第三章8 『海風の吹く街』
本当に、まずいことになった。
というより──これはもう、完全に誤解を招く状況だった。
バスの中は、ざわざわとした声に包まれている。
動揺を押し殺すような囁きや、ちらりと視線を送る者。
何が起きているのか分からない生徒もいるだろうが、少なくともこの車内で最も居心地が悪いのは、鳴神翔太郎ただ一人だった。
「……ぐっすり寝てるし」
隣に座るアリシアは、穏やかな寝息を立てていた。
その端正な横顔はどこか幼げで、普段の無表情で無愛想な印象からは想像もつかないほど無防備だった。
しかも──その頭は、しっかりと翔太郎の肩に寄りかかっている。
♦︎
事の発端は、約三十分前に遡る。
高速道路の中ほどで渋滞に巻き込まれたのだ。
高速道路の真ん中で、バスは完全に停止していた。
前方にはずらりと並ぶブレーキランプ。
エンジン音だけが低く響き、車内には退屈そうな空気が漂っていた。
「今、ネットニュースで見てたら、この先で異能力者が暴れて、警察が対応してんだってさ」
「……到着まで、時間かかりそう」
「まったく、街中で異能力使うなんてどうかしてるよな」
原因は、道路脇の休憩エリア付近で異能力者事件が発生したらしく、警察と対能力者部隊が一時的に通行を封鎖しているという。
窓の外には、赤いランプを点滅させたパトカーが何台も並び、遠くにはうっすらと黒煙が上がっていた。
「私の……海鮮丼が……」
アリシアが、絶望したように呟いた。
刻一刻と進む電子時計を見つめ、その深紅の瞳がうっすらと陰る。
「か、海鮮丼?」
「……今日の昼食に決めてた。楽しみにしてたのに」
どこか本気で落ち込むアリシアに、翔太郎は思わず笑ってしまった。
「なんだよ。実際、めっちゃ合宿楽しみにしてたんじゃん」
「今日、朝バタバタしてて……紅茶しか飲んでないの」
「あー、単純にお腹減ってるのね」
「まぁ、そうとも言えるかも……」
「俺のじゃがりこ食べる? みんなが乗ってるバスの中で、デカい腹の音鳴ったら恥ずかしいでしょ?」
「翔太郎にはデリカシーとか無いの?」
冷たい目線が突き刺さる。
だがその割に、アリシアの指先はじっと菓子の筒を見つめていた。
「……ちなみに何味?」
「じゃがバター」
「一本だけ貰う」
「結局食べるのかよ」
そんなやり取りが、退屈な渋滞の中でちょっとした救いになっていた。
バスの中では、他の生徒たちもゲームをしたり、動画を見たり、それぞれ暇を潰している。
翔太郎はスマホをちらりと見て、ため息をついた。
予定よりすでに四十分の遅れである。
この調子では、宿舎に着くのは昼を過ぎるだろう。
そんな中、アリシアは珍しく、少し眠たそうに瞬きをしていた。
普段の彼女なら、どれだけ移動が長くても本を読んで過ごすはずなのに。
「朝バタバタしてたって言ってたけど、オールバーナー邸で何かあったのか?」
「何かっていうか……寝不足」
「寝不足になるぐらい楽しみだったのか? いや、それって遠足前の小学生じゃ……」
「そういうベタなヤツじゃない。原因は私じゃなくて、ソルシェリアにある」
「ソルシェリアが?」
ソルシェリアとは、元人間の魂が宿った人形だ。
オールバーナー邸の番人を名乗り、えらく陽気で毒舌、お喋りな彼女に、アリシアが辟易とさせられる場面を何度も見てきた。
5月中旬にゼクスとカレンを追っていた一連の事件では、捕縛チームにおけるムードメーカーとサポーターの役割をこなしており、なんやかんや翔太郎にとっても大切な仲間の一人でもある。
その名前を聞いて、翔太郎は納得したように頷いた。
「また何か言い出したのか?」
「ソルシェリアが、夜中に騒ぎ出して……。『アタシも合宿行く!』って聞かなくて、結局、説得するのに二時間かかった」
「あー……それは、御愁傷様です」
翔太郎は思わず苦笑した。
あの人形の口喧嘩を想像するだけで、容易に光景が浮かんでくる。
