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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第三章 『白薔薇のレクイエム』
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第三章4 『復学』

 6月9日・月曜日。

 十傑会議から一週間が経った頃、2年A組に思いもよらぬ激震が走る。


「──4月下旬ごろから休んでいた雪村真、そして……去年のクリスマスから入院していた水橋美波が、絶対安静という条件付きではあるが退院した。二人は今日からA組に復学する」


 岩井のその一言に、教室が爆発するように揺れた。


「は……? 水橋さん!?」


「嘘だろ!?」


「あの事件で、ずっと病院にいたんじゃ……」


「え、マジで? もう戻ってこないと思ってた……」


 騒めきは一気に波紋のように広がる。


 聖夜の魂喰い。

 生徒を根こそぎ襲った未曾有の大事件の被害者。

 ──水橋美波が、今この場に立っている。


 群青色の髪が蛍光灯の光を受けて揺れるたび、誰もが幻を見ているのではないかと錯覚した。

 息を呑む音が、教室のあちこちから洩れる。


「それに、雪村まで……?」


「お、おい……アイツ、鳴神に……」


「あぁ……鳴神に、完膚なきまでに叩き潰されたんだよな」


「声かけていいのか……いや、どうなんだ……」


 復学した雪村真もまた、生徒たちに大きな衝撃を与えた。


 学園ランキング17位の雪使いの異能力者。

 かつて凍也に唆され、集団で翔太郎に挑んだ末に叩き潰され、不登校を続けていた少年。


 今こうして立ってはいるが、誰もが腫れ物に触れるような視線を送るばかりで、当然ながら言葉をかけられる者はいなかった。


「……」


 どちらか一人の復学ですら十分すぎる驚きだった。

 だが──雪村と水橋、二人が揃って、しかも何の前触れもなくこの日同時に復学してきた事実に、A組の生徒たちは息を呑む。


「……マジかよ」


「いきなり過ぎるだろ」


「水橋さんも後遺症が残ってたんでしょ? 何事もなかった様に復学なんて……」


 教室はざわめきの渦に包まれ、誰もが口を揃えて同じ疑問を抱いた。

 まるで過去に置き去りにした亡霊が、二体同時に舞い戻ってきたかのような感覚に、衝撃と困惑が一気に広がっていく。


 そして、それは翔太郎と玲奈も同様だった。


「雪村が復学? それに水橋まで……。水橋って、ついこの間まで入院してたんじゃ無かったのか?」


 思わず口に出した翔太郎の声は、動揺を隠しきれていなかった。


 当然である。

 翔太郎の知っている水橋美波は、病室で横たわっている少女という印象であり、それは隣にいる玲奈もまた同様だった。


「……水橋さんは、5月12日に広場でカレンに襲われた時も普通に歩いてました。もしかしたら、あの時点でもうすぐ退院出来る程には回復してたのかもしれないですね」


 水橋とは先月に会っているが、雪村に関しては本当に一ヶ月以上顔を見ていなかった為、翔太郎も玲奈も驚きを隠せなかった。


 玲奈は小さく息を呑み、思わず隣の翔太郎をじっと握った。

 彼女にとって雪村は、かつて自分を巡って争いが起きた原因の一つでもある。


「影山は……」


 翔太郎は思わず教室の隅に視線を投げる。


 水橋が復学しているというのに、影山龍樹はいつも通りふんぞり返ったように椅子に座っていた。

 その姿は、騒然とする教室の中で異様なほど落ち着いて見える。


「影山くんは動じていませんね。水橋さんが今日から復学することを、予め知っていたんでしょうか?」


「だろうな。A組の誰にもそれを伝えようとしなかったのは、影山らしいけど」


 彼だけは、何もかも知っていたかのように平然としている。その態度が、かえって水橋の復学を、さらに異様で不穏なものに見せていた。


「雪村は一ヶ月、水橋に至っては半年もの間、学園を休学していた。お前たちにはクラスメイトとして、最低限の配慮を求める。復学した二人からは何かあるか?」


 そう言って岩井は隣にいる二人に声を掛ける。

 水橋は岩井の話に微笑んで頷き、前に出て来た。


「皆さんお久しぶりですぅ〜。水橋美波(みずはしみなみ)です。龍樹から聞いてたかもしれないけど、今日から零凰学園に復学します。至らないところは沢山あると思いますがぁ、是非また仲良くしてくださいね〜」


