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雷鳴のラストピース  作者: 雨車狸
第二章 『爆炎のプリンセス』
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第二章47 『目覚めた後には』

 誰かが、自分の手を握っている。


「翔太郎──」


 その声に、どこか懐かしい震えが混じっていた。


 弱々しくも、必死な手のひら。

 握り返せないことが、こんなにも悔しいと思ったのは、いつぶりだろう。


 けれどその温もりだけは、確かにずっと──自分のそばにあった。


「翔太郎……」


 呼びかける声が重なるたびに、意識の水面がゆっくりと揺れる。


 泣きそうな、かすれた声。

 でもそこには絶望ではなく、願いがあった。

 何度でも、諦めずに、想いを込めて名前を呼んでくれている。


「翔太郎、お願いします。早く起きてください……」


 霞がかった意識の奥、微かに感じる吐息の気配。

 まるで、頬に触れるほどの距離で。


 たとえこの身が深い眠りの底に囚われていようとも、誰かが自分の名を呼び続けてくれていた。


「翔太郎がいてくれないと、私は……」


 その「誰か」が誰なのか。

 まぶたの裏に、まだ顔は浮かばない。


 けれど、それでも分かる。

 この手を握る温もりも、声に滲んだ必死さも──自分はまた、誰かを泣かせてしまったのだと。


 だから、目を覚まさなければならない。


 何があったのかは思い出せなくても、忘れてはいけないことがある。

 もう、誰も泣かせないために。

 そう誓って、ここまで歩いてきたのだから。


 傷だらけでも、不格好でも。

 戦うと決めたのは、守りたいものがあったからだ。


 その想いだけを頼りに、彼は静かに、意志を取り戻す。


 ゆっくりと──鳴神翔太郎のまぶたが、開かれた。




 ♢




 室内は、ひどく静かだった。

 どこか冷たさの残る、洋風の天井。


 窓越しに差し込む月光が、仄白く床を照らしている。

 薬品と洗浄剤が混じった匂いが、かすかに鼻をくすぐった。


 ──ここは、オールバーナー邸。

 かつて幾度も足を踏み入れたはずの場所。

 けれど今は、まるで初めて訪れたかのように、現実感が遠かった。


 頭の奥で、鈍い痛みがまだ尾を引いている。

 けれど意識ははっきりとしていた。


 何かが終わり、何かが始まろうとしている。

 その予感だけが、胸の奥で、燻るように静かに熱を持っていた。


「……玲奈」


 最初に、唇から漏れたのは──彼女の名だった。


 輪廻の炎に呑まれる直前、ソルシェリアが「彼女は別のフロアに逃がした」と言っていた。

 けれど、あれからどれほどの時間が経ったのか。

 彼女の姿が見えないことが、ずっと翔太郎の胸に、不安という形で巣くっていた。


 目の届かないところで、もし玲奈に何かあったのだとしたら──それだけは、どうしても耐えられなかった。


 だからこそ、無意識に名前を呼んだ。


「翔太郎──っ……!」


 涙混じりの声が、すぐ傍で響いた。


 彼の右手を握っていた、温かな掌。

 それはずっと、彼の命の灯火を信じて離さなかった証だった。

 椅子に座り、必死に眠らず看病を続けていた少女──氷嶺玲奈が、そこにいた。


「翔太郎……! 本当に良かった……」


 彼の名を呼んだ拍子に、震えるように立ち上がった玲奈は、翔太郎の手を握る両手をそっと額に当て、堰を切ったように泣き出した。


「ずっと目が覚めないから、心配してました」


 嗚咽混じりの声は、泣いているのに、確かに笑っていた。頬を伝う涙は尽きることなく零れ落ち、それでも彼女は手を離そうとしない。

 信じて、祈って、ずっと耐えてきた感情が、全てそこにあった。


 翔太郎は、ただ彼女を見つめていた。

 心の奥が、痛いほど熱かった。


 誰かを守りたいと願ったあの日。

 その誰かが、自分をこんなにも必死に守ってくれていたことに──気付かされる。


 玲奈の額に触れる彼の手は、まだ弱々しかった。

 けれど、その温もりを返せることが、何より嬉しかった。


 玲奈の涙が、彼の手の甲に落ちる。

 その一滴一滴が、確かに翔太郎の心を現実へと引き戻していく。


 ──ああ、自分は、生きて戻ってこれたのだと。




 ♢




 泣き疲れたのだろう。

 玲奈はようやく嗚咽を止め、何度か深く息を吸って、落ち着きを取り戻そうとする。


「……みんなは無事か?」


 翔太郎の手を離すことなく、けれど少しだけ姿勢を正し、静かな声で語り始めた。


「第五湾岸埠頭に入った人たちは全員無事です。翔太郎も、アリシアも、ソルシェリアも、フレデリカさんも……あの剣崎大吾さんという方も。誰一人、命を落とさずに済みました」


