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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第三章 『白薔薇のレクイエム』
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第三章13 『月下の休息』

 2日目の夜。

 潮風が静かに窓を叩く中、翔太郎はホテルの自室に戻っていた。


「玲奈……今日は一体、どうしたんだろう」


 ベッドの端に腰を下ろし、天井をぼんやりと見上げる。


 今日の彼女は、どこか違っていた。

 笑ってはいたが、あの笑顔の奥に──焦りにも似た何かが見え隠れしていた気がする。


 玲奈の様子がおかしくなり始めたのは、翔太郎が「今回の合宿ではチームを組むのは控えよう」と言ったあの時からだった。


 玲奈の表情が、ふと脳裏に蘇る。

 静かで、凍りついたような声。

 まるで鎖を巻くように握ってきた腕。

 あれは、明らかにいつもの玲奈じゃなかった。


「やっぱり、アレがまずかったのかなぁ……」


 苦笑しながら髪をかく。

 あの言い方じゃ、どう聞いても“玲奈より他の誰かと組みたい”って取られてもおかしくない。


 彼女の立場を思えば、尚更だ。


 玲奈は表向きクールで完璧に見えるが、実際は不器用で、心を許す相手が限られている。

 彼女が遠慮なく話せる相手なんて、未だに翔太郎ぐらいのものだ。


 だから──もしかしたら、彼が一歩引いたその瞬間、玲奈は自分を見失いかけたのかもしれない。


「……いや、考えすぎか」


 そう言いながらも、頭のどこかであの冷気を思い出す。


 砂浜を凍らせた玲奈の異能。

 玲奈本人ですら気付いていない能力の暴発。

 あれは、彼女の無意識の感情が漏れ出したように思えた。


 翔太郎は、胸の奥に小さなざらつきを残したまま、息を吐いた。


 その時、ガチャッという音と共にドアが開いた。


「翔太郎、先に戻っていたのか」


「あ、涼介か。お疲れ」


 ドアを開けて入ってきた風祭涼介は、軽く手を振って部屋に入ってくる。

 髪は少し濡れており、シャワーを浴びたばかりのようだった。


「お疲れ。そう言えば、クラスメイトの一人から聞いたよ。今日のサンドビーチ・バレー、全てのペアの中で一番最初に五連勝達成だって?」


「まぁ……俺がっていうよりは、ほとんど玲奈が頑張っただけだけどな」


「僕は今回、海中索敵訓練シー・トレースに出ていたから現場は見てなかったんだけど、ビーチバレーに行っていた生徒たちからは、氷嶺のスパイクの話で持ちきりだ」


「……うん。なんか、今日の玲奈は特に集中してたっていうか、カッコよかったし凄かったよ」


 翔太郎は少し言葉を探すように視線を落とす。

 彼女の動きには、単なるやる気や根性だけじゃない、“何か”があった気がする。

 それをうまく言葉にできず、彼は曖昧に笑った。


「やっぱりチーム戦の課題、氷嶺と組んだんだね?」


「組んだというか、組まされたというか……。周りの目もあったし、今回はチーム組むのは控えようって言ったんだけど」


「まぁ、他の生徒も基本的にはパートナーをそのまま選択してるみたいだしね。氷嶺はその辺、気にしないタイプだろうし」


「そうだな。けど……正直、組んでる俺でもちょっと驚いたよ。玲奈って、改めて見ると凄いやつなんだな」


「ははっ、おかしな話だね。彼女は去年からずっとあんな感じだよ」


「去年の玲奈?」


 涼介はベッドの端に腰を下ろし、タオルで髪を拭きながら続けた。


「そういえば、君は今年からの転入生だったね。彼女は一人で何でも出来てしまう、それ故に誰にも近付こうとしないし、自分から笑いかけもしない氷の女王。それが1年生の時の氷嶺玲奈だった」


