第三章5 『邂逅』
アリシアと心音は、それぞれ帰り支度を済ませて先に図書室を後にした。
残されたのは翔太郎と玲奈の二人。
凍りついた机の表面にはまだ冷気の名残があり、翔太郎は苦笑いしながらカバンを肩に掛けた。
「じゃあ、俺たちもそろそろ帰るか」
「はい」
並んで廊下を歩き始める。
先ほどまでの緊迫感はもう消え、どこか気楽な空気が二人の間に漂っていた。
「そういえば、さっき旅行の話してたじゃん? 玲奈は行きたい場所とかある?」
「特に今行きたいという場所はありませんが……強いて言うなら海ですかね」
「あー、そういえば横浜の時にも言ってたな」
玲奈は小さくうなずいた。
彼女はずっと兄・凍也に行動を縛られていた。外の娯楽や自由な遊びを楽しむことはほとんどなく、海水浴場などもってのほかである。
氷嶺家が遠征に出る際、使用人に囲まれた上で屋敷が保有するプライベートプールを利用する程度で、世間一般の“海に行く”という経験とは無縁だった。
「泳ぐこと自体はできます。氷嶺家のプライベートプールで練習しましたから。ただ……実際に海水浴場へ行ったことがないので」
玲奈はそう言って少しだけ視線を伏せる。
翔太郎は思わず吹き出した。
「いや今度行くじゃん、夏合宿で。三浦半島って海水浴場あったはずだし」
「そういえばそうでしたね。図らずとも、行きたい場所は叶うという訳ですか」
「でもさ、元とはいえお嬢様に海水浴場って大丈夫か? プライベートプールとは全然違うぞ。人だらけだし、砂はベタベタするし、虫も出るし、クラゲも出るし」
「私を何だと思っているんですか。貴族か何かだと?」
玲奈は冷静に切り返した。
「もちろん、プールと海を比べれば勝手は違うでしょう。ですが……私は氷嶺家にいた頃から、むしろ息が詰まりそうでした。だからこそ、海のような開けた場所へ行けるのは楽しみなんです」
「そっか」
翔太郎はその言葉に、ちょっと照れ臭そうに頭をかいた。
玲奈は続けて、ほんのわずか笑みを浮かべる。
「それに、三浦半島の海水浴場は比較的綺麗な場所だと聞いています。多少の虫やクラゲくらい、別に気にしません」
「うーん、言うねぇ。でもそのセリフ、クラゲに襲われても同じこと言えるのか?」
「もしもの時は、私が海ごと凍らせますから大丈夫です」
「全然大丈夫じゃない! クラゲを凍らせる前に俺たちも巻き込まれるって!」
「……では、そうならないように、いざという時はあなたが私を助けてくださいね」
玲奈はごく淡々とした口調のまま、それでいてほんの少しだけ声音に甘さを含ませた。
翔太郎は思わず言葉を詰まらせ、気恥ずかしさを紛らわせるように笑ってしまう。
「まあ、夏にみんなで海ってのは楽しそうだな。焼きそばとかかき氷とか、食べ放題でさ」
「食べ放題をやっている海の家なんて、今時存在するんですか? それに、海の家は普通のスーパーに比べても比較的割高ですよ」
「真面目か。玲奈だって食べるでしょ?」
「……はい。かき氷は、食べてみたいです」
玲奈はほんの一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから答えた。
表情は相変わらず淡々としているのに、伏せた睫毛と声色の柔らかさが、翔太郎の胸をくすぐる。
「かき氷ならさ、玲奈の能力で作れそうじゃね?」
「私の能力だと出力が強すぎて、かき氷を作るみたいな緻密な操作は難しいです。……そういうのは雪村くんの方が得意だと思いますよ」
「確かにそんな事も言ってたな。威力と範囲の“氷”、緻密な操作の“雪”。そんな感じだったっけ」
翔太郎は肩を竦めつつ、立ち上がって椅子を机に戻す。
玲奈も静かに本を閉じて彼の後に続いた。
二人で並んで図書室を出ていくと、窓から差し込む西日に照らされて、談笑の声が廊下に小さく響く。
「食べるとしたら味はどうすんの? イチゴ? メロン? それともブルーハワイ派?」
「イチゴです。……ただし、練乳をかけて」
「めっちゃ甘党じゃん」
「あなたのが移ったんですよ。翔太郎も当然かけますよね?」
「いや、俺はレインボー派なんだよな。イチゴとレモンとブルーハワイをまとめて掛けて──」
「そのグチャグチャ感……味のチョイスが男子小学生ですね」
玲奈は小さく息を吐き、呆れたように言う。
だがその声音には、どこか柔らかな色が混じっていた。
翔太郎は照れ隠しのように笑いながら、両手をポケットに突っ込み、並んで歩く玲奈の横顔を盗み見てしまうのだった。
「男子小学生って手厳しいな。レインボーは夢の詰まった味だろ」
「夢の詰まった砂糖水、の間違いでは?」
そんなやりとりをしていた矢先、正面から二人組がやってきた。
「あれは……」