 その言葉を聞いた瞬間、翔太郎の胸にあった重石が少しだけ軽くなる。


「そうか。もし先生が来てくれなかったら……俺もアリシアも間違いなく死んでたな」


 翔太郎がぽつりと呟いた、その瞬間だった。


 玲奈の肩が揺れる。

 手を繋いでいたのに──まるで手を振り払われたような衝撃だった。


「──翔太郎」


 声が震えていた。

 怒りと、哀しみと、そして恐怖の入り混じった震えだった。


「どうして……どうして、すぐにアリシアを連れて逃げなかったんですか!? 目の前にあった火の海を、何も考えずに飛び込んで……そんなの……!」


 そこまで言って、言葉を飲み込む。

 だが、抑えきれない思いは次の瞬間に爆発した。


「翔太郎が必死になって他人を助けようとするのは立派だと思います。でも何度も死にかけるような目に遭ってまで、何故、自分の命は軽く扱うんですか!?」


 絞り出すように言う玲奈の瞳に、また涙が滲む。

 だが今度は、それを流すまいと強く睨むように翔太郎を見つめていた。


「……それに、戦うって分かってたなら、どうして私を連れて行ってくれなかったんですか」


 今度の言葉は、静かだった。

 けれど、その一言に込められた想いは、ひどく熱かった。


 翔太郎は、目を伏せた。


 ソルシェリアの転移回数を考えれば、玲奈を連れてアリシアの元に戻るという選択肢も、理屈の上では不可能ではなかった。

 だが現実には──無理だった。


 セカンドオリジンを解放した翔太郎と、初解放ながら全力を尽くしたアリシア。

 その二人がかりでも、四季条輪廻には手も足も出なかった。


 あの場に、玲奈を連れて行くわけにはいかなかった。

 どれだけ隣にいて欲しいと思っても、守りきれる保証がないなら、連れて行けるはずがない。


 それに離脱の際にも、剣崎の助けがありながら、アリシア一人を抱えて逃げるのですら精一杯だった。

 玲奈まで一緒にいたなら、どれだけ可能性が削がれていたか。

 想像するだけで、背筋が冷たくなる。

 “可能”と“生還できる”は、全く違う。


 だが、そんな理屈を並べたところで。

 翔太郎は知っていた。


 玲奈が怒っているのは、それが分かっていないからじゃない。

 分かっていて、それでも納得できないからこそ、涙を流しているのだと。


「私は、隣で戦うって決めたのに。あなたが傷だらけになるところを、もう一人ぼっちで過ごすのだけは、絶対に嫌だったのに……」


 その手が、ぎゅっと翔太郎の手を強く握る。

 玲奈の指が震えていた。

 怒りで、怖さで、そして何より──翔太郎が自分の知らない場所で、静かに命を落とすかもしれなかったという現実に、未だ怯えていた。


「……」


 翔太郎は、何も言い返さなかった。


 仮に玲奈を連れていたところで、あの化け物に勝てたとは到底思えない。

 結果は、変わらなかっただろう。

 それでも、きっと彼女はこうして涙を流す。


 だからこそ、自分の口から言い訳めいたことだけは、絶対に言いたくなかった。


 ──自分だって、何よりも玲奈を危険な目に遭わせたくなかった。

 ──誰よりも、玲奈を失う未来だけは、絶対に受け入れられなかった。


 そんな想いを、言葉にする代わりに。

 翔太郎はただ、玲奈の涙の全てをその瞳に映し、静かに、まっすぐに告げた。


「……ごめん」


 それだけだった。

 けれど、その一言に込められた想いは玲奈に届いた。


 痛みも哀しみも、全て引き受けたようなその声に玲奈は目を伏せ、静かに涙をこぼす。


「私も、無理を言ってしまってごめんなさい。翔太郎が、きっと一番大変だったはずなのに」


「いや、玲奈の言ってることが正しい。勝てるかどうか分からない時点で、アリシアを連れて逃げるべきだったよな」


 翔太郎が自嘲するように息を吐いた瞬間だった。


「その通りだな」


 静かに、だが重みのある声が部屋に割り込んできた。

 振り返るよりも早く、扉がいつの間にか開いていた。


 そこに立っていたのは、黒いロングコートを羽織り、強面で大柄な男──剣崎大吾だった。


「先生」


「相手は夜空の革命の正規メンバーだ。逃げられるか分からない以上、戦うなとは言わない。だがな、翔太郎。あの場面で勝てないかもしれないと思ったなら、即時離脱すべきだった」