「……そう、なんだ」


「彼女が十傑でも末席なのは、恐らく団体競技での協調性の無さを加味された結果だろう。個人能力で言えば、上位の先輩たちにすら匹敵すると僕は思ってるよ」


 翔太郎は、少しの間、何も言えなかった。


 ──“去年の玲奈”。

 それは自分の知らない玲奈だ。

 彼が知っている最も古い玲奈は、ほんの3ヶ月前、桜が咲いていた季節の彼女だけ。


 完璧な家柄に、誰もが認める才能と美貌。

 けれど、その裏で、どこか不自由そうに日々を過ごす少女だった。


 兄の言いつけを人形のように守り続け、誰にも心を開かずに一人で閉じこもっていた。

 だが、少し接してみると、本心では誰かと触れ合いたいと願う普通の女の子である事に気付いた。


 ゆえに翔太郎に懐く速度も尋常ではなかったし、クラスメイトの女子たちとも打ち解け始めていることから、涼介や他の生徒たちの言う去年の彼女がいまいちイメージ出来ない。


「……俺も、玲奈のこと全部知ってる訳じゃなかったんだな」


「いや、むしろ君は相当凄い方だと思うよ」


 涼介は苦笑しながら、ベッドの上で髪を拭いた。


「それこそ、氷嶺玲奈がパートナーを組むって電子生徒手帳に表示されたあの日、零凰学園中が驚いたんだ」


「それはなんとなく知ってるよ。知らない人たちからすごい見られたし、高城の舎弟みたいな奴らに問い詰められたし……」


「普通に気になるんだけど、君はどうやって、あの氷嶺とパートナーを組んだんだ?」


「うーん……」


 翔太郎は天井を見上げて、少し考えるように間を置いた。


 ──この質問も、何度目になるだろうか?

 特に五月頃は、クラスメイトから上級生まで質問攻めだった。


 どうやって氷嶺さんと組んだんですか?

 氷嶺と、どんな関係なんだ?

 もしかして付き合ってる、とか?


 ──あまりに、聞き飽きるほどに。


「普通に俺と組んで欲しいって言っただけだよ」


「……嘘だね」


 即答だった。

 涼介は片眉を上げて、探るような目を向ける。


「氷嶺の性格を考えたら、ただのお願いで頷くわけがない。一年の頃、彼女は誰からでも、あらゆる誘いを断ってた。チーム戦でも、常に単独行動だったんだ」


「……」


「僕の推測だと──君が彼女を助けた。何らかの事件か問題で。それで氷嶺が恩義を感じて、パートナーを承諾した。……そんなところかな?」


 大正解だった。

 翔太郎は、わずかに視線を逸らす。

 だが氷嶺家の事情を、軽々しく口にできるわけもない。


「詳細は話せない。っていうか、話したくない」


 そう言って、苦笑を浮かべた。


「とにかく俺の方からお願いして、玲奈が頷いてくれた──それが全部だよ」


「なるほど。了解」


 涼介はそれ以上は踏み込まず、軽く頷いた。


「すまない。詮索するような真似をして悪かった」


「いや、大丈夫。こっちこそ変に濁して悪い。やっぱり涼介も、玲奈の動向ってのは気になるものなのか?」


「僕にはリルカがいるけど、氷嶺とパートナーを組むというのは、割と一般的な男子生徒の憧れでもあったからね。特に興味が無くても、周りからの話は常に耳に入るものさ。ただ──」


 涼介は言葉を区切り、じっと翔太郎の表情を見つめる。


「やっぱり気になるのは、氷嶺のことより君自身だよ、翔太郎」


「俺?」


「そう」


 涼介は口角を上げて、小さく笑った。


「二日目で合宿のポイントが五百点中百点。最速記録。普通なら浮かれてもいいはずなんだけど――君はずいぶん浮かない顔をしてるね」


 翔太郎は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 脳裏に浮かぶのは、夕暮れの浜辺で見た玲奈の横顔。

 あの笑顔の裏に潜んでいた、何かを押し殺すような強さ。

 それが、胸の奥に小さな棘のように残っていた。


「そう……かな」


「何かあったのか?」


「“あった”っていうほどじゃないけど……なんか、玲奈の様子がちょっと変だったんだよな。今日」


「変? バレーの話を聞く限り、絶好調だったように思えるけど」


「確かに、試合中はそうなんだけど……」


 翔太郎は、玲奈とチームを組むまでの経緯を順に語った。

 自分の「一緒のチームは控えたい」という発言、玲奈の表情の変化、そしてその後の異常なほどの集中ぶり。

 涼介は腕を組み、表情一つ変えずに最後まで聞き終えると──短く息をついた。


「うん、君が悪いね」


「……お、俺!?」


「うん。君」


 涼介は微笑しながらも、指先で机を軽く叩いた。


「ちょっと想像してごらん。もし君が氷嶺の立場で、彼女を信じてチームを組もうって言ったのに、相手から今回は遠慮したいって言われて……しかも、その直後に別の相手と組むかもなんて言葉を聞いたら?」


