第二章49 『大雨の温もり』
「話をしよう。アリシア」
低く、けれど確かに響く声が、雨音の中でアリシアの耳に届いた。
少女は振り向く。
頬に張りつく濡れた髪の奥、その目には深い疲労と、涙の痕が滲んでいた。
目を開いたまま泣き続けたのだろう。
まるで、涙で心の内側を洗い流すように。
「──っ」
そんな彼女のあまりに弱々しい姿に、翔太郎も言葉を失った。
ほんのわずかに、足が止まる。
「なんで、ここに……?」
アリシアの声は掠れていた。
信じられない、でも願っていた──そんな矛盾が滲んだ声だった。
なぜ、彼がここに。
自分は一人になりたかったのに。
誰にも会いたくなかった。
自分を見つめられるのが、怖かった。
翔太郎が倒れ、玲奈が泣き崩れ、自分も疲れ果てて眠りについた。
そして、目覚めてしまった。
ローフラムの死も、カレンを殺した事実も、四季条の影も、全てが胸に重くのしかかってくる。
もう限界だった。
何も考えたくなかった。
だから、この大雨の中に逃げた。
この冷たさで、心を凍らせてしまえば、いっそ楽になれるかもしれないと思ったから。
けれど、彼は来た。
わざわざ自分を見つけに。
こんな雨の中、ずぶ濡れになりながら、迷わず自分の名を呼んでくれた。
アリシアの胸が、じくじくと痛む。
「帰ろう。アリシア」
翔太郎は歩み寄り、濡れた前髪の奥から、まっすぐに彼女を見つめる。
「こんな大雨の中、傘もささずにいたら風邪ひくぞ」
言葉は優しくて、まるでどこか懐かしい響きがあった。
アリシアは俯いて、唇を噛む。
肩が、震える。
それは寒さのせいではない。
翔太郎は、そんな彼女のそばに、静かに立ち尽くす。
「アリシア。そういえばさ、昨日、夕飯食べてなかっただろ?」
ぽつりと、何気ない声。
「まぁでも……埠頭に突入する前だったし、食べる気にもなれなかったよな」
その口調に、責める色はなかった。
まるで、ただ彼女の孤独に、そっと触れようとするかのように、優しく穏やかに語りかける。
「……」
アリシアは顔を伏せたまま、黙っている。
濡れた金髪が頬に貼り付き、震える指先が自分の裾をぎゅっと掴んでいた。
「疲れて、寒くて、腹減って、一人で蹲ってたら、変なことばっか考えちゃうだろ。あの屋敷で、みんなアリシアのこと心配してるんだ」
「……帰れないよ、私は」
ようやく絞り出した声は、ひどく脆く濁っていた。
否定されることを恐れるように、わずかに首を振る。
「なんでだよ。あそこはアリシアの家だろ?」
「なんで翔太郎は、そんな平気そうな顔して私に近付くの……?」
ようやく顔を上げたアリシアの瞳は、真っ赤に腫れていた。
ずっと泣いていたのだろう。
そして、それは誰にも見られたくない姿だった。
それでも彼女は、歯を食いしばりながら、震える声を絞り出す。
「見たところ、傷も疲れも全然治ってない。そんな状態で……どうして、私なんかのために……」
翔太郎は、少しだけ困ったように、けれど柔らかく笑った。
「そうだよ。身体中めっちゃ痛いし、すごい疲れてる。本当はゆっくり寝ていたい。毛布かぶって、目を閉じて、何も考えずにさ……」
言いながら、肩を竦める。
「──でも誰かさんが、こんな大雨の中、一人きりで外に出てきたんだから。……追わない訳にいかないだろ」
優しい声音だった。
怒っても、責めてもいない。
ただそこにいて、隣に立ってくれている。
それだけで、胸が苦しくなった。
アリシアは、また小さく首を振った。
ぽたぽたと、雨と混ざって涙が落ちる。
自分でも止め方が分からない。
一人になりたかった。
誰にも会いたくなかったはずなのに。
「だって、今回は翔太郎も玲奈も、私に巻き込まれたようなものでしょ……? 二人とも私について来て埠頭倉庫に行って酷い目に遭ってる。怒ってもおかしくないのに……」
雨の音にかき消されそうなほど、掠れた声。
泣き過ぎて声が出ない。
けれど、言わずにはいられなかった。
「ゼクスが玲奈を狙っていて、四季条が裏で手を引いてた以上、あれは俺の戦いでもあった。俺がアリシアに怒る理由なんてない」
