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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章48 『帰るべき場所』

 アリシアが屋敷から消えた。


 それを聞いて、誰よりも先に立ち上がったのは翔太郎だった。

 玲奈も反射的に立ち上がり、動揺を押し殺してフレデリカを見据える。


「どういうことですか。フレデリカさん」


「つい先ほどまで部屋のベッドにいらっしゃったのですが、突然、誰にも気づかれずに──」


 フレデリカの手が小刻みに震えていた。

 まるで、アリシアが煙のように、何の痕跡も残さず消えてしまったとでも言わんばかりに。


 剣崎の目が細まり、鋭く空気を読むように動く。


 情報が足りない。

 だが、それでも──胸を圧迫するような悪い予感だけは、確実に募っていた。


 ──アリシアは、どこへ消えたのか。

 そして、なぜ今、このタイミングで。


 その答えのない疑念が、応接室をじわじわと支配し始めたときだった。


「俺、アリシアを探しに行ってくる!」


 翔太郎の声が鋭く響いた次の瞬間──彼は、自身が目覚めたばかりであることすら忘れたかのように、応接室のドアを乱暴に開け、勢いよく飛び出していった。


 外は、大粒の雨が滝のように降っていた。


 雷鳴すら混じる嵐の夜。

 あてもない。

 それでも、翔太郎は迷わず駆け出していく。


 だが、すぐにドアが再び激しく開かれ、彼が戻ってきた。


「先生! 入れ違いになったらアレだから、全員、屋敷に留めておいて!」


 剣崎が目を細めて問いかける。


「お前はどうする?」


 翔太郎は、ずぶ濡れのまま息を荒げながら、力強く答えた。


「アリシアを連れて帰ってくる!」


 そう言い残し、翔太郎は雨の帳の中へと、再び飛び出して行った。

 その背中は、誰の言葉も届かないと知っているかのようだった。


「ったく、アタシの鏡の能力を使えば、アリシアの大体の位置くらいは特定できるってのに……あのバカ」


 ソルシェリアが小さく肩を竦め、嘆くように言った。


「翔太郎!」


 玲奈は、翔太郎の言葉を聞き終える前に、勢いよく席を蹴って立ち上がった。


 追いかけようとしたその腕を、剣崎の大きな手が静かに掴む。


「待て、お嬢ちゃん」


 鋭い制止の声が、空気を断ち切るように飛んだ。


「さっきの翔太郎の言葉が聞こえなかったのか? 入れ違いになるから、ここで待ってろって言ってただろ」


「でも……っ!」


 玲奈は振り払おうとはせず、ただ、剣崎を真っ直ぐ見上げた。

 その瞳には、怒りでも反抗でもなく──ただ、底なしの心配が宿っていた。


「翔太郎は今、誰よりもボロボロなんですよ!? 身体だって満足に動かないはずなのに、それなのに──っ!」


 涙をこらえるように、声が震える。


「こんな大雨の中、傘も持たずに飛び出すなんて……そんな無茶を、なんで……! なのに、翔太郎一人にアリシアを探させる気ですか!?」


 その叫びに、ソルシェリアも小さく息を呑んだ。

 剣崎は眉間に皺を寄せたまま、しばらく玲奈の姿を見つめ、無言のまま頭を掻いた。


「……まぁ待て」


 わずかに笑みを浮かべながら、玲奈の肩に手を置く。


「翔太郎なら、ちゃんとアリシア・オールバーナーを連れて帰ってくる。アイツはそういう奴だ。少なくとも、俺の知る限りではな」


 玲奈を座らせようと手を引くが、彼女は一歩も動かない。

 瞳を逸らさず、力強く立ち尽くす。


 その真っ直ぐな視線に、剣崎は小さく溜息を吐いた。


「事件はひとまず収束したとはいえ、四季条輪廻の位置はいまだ掴めていない。今このタイミングで外を出歩くのは危険だ。特に、夜空の革命の狙いは他でもなく嬢ちゃんだ。翔太郎も、それを懸念してるんだろう」