「……それは……正直、けっこうキツいな」


「だろう? 困るし、傷付く。君が言ったのは周囲からの目を気にした事でも、受け取る側からすれば選ばれなかったってことなんだよ」


 涼介は肩をすくめた。

 その言葉に、どこか実感のこもった温度があった。

 ──リルカとの付き合いの中で、こういう地雷を踏んだことがあるのだろう。


「女の子って、気丈に振る舞ってるように見えても、案外単純でいて繊細なんだ」


 涼介は軽く笑って続ける。


「特別に信頼してる相手には、必要とされたいだけなんだよ。多分、氷嶺も君にそういう気持ちを持ってたんだと思う」


「……」


「でもまあ、君の発言がきっかけで、彼女が奮起して、あの結果を叩き出したわけだ。結果的には……いい方向に転がった、って言ってもいいんじゃないかな?」


「それって、結果オーライってやつ?」


「そうだ」


 涼介は微笑みながら頷く。


「誰かを想って全力を出せるって、そう簡単にできることじゃない。君の一言が、彼女を本気にさせたんだとしたら、それ自体は悪いことじゃないよ」


「……フォローが上手いな、お前」


「経験則ってやつかな。リルカと付き合ってると、言葉一つで機嫌が変わることを何度も経験するんだよ。彼女は君に見ていて欲しいだけだったんじゃないかな」


 翔太郎は、少しだけ息をのんだ。

 涼介の言葉は穏やかだったが、妙に核心を突いていた。


「……“見てほしい”、か」


「うん。君が見てるって思えたから、氷嶺はあそこまで動けた。その全力は、間違いなく君に向けられたものだよ」


 涼介は、軽く笑って立ち上がる。


「君が悪いのは、それに気付いていないことだけさ」


 翔太郎は、苦笑を浮かべるしかなかった。

 ──けれどその言葉の中に、少しだけ救われるものがあった。


 瞼の裏に、玲奈の笑顔が浮かぶ。

 その笑顔が、どこか歪んで見えたのは、気のせいなのだろうか。




 ♢




 夜の帳が下り、ホテルの周囲は静まり返っていた。

 合宿地とはいえ、門限付近である為か、生徒の姿はほとんどない。

 遠くに波の音だけが、規則正しく響いている。


 翔太郎は、軽く羽織を着て外に出ていた。

 コンビニの袋を片手にぶら下げる目的──そのはずだった。

 だが実際のところ、頭の中を整理したかったのが本音だ。


「……こうして一人で夜道を歩くの、久しぶりだな」


 小さく独り言を漏らす。


 気が付けば、いつも隣に玲奈がいた。

 買い物袋を持って、当たり前のように並んで歩く姿が浮かぶ。

 彼女は翔太郎が外に出ると、どこへ行くにもついてきた。翔太郎が何か危ない事に巻き込まれないようにと言いながら、それが当然のように。


 家に帰れば、玲奈が先に食器を片付けていて、風呂も湧いていて、一人でアパートに彼女を置いて出る、なんてことはほとんどなかった。


 だからこそ、こうして独りで夜の風を受けるのは、妙に落ち着かない。


(……俺、いつの間にこんなに玲奈に慣れちまってたんだろうな)


