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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第三章 『白薔薇のレクイエム』
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第三章7 『揺れるバスの中で』

 車内は早くも合宿ムード一色である。

 バスが校門を抜けると、揺れに合わせて騒めきが広がった。


 前方では男子たちが、海に着いた後に何をするかで声を張り上げ、後方では女子たちが水着や花火の話で盛り上がっている。


「氷嶺さんも新しい水着買ったんだ?」


「はい。恥ずかしながら、去年の水着だと胸の辺りのサイズが合わなくなってしまって……」


「うわ、贅沢な悩みだ。氷嶺さんってスタイルも良いし羨ましいなぁ」


「そうでしょうか?」


「そりゃそうでしょ。だって玲奈ちゃん、男子から言い寄られたことなんて、毎日のようにあるでしょ?」


「無くはないですが、そんな毎日もって訳じゃないですよ」


 玲奈は少し言葉を濁しながらも、ため息を吐いた。


 実際、玲奈は元から容姿も実力も目立つ存在である。

 だが、本格的に声をかけられるようになったのは、翔太郎とパートナーを組んでからだ。

 翔太郎が誰に遠慮することもなく玲奈と自然に話す姿を見せることで、男子たちは玲奈に話しかけても良いのだと認識し始めた。


 さらに、推薦生でありながら急速に頭角を現している翔太郎への対抗心も手伝い、玲奈の隠れた人気が混ざり、彼女にアプローチしようとする者が増えていったのだ。


「でも良いなぁ。氷嶺さんって美人で落ち着いてて、スタイルも良いし」


「そうそう。私なんてこの合宿、写真に写らないように端っこ狙う予定だからね」


「アンタ、お腹出てきたって言ってたもんね」


「みんなの前で言うなし!」


「そんなことありません。……皆さんも素敵だと思います」


 玲奈はA組の女子たちに囲まれ、楽しそうに談笑していた。

 普段は落ち着いた口調の彼女も、この時ばかりは少し固い表情を崩し、同級生と談笑している。


 そんな玲奈の様子をちらりと横目に見て、翔太郎は心の中で安堵した。

 こうしてクラスに馴染めるなら、彼女を行かせて良かったと思う。


 一方、アリシアは窓の外へ視線を向けたまま、じっと流れる景色を追っていた。

 近くの会話に混ざることなく、ただ静かに。だが、その横顔には以前のような孤立感はなく、不思議と穏やかに見えた。


「みんな、楽しそうだな」


 翔太郎が声をかけると、アリシアはゆっくりとこちらへ顔を戻す。


「うるさいだけ」


「まぁ否定はしないけどさ。気持ちは分からんでもないでしょ。なんせ海だし」


「日本は島国なのに、わざわざ海程度でキャーキャー騒ぐ必要ないと思う」


「えー……」


「世界には、一度も海を見ることなく生涯を終える人もいるぐらいだし」


 中々、ロマンの無いことを言われた気がする。

 確かに世界では内陸部で生まれ育った人間や、海に旅行に行けるほど裕福では無い人間は、海を見たことないと思われるが、島国である日本では大半の人間が生涯を終えるまでには海を訪れるだろう。