 玲奈はその場で拳を握りしめる。

 悔しさと、無力さと、翔太郎への想いが胸を押し潰す。


「それでも、私は────」


 その震える指先を見つめた剣崎が、ふと口を開いた。


「──なら、交換条件だ」


「え……?」


 玲奈が顔を上げる。

 剣崎の目は、穏やかに光っていた。


「このまま大人しく待つなら、翔太郎がアリシアを連れて、この屋敷に戻ってくるまでの間に──鳴神翔太郎の全部を、君に教えよう」


 玲奈の目が、驚きに見開かれる。


「翔太郎の……全部……?」


 まるで、全身で息を呑むような反応だった。

 剣崎はその様子に、ひとつだけ小さく笑って、心の中で呟く。


(──翔太郎からは、いつもクールで、頭の回るお嬢ちゃんと聞いていたが……結構懐かれてるじゃないか)


 玲奈の真っ直ぐな想いが、剣崎の胸に何かを残した。

 この少女が、なぜ今ここまで翔太郎に向き合おうとしているのか──それを知ることもまた、翔太郎の全部を知る一部に違いないと思えた。


 雨はなおも、音を立てて屋敷の外を叩いていた。


 翔太郎とアリシアが、そのどこかで再会しようとしているのか。

 あるいは──運命の歯車が、また別の形で動き出そうとしているのか。


 その答えは、まだ誰にもわからなかった。




 ♢




 ──痛い。


 焼けるような痛みだった。

 呼吸のたび、胸の奥に刺さるような疼き。

 治療を受け、応急処置も済んだはずの傷が、それでも悲鳴のように痛み続けている。


 けれど、翔太郎は歩みを止めなかった。


「アリシア……!」


 声を張るたび、喉が掠れる。

 この雨だ。

 きっと、誰にも届いていない。

 それでも──叫ばずにはいられなかった。


 時刻は、午前七時を回ったばかり。

 本来なら空が白み始める時間だが、今日の空は、夜よりも重く沈んでいた。


 黒い雲が空を覆い尽くし、大粒の雨が地面を叩きつける。

 まるで空が怒りに震えているかのようだった。


 街灯がまだ灯っている。

 朝なのに、まるで夜明けが拒まれているかのような暗さだった。


「っ、アリシア……!」


 ずぶ濡れの髪が額に張りつき、視界が歪む。

 足元は泥に沈み込み、靴の中はすでに水で満たされていた。


 どれだけ探しただろうか。

 路地裏、公園、住宅街の影。

 思いつく限りの場所を巡り、もう十数分どころではない。


 ──体温が、奪われていく。

 翔太郎は、まるで自分の身体が自分のものでないような感覚を覚えていた。


 呼吸が浅い。

 頭が重い。目の前がぐらつく。

 吐き気に似た違和感が、喉元にまで込み上げてくる。


(……こんな状態で、動くなって玲奈には言われてたっけな)


 苦笑すら出ない。

 けれど──止まれない。


(アリシアは……一人で、こんな雨の中にいるかもしれないのに)