どう考えてもアリシアの方が大変そうだった。
「てか急に喋る人形を見たら、みんなパニックになるだろ。あいつ、どうやって来るつもりだったんだ?」
「私の荷物の中に紛れるとか言ってた」
「何それ、軽くホラーじゃん」
「当然、朝行く前もフレデリカに全部チェックさせて、忍び込む隙は与えなかったけど」
「あいつ……」
翔太郎は苦笑しながら頭をかく。
ソルシェリアの騒動は想像以上に根が深そうだった。
そんな中、隣のアリシアは──目を擦りながら、ふわぁっと小さくあくびをした。
「……何?」
「いや、アリシアが大きな口開けてあくびしてるの珍しいなって思っ────いだっ!?」
鋭い音が鳴った。
彼女の指が、翔太郎の額を正確に撃ち抜く。
「人のあくびを観察しないでくれる?」
「観察っていうか、ちょっと物珍しかっただけだって」
「それはそれで失礼」
淡々としたツッコミ。
頬を押さえて呻く翔太郎を、アリシアはじと目で見つめる。
けれどその目も、どこか眠たげで──まぶたが少しずつ落ちていく。
「じゃあ、少し寝てなよ。着くの遅れそうだし」
「……ん。じゃあ、少しだけ」
そう言って彼女は窓にもたれかかるように目を閉じた。
そう言って、アリシアは窓にもたれながら目を閉じた。
本気でソルシェリアに睡眠を妨げられていたのか、あっという間に寝息を立て始める。
その静けさに、翔太郎は小さく息をついた。
(……寝るの早いな。そんなに疲れてたのか?)
窓の外では渋滞がようやく動き始め、バスはゆっくりと走り出す。
♦︎
ここまでは良かった。
静かな車内。
外の渋滞も徐々に動き始め、ようやくバスが再び走り出した。
「……」
心地よい揺れに身を委ねながら、翔太郎もぼんやりと外を眺めていた──が。
カーブに差しかかった瞬間、車体がぐらりと大きく揺れた。
「うおっ……!」
その反動で、アリシアの身体がふわりと傾く。
彼女の頭が、翔太郎の肩にすとんと落ちた。
「お、おい。アリシア?」
軽い衝撃と共に、彼女の金髪が頬に触れる。
さらりとした感触。
ふわりと薔薇のような香りが鼻をかすめた。
甘くて、でも清潔感のある香り。
それが、予想外に近い距離から漂ってくる。
「ちょっ……!?」
翔太郎は固まった。
心臓が一拍、妙なリズムを刻む。
視線を逸らそうにも、少しでも動けば彼女の頭が揺れてしまいそうで、動けない。
ほんの数センチ先で、アリシアの長い睫毛が小さく震えた。
寝息に合わせて唇が微かに動く。
いつもの冷ややかな表情が消え、幼さすら感じさせる穏やかな寝顔。
そのあまりの無防備さに、翔太郎の胸が不意に高鳴った。
「お、おーい……アリシアー?」
無論、返事はない。
バスのエンジン音と、アリシアの静かな寝息だけが耳に残る。
──近い。
なんだこれ、距離感が狂う。
視線を逸らすことも、呼吸を整えることもできない。
(いやいやいや、落ち着け俺)
けれど、そんな翔太郎の焦りとは裏腹に──車内がざわつき始めていた。
明らかに挙動不審な彼の様子は、周囲から見ても十分に目立っていたのだ。
「なぁ、見ろよ……あそこの推薦生の隣……」
「うわ、第九席じゃん。なんか肩借りて寝てるし」
「え、あのオールバーナーが!?」
「まさかあの二人ってそうなの……?」
「でも、鳴神って氷嶺と噂出てるんじゃ──」
囁き声が、あちこちから聞こえる。
こそこそとスマホを向ける者、怪訝な顔をしながらこちらの様子を伺う者。
普段、他人との距離を置き、近寄り難い十傑の第九席が、推薦生の鳴神翔太郎の肩に寄り添って眠っている──それだけで十分に話題性があった。
翔太郎は冷や汗をかきながら前を向く。
説明のしようがない。
よりによって玲奈と付き合ってるという根拠のない噂まである彼が、今度はアリシアと密着しているのだから、火に油を注ぐようなものだった。
(やばい……完全に誤解される……!)
