだ。距離感で言えば、この速度であと一分弱で着くくらいだろう。


「そうしたら、赤い印が、付いている木々からっ、結界が発動する。そろそろ、渡した石に魔力を、流して、そのまま突きっ、進んでくれ」

「了解」


 エレオノールは内心焦っていた。あんな大口を叩いたが、もし間に合わなかったら二人の幼馴染を同時に失うことになりかねない。


(どうか、間に合ってくれ。)


 必死の願いだった。二人の婚約が結ばれたあの日から、エレオノールの中では後悔が渦巻いている。


 王太子であるベネディクトが、エレオノールとエグランティーヌに負い目を感じていることは薄々気づいていた。


 エグランティーヌは何でも最上級まで突き詰めていくタイプだ。どれも最初はできなかったはずなのに、気付けば完璧にこなしている。

 それに対して、エレオノールはオールマイティに卒なくこなす。そもそもがある程度形になっているところからスタートするのだ。

 小さい頃は、それが普通だと思っていた。人には、出来ないことなどないのだと本気で思っていた。


 だから初めて王太子である彼に会ったときに抱いた感想は、「なんだか物足りない中途半端な奴」だった。

 出来ない訳じゃない。どちらかと言えば優秀な方なのだろう。けれど、先にエグランティーヌと出会い過ごしていたエレオノールは、自身も優秀すぎたがゆえにそう思ってしまったのだ。


 ベネディクトは、何処かで手を抜いているのではないかと疑ってしまうほどに、ある地点からの成長が著しく遅くなる。

 だからエレオノールは彼に言ったのだ。


「ベネディクトさ、もう少し王太子としての自覚を持ったら?」


 本人が覚えているかは分からない。だが、その時の深く傷付いたようなベネディクトの顔は、エレオノールの脳裏にしっかりと焼き付いた。


 時が流れて、幼馴染二人の立場が変わって、エレオノールがベネディクトの側近となって。

 ベネディクトがすっかり変わってしまって虚ろな目をし始めたとき、エレオノールは自分がしてはいけない大きな間違いをしたのだと、ようやく気が付いた。


「エレオノール、魔法で頑丈な鉤縄は作れるか?」


 どうやら森を抜けきったらしい。一度エレオノールを下ろしたエグランティーヌの問いかけに、意識を現実に戻す。


「作れるけど、何に使うわけ?」

「あそこの木から飛び移る」

「はぁ?」


 エグランティーヌが指差したのは離宮の庭で一番大きくて太い木だった。

 たしかにベネディクトの部屋の真正面にはあるし、空を使えば離宮の中にいる侍女などにも気づかれずに入ることができる。

 しかしその距離は離れすぎていた。鉤縄を使えば、部屋より先に地面に衝突するだろう。

 そもそも、窓は頑丈な防弾ガラスでできているのだ。内側から誰かが開けなければ入れない。


 だがエレオノールがエグランティーヌを見ると、澄ました顔で指を使ってその距離を測っている。そして靴についた魔法石に手をかけた。


 エレオノールは彼女が何をしようとしているのか理解してしまい、ヒクッと顔が引きつる。


「ねぇ、まさかとは思うけど……」

「そのまさかだ。早くしろ」


 エグランティーヌは靴の魔法石にドンドンと魔力を込めていく。

 エレオノールは覚悟を決めて、できる限り長い鉤縄を作成した。エグランティーヌはそれを受け取ると肩にかけて、再びエレオノールの腰を抱える。地面を蹴って大木の枝から枝へと登ると、一際太い枝の上でドコンッと足を蹴った。


(あ、これ死ぬかもな。)


 地面からの距離を見たとき、エレオノールは直感的にそう思った。念の為、自身の身体に三重に防御結界を張っておく。

 エグランティーヌは離宮の最上部と同程度の高さまで浮かび上がった体を捻って、勢いよく鉤縄を投げる。その先はガチンとベネディクトの寝室より一つ上の階の柵をとらえた。

 そのままエグランティーヌが縄を引っ張ると、上昇していた体は急降下を始める。向かう先はベネディクトの部屋の窓だ。

 エグランティーヌは右足を突き出し、靴に込めた魔力全てでそれを強化した。


「うわあぁあぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 エレオノールの叫び声とともに、窓ガラスはガシャーンッ!! と音を立てて割れた。