変わらぬ声で、翔太郎がそう答えた。
責めもせず、憐れみもせず。
ただ、事実だけを穏やかに並べたようなその声音が、どうしようもなく温かくて、アリシアはその場に崩れそうになった。
翔太郎が、一歩、こちらに近づく。
アリシアは無意識に後ずさる。
「翔太郎はそう言っても……玲奈はきっと、私を許さない!」
そう叫ぶことで、自分の中にあるどうしようもない恐れに蓋をしようとした。
氷嶺玲奈が、どれだけ目の前の少年を大切に思っているか分かってるからこそ、酷い目に巻き込んだ自分自身を許せなかった。
「二人一緒なんて言ったけど、私は……四季条との戦いで、ずっと翔太郎に守られてるだけだった!」
握った拳が震えていた。
どれだけ戦っても、どれだけ強くなろうとしても、届かない。
彼の背中は、いつも遠く、なのに温かくて、それがたまらなく悔しかった。
けれど、翔太郎の足取りは止まらない。
まるで何かを確かめるように、雨をかき分け、迷いなく彼女のもとへと歩み寄ってくる。
「いつも──いつも思ってたの」
アリシアの声は震えていた。
歯を食いしばっても、どうしても止まらない。
「私は誰かの近くにいていい人間なんかじゃない。近くにいた人たちを、一人残らず不幸にしてしまうから。だから、零凰学園を卒業したら……一人で夜空の革命を探して、一人で倒すことだけが、私に許された贖罪だと思った」
声が詰まった。
涙と嗚咽が、喉を塞ぐ。
「誰かに声をかけられても、すれ違っても、曖昧に言葉を返すだけで……。それ以上、近付こうなんて思ってもみなかった。心音も、フレデリカも、ソルシェリアも、今は一緒にいてくれてるけど、いつ私のせいで酷い目に遭うか分からない。だから、早く強くなって、一人になろうって──そう思ったのに……!」
胸の奥に溜め込んでいた感情が、ついに決壊する。
アリシアの膝が折れそうになるほどの痛みと共に、嗚咽が溢れた。
泣くつもりなんかなかった。
ただ、平気なふりだけはしたかったのに。
「──でも、出来なかった!」
叫ぶような声が、冷たい雨の中に割り込むように響いた。
その声には、怒りも、悔しさも、惨めさも、孤独も、すべてが詰まっていた。
まるで、長年胸に押し込めてきた感情が、堰を切ったように溢れ出したかのようだった。
「何度も死にたいって思ったの。屋敷で誰にも気づかれないように、静かに喉を裂こうとした。夜中に誰もいない場所で、何時間も風に晒されながら、凍えて──凍死すればいいって、本気で願った」
雨音に混ざって、しゃくり上げるような嗚咽が聞こえた。
「それでもダメだった。私には死ぬ勇気すら無かった。生きていても良いことなんか一つもなかったのに、それでも、死ぬのは──もっと、もっと怖かった……!」
ぼたぼたと落ちる涙は、頬を伝うよりも先に雨と混ざって地面に落ちる。
「誰か助けてって言えなかった。言えるはずがなかった。だって、私なんかが誰かを頼ったら、その人をまた不幸にするかもしれないから」
苦しげな吐息と、涙混じりの声が、空気の温度をひどく冷たくする。
翔太郎は、それでも何も言わなかった。
言葉で彼女の痛みを覆い隠すようなことはしなかった。
表情を変えず、責めもせず、ただその叫びを、全身で受け止めていた。
雨が叩く音の中、ただ一歩ずつ、確かにアリシアに近づいてくる。
「本当は私だって、誰かに傍にいて欲しかった」
アリシアの声が、今度はひどく小さくなった。けれど、かえって痛いほどに響いた。
「一人が怖いって言ったら、黙って抱きしめてほしかった。誰かを傷つけるんじゃなくて……誰かを幸せにできる、そんな自分に……なりたかったのに……」
ぽたり、ぽたりと、最後の防波堤が崩れるように、アリシアの目から涙が零れ落ちた。
声にならない嗚咽が喉を震わせ、それすらも、雨がすべて流していく。
翔太郎は、ただ彼女のそばに立っていた。
誰よりも静かに。誰よりも強く。
そして──その胸の奥で、静かに思考が燃えた。
(俺の戦う理由は──)
鳴神翔太郎が戦う理由。
夜空の革命を倒すため?