「みんな、そのレベルのスケールで話してないと思うぞ。海のない国生まれじゃない訳だし」


「だったら尚更、珍しくもない」


「でも、みんなの反応は自然だと思うけどな。もしかしてアリシアってはしゃぐの苦手か?」


「得意なように見える?」


「ごめん。全く見えない」


 翔太郎が笑うと、アリシアはほんのわずか眉を寄せ、唇を結んだ。

 けれどすぐに視線を外して、窓の外に戻す。


「翔太郎は……海、楽しみ?」


「んー、俺はまぁ……普通かな? ぶっちゃけ去年も行ってるし、周りが楽しそうなら一緒に乗っかるって感じ」


「……想像できる」


「なんだよ、その納得顔」


「別に。ただ、翔太郎は楽しそうにしてる方が似合うと思っただけ」


「アリシアだって、楽しそうにしてる方が似合ってると思うぞ」


「そう?」


 アリシアの表情は相変わらず淡々としていたが、言葉の端にかすかな柔らかさが滲んでいた。

 バスの外を流れる夏の青空が、その横顔をほんの少し明るく照らしていた。


 淡々と返すその横顔を見て、翔太郎はふと気になった。


「なぁ、アリシアってさ……こういう合宿とか、楽しみだったりしないのか?」


「特には。それに、集団行動を十日間も強いられるのはあまり好きじゃない。部屋も誰かしらと一緒だと思うし」


「でもさ、そういうのもお泊まりあるあるってやつじゃない?」


「それは楽しめる人だけの話」


「お嬢様にとっては、確かにしんどいかもな」


「もしかして、私のこと揶揄してる?」


「いや? むしろ心配してる。ほら、せっかくの夏合宿だし、少しは楽しんでほしいなって」


 現地に着いてから部屋割りが決まるらしいが、普段から一人部屋で過ごしているアリシアにとっては、見知らぬ相手と寝食を共にするのは落ち着かないだろう。


「でも強いて言うなら……マグロとか食べられるのは楽しみかも」


「マグロ?」


「海の近くなら、きっと新鮮な刺身が食べられる。三崎エリアとかはマグロが有名だし」


「アリシアって刺身とかが好きだったのか? なんか意外だな」


「……変?」


「いや、なんていうか屋敷が洋風だったし、ちょっとイメージとズレるっていうか……」


「屋敷の造りが西洋風なだけで、私の食生活は基本的に貴方たちと一緒だから」


「確かに、そりゃそうだよな」


 前にオールバーナー邸に訪れた際は、いかにもな西洋の屋敷という感じだった。

 フレデリカに出された紅茶や茶菓子などを見た感じ、勝手にアリシアの食生活を洋食メインにしてしまっていたかもしれない。


 アリシアがドイツ人とはいえ、日本に住んでいるのなら、食べ物も日本食に依存していくのが道理だ。


「じゃあ向こう着いたら、釣りでもするか?」


「釣り?」


「うん。今回の合宿エリアだと釣りスポットもあるみたいだし、自分で釣った魚を食べるとか楽しそうじゃん」


「私……釣りとかやったことない」


「だろうな。だから誘ってるんだよ」


「翔太郎はやったことあるの?」


「小さい頃に少しね」


 翔太郎の脳裏に、かつて剣崎に無理やり連れられて山にこもった記憶が蘇る。

 あの時、釣った川魚を焼いて食べたが、臭みが強くて泣きそうになりながら飲み込んだのを今でも覚えている。


「釣りなら静かだし、周りに人も居なくてやかましく無いと思うけど、嫌か?」


「……別に、嫌じゃない。むしろ人が居ないならそっちの方がいい」


「よし決まり。マグロは無理でも、アジとかサバくらいなら釣れるかもな」


「そんな簡単に釣れないと思う」


「お、挑戦的な目」


「事実を言っただけ。もし釣れたら炎は出せるから、焼くのは任せて欲しい」


「自分で釣らんのかい」


 翔太郎は思わず笑って肩をすくめた。

 アリシアの返しはいつも淡々としているが、どこか言葉の奥に柔らかさがあった。


 窓から差し込む陽光が、彼女の金髪を鮮やかに照らす。

 その横顔を見つめながら、翔太郎はアリシアがこうして笑って話しかけてくれることが普通になっている事を内心喜んでいた。


 少しの沈黙の後、アリシアが静かに口を開く。


「……翔太郎」


「ん?」


「最近、学校は……どう?」


「どうって?」


