第三章1 『白椿心音の独白』
私は、昔から「明るいよね」って言われることが多かった。
どこ行ってもすぐ友達できるし、知らない人にも平気で話しかけられるし、周りからは「悩みなんて無さそうで羨ましい」って言われることも多い。
……まぁ、そういう空気出ちゃってたんだろう。
──本当は、そうしなきゃやってけなかっただけ。
小さい頃にお父さんが死んで、お母さんは……それからずっと、空っぽみたいになっちゃって、精神病院で入院してる。生きてるのに笑ってくれないし、目も合わせてくれない。
だから私は親戚の家を転々とすることになった。
親戚の家をたらい回しにされていた事もあって、行く先々で学校も友達も変わって、仲良くなってもすぐお別れ。どこに行っても大丈夫な子にならないと、すぐ居場所が無くなっちゃう。
だから笑顔は、私にとって防具であり武器だった。
一時期、千葉の南の田舎に住んでた頃があった。
そこにいた親戚の子が、ちょっとした嫌味とか意地悪とかしてきたんだよね。
それくらいなら、いつもは笑ってやり過ごせるんだけど、その時だけは……なんか、全部嫌になっちゃって。
あはは……強い子でいる為の効いてないフリ、限界きちゃったんだろうね。
気付いたら、冬の夜の山道をただ歩いて、どこに行くとかも考えずに、親戚の家を飛び出してた。
足は冷えるし手も震えるし、それでも止まれない。
──私は山で迷子になった。
「寒っ……」
吐いた息が、白くなって夜の闇に溶けていく。
手の先も足の先も、感覚がなくなりそう。
どれくらい歩いたのかも分からない。
さっきから同じような木と石しか見てない気がする。
……バカだなぁ、私。
意地悪されたくらいで家飛び出して……しかもよりによって山道。
今日の夜ごはん、確か鍋だったよね……あったかい湯気、ぐつぐつしてて……はぁ……。
お腹の音が夜にやけに響いて、余計に惨めになる。
戻ろうかなって一瞬思っても、もう道なんて分からない。
街灯もない。スマホも持ってきてない。
あるのは木々の騒めきと、どこからか聞こえる虫の声。
「っ!」
心臓がバクンと跳ねて、思わず立ち止まる。
目を凝らしても、暗闇に飲まれて何も見えない。
怖い。
でも泣きたくない。
泣いたら負け、って思ってたのに……気づいたら頬が冷たくなってた。
涙が落ちる音なんてしないけど、自分で分かる。
──お母さんが昔、言ってた言葉を思い出す。
『悪い子には酷い目にしか合わないのよ。だから、心音は優しい子に育って欲しいの』
そうか。
私、やっぱり悪い子だったんだ。
だって、本当に良い子だったら、誰にでも優しくできる子だったら。
今、こんな寒くて、お腹空いて、怖い思いをしてるはずがない。
震える手で近くの川の水をすくって飲む。
冷たくて、喉がキンと痛くなった。
それでも空腹は収まらない。
身体はますます冷えていく。
川のせせらぎの音が、やけに遠くに聞こえる。
指先がじんじんして、膝から下も重い。
眠い。
ちょっと目を閉じたら、楽になれるんじゃないか──なんて、危ない考えが浮かぶ。
でも、もうどうしたらいいか分からなかった。
耳の奥で、心臓の音ばっか響いてる。
足も、ちゃんと動いてるのかも分からない。
「おーい、大丈夫か! おーい!」
声がした。
暗闇の向こうから、雪でも踏むみたいな音が近付いてくる。
ふらっと視界が揺れて、そこには知らない男の子の顔があった。
「くそっ、生きてるよな? なんで、こんな寒い時期に山にいるんだよ……。まさか俺と同じで修行中か?」
雪解け水みたいに冷えた意識に、声が落ちてきた。
ちょっと低くて、でもどこか少年らしい軽さもある。
「だれ……?」
自分の声が、ひどく掠れているのが分かった。