 その想像だけで、心がかき乱される。

 ──誰よりも、孤独を知っているあの少女が。

 ──誰かを不幸にすることが怖くて、全てを自分の中で飲み込もうとするあの少女が。


 もし今、一人で泣いていたら。

 もし今、誰にも助けを求められずに頭を抱えていたら。


「アリシアァァァァッ!!」


 叫ぶように、翔太郎は名を喉から搾り出した。


 返事は、ない。

 ただ、風の音と雨の轟音だけが耳に残る。


 それでも──それでも、翔太郎は走った。


 痛む足を引きずりながら。

 冷えきった両手で、濡れた壁を支えにしながら。

 まるで自分の心臓がどこにあるのかもわからないほど、ぐちゃぐちゃになりながら。


「見つけてやるからな、絶対に……!」


 どれだけ走ったのか、もう分からない。


 息が切れる。

 視界が揺れる。

 傷が開いたのか、脇腹のあたりがじんわりと熱い。


 それでも止まれなかった。

 まるでこの雨が、アリシアの気持ちを代弁しているような気がしてならなかった。


 握りしめた拳に爪が食い込み、震える足に力を込めた時──ポケットの中で、バイブが震える。


「携帯……? アリシアか!?」


 翔太郎は慌てて携帯を取り出した。

 画面には「氷嶺玲奈」の名前。

 アリシアからでは無かったことに落胆しつつも、すぐさまスライドして、内容を確認する。


『ソルシェリアの能力でアリシアの位置を把握しました。位置情報をメールに送付しておきます』


 読み終えた瞬間、翔太郎の瞳に光が戻った。


「ここか」


 携帯の中で地図が開かれる。

 広場──屋敷の北側、広大なグラウンドがいくつも建設されている運動公園だ。

 一度も行ったことは無かったが、敷地面積は広く、探すのには苦労するだろう。


「なんでそんな場所に……」


 いや、考えるまでもない。

 広大な運動場ならば、見つけるのにも時間が掛かる。

 アリシアが一人になりたいと思って屋敷を出たのなら、少しでも見つかり辛い場所に移動するのは理に適っている。


「ありがとな、玲奈。ソルシェリア」


 彼女たちもアリシアを心配している。

 想いが繋がり、自分の手元に届いた。

 あとは自分が、アリシアに辿り着くだけだった。


「待ってろよ、アリシア……!」


 冷たい雨の中、翔太郎の声が空に消えていく。


 けれどその足取りは、もう迷いなく──真っ直ぐに、彼女のいる方へと向かっていた。




 ♢




 雨が、静かに、しかし容赦なく降り続けていた。


「……」


 朝であるはずなのに、空は夜のように暗く、街灯がぼんやりと黄色い光を滲ませている。

 その下を、アリシア・オールバーナーはただ、歩いていた。


 靴はもうとっくにぐっしょりと濡れ、足の感覚も曖昧になっていた。

 髪も服も、すでに冷たい雨に打たれきって、重く、まとわりついている。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。


 歩く。

 歩いて、歩いて──


 彼女の脳裏には、ローフラムの最期が焼き付いていた。

 血を流し、最期まで孫娘の身を案じて消えた、誰よりも優しくて強かった老人。


 そして、カレン。


(──どうして、あんなことになったの……?)


 足が止まりかける。

 でも止まると壊れそうで、また歩く。


 ──違う。

 カレンのせいじゃない。

 自分が、カレンをあんな風にした。


 彼女を焼いたのは、自分の炎だった。

 感情の爆発も、衝動も──関係ない。

 あの瞬間、彼女の命を奪ったのは間違いなく自分だ。

 カレンは事故だって言ってたけど、それを仕方がなかったの一言で済むなど思ってない。


(カレンは、ゼクスの能力で一時的に蘇っただけだった。それを、私は……)


 もう一度会えたと、都合よく解釈して、現実から逃げた。

 幻想に縋って、罪から目を逸らして──それで、自分を保っていた。


 でも、それは欺瞞だった。

 気が付けば、アリシアは大切なものを、ひとつ、またひとつと自分の手で壊していった。


(私の傍にいたから……みんな……)


 立ち止まった。

 世界が、灰色に見えた。


 そんな自分が、今さら何を救える?

 誰かの役に立てる?

 誰かと、並んで生きていける?


「……無理だよ」


 翔太郎は、血を吐きながらも走り続けていた。

 限界なんて、とうに超えていたはずなのに。

 一人なら逃げられたはずなのに。

 それでも彼は、最後までアリシアを見捨てなかった。


 ゼクスの実験動物でしかなかった自分を「アリシア」と呼んで、当たり前のように隣にいてくれた。


 ──あの時、鏡の世界で翔太郎が倒れた。

 アリシアを庇って、限界まで戦い続けて、そして──最後には崩れるように意識を手放した。


「私のせいで、翔太郎が……」


 今回、運よく誰も死ななかった。

 けれど、次も同じようにいくなんて、思えない。

 剣崎が間に合ったのは、翔太郎があらかじめ連絡を入れていたからで、偶然救われただけ。


 戦いが終わった後、翔太郎の傍らで、玲奈はずっと泣いていた。

 まるで世界が終わってしまったかのような表情で、ただ泣いていた。あの表情は、この先ずっと忘れることが出来ないだろう。


 何もできなかった。

 守られるだけで、傷つけてばかりで、救われるだけの存在で。


「私の傍にいる人は……みんな、苦しむ」


 私のそばにいたから、翔太郎は倒れた。

 私のそばにいたから、玲奈は涙を流した。


 私がいると、みんな不幸になる。

 私の存在が、人の大切なものを壊していく。


 四季条の嘲笑が、耳の奥でこだまする。




『でもさ、悲劇のヒロインってほんと便利だよね。罪を背負った友達、最期に救ってあげました、みたいな顔してさ──その実、満足してんでしょ? 自分は友達を救えたって。そうやって、都合のいい綺麗事で生きてくのって、楽で羨ましいよ』