「最近の翔太郎は特に目立っているように感じる。推薦生でありながら玲奈とパートナーを組んでるのも、試験で一位を取ったこともそうだけど、次の十傑候補って言われてる」


「あー……その話は確かに玲奈からも聞いたな」


 本当かどうかは分からないが、どうやら十傑の第一席が自分の名前を認知しているらしい。


「ここ数ヶ月は特に色々な人に見られてるでしょ。先月も変な新聞部のマッシュ頭に追われてたし」


「F組の御手洗な」


「噂とか、変なこと言われたりしてない?」


 唐突な問いかけに、翔太郎は瞬きをした。

 アリシアが自分の立場を気にしてくれるとは思っていなかったからだ。


「噂か。まぁ、多少は耳に入ることもあるけど……別に今に始まったことじゃないしな。あんまり気にしてないよ」


「気にしてないの……?」


「うん。それにさ、最近は玲奈が変な噂立てる奴を問い詰めてるし、そこまで実害が無いっていうか」


 翔太郎に関する噂話は、今や零凰学園内で知らぬ者のほうが少ないほど広まっていた。

 その多くは、推薦制度そのものに対する生徒たちの不信感が生んだ副産物だ。


 そもそも、零凰学園の推薦入学は昔から“コネ入学”と揶揄されている。

 一般入試が苛烈を極める一方で、推薦枠は実力よりも推薦者の権威や資金力で決まるケースが多く、内部生の間では努力を踏みにじる抜け道とまで言われている。


 推薦生の中には確かに優秀な者もいるが、大多数は内部生とそれほど実力差もない。

 聖夜の魂喰いを引き起こした海道杏子の事件もあって、翔太郎のように目立つ推薦生は、好奇の的にも嫉妬の対象にもなりやすかった。


「翔太郎の話の大半が、良くない噂だった。玲奈が怒るのも当然だと思う」


「うーん……俺はマジで気にしてないんだけどな。玲奈もちょっと怒りすぎて、むしろ怖いまであるし」


 中でも、翔太郎にまつわる噂は三つの系統に分かれている。


 一つ目は、正当な実力説。

 彼の異能力を実際に見た生徒たちが評価する声だ。

 推薦制度排斥派の筆頭である影山ですら、翔太郎の実力自体は認めており、彼は純粋な実力者だと擁護する意見もあった。


 二つ目は、ドーピング説。

 十傑と組んだとはいえ、推薦生が短期間で上位に食い込めるなんておかしいと考える懐疑派の生徒が広めたものだ。

 裏で何らかの薬物を使い、異能力を強化しているのでは──そんな根拠のない噂が、まことしやかに囁かれている。

 実際に、暴走した異能力者が違法強化薬を用いた事件を引き起こしてニュースになるケースもあるので、信憑性を持ってしまっているのが厄介だった。


 そして三つ目が、最も悪質な玲奈を利用した説だ。

 氷嶺玲奈を口説き落とし、彼女の力と立場を利用して十傑候補にのし上がった。

 彼女のサポートを後ろ盾にしてるだけ。

 そんな下衆な囁きが、一部の男子生徒の間で特に流行っている。

 彼らにとって玲奈は“高嶺の花”そのものであり、そんな彼女と並んで歩く翔太郎の姿は目障り以外の何物でもなかったのだ。


「まぁ、放っておけばその内飽きるんじゃね? 嫌いな奴の話をしても疲れるだけじゃん」


「そんな事ないと思う」


 アリシアは窓の外を見たまま、静かに言った。


「翔太郎が思っている以上に推薦生と内部生の溝は深いし、人の悪口言ってる時はドーパミンが出やすいから、辞めようと自分から言える人は少ない」


 人間は、自分より上だと感じる存在を前にした時、憧れと嫉妬の区別が曖昧になる。

 特に、嫌いな相手を貶めている時ほど快楽物質──ドーパミンが分泌されるという。


 だからこそ人は、誰かの悪口を辞められない。

 翔太郎は知らず知らずのうちに、彼らにとって心地良い嫌悪の標的になっていた。


「……なるほどな」


 翔太郎は苦笑しつつも、どこか納得したように頷く。

 人間関係の陰口にすら、生物としての構造があるのかと、少しだけ呆れを覚えた。


「でもね」


 アリシアが小さく息を吐く。


「私も……玲奈と同じで、翔太郎には十傑入りして欲しいと思ってる」


「そうなのか?」


「うん」


 今度は彼女が、はっきりと視線を向けてきた。


「翔太郎は……私を助けてくれた。近付く全ての人間を不幸にしてしまうと思っていた私に、ちゃんと手を差し伸べてくれた。あの雨の日に、貴方がいなかったら、きっと私は今ここにいない」