「こんなとこで何してんだよ。……手、冷たっ!」
がっしり掴まれた手が、火傷しそうなくらい熱い。
あったかい……。
助かったと思うより、なんか涙が勝手に溢れてくる。
「立てる? ……うーん、歩くのはしんどいか」
肩に回された腕が、ずしっと重い。
でも、不思議とその重さが安心をくれた。
「どうして、ここに人が……?」
「あー、俺? 今ちょっと修行中なんだよ。……先生が無茶ばっか言う人でさ、今一週間のサバイバル訓練中」
口調は軽いのに、その言葉の奥に妙な芯みたいなものを感じた。
寒空の下で、平然とそんなことを言えるの、普通じゃない。
「サバイバルって……私と同じぐらいの子供が?」
「君だって何でこんなとこにいんのさ。……もしかして、俺と同じで修行中なの?」
「……違う。親戚の人と喧嘩して、家出してきたの」
「家出ぇ!? こんな真冬に、家出で遭難ってマジで?」
私と同じぐらいの歳の男の子に助けられたあの日のことは、きっと死ぬまで忘れないと思う。
虫の声も、川の音も、もう怖くない。
さっきまで胸を締めつけていた不安が、肩越しに伝わる体温でじわじわと溶けていく。
ついさっき飛び出したばかりなのに──ものすごく久しぶりに、人の温もりに触れた気がした。
その声が、やけにあったかくて……私の胸の奥まで染みこんでいくみたいだった。
彼も、どうやら事情があって山から降りられないらしく、その日は彼の小さなテントで一晩を過ごした。
真冬の山の真ん中で修行とか何を考えてるんだろうと最初は思ったけど、焚き火を囲んで笑いながら話してくれた。
「強くなるために、先生に鍛えてもらってるんだ」
寝袋を貸してくれたり、寒くならないように火を絶やさないようにしてくれたり……ほんの数日だったけど、なんとか励ましてくれる彼がいてくれたから、親戚との暮らしよりもずっと楽しかった。
──これって、吊り橋効果ってやつなのかな。
たった数日の付き合いなのに、私はもう、彼のことが好きになっていた。
やがて、彼の修行の期間が終わり、山を降りる日が来た。
「先生」と呼ばれる大きな男の人が迎えに来て、そのまま私は親戚の家まで送り届けられた。
普段は意地悪ばかりしていた親戚も、私が遭難しかけたと知っていたからか、顔をくしゃくしゃにして泣きながら抱きしめてくれた。
あの時のあの人たちは、たぶん本当に私のことを心配してくれていたんだと思う。
その様子を見て、私をここまで送ってくれた男の子は、何も言わずににこっと笑って背を向けた。
……でも。
どうしても、せめて名前だけは聞いておきたかった。
本当なら、彼と過ごした数日間の内に聞けば良かったと、この時本当に後悔した。
咄嗟に声を張る。
「ねぇ! あなたの名前は──!?」
振り返った彼が、あの時と同じ笑顔で口を開く。
「俺は────」
その瞬間、隣の道路を何台もの大型トラックが、まるでわざとみたいに爆音を立てて通過していった。
耳を刺すような音にかき消されて、彼の名前は一文字も聞こえなかった。
「──元気でな!」
代わりに届いたのは、冬の空よりもまぶしい笑顔と、その短い言葉だけ。
その時、気付いてしまった。
胸が、今までにないくらい早く、強く、鳴っていることに。
それから私は、何度も何度もあの男の子を探した。
でも、もう二度と会うことはできなかった。
あの時はあんなに鮮やかだったはずの顔も、声も、今ではすっかり霞んでしまっている。
もし今、誰かに「まだその子のことが好きなの?」と聞かれたら……多分、分からないって答える。
でも、もしもう一度だけ会えるなら、あの日のお礼だけは、ちゃんと伝えたい。
名前も聞いて、笑って「ありがとう」って言いたい。
これが私、白椿心音の──忘れられない淡い初恋の記憶。