 ほんわかと間延びした様な口調で、水橋が穏やかな笑みを浮かべる。

 その瞬間──クラスの一部の女子生徒たちは、互いに顔を見合わせて小声を漏らした。


「あれ、水橋さんって……もっとキリッとした喋り方じゃなかった?」


「うん、そうそう。こんなにホワホワした様な柔らかい感じじゃなかったよね?」


「キャラ変わったっていうか、ちょっと無理してるように聞こえる」


「もしかして、まだ後遺症が……?」


 違和感。

 それは決して大きなものではなく、声を上げて指摘するほどのものでもない。


 だが、彼女たちにとって長い付き合いのある水橋美波は、間延びした口調で話すタイプではなかった。

 ほんの少しのズレが、かえって彼女の笑顔をぎこちなく見せていた。


 そして全員が、影山に「水橋の復学の話なんて聞いてない」と言わんばかりの視線を向ける。

 だが影山は何も返さず、じっと水橋の顔を凝視していた。


「あ、龍樹ぃ〜」


 水橋がそれに気付き、朗らかに手を振る。

 影山は舌打ちし、気まずそうに目を逸らした。


 彼女がそのまま影山の隣の空席に腰を下ろすのを岩井が確認すると、今度は視線を雪村へと向けた。


「雪村からは何かあるか?」


 一瞬、教室に重苦しい空気が走る。

 雪村はかつて、無意味に翔太郎へ突っかかり、その結果、痛烈に叩き伏せられた過去がある。


 その場にいなかった玲奈と影山以外のクラス全員がその光景を覚えており、彼の復学にはどうしても気まずさが付き纏っていた。


 だが当の本人は、そんな周囲の空気など意に介していないのか、肩をすくめるように答えた。


「別に、俺からは何も無いっすよ」


 拍子抜けするほど簡潔な返答だった。

 ただ、それ以上は何も語らずに前を向く。


「……そうか。じゃあ席は変わってないから、座って良いぞ」


 岩井はそれ以上何も追及せず、淡々と告げる。

 雪村は口角をわずかに吊り上げ、鼻で笑うような仕草を見せながら、ゆっくりと席へ向かった。


 その途中、ふと翔太郎の方に視線を投げる。

 翔太郎もまた、静かにその目を受け止める。


 二人の間に、微妙な空気感が一瞬だけ走った。


「大丈夫です。翔太郎」


 だがその瞬間、玲奈がそっと自分の椅子の向きをずらし、彼を庇うように前に出る。

 雪村の視線を切り裂くような仕草だった。


 雪村は一瞬だけ、驚きとも諦めともつかない光を瞳に宿した。

 玲奈がどこまで知っていて、どれほど翔太郎を守ろうとしているのか──それを測る前に、その光は霧散する。


「……」


 雪村はそれ以上何も言わず、自分の席に腰を下ろす。

 教室に残ったのは、何とも言えない重苦しい余韻だけだった。


「復学した二人も加え、今日はA組全員揃ってるので、前々から伝えておいた“夏合宿”についての内容を伝える」


 気を取り直すように岩井がクラスを見渡して、話を進めた。


 夏合宿。

 6月に入った直後に電子生徒手帳に通達が来ていたものだったが、実際に担任の口から説明が始まると、その期間が迫っていることを意識させられる。


「期間は9泊10日と長期間に渡るモノだ。無論、合宿であって旅行ではない。当然、合宿では異能力を使った課題が各地で開催される」


 岩井の強調に、一部の生徒が苦笑を漏らす。


「マジかよ十日もか……」


「え、長すぎでしょ。家帰ったら夏休み終わってんじゃね?」


「でもウチら寮生活だし、別に変わらなくない?」


 緊張よりも先に軽口が飛び交い、教室にはじわじわと明るい熱が広がる。


「場所は神奈川県の南沿岸部、三浦半島の一帯だ」


 岩井が目的地を告げた瞬間、教室はさらに沸いた。


「お、海だ!」


「やっべ、海鮮丼とか食えるじゃん!」


「砂浜かぁ〜。水着買っとかないと!」


 一気に弾ける声に、女子も男子も思わず顔を見合わせ、笑みを浮かべる。

 どんなに厳しい訓練だろうと、“海”という単語の響きは若い彼らの胸を躍らせるらしい。


 しかし岩井はその熱気を切り裂くように声を張った。


「勘違いするな。言ったはずだ、これは合宿であって旅行ではない。現地では異能力を駆使した課題が多数用意されている。自然環境の利用、集団行動、想定外の状況──全てをお前たちに課す」