 そんなことを考えながら、ホテル裏の小道を抜けたその時だった。


「……翔太郎?」


 振り向くと、薄い街灯の下に立っていたのは──アリシア・オールバーナーだった。

 月光を受けて、黄金の髪が静かに揺れている。


「アリシア」


「……もう門限近いけど、どこかに行くの?」


「そういうアリシアこそ、こんな遅い時間にどうしたんだよ」


「ここに行こうと思って」


 彼女のスマホには地図アプリが開いていて、指している場所はコンビニの位置だった。

 どうやらアリシアも目的地は、翔太郎と同じようであった。


「アリシアもコンビニか?」


「うん、散歩ついでに。翔太郎も?」


「まあな。気分転換ってやつだ」


 軽く笑って言うと、アリシアは口元を緩めた。

 以前なら、こういう言葉にも無愛想に反応を返さなかった彼女が、今はちゃんと会話を続けようとしている。

 それだけで、翔太郎はなんとなく嬉しくなった。


「そういえば、玲奈と心音は一緒じゃないのか?」


「二人は部屋で休んでる。今日は心音がB組の女子を何人か部屋に呼んでて、結構騒がしい」


 どうやら、アリシアはその騒がしい空気が嫌で出てきたらしい。


「えっ、それって玲奈は大丈夫なのか?」


「……分からない。玲奈にもそれとなくコンビニ行かないか誘ってみたけど、なんか断られた」


 アリシアの表情は若干シュンとしている。

 ゼクスの件以来、玲奈とアリシアの関係は良好である。最も、二人ともお互いに歩み寄る事をこの数ヶ月で思い知った結果とも言える。


「じゃあ、せっかくだし一緒に行くか?コンビニ」


 軽い調子で言う翔太郎に、アリシアは少しだけ眉をひそめる。


「……私と歩いてたら、また変な噂立ちそうじゃない? 翔太郎だって、知らないわけじゃないでしょ?」


「まぁ、知ってるけど大丈夫だって。噂を流してた元凶は昨日の夜にシメておいたから。もう誰も余計なこと言わないって」


「シメたって、拳で?」


「物理的じゃないって。話し合いだよ、話し合い」


 翔太郎が苦笑しながら頭をかくと、アリシアの口元に呆れたような笑みが浮かんだ。


「それとも、アリシアは俺と一緒は嫌か? そういうの気にしちゃうタイプだったり?」


 少し冗談めかして問いかけると、アリシアはわずかに肩をすくめ──


「…………別に、嫌じゃない」


 小さく答えた。

 その瞬間、彼女は視線を逸らし、髪の毛を耳にかける仕草をする。

 月明かりが頬を照らし、ほんのり赤く染まったように見えた。


「そっか」


 翔太郎は、思わずニッと笑う。

 それは無意識に浮かんだ、いつもの人懐っこい笑顔だった。


 アリシアはその笑顔を正面から見られず、少しだけうつむいたまま歩き出す。

 すれ違う夜風が、二人の距離をゆっくりと縮めていった。


「そういえば、今日の課題。翔太郎と玲奈のビーチバレーが話題になってた」


「話題に? 悪い意味で?」


「逆。玲奈が凄かったって。特に、最後のスパイクの連打。私はその場にはいなかったから知らないけど、夕食の時もその話で持ちきりだった」


「……だろうな。俺、隣で見ててボール見失ったもん」


 そう言いながら、翔太郎は肩をすくめた。

 その横顔に、アリシアは小さく笑みを浮かべる。

 彼女も昼の間、別の種目で注目を集めていた。


「アリシアの方も凄かったって聞いたけど。異能力測定試験スキルスコア・テスト、今日の一位だろ?」


 異能力測定試験スキルスコア・テストとは、五種目の一つで、専用装置に異能力をぶつけ、威力・制御・創造性などをAIが数値化するものになっている。


 純粋な異能力の強さを競う競技である為、学年でも圧倒的な火力を持つアリシアに優位な試験だ。


「うん。……でも、あれは個人競技の話だから。玲奈みたいにチーム戦じゃない」


「それでも十分すごいだろ。あ、もしかしてセカンドオリジンを使ったのか?」


「こんな課題でセカンドオリジンなんか使ったら、残りの合宿動けなくなるし、測定する機械を壊しかねない。普通にあの程度なら、炎の惑星(フラメンシュテルン)で事足りる」


「そっか……やっぱり普段のアリシアが凄かったって話だよな」


「……別に、褒められても何も出ないから」


 そう言いながらも、アリシアはわずかに頬を赤らめた。

 以前なら受け流していたはずの言葉に、照れるような反応を見せるのが、今の彼女らしい。


「あれからセカンドオリジンの訓練はしてるのか?」


「うん。せっかく解放できた力だし、オールバーナー邸で練習してる。一回火事になりかけて、ソルシェリアからは二度と庭でやるなって言われたけど」


「あー……まぁ、確かに家でやると危ないかもな」


「家以外でも危ないと思うけど」


 あの火力を思い出すと、ソルシェリアの気持ちも分からなくはない。

 七つの爆炎を操るあの力は、第五湾岸埠頭の最深部を丸ごと燃やし尽くすような威力である。


 今はまだ解放したばかりでコントロールが効いていないし、消耗も激しいが、完全に制御できればアリシアにとって凄まじい力になるだろう。


 しばらく無言で歩いたあと、アリシアがぽつりと呟いた。


「……それにしても、玲奈。ちょっと変だった」


「変?」


「うん。部屋に戻ってから、ずっと私のこと見てるの。声をかけたら普通に返事はするけど、なんか……視線が怖いっていうか」


 翔太郎は一瞬、言葉に詰まった。

 あまりに思い当たる節がありすぎたのだ。


「あー……それ、もしかして……俺のせいかも」


 自嘲気味に笑いながら頭をかく翔太郎に、アリシアは半眼で見上げる。


「どういう意味?」


「いや、ちょっとした行き違いっていうかさ。今日のチーム決めの時に、今回は俺と玲奈が組むのは控えようって言っちゃって。で、他に誰と組むのか聞かれたから──咄嗟にアリシアの名前を出したんだよな」