一方でアリシア本人は、夢の中。
普段は決して見せないほど無防備に、穏やかな寝顔を晒していた。
頬の上にかかる髪をそっと直してやろうとして──翔太郎は手を止める。
その寝顔が、あまりにも綺麗だったから。
冷たいはずの印象が、柔らかく溶けるように優しく見えた。
緊張と混乱で、頭の中が真っ白になりかけた、その時だった。
「──っ!?」
ゾクリと、背筋に冷たいものが走る。
背後から、凄まじく凍てつくような視線を感じた。
振り向かなくても分かる。
この殺気混じりの温度。
よく知った者の気配だ。
(──やべ、玲奈がこっちガン見してる)
振り向くのが怖くて出来ないが、後方から極寒の視線が、翔太郎に向けられていることだけは分かる。
動揺のあまり、翔太郎は咄嗟にアリシアの頭を持ち上げようとした。
だが、指先が彼女の髪に触れた瞬間──
「ん、んぅ……」
アリシアが小さく身じろぎした。
眉をわずかに寄せ、寝言のように何かを呟く。
その仕草が妙に可愛らしくて、翔太郎は再び固まる。
「……ぐっすり寝てるし」
動かせない。
動かしたらそれはそれで怒られそうだし、これ程までに穏やかな寝顔を見せられたら、起こせる訳が無かった。
バスは静かに走り続ける。
ざわめき、冷たい視線、そして肩にかかる重み。
すべてが混ざり合いながら、翔太郎はただ固まっていた。
外では、朝焼けが街の輪郭を照らし始めていた。
──この瞬間ほど、早く目的地に着いてくれと願ったことはない。
♢
周囲から注がれる視線を浴びながらも、バスはなんとか高速道路を抜け、ようやく三浦半島・蒼岬エリアの入口へと差しかかった。
海の気配がぐっと濃くなる。
トンネルを抜けた瞬間、窓の外に光が弾けた。
穏やかな蒼色の湾──その向こうに、白い建物の群れが見える。
海水浴場の砂浜、波止場に並ぶ漁船、そして崖上には教会らしき建物の尖塔が小さく見えた。
バスの車内に、ざわめきが戻る。
長時間の移動の疲労と、海風の香りが混じった空気の中で、
翔太郎は未だ肩にかかる重みを感じていた。
アリシアの金髪が、陽光に淡くきらめく。
彼女はまだ眠っている。
──いや、さっきよりも僅かに動いた。
「んみゅ……」
かすかな寝言のような声。
アリシアが、ゆっくりと顔を上げた。
半分寝ぼけたまま瞬きを繰り返し、ぼんやりと外の光を見つめている。
「おはよう、アリシア」
「……ん。着いたの?」
「蒼岬の入口だ。集合場所のホテルまでは、あと二十分くらいだな」
「あぁ……そう」
アリシアはまだ眠たげに髪をかき上げながら、姿勢を整える。
寝癖のせいで、金の髪がふわりと跳ねていた。
そのまま何となく周囲を見渡し──そして、自分の体勢を確認した瞬間。
「っ……え、えっ……!」
みるみる頬が赤く染まり、耳まで真っ赤と化す。
寝起きのふにゃっとした表情が一瞬で吹き飛び、代わりに信じられないほど慌てた顔になった。
「ま、待って。私ずっと、翔太郎の肩で?」
翔太郎は気まずさを誤魔化すように苦笑する。
「まあ、結構ぐっすりだったな。寝相も、なかなか大胆で」
「だ、だいたんっ──!?」
「俺の肩、そんな寝心地良かったか?」
軽口のつもりだった。
けれど、アリシアの反応は予想以上だった。