 その声音に怒気はなかった。

 だが、淡々と語られる一言一言が、鋭く核心を突いていた。


「今、具合はどんな感じだ?」


 問いかけの声は、思ったよりも柔らかかった。

 剣崎なりに、翔太郎の体を気遣っているのが分かる声色だった。


「……単純に、連戦で疲労が溜まってただけっぽい。すぐに起きる」


 そう言って、翔太郎が身体を起こそうとした、その時だった。


「無理に動かないでください。私が肩を起こしますから」


 玲奈が、そっと彼の肩に手を添えた。

 その指先には、まだわずかに震えが残っていたが、支えようとする意思だけはしっかりと込められていた。


 剣崎はその様子を無言で見届け、肩をひとつすくめると、背後の扉にもたれかかった。




 ♢




「鳴神様。目覚められましたか」


「ったく、心配かけさせんじゃないわよ。アンタがぶっ倒れた時、アタシもアリシアもマジで焦ったんだからね?」


 応接室に入った翔太郎を、フレデリカとソルシェリアが安堵したように迎える。

 二人の顔に浮かぶのは、紛れもない安堵と──わずかな緊張の色だった。


「ごめん、二人とも。心配かけた」


「翔太郎、座れますか?」


「うん。ありがとう、玲奈」


 翔太郎は玲奈に肩を貸してもらいながら、ゆっくりとソファへと腰を下ろす。

 一歩遅れて入ってきた剣崎が、後ろ手に扉を閉めた。


「──これで、全員揃ったな」


 そう呟いた剣崎の一言に、翔太郎の眉が不自然にひそめられる。

 言葉の響きに、どこか引っかかるものを感じた。


「……全員?」


 その言葉を反芻するように呟いた時、胸の奥が冷たく締めつけられるような違和感が走った。


 何かが、決定的に足りない。

 今回の事件の渦中にあり、この場にいるべきはずの、あの無愛想な少女の姿が無い。


「アリシアは?」


 翔太郎がその名を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。

 一瞬前まで穏やかだった室内が、まるで誰かが息を呑んだように、沈黙の闇へと落ちていく。


 フレデリカは驚いたように目を見開いたあと、ゆっくりと視線を逸らした。


「お嬢様は……」


 口を開きかけたが、何も言えずに目を伏せる。


 ソルシェリアはふてくされたような態度だったが、視線は翔太郎を見ようとしない。


 玲奈は翔太郎の隣で、唇をきつく結んだまま、沈黙を守っていた。

 その手が、気づかぬうちに翔太郎の袖をぎゅっと握りしめている。


 ──誰も、答えようとしない。


「……先生?」


 翔太郎が苛立ちと不安を隠せず、剣崎に視線を向ける。

 剣崎はそれを受け止めながらも、わずかに表情を硬くし、一歩前へと進み出た。


「まずは今回の事件の顛末を、この場にいる全員に説明する。曲がりなりにも、お前たちは全員、事件の渦中にいた。関係者として、知らなきゃならない現実がある」


「その前に言えよ。アリシアはどこに行ったんだよ」


 翔太郎の声が震えを帯びる。

 怒りとも、焦燥ともつかない感情が、そのまま声に乗った。


「なんで……なんで何も言わないんだよ」


 勢いよく立ち上がった翔太郎の声が、応接室の空気を叩くように響いた。

 椅子が軋み、玲奈が驚いたように翔太郎の袖を引く。


「翔太郎、落ち着いてください」