そうかもしれない。
組織のやっていることは絶対に許せない。
何十人、何百人の命を踏みにじり、笑って見下ろしてる連中だ。
客観的に、翔太郎の行動は『復讐』や『報復』と思われてもおかしくはない。
陽奈の弔い合戦をするため?
確かに、それもある。
夜空の革命から、まだ妹の心臓は取り戻せていない。
陽奈の遺体も──まだ、どこにも見つかっていない。
妹が生きてた証を、この手で取り返したい。
(陽奈の尊厳を取り戻すことも、夜空の革命を倒すことも──間違いなく、俺にとって大切な理由だ)
それでも、本当にそれだけなのか?
今、目の前には──泣いている少女がいる。
大粒の雨に濡れながら、震える肩を隠そうともせず、むき出しの感情を晒している。
強がることも、虚勢を張ることも辞めて、ただ、痛みによろめいている少女が。
あの日を思い出す。
故郷が焼け落ち、目の前で最愛の妹が連れ去られた、あの無力な瞬間を。
剣崎大吾に助けられ、孤児院の小さなベッドで目を覚ましたあの瞬間を。
自分だけが生き残ったことが信じられず、存在理由を見失い、ただ虚しさに潰されそうだった瞬間を。
そして──強くなろうと、誓った。
(もう、誰も泣かせない為に。あんな思いは、誰にもさせないって──)
それが、鳴神翔太郎の戦う理由。
どんなに理屈や大義名分を重ねても、根っこにあるのは、ただそれだけだった。
目の前のアリシアは、かつての自分そのものだ。
死ぬこともできず、生きることも怖くて、それでも何かを諦めきれずに、ただ立ち尽くしている。
なら、出来ることは一つしかない。
「──初めて、アリシアの本当の顔を見れた気がする」
雨の音だけが静かに響く中、翔太郎は言った。
その声は、どこまでも穏やかで優しかった。
「アリシアが、自分の存在を許せないって言うなら──俺が代わりに、何度でも許す。アリシアがここに居ても良いんだって、何度でも肯定するよ」
「……」
「アリシアはここにいる。ちゃんと生きてる。痛みも、弱さも、全部抱えたままで。それでもまだ立ってる。まだ戦おうとしてる。普通の人はそんなに頑張れないし、それって、凄いことだと思うんだ」
アリシアは返事をしない。
でも、その唇は小さく震えていて、今にも何か言い出しそうだった。
だから翔太郎は、そっと微笑んでこう言った。
「もう泣くな、アリシア」
「……っ」
「アリシアは無愛想なくせに、意外に義理堅くて、案外抜けてて、隠し事を口滑らすようなアホっぽいところがあるってだけじゃない。本当のアリシアは、すごい臆病な奴だってことを、俺はよく分かったからさ。それだけで、十分だよ」
その声はまるで、冬の底冷えを溶かす焚き火のように、静かに優しくて、どこまでも温かかった。
それだけで──アリシアの胸の奥に閉じ込めていた悲鳴が、ぐらりと揺れる。
だが。
「私はいつ、また自分が抑えられなくなって、黒炎が暴れ出すか分からない。……いつまた、誰かを傷つけるか、取り返しのつかないことをしでかすか、私自身にも分からないの」
その声は震えていた。
怒りではない。涙でもない。
心の奥に根付いた、自分自身への恐怖。
爆炎のプリンセスへと変貌してしまう恐怖。
──それが彼女の喉を締めつけていた。
「そんな私が、どこに居て良いって言えるの!?」
言葉の終わりには、必死な叫びがにじんでいた。
自分を許すことができない。
過去の罪に押し潰され、未来に希望を見いだせない。
生きることが、ただ罪滅ぼしにしか感じられない。
それでも翔太郎は──ひとつも眉を曇らせることなく、彼女を真っ直ぐに見つめ続けていた。
「俺たち仲間と、ローフラムが残したあの屋敷が、アリシアの帰る場所であり続ける。俺が、そう決めたんだ」
「──っ!」
たったそれだけの言葉が、凍てついた心を、強引にでも抱き締める。
アリシアの瞳が、激しく揺れた。
「帰ろう。アリシア」
その時、翔太郎がそっと手を差し出した。