 ゼクスの一件も、四季条との戦いも。

 決して翔太郎は、アリシアを見捨てるような真似はしなかった。


 知り合って短期間の相手に、あそこまでする義理は無いはずなのに、同じ組織を追っているから、そして友達だからという理由だけで、身も心も救われてしまった。


「だから……翔太郎が強いのは、異能力だけじゃないって、私は分かってる。誰かの痛みに寄り添える人は、そう多くないから」


 アリシアの頬に、ほんのわずかに朱が差す。

 いつもは冷静な彼女が、感情を抑えきれずに視線を逸らす姿に、翔太郎は一瞬だけ言葉を失った。


「ありがとな。アリシアにそう言ってもらえるのは、ちょっと嬉しい」


「別に、お礼を言われるほどのことじゃない」


 それでも、アリシアの声は少し柔らかい。

 彼女なりの照れ隠しであることを、翔太郎は何となく感じ取っていた。


「それに、大丈夫なのは本当だよ? 玲奈やアリシアみたいに、周りに分かってくれる人がいるから、全然気にしてないし」


 その言葉に、彼女のまつ毛が僅かに動いた。

 表情は変わらない。

 けれど、瞳の奥がほんの一瞬だけ揺れる。


「……玲奈やアリシア“みたいに”、ね」


「え?」


 翔太郎が首を傾げると、アリシアはわざとらしく窓の方を向き直した。

 外の景色に視線を向けたまま、何気ないように口を開く。


「そういえば、翔太郎に一つ聞きたいことがあった事を思い出した」


「ん? 何かある?」


「噂で聞いたんだけど」


 アリシアの声は静かだった。

 無表情のまま、感情を抑えた声色で続ける。


「翔太郎が玲奈と付き合ってるって話……本当なの?」


「え?」


 思わず間の抜けた声が漏れた。

 アリシアは相変わらず冷静そうに見えたが、その手が膝の上で小さく握られているのを、翔太郎は見逃さなかった。


「別に、どうでもいいけど」


 アリシアはそう言いながら、再び窓の外に視線を戻した。


 声の調子はいつも通り。

 だが、その言葉の温度だけが、ほんの少しだけいつもより低いような気がした。


 沈黙が一瞬だけ流れる。

 外の景色を映す窓に、揺れる彼女の横顔がぼんやりと映り込んだ。


「アリシアまでそんな噂信じてんのかよ」


 翔太郎が苦笑しながら頭をかく。


「前にも言ったけど、玲奈とは別にそういう関係じゃないって」


「私にはわざわざ隠す必要無い」


「いや、隠すとかそういうのじゃなくて……」


 短く相槌を打った後、アリシアは少しだけ目を伏せる。

 やがて静かな声で続けた。


「私は他の人よりも、二人の関係の深さを知っているつもり。だから改めて、本当なのか聞いたの」


 その声色にはアリシアの感情が見えなかった。

 ただ、確かめたいだけ──そんな小さな心のざわめきが滲んでるような気がした。


 アリシアはゼクスの一件を思い出していた。

 あの時、翔太郎と玲奈が互いに支え合っていた姿を、彼女は間近で見ている。

 あの絆の強さを知っているからこそ、彼女の中に浮かんだ疑問は、ほんのわずかな現実味を帯びてしまっていた。


「本当に付き合ってないよ」


 翔太郎は真っすぐな声で言った。


「玲奈は大切な仲間だし、性別は違っても友達だよ。誤解されるようなことも、特にしてないつもりだし」


 その言葉を聞いた瞬間、アリシアの胸の奥が僅かに弾んだ。

 けれど、その理由を自分でも理解できず、彼の橙色の瞳をじっと見つめてしまう。


「……」


 翔太郎の目には、嘘がなかった。