真っ赤な顔で両手を頬に当て、視線を逸らす。
「……っ、もう、信じられない……! なんで起こしてくれなかったの……!」
「いや、起こしたら悪いかなって思ってさ。めちゃくちゃ気持ち良さそうに寝てたし」
アリシアは顔を覆って、指の隙間からじとっと翔太郎を睨んだ。
その耳まで真っ赤な様子が、余計にからかい甲斐があった。
「ち、違う! その……寝不足で、たまたま……!」
「あ、アリシア。ほら、起きたんなら姿勢戻して。そろそろ停まるから」
「う、うん……」
窓の外では、蒼い海と白い街並みが近づいてくる。
バスはやがて坂を下り、蒼岬の町並みの中へと入っていった。
♢
バスが停まった瞬間、むわりとした夏の空気に、ほんのり塩の匂いが混じり、熱気と潮風が一気に流れ込んできた。
目の前には、白い外壁が眩しいリゾートホテル──背後には海水浴場の砂浜が広がっている。
波の音と、他のバスから降りる生徒たちの喧騒が入り混じって、夏らしいざわめきが辺りを包んでいた。
「うわ、あっつ……」
翔太郎はキャリーケースを引きずりながら一歩外に出る。
すぐ隣では、アリシアが軽く伸びをしてから荷物を持ち上げた。
寝起きのせいか、まだ少し頬が赤い。
だが──彼と目が合った瞬間、ぴくりと動きを止めた。
「なぁ、アリシアは────」
「……っ!」
視線を逸らす。
それどころか、まるで何かから逃げるように小走りで立ち去っていく。
「わ……私、心音のところ行ってくるから。またね翔太郎」
「え? ……あー、うん。またな」
そう言い残し、キャリーケースを転がしながら別のバスへと消えた。
残された翔太郎は、呆然としたまま立ち尽くす。
(……いや、今、完全に避けられたよな?)
思わず苦笑いが漏れる。
あれだけ肩でぐっすり寝てたのに、起きてからあまり話せてない。
アリシアの恥じらいであると分かっているが、反応があからさま過ぎて逆に傷つく。
「……ちょっと悲しいんだけど」
そんな独り言を零していると、玲奈を含むA組女子たちが、談笑しながら次々とバスから降りてくる。
皆、海風を受けて髪を揺らしながら、楽しげな声を上げていた。
その中心で、玲奈はにこやかに微笑んでいる。
笑顔で話し、時折頷きながら女子たちと並んで歩く姿は、どこか眩しいほど自然で──翔太郎は、ほっと胸を撫で下ろした。
(……良かった。玲奈、ちゃんとクラスの輪に入れてるみたいだな)
当初は、翔太郎の隣に座ることを理由に他の女子たちの誘いを断ろうとしていた玲奈。
だが、あえて席を別にしたのは正解だった。
彼女が自分以外の生徒ともしっかり笑っているのを見て、翔太郎は思わずほっと息をつく。
──だが。
その安堵は、ほんの一瞬で凍りつくことになる。
「あ、氷嶺さん。鳴神くんだよ」
「オールバーナーさんとは一緒じゃないみたい」
「……そうみたいですね」
玲奈たちの一団が、こちらを見た。
一瞬で、空気が変わる。
先ほどまで楽しげに談笑していた女子たちの目が──どこか冷たい。
まるで「裏切り者でも見るような」あの独特の女子特有の圧。
軽蔑と警戒、そしてどこか守るべき玲奈への忠誠心のようなものが混ざり合っていた。
(え、何だ……? 俺、何かしたか……?)