まるで、深い闇の底にいる彼女を、引き上げようとするように。
それを見たアリシアの右手が、思わず動きかけた。
──けれど。
「ダメ……っ」
その右手を、左手で掴んで止める。
彼女自身が、翔太郎の手を拒絶する。
怖いのだ。
触れてしまえば、壊れてしまいそうで。
彼の優しさに縋ってしまえば、罪が軽くなるような気がしてしまう自分が、何よりも怖い。
「私、私……!」
吐き出すような嗚咽。
堪え切れなかった叫びが、雨に混じって響く。
「──カレンを焼き殺したのは、私なんだよ」
胸を裂くような懺悔。
その声には後悔も罪も絶望も、全てが詰まっていた。
誰に責められるでもなく、自分自身を責め続ける少女の魂が、そこにむき出しになっていた。
「四季条がゼクスを殺した時、カレンも一緒に消滅した。あのカレンは……ゼクスの能力で生かされていただけ。死体に、偽りの命を与えられたゾンビだったの。これがどういう意味か分かる?」
翔太郎はただ、黙ってその告白を受け止めていた。
逃げもせず、目を逸らしもせず。
彼女の罪を、全て知っていた。
高笑いのゼクスから聞かされていたから。
──それでも、何も言わずに聞き続けた。
アリシアが、きちんと自分の言葉で、自分の過去と向き合おうとしているのだから。
「カレンが死んだのは、もっと前。ヴァルプルギスの炉で、私と一緒に実験動物にされてた頃。暴走した私が……カレンを焼き殺した」
アリシアの瞳が震えていた。
嗚咽に濡れた唇が、それでも言葉を紡ごうとしていた。
喉の奥から、何かを吐き出すように。
「私は人殺しなんだよ。人間じゃないんだよ! そんな私が、翔太郎に手を引かれて、救われて……みんなのいる、あの暖かい場所に……帰れる訳が────!」
強く、激しく、包み込むように、翔太郎がアリシアを抱きしめた。
「──っ!?」
アリシアの身体がびくりと跳ねた。
だが、抗うよりも早く、彼女の細い肩は翔太郎の腕に包まれていた。
揺るぎない力で。
この世のどんな罪も、どんな過去も、吹き飛ばすような力強さで──。
「ごめんな、アリシア。本当は全部知ってたんだ。カレンの死因を」
「……っ」
「あの地下空間で、ゼクスから聞かされた」
「あの時、私に何か言おうとしてるゼクスに紫電を浴びせたのは……」
「そうだ。ゼクスがアリシアにその事を伝える前に、俺が気絶させた。悲しんでほしく無かったから」
アリシアの肩が、震えた。
その事実も分かった上で、翔太郎は来てくれた。
逃げ場のない告白に、心の奥底が抉られる。
「でもそれは、アリシアがやりたくてやったことじゃない。そうだろ?」
アリシアの目が、涙に滲んで歪む。
「それでも、私がやったって事実は何も……」
「確かに、それは変わらないかもしれない。俺がゼクスのせいだって言ったとしても、アリシアはきっと自分を許さないと思う」
翔太郎は言葉を止めた。
そして、決意を込めた声で続ける。
「でも、それでも──俺は、アリシアを迎えに来たんだ」
「……ぁ」
「お前がどれだけ過去を憎んでも、自分を責めても、俺はアリシアを仲間だと思ってる。ずっとずっと……そうだったんだ」
アリシアの目から、堰を切ったように涙が溢れる。
唇を震わせながら、声にならない嗚咽を押し殺すように肩を震わせた。
「だったら……っ、どうして、どうしてそんな顔で……私なんかを……!」
「──アリシアを一人にさせたくないからだよ」
言い終えた瞬間、翔太郎は彼女を力強く抱きしめた。
大雨の轟音さえも貫くような、雷鳴のような言葉だった。
「それにさっき、生きてて良いことなんて何一つなかったって言ってたけど──本当に、そうか?」
「……!」
「カレンと笑い合った日々も、ローフラムと過ごした時間も。フレデリカさんに紅茶を淹れてもらって、ソルシェリアのマシンガントークに付き合わされて、心音と笑いあった放課後も。玲奈に、ようやく“アリシア”って名前を呼ばれたあの瞬間も。──本当に、何一つ良いことなんてなかったのか?」