前からって来た二人組の男女を見て、これまで談笑していた玲奈の足が止まる。
「どうした、玲奈?」
「いえ……」
玲奈の視線を追うと、二人組の男女が真っ直ぐ翔太郎たちへと向かって来ており、視線がかち合った。
たまたま目が合ったのではなく、明らかにこちらに用件があるような仕草だった。
一人は背が高く、見上げるほどの長身の男だった。
緑がかった髪をきちんと整え、理知的な眼鏡の奥からは冷静な光を宿している。
その隣に並ぶのは、紫のツインテールを揺らす少女。
制服を腰で結び、ピアスやネイルがちらつくラフな装いで、どこか堂々とした雰囲気が、彼女の存在感を際立たせていた。
「少し良いかな」
穏やかな声音で、背の高い男が声をかけてきた。
「えっと……初めまして、だよな?」
翔太郎は思わず足を止め、慎重に言葉を返す。
「ああ。僕は二年C組の風祭涼介。君と話すのは今日が初めてだね、鳴神翔太郎くん」
「風祭涼介って……」
その名に聞き覚えがあった。
零凰学園の十傑──その第八席。
二年生の十傑の中で、これまで翔太郎が一度も接点を持たなかった、最後の一人だった。
「風祭くん、翔太郎に何かご用ですか?」
隣にいた玲奈が、わずかに身を引き締めて問いかける。
涼介は肩をすくめ、穏やかに微笑んだ。
「用ってほどのことは無い。ただ、たまたま見かけたから声をかけてみただけさ」
「……あなたも影山くんのように、翔太郎を狙っているんですか?」
「狙う? 何の話だい?」
涼介は小さく首を傾げる。
「僕は影山とは違う。君やアリシア、それに獅堂先輩が新しい十傑候補として彼を推していると聞いた。だから、ただ純粋に興味が湧いただけなんだ」
「それは翔太郎を新たな十傑候補として、脅威に思っているということでしょうか?」
玲奈は視線を細める。
その声音には、自然と警戒が滲んでいた。
「別に脅威だなんて考えていない。僕が鳴神を敵視する理由なんて、どこにも無いだろう?」
涼介の声音は終始穏やかだった。
だが玲奈の胸に広がる警戒は消えない。
なぜ今まで一切関わりを持とうとしなかったのに──獅堂が翔太郎の名を口にした途端、接触してきたのか。
それはただの好奇心か、それとも十傑としての警戒か。
玲奈は一歩前に出ながら、冷ややかな眼差しで風祭を見つめ続けていた。
「まあまあ、玲奈」
翔太郎が小さく肩を竦めて笑った。
「特に風祭から敵意なんて感じてないし、そう警戒しなくても大丈夫だって」
だが、玲奈は微動だにしない。
むしろ一歩前に出て、翔太郎を庇うように立ちふさがった。
「……翔太郎、影山くんや雪村くんのことを忘れたんですか?」
その声音は静かだが、冷たく張りつめていた。
「推薦生である以上、どんなに優れた能力者だとしても、あなたに悪意を持つ生徒は学園中に沢山います。彼らがどう仕掛けてきたのかは、あなたが一番良く分かってるはずです」
「いや、でも風祭本人も言ってたけど、影山とは違うんだろ?」
「勿論だよ。僕は推薦生も内部生も、別に何とも思ってない。君が推薦生だって事は、パートナー試験前に初めて知ったぐらいだ」
「今まで接点が無かったのに、いきなり見つけたから話しかけたなんて……どう考えても不審です。私には、翔太郎を標的にする手合いである可能性を捨てきれません」
その言葉に、翔太郎は思わず言葉を飲んだ。
玲奈の声音には過剰なほどの警戒と、そこまでして、自分を守ろうとしてくる必死さが滲んでいたからだ。
そして、その様子に一番驚いていたのは涼介だった。
「君が、そんな風に人を庇うなんて驚いたな。それに完全に誤解だよ。僕は純粋に、鳴神に興味が湧いて話しかけただけだよ」
理知的な眼鏡の奥の瞳がわずかに見開かれる。
氷嶺玲奈といえば、孤高の優等生という印象しか無かった。
彼の知る玲奈は、成績優秀で容姿端麗ながら誰とも交わらない生徒である。
冷たい眼差しと氷のような距離感で、周囲を拒絶していた──そんな存在のはずだった。
だが、今目の前にいるのは、迷わず翔太郎の前に立ち、彼に近付く人間に対して警戒心を隠そうともしない少女。
あまりのギャップに、涼介は思わず息を呑んだ。
緊張が張り詰めた空気の中、沈黙を保っていたもう一人の少女が、ふいに玲奈へと身を寄せた。
「ふーっ」
囁くように言うと同時に、彼女は玲奈の耳元へ息を吹きかける。
「きゃっ……!」
普段は決して出さないような可愛らしい悲鳴を上げ、玲奈は思わず肩を震わせた。
頬が赤く染まり、彼女の冷ややかな表情が一瞬にして崩れる。
「な、何をしてるんですか、あなたは!」
「え〜? なんか、あたしの涼介に喧嘩腰し過ぎたから、リラックスしてほしかっただけだって〜。ほら、そんなピリピリしてると可愛い顔が台無しだし?」
「っ……!」