翔太郎は戸惑う。
だが、その理由は明白だった。
今やA組女子の間で玲奈は、近寄り難い氷の女王ではなく、親しみやすいクラスの憧れの的。
そんな玲奈の“パートナー”である翔太郎が──よりによって、同じ十傑のアリシアとバスの中で肩を貸して寝かせていれば、反感を買うのも当然だ。
ただし、翔太郎本人にはその自覚が無い。
その時だった。
中心にいた玲奈と、目が合った。
「──っ」
息が止まる。
玲奈の青い瞳は氷のように澄み切っていて、そこに温度がない。
ただ、絶対零度の光だけが翔太郎の胸を貫いた。
(お、おぉい……玲奈さん?)
心臓が小さく悲鳴を上げる。
だが次の瞬間、玲奈は何事もなかったかのように視線を逸らし、隣の女子へと柔らかく微笑んだ。
「何か知らないけど、怖いな……」
その笑顔は──完璧だった。
まるで舞台女優のように、自然で、作り物のように美しい。
彼女の隣にいる女子たちも、最初から何も起きていなかったかのように、同じように微笑んで談笑を続ける。
「そういえば、現地に到着したらホテルの部屋番号と同室者が確認できるんだっけか?」
翔太郎は手にした電子生徒手帳を操作し、自分の部屋番号を確認した。
だが、画面に表示された名前を見た瞬間──指が止まった。
「……は?」
画面には、はっきりとこう表示されていた。
【蒼岬海浜リゾートホテル 1102号室】
・鳴神翔太郎、影山龍樹、風祭涼介
「──ちょ、嘘だろ!?」
思わず声が漏れた。
一瞬、何かのバグかと思って再読み込みするが、結果は変わらない。
(風祭と影山……!? いや、よりによって、何でその組み合わせ!?)
まず、風祭涼介。
一度だけ話したことがあるが、背が高く整った容姿に知的な雰囲気を纏い、笑顔も爽やか。
十傑第八席でありながら、翔太郎に対しては敵意を見せず、むしろ友好的だった。
まだ何とかなるかと思える相手だ。
だが問題は、もう一人の方である。
影山龍樹。
十傑第六席で、零凰学園でも屈指の異能力者。
推薦生嫌いの彼にとって、翔太郎は、この学園で最も相性の悪い生徒の一人とも言える。
水橋が復学したとは言え、翔太郎に対して、未だに嫌悪感を隠そうともしていない。
「よりにもよって、十傑の二人と同部屋かよ……。風祭はともかく、影山って……」
寝ている間に何かされでもしたら。
その考えだけで、翔太郎の背筋は凍った。
どう考えても、この部屋割りは理不尽だ。
しかも自分はまだ、この二人とまともに会話できる保証もない。
(いや、無理だ……今回は本気で無理だ……!)
電子生徒手帳を握りしめ、小さく息をついた。
せめて心を落ち着けようと深呼吸するが、胸の奥の不安は収まらなかった。
──今日から数日、この部屋で過ごすのかと思うと、ただただ身震いするばかりだった。
「……翔太郎?」
「うわっ!?」
頭を抱えた瞬間、背後から静かな声がした。
思わず振り返ると、すぐ後ろに玲奈が立っていた。
いつもの様に、翔太郎に微笑みかけることはなく、今日の玲奈はバスに乗る前に比べて無表情だった。
なんか玲奈の表情が少し怖い。
「び、ビックリした……お前、音もなく近付くなよ……」
「声をかけようとしたら、頭を抱えてましたから」
「いや、頭抱えるってこれは」
翔太郎は電子生徒手帳を差し出す。
玲奈は画面を覗き込み、瞬時に内容を理解した。
「風祭くんと、影山くんと同室ですか?」
「ああ。よりにもよって十傑の二人と同部屋だ。なんか作為的な物を感じるな……」
翔太郎が肩をすくめると、玲奈も自分の部屋番号を確認しようと、電子生徒手帳をじっと見つめた。
その表情には驚愕と、少し考え込む様子が混ざっている。
「玲奈はどうだったんだ?」
「見た方が早いです」