 真っ直ぐで、穏やかで、どこか無防備なほど純粋な光を宿している。

 それが、アリシアの心を静かに揺らした。


 もし、彼が付き合っていると答えていたら──自分は、どんな反応をしていたのだろう。


 答えを考える前に、胸の奥が重くなる。

 その重さを誤魔化すように、アリシアは小さく息を吐いた。


「アリシア?」


 不意に名前を呼ばれて、ハッと我に返る。

 自分がどれほど長く彼を見つめていたのか、その瞬間に気づいた。


 頬に、熱が差す。

 慌てて視線を外し、ぷいっと窓の方へ顔を向けた。


「……そう。違うなら、それでいい」


 自分でも驚くほど、声がかすかに震えていた。

 それを悟られまいと、アリシアはわざと無表情を保つ。

 けれど、胸の奥には確かに──小さな安堵が、灯っていた。


 その安堵が温かいと感じた瞬間だった。


 バスが急に大きく揺れ、アリシアの身体がふいに傾く。

 タイヤが路面を擦る甲高い音と、ブレーキの軋む音が響いた。


「きゃっ!」


「うわ、やばっ!」


「ちょ、急になんだよ!」


 車内のあちこちで悲鳴や叫び声が上がる。

 荷棚に置かれた鞄が落ち、通路に転がる音。

 騒めきと焦りの空気の中で、アリシアは反射的に身を支えようとして──翔太郎の肩にしなだれかかった。


「わっ……!」


 近すぎる距離。

 制服越しに感じる体温。

 翔太郎の腕が軽くアリシアの肩を支えているのが分かる。


 息が詰まりそうなほど近くで、アリシアは固まった。

 顔を上げれば、彼の瞳がすぐ目の前にあった。

 驚いたような、それでいて困ったような表情。


「大丈夫か?」


「……ごめん。バスが、揺れただけ」


 震える声を抑えるように言って、アリシアはそっと身体を離した。

 けれど、頬の熱は下がらない。

 心臓が、自分の意思と関係なく高鳴っている。


 彼の腕の感触が、まだ残っている。

 事故の衝撃よりも、自分の鼓動の方がずっとうるさい。


「あっ、アリシア前見てみ。追突事故起きてる」


「……本当だ」


 翔太郎の言葉に、アリシアは慌てて前方へ視線を向けた。

 バスの一つ前を走っていた乗用車が、更に前方の車に追突している。

 一瞬で通り過ぎたので少ししか見えなかったが、フロントが潰れ、白煙が薄く上がっていた。


『急ブレーキ、大変失礼いたしました』


 無機質な運転手のアナウンスが響く。

 咄嗟のハンドル操作で、バスは隣の車線へ滑り込み、玉突きを間一髪で回避していたらしい。


「ビックリしたぁ。首都高って本当に事故多いんだな」


 翔太郎は安堵混じりに息を吐き、窓の外を見やった。

 その横顔には、緊張から解放されたような表情が浮かんでいる。


 けれどアリシアは、まだ息が整わなかった。

 事故のせいではない。

 胸の奥で鳴り続ける鼓動が、どうしようもなく煩い。


 違うなら、それでいい。

 そう言った自分の言葉を、頭の中で何度も繰り返す。

 それでも、翔太郎が違うと答えてくれた事実に、どうしようもなく胸の奥が、少しだけ温かくなる。


 その感情を名前で呼ぶには、まだ早すぎる。

 だからアリシアはただ、窓の外を見続けた。


 流れていく首都高のガードレールと、遠ざかる赤いテールランプ。

 車体の微かな振動に合わせて、彼女の胸の鼓動もまだ収まらないまま──静かに、夏の空へとバスは走り続けていた。


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