「自己紹介しとくね。あたしは2年C組の天童リルカ。気軽にリルカって呼んでよ、二人とも」
紫のツインテールを揺らす少女。
制服を腰で結び、ピアスやネイルがちらつくラフな装いで、どこか堂々とした雰囲気が、彼女の存在感を際立たせていた。
その態度はまるで、この場の空気を好き勝手に塗り替えてしまうかのようだった。
「すんすん」
そして次の瞬間、リルカはひょいと翔太郎へ身を滑らせ、首筋に鼻を寄せてクンクンと匂いを嗅ぎはじめる。
「お、おい……?」
「ちょ、ちょっと翔太郎に何をしてるんですか!」
突然のリルカからの急接近に困惑する翔太郎。
玲奈は目を見開き、思わず翔太郎の前へ割り込んで庇った。
しかし当のリルカは、そんな二人の反応を楽しむようにケラケラ笑い、わざと距離を取って肩をすくめてみせる。
「あれー? 鳴神くんって、シャンプーめっちゃいい匂いするじゃん。これ、女の子ウケ抜群でしょ?」
「え、シャンプー?」
「てか、玲奈ちゃんからも同じ匂いするし、二人って同じシャンプー使ってんの?」
「──っ」
その一言に、二人は思わず顔を引き攣らせた。
同居していることもあって、二人の生活日用品は基本的に全く同じものである。
一緒に暮らしている事は剣崎以外誰にも教えていないのだが、初対面の彼女に同じシャンプーを使っている事を当てられて、思わず唾を飲んだ。
「聞いてた話よりもずっと仲良いんだねぇ。やっぱり付き合ってる疑惑ってホントだったりするのかニャ?」
「──っ、つ、付き合ってません!」
玲奈が思わず声を張り上げた。
頬が真っ赤に染まり、氷のように冷たい視線であってもごまかせないほどに、その反応はあまりに初々しかった。
はっとしたように、玲奈は隣の翔太郎へ視線を向ける。
だが、当の本人は驚くでも照れるでもなく、ただ面倒そうに頭を掻いているだけで、全く取り合う気配はない。
「……」
玲奈は何故だか、そんな彼を見て言葉を失った。
リルカの無邪気とも悪戯ともつかない行動が、場の空気を一気に引っかき回していく。
その様子を見て、涼介は額に手を当てて小さくため息をついた。
「リルカ、やり過ぎだ」
「え〜? あたし的には場を和ませてあげただけなんだけどなぁ」
まるで本気か冗談か分からない笑みを浮かべるリルカ。
彼女の挑発は、この場にいた全員の心をざわつかせるには十分すぎるほどだった。
「鳴神、僕が君と話したかったのは本当だよ。そこに敵意も悪意も無い」
「うん、そこは分かってるよ。それで話って?」
「先月のパートナー試験は見事だったよ。試験の映像データを見せてもらったけど、君の雷の異能力は素晴らしいものだった。スピードに関して言えば、紛れもなく2年生で一番速い」
「ああ、うん……ありがとう?」
思わず疑問符交じりで返してしまう翔太郎。
涼介の落ち着いた褒め方と、真面目に見つめられる眼差しに少し面食らった。
「順位表見たけど、確か風祭も4位とかだったろ? 普通に凄い方じゃん」
「いや、十傑の中では僕が一番アスレチックの順位が低かった。自分の力不足を痛感させられたよ」
この青年は謙虚な人間なのだろうか。
鞄の肩紐を整える仕草もどこか落ち着いていて、変人だらけの十傑メンバーの中では、初対面でも安心できる存在感を放っていた。
「次は夏合宿もあるし、もしかしたら、試験や課題で一緒になることもあるかもしれない。その時はよろしく頼むよ」
「その時は、敵か味方か分からないけどな」
「それはお互い様だね。ただ、君のように真剣に取り組む相手なら、僕としても全力でぶつかりたい」
翔太郎は少し笑いながら頷く。
「……わざわざそんな事まで言いにくるなんて、かなり真面目だな」
「そうかな? 貴重な放課後に急に話しかけて悪かったよ。また今度ゆっくり話そう」
そう言い残して、涼介はリルカを引き連れてその場から立ち去って行った。
翔太郎はその後ろ姿を見送りながら、少し考え込む。
「悪い奴じゃなさそうじゃん。あいつ」
「……私は風祭くんとあまり話した事が無いので分かりませんが、影山くんのような例もあります。油断はしないでください」
「そう? 普通に心音と同じで、変な奴だらけの十傑の中でも、まともって感じな気がするけどな」
「……なぜ、そこで私を見つめるんですか?」
「さぁ、何でだろうな?」
出会った当初は翔太郎を鬱陶しがっていた玲奈や、距離を縮めるのに中々苦戦させられたアリシアと違って、風祭涼介は心音と同じで最初から翔太郎に友好的だった。
「風祭涼介か」
もしかしたら、友達になれるかもしれない。
零凰学園において、男友達が圧倒的に少ない翔太郎にとって、彼のように最初から友好的な男子は貴重である。
今度見かけたら、自分から話しかけてみようか。