 あの時、何も言い返すことができなかった。

 だって、自分でもそうだと思ってしまったから。

 自分が焼いてしまって、変えてしまったカレンの罪を一緒に背負うなんて言って、泣いて笑ってくれた彼女を見て、どこか救われてしまった自分がいたから。


 耐えられなかった。

 雨音さえ、もう遠くに感じる。


 アリシアは、足元の石畳の上にそっと膝をつき、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


「ねぇ……誰か、教えてよ」


 冷たい雨が、頬を伝う。

 それが涙なのか、水滴なのか、自分でも分からなかった。


 顔を伏せる。

 髪が顔を覆い隠し、誰にも見えないように。


「──私は何のために、存在しているの?」


 ぽつりと、言葉が落ちた。


「何のために、みんなに生かされてきたの?」


 もしこの問いが誰かに届いたとして、答えが返ってくるとしたら……きっと、それが一番怖い。

 ──雨は、まだ止まなかった。




 ♢




 一方で、オールバーナー邸では、まだ重苦しい空気が流れていた。

 テーブルの上には冷めきった紅茶が置かれ、時計の針の音だけが静かに響く。


 剣崎は椅子に深く腰を下ろしたまま、最後の言葉を絞り出すように吐いた。


「……これが、鳴神翔太郎に起きた全てだ」


 剣崎の言葉が空気を裂いた瞬間、時間が止まったような静寂が訪れた。


 玲奈はまるで、地面ごと心臓を引き裂かれたような衝撃に襲われ、息を呑むことさえ忘れていた。


 ──日本最後の雷使いの名家・鳴神家。

 夜空の革命によって引き起こされた、災害の末路。

 その最後の生き残りが、他でもない、翔太郎だったということ。


「そ……んな……」


 喉の奥で言葉が崩れて、掠れた声しか出せない。

 震える唇を両手で覆っても、心の崩壊は止められなかった。


 剣崎に拾われ、孤児院で育てられ、そして零凰学園に推薦で入学した翔太郎。

 彼の力は、生まれつきの才能なんかじゃない。

 夜空の革命を倒すために、自分の全てを削りながら得た、血と努力の結晶だった。


「初めてカレンに襲われた時……あの時、翔太郎が必死に私を庇ってくれたのは……」


「カレンは黒フードを被っていたんだろう? 組織に強いトラウマを持ってる翔太郎は、嫌でも連想したんだろうな」


「……夜空の革命」


「そうだ。黒フードを被ったカレンが、嬢ちゃんを襲おうとしているのをたまたま目撃した翔太郎は、カレンに紫電を浴びせた。そこでカレンから言われた言葉がきっかけとなったんだ」