「……なんで、私の名前を出したの?」


 その問いに、翔太郎は少し視線を泳がせてから、真っ直ぐに答えた。


「パッと頭に浮かんだ中で、玲奈以外に頼れそうなのがアリシアしかいなかったっていうか。……一番に思い浮かんだから?」


 夜風が、ふっと二人の間を通り抜ける。

 その言葉を受けた瞬間、アリシアは足を止めた。


「……」


 ほんの一拍の沈黙。

 街灯の下、彼女の髪が風に流れ、金糸のように揺れる。


 表情は見えない。

 けれど、わずかに肩が震えた気がした。


 やがて、アリシアは俯いたまま、自分の髪を指先で整える。その仕草は、いつもの落ち着いた彼女とは少し違っていた。頬にかかった髪の影に隠れるように、唇がわずかに動く。


(……私の名前が、一番に浮かんだ)


 小さく息を吐いて、心臓の鼓動をなだめるように胸の前で腕を組む。

 翔太郎はそれに気づくこともなく、困ったように笑っていた。


「ほんとごめん、アリシアを巻き込むつもりはなかったんだけどさ」


 その言葉に、アリシアはようやく顔を上げた。

 表情はすでに落ち着きを取り戻している。

 けれど、その瞳の奥に宿る光は、どこか柔らかい。


「……それで玲奈、張り切ってたってこと?」


「結果的にそうなった、かもな」


「ほんと、翔太郎って……」


 呆れたようにため息をつきながらも、その声は少しだけ優しい。


 玲奈の気持ちも分かる。

 自分だって、今の一言で心が浮き立ったのだから。


(玲奈が怒るのも……無理ないか)