 可愛らしい姉と、優しい兄を持って生まれた。

 魔力量が多く、天才的な発想力を見せる姉と、明晰な頭脳を持ち、次期領主として領地の繁栄を皆から望まれる兄だった。

 対して自分は何もない。かろうじて体力と運動神経に自信があるくらい。


 そんな家庭で育った彼女、いや彼だから、目の前で不安そうな顔をする王太子の気持ちが手に取るように分かった。


 クリスティア改め、彼は本当の名をルーカスという。

 ロヴァンス男爵家の次男として育ち、昔は王太子の生き写しのような人生を歩んでいた。

 姉を羨み、兄を羨み、自分を恨んだ。


 しかし王太子と決定的に違ったのは、年齢の差と二人の対応だろう。

 兄姉の後を追う年齢になってきた頃、周りは必要もなく比べてきた。だが、二人ともルーカスが落ち込んだときにはしっかりと寄り添ってくれた。


 それでも出来ないというのは辛い。どれだけ大切にされていても、明確な違いや家族の中での線引きは常にルーカスに付き纏った。


 ルーカス自身、まだ完全に吹っ切ることはできていない。

 しかし、魔法学院アルバーノに入学し、エグランティーヌに出会えたことは確かな人生の分岐点となった。



「まだ社交界にも出てないんだからバレないって。……だよね??」


 そう言いながらも泣きそうな顔をした姉に女装をさせられ、それを見て笑う兄を恨めしげに見たのはつい一ヶ月前の話だ。


 ()()()()()()()()という姉に、一生のお願いだと言われて引き受けたのは非常に厄介な件だった。


 『乙女ゲームのヒロイン』だと言う彼女は、自分が学院に行けば最悪家族が滅ぼされる! と、ある日を境に泣き出した。

 これには家族全員お手上げだった。いつも明るく楽観的な姉が一週間塞ぎ込んでいたのだ。


「王太子と悪役令嬢と、宰相の息子に騎士団長の息子に、うぅぅ……」


 兄とともにこっそりと覗いた部屋では、布団に包まってウンウンと唸っている姉の姿があった。

 二人で顔を見合わせてそっと扉を閉じた翌日、姉はとんでもないことを言い出した。


「そうだ、ルーカスが私の代わりに学院に行けばいい!!」


 ようやく布団からでてきたと思ったら、ガシッとルーカスの足を掴んで上目遣いでお願いをしてくる。そんな姉の姿に困りはしたが、正直頼られて悪い気はしなかった。


 そもそも学院には招待状がなければ行けないので、引き受けるくらいならと、その時は軽い気持ちで頷いてしまった。


 その一年後、本当に学院から姉宛の招待状が届いた時は、家族全員で頭を抱えた。


「嘘だろ……」

「うぅ、ルーカス……」

「分かった、分かったから泣くなって!!」


 姉との約束通り、ルーカスは彼女の代わりに入学することになった。

 しかし、問題となったのは声だった。身長や肩幅はある程度ごまかせる。だが声だけはどうしようも出来ない。

 そこで姉と兄が二人で作ってくれたのが、目の色に合わせた翡翠のチョーカー型の魔術具だった。


 そのお陰でルーカスがクリスティアではないと疑われることはなかった。

 しかし、彼が入学して思い知ったのはいかに自分ができない人間なのかということだった。

 田舎の領地出身で、流行や時世にも疎い。魔法に関してはフィーリングで使う姉のそばにいたので、知識はゼロに等しかった。

 そんな中でなんとか姉や兄と手紙のやり取りをしつつ、図書館で調べて独学で学ぶ日々が続いた。


 ある日、ルーカスがいつも通りに図書館の端の席で本を積み上げて勉強していると、上から声がかかった。


「そこはこっちの魔法陣と魔術式を組み合わせると上手くいくわ。次は三十頁に載っている公式を使いなさい」

「え?」


 突然のことに戸惑っていると、話しかけてきた綺麗な黒髪の令嬢は隣に座ってきた。


 後からルーカスが知ったのは、彼女こそ姉が恐れていた『乙女ゲームの悪役令嬢』というやつらしいということだった。



(あの時は、ここまで仲良くなれるだなんて夢にも思っていなかったな。)


 最初こそ恐れていたものの、今ではすっかり懐いてしまった。どこまで行っても実力主義で、けれど確かな結果を残せば認めてくれる彼女のそばにいるのは心地が良かった。


 ルーカスは外したチョーカーを手に、そっと翡翠部分を撫でる。


(……でも、エグランティーヌ様が好きでいてくれる俺は、『クリスティア』なんだよな。)


 それをルーカスは少し寂しく思う。

 似たもの同士の目の前の王太子を見て、フッと笑う。


「殿下は、エグランティーヌ様が嫌いなんですか?」


 純粋な疑問だった。ルーカスは劣等感を抱いても兄姉が好きだ。二人と共にいるのは居心地が悪かったが、それでも自分から隣にいたいと願っている。


 王太子は疲れたような顔をして、ポツリと呟いた。


「……分からない。僕は、何がしたかったんだろうな」


 ルーカスはそれに、「何でもいいじゃないですか」と答えた。


「え?」

「ここ最近一緒に生徒会の仕事をしてる時に思ったんですけど、王太子殿下の仕事っていつも次の人を考えてるんですよね。ただ事務的に素早く処理するだけじゃなくて、必ず誰がどんな思いをするかまで考えてる。そういう、結果だけじゃ分からない気遣いや思いやり、俺は好きですよ」

「そ、れは……」

「それに、殿下って案外エグランティーヌ様やエレオノール様のことが大好きですよね。俺はエレオノール様とは会ったことがないのでどんな人かは分かりませんが、別に嫌いじゃないなら一緒にいればいいんじゃないんですか? 辛いかもしれませんが、案外楽しいですよ」