 息を呑む者。苦笑いで肩をすくめる者。

 全員が岩井の次の言葉を待つ。


「前回の課題はパートナー同士だったな。しかし、今回は違う。合宿で行われる試験は──全て単独タイプのものだ。各自の実力を測る、個人戦での順位決定を兼ねる」


 一瞬で先ほどの浮ついた空気が消え去る。

 生徒たちの顔から笑みが薄れ、緊張の色が走る。

 パートナーに頼れない、己の力だけで試されることの重みを、全員が理解していた。


「楽しむなとは言わん。だが、気を抜くな。零凰学園の合宿がどんなものか──この十日間で骨身に刻め」


 岩井の言葉が教室に重く響き、場を完全に鎮めた。

 生徒たちはそれぞれの胸に、期待と不安をないまぜにしたまま、来るべき夏合宿の光景を思い描いていた。




 ♢




「パートナーで挑むタイプの試験だと思っていたので、残念です」


 その日の放課後、図書室の奥の机で集まっていた翔太郎たち。

 開口一番にそう言ったのは、いつも通り真っ直ぐな声音の玲奈だった。


「まぁ、元々この学園ってそういうもんだろ。パートナーの契約自体が無くなるって訳じゃ無いんだしさ」


 翔太郎が肩をすくめて返す。


「それはそうなんですが……。ですが、私のいない所であなたが狙い撃ちにされるような事態になるかも知れないと思うと……」


 玲奈の眉はわずかに寄っていた。

 心配からくる言葉だと分かっていても、翔太郎はどこか照れ隠しのように笑ってしまう。


「大丈夫だって。そういう事してきそうな生徒の中で、一番強い影山だって相性差で何とかなってるし、2年生の中だと影山より厄介な生徒なんて正直いないしな。まさか俺って、信用されてない?」


 軽口を叩くと、玲奈はむっと頬を膨らませ、じとりとした視線をぶつけてきた。


「心配していると、信用していないはイコールにはなりません。私は単純にあなたの身を心配して──」


「ふふ」


 そこまで黙って聞いていたアリシアが、珍しく口元を和らげた。

 玲奈の視線がきゅっと彼女に向かう。


「相変わらず、翔太郎に過保護なのは変わってない」


「アリシアも笑ってる場合じゃないですよ」


 玲奈は、軽くむっとしたように言い返した。


「知っている人が少ないとはいえ、推薦生で十傑という、あなたの立場を目の上のたんこぶの様に思ってる人は多いはずです。翔太郎だけがマークされている訳じゃないことをお忘れなく」


「それは分かってる」


 アリシアの声音は淡々としている。

 だが、どこか諦観に近い響きがあった。


「というか、それを言うなら私たち十傑全員が目の上のたんこぶな筈でしょ」


「それってどういう意味だ?」


 思わず翔太郎が口を挟んだ。

 確かに推薦生と内部生の間に横たわる溝は深い。

 特に海道の起こした事件によって、その亀裂は決定的なものになっている。


 推薦生が嫌われるのは分かる。

 だが十傑そのものが狙われるとはどういうことなのか。


「簡単にいうとね、十傑以外の生徒にとっては下剋上のチャンスって事なんだよ。鳴神くん」


 隣で椅子に肘をかけていた心音が、軽く首を傾げながら答える。


「下剋上?」


「うん。だって、十傑が別のクラスにいるとさ、授業で模擬戦する機会なんて滅多にないじゃん? そうすると、十傑と戦えるチャンスって試験ぐらいしか無いの」


「あー……」


 翔太郎は口を半開きにして納得する。


「十傑の座を狙ってる生徒たちにとっては、格好の餌食って訳か」


「そうそう」


 心音は人差し指を立てて、にこりと笑った。


「それにランキング下位の生徒が上位の生徒を倒したりすれば、ランキング変動にも大きな違いが出るでしょ。だから、試験は実力を証明する場であると同時に──挑戦状を叩きつける場でもあるの」