アリシアの心が、じわりと揺れる。
「きっと気付いてないないだけだよ。アリシアの周りには、俺以外にも、アリシアと一緒にいたいって言う人がこんなにもいるんだ」
「私の周りに……?」
「それでも、自分を許せないって言うなら──」
翔太郎の声が、一段と強くなる。
「──俺が、アリシアを何度でも許す。何度でも、傍に居続ける。アリシアがどんなに自分を嫌っても、俺だけは、アリシアを受け入れ続ける」
その言葉は、まるで雷鳴のように鳴り響いた。
ずっとアリシアの中で凍りついていた何かが、崩れていく。
「だから……アリシアは、笑って生きていいんだ」
翔太郎の胸の中で、アリシアの心が、嗚咽とともに震えだした。
「アリシアは──帰ってきていいんだよ」
その瞬間、アリシアの中で凍っていたものが、音を立てて崩れた。
それは、ほんのわずかなきっかけだった。
抱きしめられたまま、震えていたアリシアの手が動いた。
ぐいと、翔太郎の首に腕を回す。
掴むというよりも、縋るように。
「……っあ……う、あ……!」
堪えていた声が、耐えきれずに漏れ出す。
胸元に額を押し当てたアリシアの肩が、かすかに揺れた。
震え、そして──
「……うあああああああああああああああっ!!」
爆ぜるような嗚咽が、嵐のように吹き荒れた。
ずっと泣くことを許されなかった少女が。
泣いたところで何も変わらなかった少女が。
弱さを見せたら殺されるだけだった少女が。
初めて、帰ってきていいのだと、傍に居続けると言われたのだ。
「ご、ごめっ、なさ、っ……わ、たし、ほんとは、ずっと……っ!」
ぐしゃぐしゃに崩れた声。
自分でも何を言っているのかも分からないほどの、しゃくりあげ。
アリシアはもう、冷たい能力者でも、復讐者でも、実験体でもなかった。
ただの、一人の女の子だった。
翔太郎の胸元に顔を押しつけ、ぐずぐずと泣きじゃくる。
掴んだシャツの布地に、指先が食い込んでいた。
離したらまた一人になる気がして、怖かった。
「うっ……ぁああああ……っ、翔、翔太郎……!」
首筋に頬をすり寄せる。
髪が濡れる。
涙と、言葉にできない感情のすべてが、翔太郎の服と肌を、降りしきる雨と共に滲ませていく。
「っく、ひぐ……やだ、やだ……もう一人は、やだああああああああ……っ!」
「……うん。もう一人にはさせない。迎えに来るのが遅くて、ごめんな」
その言葉は、アリシアがずっと欲しかった答えだった。
無数の夜を独りで越えた少女に、ようやく差し出された救いの手だった。
翔太郎は、彼女の背を優しく撫でる。
拒絶でも、同情でもない。
ただ、そっと包み込むように──。
その掌があまりに温かくて、アリシアはさらに声を上げて泣いた。
声にならない叫びが、震える喉から途切れ途切れに漏れ出す。
「──ごめんね、ごめんなさい、ずっと……わたし、わたし……!」
涙が、止まらない。
強く在ろうとした心が、もう支えきれなかった。
言葉にならない。
けれど、それでよかった。
翔太郎は、黙って受け止めてくれたから。
痛みも、喪失も、過去も、全てを抱きしめてくれるこの腕が、ただ、そこにあってくれたから。
アリシアの中に積もり積もった、何百回分もの「助けて」が、今、全て解き放たれる。
空っぽだった心に、何かが確かに埋められていく。
誰にも許されなかった願い──「抱きしめて欲しい」という、小さくてささやかな、けれど確かな願い。
叶わないと、ずっと思っていた。
それでも、今──奇跡は、確かに起きたのだ。
迷子の少女が、ようやく帰る場所を見つけた。
雨に濡れながらも、温もりに包まれて。
閉ざされた心の扉が、そっと軋みをあげて開かれていく。
自分を大切にしてくれる誰かの腕の中にいることが、こんなにも温かいものだったなんて──アリシアは、初めて知った。
そして、その温もりを、もう二度と手放したくないと、心の底から願った。
次回で第二章『爆炎のプリンセス』完結です。