「……」


 王太子は迷うように口を開いては閉じるを繰り返していた。そしてあきらめたようにルーカスを見て言う。


「どうしてエグランティーヌが君に惚れ込んでいるのか、なんとなく分かったな」

「?」

「僕も、二人とまたじっくり話をしてみるよ。……ありがとう」


 素直になった王太子は、目を伏せて泣いていた。ルーカスは静かに「どういたしまして」と返す。

 そこには誘拐監禁の現場とは思えないほどに穏やかな空気が流れていた。


 ……はずだった。

 どこからか悲鳴のようなものが聞こえたと思ったら、急に窓ガラスが割れて人が入り込んできた。

 ルーカスと王太子はすぐさま臨戦態勢になるが、その人物の姿を見てぽかんと口を開けた。


「! クリスティア!!」

「……死ぬかと思った」


 呼ばれた名前にルーカスはハッとして、すぐさまチョーカーを首に巻き直した。


「エグランティーヌ様、どうしてここに?」

「クリスティアを助けに来たに決まってるだろう。まだ何もしていないだろうな?」


 ルーカスをベッドから下ろして背中に庇うようにして、エグランティーヌは王太子を睨みつけた。

 王太子はそれに肩をすくめながら答える。


「もちろん。むしろ彼女にはいろいろと反省させられたよ。……良い友人だな」


 いつもと違う態度の王太子にエグランティーヌは目を見開く。ルーカスは二人が話しやすいように、そっとエグランティーヌの背中を押そうとした。


 しかし、彼女とともに来たもう一人の男が大股でその間に割って入った。


 パシンと乾いた音が響く。


「馬鹿、何をしたか分かっているのか?」

「……あぁ」


 王太子は叩かれた頬を押さえずに返事をした。

 静かな怒りだった。ルーカスは、きっと彼がエレオノールなのだろうと当たりをつける。

 彼は目をまっすぐ王太子に向けたまま続ける。


「だったら……」

「だから、王位継承権を破棄しようと思う」

「は?」


 エレオノールの声を遮ってきっぱりと言い切った王太子の言葉に、部屋の空気は凍りついた。


「なぜ……」


 あのエグランティーヌでさえ、言葉を失っているようだった。ルーカスにはよく分からないが、それほど大きなことだと言うことだろう。


「僕が王座につくよりも、弟が継いだほうが国はより良くなる。ずっと昔から分かっていたことだ」

「それは違……」

「何も違わないさ。二人が一番分かっているだろう? 僕がこのまま国王になったとしてもいい国にはならない。僕には王となる技量がないからな」


 そう言って自嘲気味に王太子は笑う。ルーカスはそんなこと、と反論しそうになる。しかし、その前にエグランティーヌが口を開いた。


「……たしかにお前には王として国を治める頭脳も、国を発展させるだけの魔力もないだろうな。何より、その性格では国民はついてこない。王として必要な技量の半分も持ち合わせていない。おまけに婚約者に対する態度は最悪だ」