 アリシアはそんな独り言を飲み込み、そっと笑う。

 その笑みは、夜の街灯よりも淡く、けれどどこか温かかった。


 そうして話しているうちに、コンビニの明かりが見えてくる。

 静まり返った夜の中で、ガラス越しの白い光だけがやけに暖かく感じられた。


「着いた」


「アリシアは何を買うんだ?」


「アイス。お風呂上がりに食べたくなって」


「奇遇だな。俺もアイス買いに来たんだ。……ついでにホットスナックも」


「夜に揚げ物? 翔太郎、絶対太る」


「やっぱ女子ってそういうの気にするんだな」


「当たり前でしょ。私は身長も高くないし、ちょっと油断したらすぐバランス崩れる」


「へぇ、そういうもんなんだ。アイスは食べるのに?」


「アイスは別腹。故にゼロカロリー」


「ゼロカロリーでは無くないか……?」


 特に食事制限とかをした覚えがない翔太郎。

 正直、食べる量以上に普段から動きまくってるので贅肉が付かないというのが理由である。


 それに普段から、食事管理に関しては完全に玲奈に依存しつつあり、彼女の作る栄養に配慮された上に味付けも抜群な料理を食べている為、特にダイエットに困った覚えはない。


「俺はカロリー気にするぐらいだったら、満足感ある食べ方をしたいんだよな。なんか、昔から太ったことないし」


「そういうの……ダイエットに困ってる女子が聞いたら怒ると思う」


「やっぱり怒る?」


「間違いなく」


 ふっと、二人の間に小さな笑いが生まれる。

 店内にはポップなBGMが流れ、外の静けさとは対照的だった。


 翔太郎はホットスナックのコーナーでチキンを選び、アリシアはアイスケースの前でしゃがみ込む。

 冷気の中、真剣な表情で並んだパッケージを見比べる彼女に、翔太郎は呆れたように言った。


「そんなに真剣に選ぶ?」


「この時間に食べるアイスは特別なの。失敗したくないから」


「なるほど、さすがお嬢様だな。こだわりが強い」


「……バカにしてるでしょ」


「いや、わりと同意してる」


 会計を済ませ、外へ出ると潮風が頬を撫でた。

 夏の夜気はまだ少し湿っているが、海沿い特有の塩の香りが心地いい。


 コンビニのすぐ隣には、小さな公園があった。

 錆びかけたブランコと、丸い街灯が一つ。

 夜の静けさが、まるで世界に二人だけを残したように包み込んでいた。


「寄ってく?」


「うん。……ちょっとだけ」


 二人は並んでブランコに腰を下ろす。

 チェーンが軋む音が、夜の海風と溶け合った。


 翔太郎はチキンをかじり、アリシアはアイスの蓋を開ける。

 白いスプーンで一口すくい、冷たさに少しだけ目を細めた。


「こうして買い食いして食べるの、なんかすごい久しぶりな気がする」


「私も。……こういう時間、悪くない」


 アリシアは淡々とそう言いながらも、頬がほんのり緩んでいる。

 夜空には星が滲み、波の音が遠くで一定のリズムを刻んでいた。


 少しの沈黙のあと、アリシアが口を開く。


「玲奈のこと、どうするの?」


「うーん、明日謝ろうかな。多分、俺の言い方が悪かった」


「……それがいいと思う。あの子、翔太郎のことになると、ちょっと不器用だから」


「そうだな。……まぁ、俺も似たようなもんだ」


「それは否定しない」


 アリシアの口調は穏やかで、どこか楽しげだった。

 ブランコの鎖がわずかに鳴り、二人の影がゆらりと揺れる。


 風が通り抜けるたび、アリシアの髪が月光を受けて煌めく。

 翔太郎はその光景を、ただ静かに眺めていた。


「……」


 アリシアは、よく笑うようになった。

 前はいつも無表情で、無愛想な態度から、何を考えているのかわからなかったのに。

 今は、こうしてブランコに揺られながら、アイスを食べて笑っている。

 出会った頃には考えられなかった姿だ。


「……何?」


 翔太郎の視線に気付いたのか、アリシアが首を傾げる。


「いや、なんていうか……変わったなって思って」


「私が?」


「うん」


 アリシアは少しだけ黙り込んだ。

 視線を落とし、ブランコの鎖を指でつまむ。

 夜の公園に、遠くの街灯の光が淡く滲む。


「……私自身では、多分何も変わらなかった。もし昔の私と違うように見えるなら、それは──翔太郎、きっと貴方が変えてくれたからだと思う」


 翔太郎は目を瞬かせた。

 アリシアの声は淡々としていたが、その奥に確かな温度があった。


「俺って、そんなにアリシアの力になってたか?」


 彼が苦笑混じりに言うと、アリシアは静かに頷いた。


「ゼクスや四季条のこと、覚えてるでしょ?」


「……」


「翔太郎がゼクスを倒してくれた時、翔太郎が四季条に殺されそうになった私を助けてくれた時、ようやく私も前を向いて戦おうって思えた。それに……次の日のことも、ね」


「えっと……土砂降りの時の出来事か?」


 アリシアは小さく笑った。


「“アリシアは帰ってきていいんだよ”って言ってくれたの、覚えてる?」


 翔太郎はほんの少し視線を逸らし、懐かしむように息を吐いた。

 そして、真っ直ぐアリシアを見つめる。


「覚えてるよ。忘れるわけがない」


「あの時は、結構強引だなとか思いつつもね、自分の頭が意固地になってた事にも気付かされたの」