 剣崎の低い声が、遠くの雷鳴のように玲奈の鼓膜を震わせる。


 ──黒フード。

 夜空の革命の象徴。

 自分を襲ったカレンがその格好をしていたことが、翔太郎の過去の傷を抉ったのだ。


 あのとき、彼は咄嗟にカレンに向かって紫電を放った。

 その彼女から告げられた言葉は──




『──やっぱり生きてたんだ。お兄さん』




 それが、全ての始まりだった。

 翔太郎はカレンを夜空の革命の一員と疑い、そのカレンが狙っていた玲奈を、影のように守り続けた。


 その言葉がきっかけで、翔太郎は黒フードを被ったカレンを、組織関係者かもしれないと疑念を持つようになり、カレンが狙っていた玲奈を護衛するようになった。


「翔太郎が今日まで嬢ちゃんを徹底的に護衛していたのも、嬢ちゃんが夜空の革命に狙われているかもしれないと考えたからだ」


「……ぁ」


 ずっと、自分は彼に守られていたのだ。


 あれだけ鬱陶しそうな態度を取られたら、普通の人間だったら、まず身を引く。

 ましてや、出会って初日のクラスメイトを、あれだけしつこく護衛しようなんて普通は言い出さない。


 それでも翔太郎は、笑って玲奈の傍にいた。

 もう二度と、組織の被害者を出さないために。


「だから……だから、あんなにしつこく……!」


 ずっと、彼は自分を守ってくれていた。

 嫌な顔一つせずに、玲奈本人からどれだけ鬱陶しがられていても、いつも笑って隣にいた。


 ──それなのに、自分は。


「私はっ……!ずっと翔太郎に守られて……!」


 涙が、止めどなく溢れてきた。


「う……っ……!」


 思わず口元を手で押さえる。

 嗚咽を抑えようとするが、身体の奥から震えがこみ上げてくる。


「は……あ……!」


 後ずさるように、一歩、また一歩と下がる。

 脚が震えて、立っているのもやっとだった。


 知らなかった。

 本当に、何一つ知らなかったのだ。


 翔太郎が、どれだけの過去を背負って生きてきたのか。

 どれだけ傷を抱えて、戦っていたのか。

 そのすべてを、知らないままで──ただ、守られていただけだった。


「私、翔太郎に、何も……何もできてない……!」


 悔しさ、情けなさ、そして、どこにも行き場のないやり場のない感情が、胸を引き裂いた。


「どうして……どうして翔太郎は、私に話してくれなかったんですか……どうして私じゃなくて、アリシアにだけ──」


 呟いた瞬間、自分の心が徐々に黒く濁っていくのを感じた。


「四季条輪廻は夜空の革命の幹部で、奴がアリシアの祖父のローフラムを殺害した張本人だ。翔太郎がアリシアとだけ、唯一秘密を共有していたのは、同じ組織の被害者だからだろう」


 翔太郎は、アリシアとだけ秘密を共有していた。

 同じ喪失を、同じ痛みを知る者として、彼女と分かち合っていた。

 自分の知らない翔太郎を、彼女は知っていた。


 それが、何よりも辛かった。


「私……ただ守られて、甘えて……それだけだった。アリシアのことだって、何も知らずに……」


 玲奈がアリシアと話すようになったのも、翔太郎がいたからだ。

 翔太郎がアリシアと接点を持たなければ、玲奈は彼女のことを知ろうともしなかった。


 祖父を夜空の革命に殺されていたことも。

 彼女と翔太郎が、同じ痛みを知る者同士だったことも。

 自分だけが──何も知らずに、ただ彼の傍にいた。


「翔太郎のことも、アリシアのことも、どうして何も知らずに……二人は、私なんかよりずっと大変な思いをしてきたのに……!」


 重力に引き倒されるように、玲奈の身体が崩れ落ちる。

 床に膝をつき、俯いたまま肩を震わせる。

 涙が、頬を伝って落ちた床を、静かに濡らした。


 剣崎は一歩も動かず、その姿を冷静に見守っていた。

 沈黙の中、フレデリカは俯き、ソルシェリアでさえ何も言わず、そっと視線を逸らしていた。


 翔太郎がどれほどの想いを抱え、それでも前に進んできたか──その重みの片鱗を、ようやく玲奈は知ったのだ。


 そして、自分は。

 彼の隣にいながら、その重さから全く気付けずにいたそんな自分を、心から悔いた。


「……何が、翔太郎のパートナーなんですか」


 ぽつりと、誰に向けたわけでもなく、玲奈の唇からその言葉がこぼれ落ちた。


 自分でも気づかぬうちに、声が震えていた。


「私、翔太郎のこと、本当に何も知らなかったんですね」


 ぎゅっと胸元を握りしめる。

 爪が食い込むほどに、指先に力が入る。


(私はずっと、翔太郎と並んでいるつもりだった。彼の隣で、肩を並べて一緒に戦って──彼のパートナーだと、そう思っていたのに)


 でもそれは、ただの思い上がりだった。


 彼は遥かに遠く、届かない場所で、一人きりで戦っていたのだ。

 その過去に、痛みに、自分は一度たりとも触れてこなかった。


「守られてばかりで、何もできなくて……!」


 視界が滲む。

 涙が頬を伝い、顎からこぼれ落ちた。


 肩が震える。

 呼吸が乱れ、喉が詰まる。


「アリシアとだけ秘密を共有してたのも……当然、ですよね。アリシアは……翔太郎の過去を、零凰学園の生徒で唯一知っていたんですから……」


 自分がどれほど空っぽだったかを思い知らされる。


 翔太郎のことを一番知っていたいと思っていたのに。

 一番近くにいたいと願っていたのに。

 気づけば、誰よりも遠く、蚊帳の外にいた。


「そんなの……ずるい……」


 声にならない嗚咽がこぼれた。


(なんで……なんで、私じゃなかったんですか……)