 あまりにも辛辣な言葉に、ルーカスは止めようかどうか迷う。劣等感を抱いている相手にここまで言われるのは心に来る。

 しかしエグランティーヌは続けて言った。


「だが、誰よりも民を思う心を持っているのは事実だろう」

「え?」

「……話は、最後まで聞け。馬鹿」


 ポーカーフェイスを保ってはいるが、横から見ていたルーカスはその耳が少し赤くなっていることに気がついた。


(……なんだ、王太子ちゃんと愛されてるじゃん。)


「……そうか。そうか」


 一瞬呆けた顔をしていたが、王太子はエグランティーヌの言葉を噛み締めるように呟く。

 エグランティーヌは王太子のその顔を見ると、エレオノールに目配せをしてルーカスの腕を引いた。


「話は以上だ。私たちは先に失礼するからな」

「うん。後処理は任せて。正門に置いてきた馬車はそのまま使ってくれていいから」


 エグランティーヌが窓から身を乗り出したその時、ルーカスは「あっ」と声を上げて振り返る。


「殿下、また学院で!!」

「あぁ、今日はいろいろとありがとう」


 その返事に、ルーカスは満足したようにニッと笑った。







 エグランティーヌはずっと心中穏やかではなかった。馬車に乗ってもなお、心臓の鼓動が音を上げている。


「あの、大丈夫ですか? エグランティーヌ様」

「大丈夫なわけあるか。心配したんだ」

「ですよね。ありがとうございます、助けに来て頂いて」


 そう言って申し訳なさそうに笑うクリスティア、いや名も知らぬ彼に、エグランティーヌは眉を寄せて不機嫌な顔をした。

 彼はそれに困ったように眉を八の字にする。


「その声、私の前では隠したままなんだな」

「……あはは、バレてましたか」

「部屋に入ったときに喉仏が見えた」

「そうですか」


 目の前に座る彼は、笑顔を消して重い手つきでチョーカーを外した。


「……騙していて、申し訳ありませんでした。失望しましたか?」


 エグランティーヌが聞き慣れた声よりもずっと低い声に軽く息を呑む。

 彼の泣きそうな表情が、先ほどのベネディクトの顔と重なる。今日の彼にはエグランティーヌも思うところがあった。


「……いや、それなりの事情があったんだろう。私も君と接する時に多少は猫をかぶっていたんだから、同罪だ」


 エグランティーヌはすべての感情を飲み込んで、らしくもなく庇うような言葉を投げかけた。本当ならいろいろと問い詰めてやりたい。だが、今することでもない。

 彼は一度目を見開いて、驚きながらクシャリと破顔した。


「たしかに、令嬢らしくない口調で驚きました。でもエグランティーヌ様らしいです」

「?」


 意外な反応にエグランティーヌは片眉をあげる。


「だって、威厳があって、強くて、エグランティーヌ様に似合った口調だと思います」


 彼は楽しげにそう言った。心から本当にそう思っている事が伝わってきて、エグランティーヌはむず痒さを感じた。直せと言われることはあっても、似合っているなどと言われたのは初めてだった。