「なるほどな。つまり、玲奈たちも俺とは別に、下から突き上げられる側って訳か」


 玲奈は黙ったまま視線を落とす。

 翔太郎の軽口に反応せず、ただ不安を噛み殺すように唇を結んでいた。


 その姿を横目で見ながら、アリシアは静かに目を閉じる。

 彼女にとっては覚悟の範疇なのだろう。

 そして心音だけが、まだ楽しげに小さく肩をすくめていた。


「ちなみに夏合宿は去年もやったのか?」


「いえ、夏合宿は2年生限定の行事です」


 玲奈がすぐに答える。


「一応、冬にも修学旅行はあるので、それとはまた別ですね。ちなみに1年生と3年生は泊まり込みの試験はありません」


「そうだったのか。てか、冬に修学旅行あるんだな」


 高校なら当然存在する行事だろう。

 去年、普通の高校に通っていた時は1年生だったので、修学旅行自体は無かった。


 だから零凰学園でも普通にあると聞かされて、少し安心すると同時に、今でも楽しみの一つになっている。


「修学旅行……私も楽しみ」


 横で本を閉じたアリシアが、柔らかい笑みを浮かべながら口を挟んできた。


「普段は誰かと遠くまで旅行なんて行かないから、皆で一緒に行けるのは特別な気がする」


「おお、アリシアがそんなこと言うなんて珍しいな」


 翔太郎は思わず笑う。

 あまり人とは関わろうとしてこなかった彼女を知っているからこそ、こういう一面に少し驚かされる。


「翔太郎は? 旅行とかで遠くに行ったことある?」


「んー……遠くって言っても、行ったのはせいぜい草津くらいかな。関東地方から出たことが無いからさ、観光地にはあんまり縁がなくて」


「そうなんだ」


 アリシアは小さく笑った。


「じゃあ、修学旅行が翔太郎にとっては、初めて関東地方以外の冒険になるのかもね」


 その声音はからかいではなく、どこか親しみの込もったものだった。


 普段の冷淡さを少しも見せず、ただ柔らかに翔太郎の答えを受け止める。

 その無防備な笑顔に、翔太郎は一瞬だけ返す言葉を見失った。


「私はまぁ……色々、海外を回ったことあるけど」


「逆にアリシアは、ドイツと日本以外にどこか行ったことがあるのか?」


 アリシアは少し目線を遠くにやる。


「小さい時に、お祖父ちゃんにイタリアとオーストラリアに連れて行ってもらったことがある。どっちもドイツとは、文化も景色も全く違っていて新鮮だった」


「そういう話、すごい羨ましいな。俺もヴェネツィアとかメルボルンとか一回でいいから行ってみたいわ」


 翔太郎は純粋に感心する。

 自分が足を踏み入れたことのない世界の話に、思わず耳を傾ける。

 少し落ち着いたら、海外旅行なんてしてみても良いんじゃないかと思うぐらいだ。


 アリシアはそんな彼を見て、ふっと唇を緩めた。


「……もし興味があるなら──いつか、連れて行ってあげてもいい。私は色々な国の言語を喋れるから、通訳にも困らないと思うし」


 言葉を切り、少し躊躇いがちに、それでも視線を翔太郎から外さず続ける。


「──マジで!? 行きたい行きたい!」


 思わず椅子から前のめりになるほど翔太郎が食いついた。

 アリシアはそんな彼の反応がおかしいのか、滅多に見せない笑みを零す。


 ──その瞬間、横にいた玲奈と心音は思わず息を呑んだ。


「……」


 氷嶺玲奈は、ただじっとその光景を見ていた。

 アリシアが翔太郎に歩み寄っていく姿を、彼女はここしばらく見続けていたから理解はしている。


 理解しているのに、胸の奥がざらりと波立つ。

 彼女が笑う時、翔太郎も同じように笑う──その事実がどうしようもなくモヤモヤを残して、言葉にならなかった。


(……楽しそうですね。二人とも)