 そんな感情が喉元までせり上がる。


 思い返せば、いつだって翔太郎は自分を守ってくれた。

 何度、無茶をしてでも庇ってくれたか分からない。


 でもその優しさの裏にある、本当の痛みや過去を、自分は知らなかった。


 知ろうともしなかった。

 翔太郎の隣にいたつもりだっただけで、実際はその背中さえ見えていなかった。


「氷嶺様」


 その瞬間、隣にいたフレデリカが静かに手を伸ばし、玲奈の肩にそっと触れた。

 その手には、慰めも、哀しみも、そして──共感も滲んでいた。


「……」


 そして、剣崎は深く長いため息をついた。




「だが、嬢ちゃんの存在は翔太郎にとって、誰よりも大きな支えになってる」




「……え?」


 思いがけないその一言に、玲奈は顔を上げた。

 だが、目に浮かんだ希望をすぐに打ち消すように、小さく首を振る。


「でも、私……剣崎さんに教えてもらえるまで、翔太郎のことを何も知らなくて……。翔太郎に何もできてなくて……」


 声は震えて掠れる。

 目元を押さえても、止まらない涙が零れ落ちた。


 すると、剣崎は静かに立ち上がり、玲奈の正面で膝をつく。

 その瞳は、まっすぐに彼女を射抜いていた。


 いつもの飄々とした調子とは違う。

 まるで翔太郎に見せるような師としての厳しさと、父のような温かさを湛えて。


「何かをしてやるとか、何かを知ってるとか……そういうのが、支えって意味になると思うか?」


 玲奈は、言葉を失って剣崎を見つめる。


「翔太郎が俺に連絡してくるとき、だいたい孤児院や組織絡みのことばかりだ。でもな、あいつが学園に入ってからは、ガラッと変わったんだ」


 剣崎は、どこか遠くを懐かしむような目で、小さく笑う。


「嬢ちゃんと一緒に料理してみたけど、普通に失敗したとか、シャワーから出たら嬢ちゃんに全裸を見られたとか、嬢ちゃんの寝言が面白くて、笑いを堪えるのが大変だったとか……そんな話ばっかりだ」


 思い出すたび、あのときの翔太郎の声色が浮かんでくるようだった。

 まるで、誇らしげに宝物を見せる少年のように。


「……それ、全部──」


 玲奈は、息を呑んだ。

 それは、彼女にとっても同じように心に残っている時間だった。


 ただの日常。

 けれど、かけがえのない時間。


 それは今日まで彼と過ごした日常の大半。

 まだ彼と知り合って1ヶ月半しか経ってないし、暮らし始めたのも三週間程度だ。


 それでも──翔太郎の日常の中心には、いつも玲奈が隣にいた。


「翔太郎の日常には、もう嬢ちゃんがいるんだよ。自然に。当たり前に。……それって、どれだけ特別なことか分かるか?」


 剣崎の声は、優しさと確信に満ちていた。


「夜空の革命のことを黙ってたのも、嬢ちゃんを信用してないからじゃない。傷付いて欲しくなかった。巻き込みたくなかった。──ただそれだけだ。翔太郎にとって嬢ちゃんが、それほど大切だから」