「俺はあの時も、今も──アリシアの居場所はみんなのいる場所にあるって、本気で思ってる。どれだけ遠回りしても、帰る場所があるってことを忘れないでほしいんだ」


「……うん。分かってる」


 一瞬、アリシアの喉が詰まる。

 胸の奥がじんわりと熱くなり、目を逸らした。

 その瞳の端に、月の光が滲んでいた。


「私にとっては──あれが、救いだったから」


 翔太郎は何も言わず、ただ柔らかく頷いた。

 彼女のその言葉の重さを、誰よりも知っていたから。


 しばらくの沈黙ののち、アリシアが静かに口を開く。


「……この前ね、初めてカレンのお墓参りに行ったの。元々、あの施設の犠牲者のお墓はドイツにあったから、日本に移して」


「一応、どうだったか聞いてもいいか?」


 翔太郎は思わず、息を呑む。

 アリシアの親友にして、ゼクスに人生を歪められ、翻弄され、あらゆる尊厳を奪われた少女。


 その名前を、あの事件以来、彼女が自ら口にする日が来るとは思っていなかった。


「私、あの時にやっと……ちゃんとお別れできた気がしたの。ちゃんと、カレンにさようならって」


「お別れ、か」


「カレンを焼いたことは今でも忘れない。いや、きっと死ぬまで忘れないと思う。それが、私の罪だから」


「いや、それは……」


「ううん、いいの」


 思わず否定しかけた翔太郎の言葉を、アリシアが手で制した。


「……カレンへの償いのためにも、夜空の革命を終わらせる。私が救えなかった人たち以上に、救える人がいると思うから」


 その仕草は、静かで、でもどこか切実だった。


「お墓参りが自己満足だっていうのも、分かってる。死んだらそれで終わり。私の言葉は、きっともうカレンには届いてない。……やっぱり、私は間違ってる?」


 翔太郎は、少しだけ目を伏せた。

 その声の震えを聞き逃さないまま、静かに言葉を紡ぐ。


「間違ってなんかないよ。誰かを想い続けることに、正解も不正解もない。たとえ届かなくても、アリシアがカレンを想って生きてるなら──それだけでも、あの子は少し報われると思う」


 アリシアの肩が、わずかに震えた。

 その震えを包み込むように、翔太郎は柔らかく笑う。


「それにさ、夜空の革命のことだって、アリシアがもう一人で背負う必要なんかないよ。これから先、何があっても俺は味方でいる。理由とか義務とか、そういうのじゃなくて──ただ、友達だから」


 翔太郎はアリシアの横顔を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 ようやく、彼女は前を向けたのだ。

 それが何よりも嬉しかった。


「だから、今度は俺も一緒にカレンの墓参りに行くよ。アリシアが誰かを救うって決めたなら、もう一人で背負わせるような真似はさせないからさ」


 一瞬、風の音だけが響いた。

 アリシアは顔を伏せ、唇を噛みしめる。

 こみ上げるものを必死に押し殺しながら、絞り出すように声を返した。


「翔太郎……」


 名前を呼ぶ声が、かすかに震える。

 彼女はほんの一瞬、顔を伏せた。

 そして、顔を上げたときには、頬が淡く朱に染まっていた。


「……改めてだけど、ありがとう。私を助けてくれて。貴方がいてくれてよかった」


 夜風が通り抜ける。

 ブランコの鎖がわずかに軋む音が、二人の沈黙を優しく埋めていった。


 翔太郎は笑いながら立ち上がる。


「そろそろ帰るか。もう門限ギリギリだし」


「うん。……ゴミ、捨ててくる」


 アリシアは自分と翔太郎のアイスのゴミをまとめて受け取ると、軽く手を振って背を向けた。

 月光に照らされた黄金の髪が、夜風にふわりと揺れる。


 その姿はまるで、夏の夜空に溶け込む蛍のようで──翔太郎は思わず、息を呑んだ。

 けれど、次の瞬間には無意識に声を張り上げていた。


「──アリシア!」


 足を止め、振り返った彼女の瞳に、月明かりが柔らかく反射する。


 翔太郎は笑った。

 気取ったところなんて一つもない、けれどどこまでも優しくて、真っ直ぐな笑みだった。


「なんかあったら、いつでも言えよ! 俺たち、もうとっくに友達なんだからな!」


 その言葉は、まるで真冬の風の中に差し込む陽光みたいに、アリシアの胸の奥まで届いた。


 心が、少し痛くなるくらい温かい。

 込み上げるものを堪えるように、笑みを浮かべた。


「……うん。分かってる」


 震えそうな声を、どうにか押し殺して。

 それでも、頬が熱くなるのを止められなかった。

 翔太郎の顔がぼやけて見えるのは、夜風のせいじゃない。


「私も翔太郎のこと、もうとっくに、大事な人だって思ってるから!」


 その笑顔は、かつての冷たい無表情ではなかった。

 痛みも、悲しみも、全部抱えた上で、ようやく見つけた生きている笑顔。

 それを見た翔太郎は、どこか安堵するように、静かに息を吐いた。


 ──よかった。

 ようやく、アリシアがちゃんと笑えるようになった。


 彼女はもう、過去の中にいない。

 それでも──その笑顔を、二度と曇らせたくないと思ってしまった自分に、翔太郎は小さく目を細めた。


 月が、二人の影を静かに包み込む。

 夜の空気が、少しだけ優しく感じられた。

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