 普段なら笑顔を見せないアリシアが、こうして翔太郎と二人で楽しげに話している。

 アリシアが少し立ち直れた様で嬉しいはずなのに、どういうわけか心の奥がもやもやする。


 自分でも理由はよく分からない。

 ただ、二人の間に流れる柔らかい空気が、胸にチクッとした違和感を残すのだ。


 一方、白椿心音は真逆の反応を見せた。

 目を丸くしてアリシアと翔太郎を交互に見比べ、やがて口元を隠すこともなくニヤニヤと笑い出す。


「ちょっ……な、なにそれ!? 海外デートの約束!? アリシアさん、やりますねぇ!」


「いや、別にそういうつもりじゃ……」


「アリシアがこんな短期間で鳴神くんと仲良くなってるとか、マジで信じらんない! しかも二人で笑い合っちゃってるとか、なんか仲良くてずるいー!」


「ず、ずるいって何の話なの。心音」


「鳴神くんも嬉しそうに行きたいとか、完全にデートじゃん! 凄いよ、こんなアリシア初めて見たんだけど!」


 顔を真っ赤にしたアリシアが視線を逸らす。

 その様子を見て心音はさらに勢いづき、椅子の背に身を乗り出して翔太郎の肩を軽く叩いた。


 彼女の無邪気な揶揄いが、玲奈の内心のざわめきをさらに大きくする。


 言葉には出さない。

 ただ、胸の奥にしまったまま、冷静な顔で二人のやりとりを見守るしかなかった。


 ──明らかに、5月初めの冷淡なアリシアとは別人。

 その変化に、驚愕と戸惑いと、そしてほんの少しのモヤモヤが交錯する。


「え、いや、行く時はみんな一緒だろ? 玲奈も心音も、あとフレデリカさんとか……ついでにソルシェリアも」


 そう言うと、三人の顔がこちらに向いてくる。


「はぁ……鳴神くん、本当にそういうとこ……」


「そ、そう。翔太郎の言う通り、会話の流れ的に初めからみんなで行きたいと思ってたし」


 アリシアは慌てて言葉を付け加える。

 翔太郎の発言が、意図せず自分の発言を助けてくれたように思え、ホッとした顔を見せる。


 全くデートのつもりなどなかったので、ただ自然に旅行を考えていただけなのだ。


「……私も、行っていいんですか?」


「ん? 当たり前だろ。ていうか、初めから玲奈も連れて行く気だったし」


「──っ」


 胸の奥に小さな安堵が芽生えるのを感じる。

 翔太郎がアリシアと二人きりで行くのではなく、自分もしっかり旅行に入っていることに、何故か少し安心したのだ。


 理由は自分でもよく分からない。

 理屈ではなく、単純に嫌じゃないと思っただけなのだろう。


 ──と、その空気をぶち壊すように、廊下の向こうから妙に軽快な足音が近づいてきた。




「ふっふっふ……! なるほどなるほど、これはスクープの香りがプンプンしますねぇぇぇ!」




 大げさに両腕を広げて現れたのは、新聞部の御手洗だった。

 片手には分厚いメモ帳、もう片方の手にはカメラ。

 目はギラギラと輝き、完全に獲物を見つけたハイエナのような顔をしている。


「御手洗!? 何でまたお前がここに……!」


「今日こそ鳴神くんに取材をと思ったのですが、まさかこんな場面に立ち会えるなんて!」


 翔太郎が引きつった声を出すより早く、御手洗は机に飛び乗りかけの勢いで身を乗り出した。


「聞きましたよ聞きましたよ! 鳴神くんとアリシアさんが海外デートの約束!? しかもそこに氷嶺さんも絡んで三角関係!? これは夏合宿前の特集記事にできるビッグスキャンダルです!」


「ちょ、ちょっと待って。誰もそんな話は──」


 アリシアが顔を真っ赤にしながら否定しようとするが、御手洗は一切耳を貸さない。


「いやぁ、若いっていいですねぇ! 友情か愛情か、それとも修羅場か! 我らが新聞部が、この一部始終を余すことなく取材させていただきます!」


 突然現れて、こちらにカメラを向けてくる御手洗は不審者そのものだった。

 女子三人が完全にドン引きしている。


「鳴神くん。この人って誰? 知り合い?」


 心音が眉をひそめて小声で尋ねる。


「2年F組の御手洗圭介(みたらいけいすけ)。新聞部みたいなんだけど、先週から付きまとわれてるって言うか……」


 翔太郎が苦々しい顔で答える。

 あれから一週間経っているが、玲奈のいないタイミングを見計らっては突撃取材され続けており、既に顔見知りのレベルにまでなっていた。


「またあなたですか。本当に懲りない人ですね」


 玲奈の冷たい視線を浴びても、御手洗は怯むどころかますます身を乗り出した。


「いやいや、これは懲りるどころか記者魂に火がつく案件ですよ! で、アリシア・オールバーナーさん!」


 カメラをガチャリと構えながら、御手洗がアリシアにズイッと迫る。


「先程、鳴神くんと二人きりで海外旅行のご予定があるとか!? どういった関係なんでしょう!? ズバリ、これは鳴神くんと男女の関係にあると言っても差し支えないですか!?」