「フン、今さら騒いだって──どうにもならないでしょ。誰だってあの子の立場なら、きっとああなる」


 ソルシェリアが吐き捨てるように言った。けれどその声にも、どこか陰がある。

 フレデリカは苦しげに眉を寄せ、そっと呟く。


「安心してください、鳴神様。お嬢様自体は無事です。今は自室で療養中ですので、剣崎様のお話はお嬢様抜きで行います」


「そろそろ空気読みなさいよ、翔太郎。アリシアは今、誰かとまともに話せるような精神状態じゃないの」


「……なんだよ、それ」


 翔太郎の声がかすれた。

 吐き出したはずの言葉が、自分の喉元に突き返ってくるような痛みを伴っていた。


 その瞬間だった。

 剣崎が、静かにしかし決然とした声で言い放つ。


「──座ってろ、翔太郎。今から全て説明する」


 その言葉に怒気はなかった。

 だが、その声音には揺るぎない命令の色があった。


 翔太郎は、拳を強く握りしめたまま、何かを言いかけて口を閉ざした。

 目を伏せた玲奈の手が、そっと彼の肩を押さえ、今は座るべき時だと静かに伝える。


 ゆっくりと、ソファに沈み込む。

 苛立ちは消えない。

 しかし、それでも彼は耳を傾けることを選んだ。


「まず、今回の事件の黒幕──四季条輪廻という異能力者についてだ」


 その名が出た瞬間、室内に緊張が走る。


「四季条輪廻は、国際異能テロ組織『夜空の革命』の正規メンバーの一人だ。知っての通り、ゼクス・ヴァイゼンの工房で、俺が直接交戦したが……結果から言えば、奴には逃げられた」


「なっ……!?」


 衝撃が走る。

 請け負った任務は確実に達成する剣崎が、四季条を逃したことについても驚きだが、四季条は本気の剣崎から逃げられる実力があるというのか。


「先生が……。あの四季条は先生から逃げられたっていうのか?」


「そうだ」


 剣崎は、淡々と頷いた。


「判断が遅れた。俺の落ち度だ」


 その一言は、重く落ちた。

 あの剣崎が、自らの判断を『落ち度』と認める姿に、フレデリカはわずかに目を見開いた。

 ソルシェリアでさえ口を挟まず、じっと剣崎を見ている。


 玲奈もまた、隣で小さく息を呑み、翔太郎の肩に添えた手をぎゅっと握りしめた。


「それなりにダメージを与えたつもりだが、問題は──奴がゼクスの能力をコピーして逃げたということだ」


「……ぁ」


 すっかりと忘れてしまっていた。

 四季条輪廻は、あらゆる異能力をコピー出来る。

 ゼクスの灰の異能力は逃走や回避特化の能力であり、翔太郎のように咄嗟に灰の中に砂鉄を仕込むという真似が出来なければ、追跡は難しい。


「四季条のコピー能力……!」


「そうだ。俺の追撃を逃れるために灰を巻き、能力で煙のように消えた。しかも現在、外は大雨だ。痕跡はほとんど残ってないと見ていい。今、警察や国から派遣された異能力者が動いてるが、正直、足取りを追うのは難航してる」


 誰もが言葉を失う。

 剣崎は一瞬沈黙したあと、さらに続けた。


「事件が終息したのは、翔太郎が気絶してから数十分後だ。そこから救急搬送と、警備の再配置を経て、現在は午前六時半。お前が倒れてから、およそ五時間が経過している」


「そうか。俺が気絶して、そんなに……」


「治療については、俺が通報した警備班と治療班が対応した。異能力の過負荷と、体力の限界による昏倒。幸い、命に別状はないと判断された。今ここにお前が座っているのが何よりの証明だ」