【蒼岬海浜リゾートホテル 408号室】
・氷嶺玲奈、白椿心音、アリシア・オールバーナー
「私はどうやら、心音とアリシアと同部屋みたいですね」
「マジで!? 十傑の女子3人で固められてるのか?」
翔太郎が目を丸くする。
男子の十傑二人と同室で悶絶しかけていたのに、玲奈は女子三人でしっかり固められている。
その組み合わせは、明らかに学園側の“意図”が透けて見える。
「まさかとは思うけど、学園ランキング順で部屋割り決めてるとか無いよな?」
「学園ランキングで決めているのなら、1162位の翔太郎が、この二人と同部屋になる事はまずあり得ません。だとすると……」
玲奈はふと唇を引き結び、視線を少し宙に泳がせた。
「もしかしたら、前回のパートナー試験の順位で、部屋割りが組まされているのかもしれませんね」
「パートナー試験の順位?」
「はい。前回の試験結果を覚えていますか? 総合順位一位が私たち。二位が心音とアリシア。三位が風祭くんと天童さん、そして四位が影山くんです」
前回の試験結果を男女別で整理する。
男子は翔太郎が一位、涼介が二位で、影山が三位。
女子は玲奈が一位、心音とアリシアが同率二位。
「なるほどな。確かに、パートナー試験での総合順位で部屋を決めるとこうなるのか……」
翔太郎は思わず小さくため息をつく。
心音とアリシアとは違い、男子の十傑二人とは、完全に打ち解けていない。
特に影山との関係は、敵対心丸出しで一歩も譲らない状態だ。
その二人と同室で数日過ごすことを考えると、冷や汗が背筋を伝った。
対して玲奈と同じ心音とアリシアは共闘経験もあり、翔太郎が玲奈の立場なら、むしろ二人が同部屋でありがたいぐらいだ。
「良いよなぁ。玲奈は心音とアリシアと同部屋で」
思わず口を滑らせたその一言で、空気が一気に張り詰めた。
それまで無表情だった玲奈の瞳が、氷点下の鋭さを帯びる。
「あの二人と、一緒の部屋が良かったんですか?」
「ひぇっ!?」
翔太郎は後ずさり、声が出ない。
予想外の反応に、頭が真っ白になる。
「そもそも翔太郎の性別は男です。男のあなたが、アリシアと心音と一緒に寝泊まりしたいとは、どういう事でしょうか?」
玲奈の表情はまったく緩まなかった。
その目はまるで、何か小さな棘が胸に刺さったかのように、痛みを堪えるような硬さを帯びている。
「いや、違う! 誤解だ! 別にそういう意味じゃなくて──単純に、気心の知れた人と同室になる方が落ち着くってだけで……」
「ほう。それはつまり、やはりあの二人と一緒に寝泊まりしたいという事でしょうか? 二人とも、可愛い女の子ですもんね?」
「な、何言ってんだよ……!」
翔太郎は手を振り、必死に言い訳を探すが、言葉が上手く出てこない。
「──先程も、アリシアとは随分仲良さげで」
脳裏に、バスの中の光景がよぎった。
アリシアの頭が、翔太郎の肩にそっと預けられていたあの一瞬。
あのとき胸の奥で生まれた、形の分からないざらつきが、また喉の奥に張り付くように残っていた。
「いやアレは単純にアリシアが寝ぼけてただけで……。てか、やっぱり見てたのかよ」
「はい、見てました。別に見たい訳ではなかったのですが、周りの人たちが騒がしくなるぐらい、二人が近いように感じたので」
玲奈はまるで尋問官のように、無表情でずいっと身を寄せた。
ほんの少し、靴底が床を擦る音がやけに響く。
翔太郎は反射的に一歩下がったが、背後には柱。
もう逃げ場はない。
「どうして、あんなに近かったんですか?」
「どうしてって……いや、その……寝不足のアリシアを起こすのも可哀想だし、そのまま寝かせてやっただけで……」