 だからそれを隠すために、フイッと視線をそらして聞いた。


「……名前は?」

「え?」

「本当の名前は何だ。クリスティアと呼び続けるわけにもいかんだろう」


 エグランティーヌが尋ねると、彼は拍子抜けしたような顔をして、それからニコリと笑って言った。


「ルーカス。ルーカス・ロヴァンスです」

「ルーカス、か。良い名だな」


 エグランティーヌが柔らかく笑って名前を呼べば、ルーカスはいつもと変わらぬ笑顔で心地よさそうに目を閉じた。


(……あぁ、なんだ。何も変わらないじゃないか。)


 それがたとえルーカスであってもクリスティアであっても、目の前にいる彼は、エグランティーヌが心を奪われた彼は、彼自身なのだと自覚した。


「まだ、お友達でいてくれますか?」


 だからその質問にも素直に答えた。


「もちろん。お前は私の一番の親友だ」


(そして、一番に愛する者だ。)


「えへへ」


 照れくさそうに、あの日のクッキーの時のように、ルーカスは目一杯の笑顔を見せた。







 休みを挟んで二日後、エレオノールから話を聞くと、あの後結局ベネディクトは王太子の座を降りたらしい。そして第一王子に戻り、第二王子である弟殿下と共に、再び王太子の座に就けるよう学び直し始めたという。

 これには様々な場所から驚愕の声が上がった。特に派閥間での反応は大きいものだった。

 しかし、そんな貴族の家全てにベネディクトは手紙をしたためた。反発はすぐには収まらなかったが、ベネディクトの誠意ある言葉は多少なりとも有効に働いたのだろう。


 エグランティーヌとルーカスはいつものように東屋で昼食がてら勉強をしていた。


「違う、そこはゴルバレイド王国の侵入があったから……」

「あぁ、なるほど。ならこっちはポワルール公国の水害が影響して……」

「たしかにそうとも言えるな」


 そこに二人分の足音が聞こえてくる。


「やぁ、僕たちもお邪魔していいかい?」

「あ、殿下!」

「……何のようだ、()()()()殿()()


 エグランティーヌはまだ少し不機嫌そうな顔で二人を出迎えたが、その表情は前ほど冷たいものではない。

 今回の件があって、エグランティーヌも自分の性格の欠点を改めて見直すことにしたのだ。


「なんだもう知ってたのか。今日はその話をしに来たのに」

「エレオノール様から聞きました」


 ルーカスの返事に、ベネディクトはジトリとエレオノールを見る。しかしエレオノールはごめんごめんと軽く謝るだけだ。


「それにしても、その格好のままなんだね」


 エレオノールの問いかけに、ルーカスは服や長い髪をつまみながら答える。


「あはは。流石に姉の名前で入学しているので、ルーカスとしてはいられませんね」

「ルーカスが良ければ招待状を発行し直すこともできるけれど」


 ベネディクトの言葉に彼は首を振って答える。


「流石にそこまでしてもらうのは悪いです。それに、このチョーカーにもまだ愛着がありますし」


 ルーカスは首元の翡翠を優しく撫でた。

 エグランティーヌはその表情を見て優しく笑う。


「……エ、エグランティーヌが笑った」


 エレオノールは驚愕の目でそれを見る。エグランティーヌはムッとした顔で二人を見上げた。


「……私が笑うのがそんなに可笑しいか?」

「「可笑しい」」


 綺麗に重なった幼馴染二人の声に、「あははっ!」とルーカスが笑う。


 春はまだ始まったばかりだ。柔らかな暖かい日差しが、東屋の四人の姿を優しく照らしていた。


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