 玲奈の胸の奥で、何かが締め付けられるような痛みを走らせた。

 涙が止まらない。声も出ない。

 けれど、心は叫び出しそうだった。


「もしも翔太郎が、組織との関わりだけで嬢ちゃんを助けてたんなら、氷嶺凍也とあんな命懸けの戦いをする必要がどこにある?」


 剣崎の問いに、玲奈の呼吸が止まりかけた。


 ──あの夜。

 兄と翔太郎が激突し、自分のために、命を懸けてくれた戦い。


「凍也との戦いは、夜空の革命とは一切関係ない。翔太郎はあの夜、嬢ちゃんの自由と笑顔の為だけに戦ったんだ」


 記憶の中で、あの夜の雷鳴が甦る。

 激突する雷と氷。

 その中央にいたのは、自分を連れ出してくれた翔太郎だった。


 氷嶺凍也との一戦。

 あれだけは、夜空の革命とは何も関係がない。

 正真正銘、翔太郎が玲奈の為だけに戦った一晩だった。


「俺も氷嶺家の詳しい詳細は、翔太郎から聞いている範囲しか知らないが……凍也と戦ったのも、嬢ちゃんを助けるためだ」


「なんで、私なんかにそこまで……」


 言葉は自然とこぼれた。

 玲奈自身も、どうして涙が止まらないのか分からなかった。


「その答えは嬢ちゃん自身が、もう翔太郎から貰ってるんじゃないのか?」


 あの夜、翔太郎があの家から連れ出してくれた。

 自分の人生を投げ出して、氷嶺家の人形だからと、全てを諦め切っていた自分の手を、無理やりにでも引っ張り出してくれた。


 ──友達だから、助けると。


「翔太郎にとって、嬢ちゃんがただの保護対象だったら、わざわざ凍也と戦って家出させるようなは真似はしない。実際、氷嶺家の方が翔太郎のアパートよりずっと安全面で上だろうしな」


 剣崎は、玲奈の頭上に広がる天井を見上げるようにして、小さく息を吐いた。


「でも、翔太郎は──嬢ちゃんが隣にいてくれるから、この終わりの見えない戦いの中でも、笑っていられる。嬢ちゃんの存在が、あいつを“普通の子供”に留めてるんだ」


 玲奈の肩が震える。

 嗚咽を堪えようとしても、溢れ出す涙が止められなかった。


「嬢ちゃんの思ってる以上に──あいつは嬢ちゃんのことばっか考えてる。……ほんと、呆れるくらいにな」


 肩を竦めて、剣崎は苦笑した。


 けれどその笑みに滲むのは、どこか誇らしげな温もりだった。


 玲奈の胸の奥で、何かが小さくほどけた気がした。

 その言葉は、深く沁みわたる春の雨のように、玲奈の中に優しく広がっていく。


 ──翔太郎は、私のことを。

 本当に、そんな風に想ってくれていたんだ。


 気づけば、視界がじんわりと滲んでいた。


 ずっと傍にいたのに。

 何気ない日々を一緒に過ごしてきたのに。

 玲奈は、翔太郎の想いをどこかで信じきれずにいた自分を、心のどこかで責めた。


 でも今、ようやく分かった。


 彼が自分を守ろうとしていたのは、自分を遠ざけたかったからじゃない。

 むしろ一番近くにいて欲しかったから。


「……だから、今回も、あいつを信じて待ってやってくれないか?」


 そっと言葉を重ねる剣崎の声は、まるで年長者が大切な家族を託すようだった。


「今の翔太郎にとって、帰る場所があるとしたら──きっと、それは嬢ちゃんのところだ」


 玲奈の喉が詰まりそうになる。


 帰る場所。

 それは、自分がずっと欲しかった言葉だった。


「……私が、翔太郎の帰る場所に……なれると思いますか?」


 掠れた声で、ぽつりと呟いた玲奈の言葉に、剣崎は力強く頷いた。


「なれるさ。ていうか、もうなってるよ」


 そして、彼は最後にふっと口角を上げると──どこか翔太郎を思わせる、あの茶目っ気のある笑みで言った。


「だからな。あいつがアリシアと一緒に、びしょ濡れで戻ってきた時には──嬢ちゃんから、“おかえり”って言ってやって欲しい」


 玲奈の瞳から、はらりと一粒、涙がこぼれ落ちた。


 それは、悔しさでも、悲しさでもない。

 ずっと胸の奥に抱えていた不安が、少しだけ癒された証だった。




 ♢




 豪雨の帳に、小さな背中が浮かび上がった。

 金髪の少女が、石畳の真ん中で、独り──震えていた。


 寒さか。孤独か。

 それとも、その両方か。


 翔太郎は言葉もなく、ただ足を踏み出す。

 水たまりを蹴る音が、雨音の海に静かに混じる。

 その音に、少女がわずかに反応した。


「アリシア」


 濡れた肩が、びくりと揺れた。

 ゆっくりと、恐るように少女は振り返る。


「……翔太郎?」


 その声には、期待と、戸惑いと、拭いきれない寂しさが混ざっていた。

 今すぐにでも駆け寄りたい衝動を抑えて、翔太郎は優しく微笑んで言った。


「少し──二人で話をしようか」


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