「ちょっと反対方向に頭を動かせば、それで良かったですよね? 翔太郎なら、アリシアを起こさずに頭の位置をずらすことぐらい、簡単に出来たはずです」
玲奈の声は静かだ。
静かすぎて、かえって鋭い。
まるで氷の欠片が落ちるように、一言一言が翔太郎の胸に突き刺さる。
玲奈自身、なぜこんなことを問い詰めているのか分からない。ただ、あの時に見た二人の距離が、どうしても頭から離れなかったから。
「──アリシアの可愛い寝顔を見て、邪な気持ちが生まれたとか?」
「へっ!? いや、あ、あの、違うって! まさかそんな……!」
翔太郎は口元を押さえて赤くなる。
「でも、アリシアと同じ部屋で寝泊まりしたいって……」
「いやいやいや、下心なんて絶対ないって! 二人みたいに、気心の知れた相手と同室なら良かったな、って話なんだ!」
玲奈の眉が細く吊り上がる。
唇が、わずかにきつく結ばれた。
その視線は、まるで冷たい雨粒の様に翔太郎を打つ。
胸の奥で渦巻くものが、理屈では整理できない。
ただ、何かが引っかかる。
アリシアの無防備な寝顔に、あんな顔を見せた翔太郎の横顔が、なぜか気に食わなかった。
「……気心が知れた、ですか」
ぽつりと落とされた声には、わずかに棘があった。
本人ですら、その理由を知らないままに。
「……翔太郎は前に比べて、アリシアとかなり打ち解けてきましたね」
「え? あ、まぁ……そうかもな。最初の頃は全然話もしなかったけど、最近は向こうからよく話しかけてくれるし」
「そうですか」
玲奈の声は、まるで氷の表面を軽く叩いたような硬さがあった。
表情は変わらないのに、瞳の奥がどこか冷たく濁って見える。
「アリシアは、最近、翔太郎のことをよく見てますから」
「え、そうなの? 初めて知ったわ」
「合宿の間も、きっと色々と話しかけてくるんでしょうね」
「まぁ、俺は別に構わないけど……」
翔太郎はどこか居心地悪そうに頬を掻いた。
その反応に、思うところがあるのか玲奈の眼差しは、どこか拗ねたように沈んでいた。
「──とはいえ、翔太郎が誰と仲良くしても、私には口を出す権利はありません。アリシアも翔太郎がいたから、立ち直れたのは間違いないですし」
「え? えぇと……玲奈さん?」
「心音とも、アリシアとも。きっと楽しいでしょうから」
「……なんか、怒ってる?」
「怒ってません」
語気だけがほんの少し強くなった。
否定したその声の裏で、自分でも気付かない苛立ちが小さく震えていた。
沈黙。
わずかに吹き抜けた海風が、玲奈の長い髪を揺らす。
──毎朝、翔太郎を起こすのは自分。
まだ外が明るくなりきる前から目を覚まし、朝食を作り、洗濯を回し、制服を整えておく。
最初の頃は翔太郎も無理に早起きして手伝おうとしたけれど、「私がしたくてしています。翔太郎は寝ててください」と言ってしまった。
気が付けばそれが当たり前になり、翔太郎が布団から起き上がるたび、玲奈の「おはようございます」が日常の始まりになっていた。
──そんな毎日が、自然で、特別だった。
だからこそ。
アリシアの寝顔を見下ろして、穏やかに微笑む翔太郎の横顔が、どうしても引っかかった。
玲奈は小さく息をついて、無理に表情を整えると、立ち去る前にほんの少しだけ翔太郎の顔を見上げた。
「今日から合宿なので、私と翔太郎の部屋は普段と違い、別です。……私が起こさなくても、ちゃんと朝起きるんですよ?」
「え、あ、うん……分かってるよ。いつも起こしてもらって悪いな」
「……そうです。普段は、私だけが翔太郎を起こしてるんです。それでは、また後ほど」
玲奈はそれだけ告げて、踵を返した。
その背中は静かで、完璧に整っているようで──ほんの一瞬だけ、揺れた髪の奥に、かすかな寂しさが滲んでいた。