 その瞬間、図書室の空気がわずかに張り詰める。

 玲奈は机に手を置き、絶対零度の視線を御手洗に向ける。


「なっ、ち、違う……! そ、そういう話じゃ……!」


 アリシアは椅子をきしませて後ずさる。

 顔がみるみる赤く染まり、視線は泳ぐ。

 普段は冷静で落ち着いていて淡々としているアリシアだが、根は臆病な性格である。


 翔太郎以外の男子に免疫が無いのもあってか、追い詰められるとまるで小動物のように震える。


「でもでも、さっき鳴神くんと息ぴったりでしたよね? これはもう確定的な──」


 御手洗はカメラをカシャカシャ鳴らし、さらに畳みかける。


「ちょ、ちょっと! 本当に違うから! そ、それに……そもそも、私は……」


「ほぉぉ、しどろもどろですねぇ。動揺しているのは図星だからでは!? これは記事映えしますよ〜!」


 御手洗はまるで子猫を追い詰める意地悪な人間のように楽しげに距離を詰める。


「や、やめてっ……!」


 アリシアは顔を両手で隠してしまう。

 その姿に翔太郎が慌てて立ち上がった。


「おい御手洗、いい加減にしろ」


「ちょっと……御手洗くん、だっけ? 人の断りなく、勝手に写真撮るのって、さすがにどうかと思うけど?」


 心音も思わずため息交じりに口を出す。

 語気には、普段の揶揄いとは違う真剣さがあった。


「鳴神くんはどうなんですか? アリシアさんとお付き合いしてるんですか!?」


 御手洗は相変わらず調子に乗り、矛先を翔太郎に向ける。

 止める者がいてもお構いなしだ。


 その瞬間──玲奈が机を強く叩いた。


 轟音と同時に、図書室の空気が一瞬で凍りつく。

 冷気がゆっくりと漂い、御手洗の体にまで寒気が伝わる。


「いい加減にしてください。さっきから、翔太郎にもアリシアにも失礼ですし、迷惑です」


 言葉には怒りだけでなく、圧倒的な威圧が込められていた。

 その場にいた全員が思わず息を呑む。

 アリシアは手を顔から離して震えながらも、玲奈の背後に回り込んで小さく安堵した。


「ぼ、僕は単純にスクープを……!」


「さっきスクープじゃなくてスキャンダルって言ってましたよね? それに、翔太郎とアリシアの二人は、決してそういう関係ではありません」


 えらく二人が恋人では無いことを、強調したような口ぶりで玲奈が冷気を漂わせる。


「それが分かったのなら、さっさと消えたらどうですか? これは最後通告ですよ。この学園において、十傑三人とそれに匹敵する能力者一人を敵に回したらどうなるかぐらい、愚かなあなたにも分かるでしょう?」


 御手洗は一歩後ずさる。

 手に持ったカメラがわずかに揺れ、顔面は青ざめている。


「ひ、ひぃっ……!」


 いつものお調子者ぶりは影も形もなく、まるで丸腰で巨大な氷の壁に押し込まれたようだった。

 脱兎の如く、図書室から走って逃げて行く。


「また玲奈に追っ払わせちゃったな……」


「なんかよく分かんなかったけど、人の恋愛事情を新聞にするってどうなのかねー」


 心音は腕を組んだまま、少し呆れた表情で小さくため息を漏らす。


「ありがとう、玲奈……」


「いえ、アリシアも大丈夫ですか?」


「……うん」


 アリシアは玲奈の背中に隠れながら、胸の奥で静かに安心を噛みしめる。


 図書室には凍りついた空気と、微かに残る冷気だけが漂い、事態が完全に収束するまでの数秒が、異様に長く感じられた。

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