 翔太郎は、剣崎の言葉を受け止めきれず、眉をひそめる。

 そんな中、ソルシェリアが腕を組んで口を開いた。


「まあ、アンタが死んでたらアリシアの状態はもっと酷かったと思うし、全員生きてただけマシってやつね。正直、アタシも……もうダメかと思ったし」


「ソルシェリア」


 玲奈が嗜めようとしたが、ソルシェリアは視線を逸らしたままだった。

 その瞳は、どこか翳っている。


 剣崎は言葉を続ける。


「現在、崩壊した埠頭倉庫の地下区域を警察や異能力者たちが捜索中だ。手がかりが残っていれば、そこだろうな」


「そうだ……!」


 翔太郎が顔を上げる。


「あそこには、信じられないぐらい広い地下空間があった。ゾンビと死体を詰め込んでたカプセルもあったし、ゼクスの工房が、きっと四季条を追う手掛かりだってあるかもしれない!」


「過度な期待は辞めておけ。現状では、まだ何も見つかっていない」


 剣崎の言葉に、翔太郎は口を噤んだ。

 そして──


「ゼクス・ヴァイゼンと、ゼクスの能力で動いていたカレンという少女は、死亡が確認された。主犯と実行犯が死亡した以上──連続異能放火事件としての区切りはついた」


 淡々と語られた剣崎の報告。

 その声音は冷静で、何の感情も込められていないように思えた。


 けれど、翔太郎には分かった。

 それが必要な冷たさだということが。


 ……だが、それでも。

 その結末は、あまりに唐突で呆気なかった。


「……っ」


 ソファに沈み込んだまま、翔太郎は奥歯を噛み締めた。


「そうですか……やっぱり、カレンは……」


 玲奈が小さく呟いた。

 震える声。

 まるで胸の奥に氷を落とされたような、そんな声だった。


 玲奈は──カレンと戦った。

 殺す覚悟をもって、相対した。

 だが今、その胸にあるのは達成感ではなく、どうしようもない虚しさだった。


「俺はゼクスとカレンの最期を見ていない。だから、二人の詳細は……お前たちの方が詳しいはずだ」


 剣崎は視線を逸らし、静かに言葉を置いた。


 ゼクス・ヴァイゼン。

 ドイツの違法異能力研究施設『ヴァルプルギスの炉』の元施設長にして、研究者。

 かつて無能力者だったアリシアを、炎の能力者に至る人体実験で強制的に改造した張本人。

 すべての無能力者に異能力を植え付け、選ばれし能力者だけの世界を作ることを真剣に信じていた狂人。


 ──だが、その思想の犠牲者はアリシアだけではなかった。


 カレン。

 あの少女は、幼いころに暴走したアリシアの炎で命を落とした。

 けれどゼクスの能力によって、半ば強制的に蘇生させられた。


 その結果、彼女は人間としての尊厳を奪われ、ゼクスの実験体として生かされ、操られ、今回の事件の加害者となった。


 連続異能放火事件において、最大の被害を出したのはカレンだった。

 その手から放たれた蒼炎は、多くの人命と財産を焼き尽くした。


 たとえ奇跡が起きて、カレンが生き残ったとしても、罪からは逃れられなかっただろう。

 それでも──


「一歩、何かが違ってたら」


 ぽつりと、翔太郎は呟いた。


 玲奈が顔を上げ、視線を向ける。

 だが、翔太郎はただ前を見据えたままだった。


「アリシアとカレンの立場が、逆になってたかもしれない。カレンだって、アリシアと同じように俺たちの仲間になれたかもって……」


 それは、ただの仮定でしかない。

 けれど、翔太郎にはそう思えてならなかった。


 カレンは、選択肢を奪われていた。

 アリシアだって、あのままゼクスの手にあったら、今の彼女にはなっていなかっただろう。


「……カレンは、最後に──アリシアをお願いって、俺に言ったんだ」


 その言葉を思い出すたびに、胸が締め付けられる。


 あれは怪物の言葉じゃなかった。

 ただの、孤独な少女の叫びだった。


 玲奈もまた、思い出していた。

 燃え上がる青い炎。壊れた瞳。

 叫ぶように暴れていた、あの少女の姿。


「カレンに、救いの道は無かったんでしょうか……」


 誰に問いかけるでもない、玲奈の呟き。

 静かに響いたその言葉に、誰も答えられなかった。


 ソルシェリアでさえ、いつものように口を挟もうとせず、じっと沈黙していた。

 フレデリカは目を伏せたまま、息を呑んでいる。


 その場の空気が、痛みと悔しさと無力感で染まっていた。


 ──事件は全て終わった。

 けれど、それが本当に正しい終わりだったのか。

 誰にも、答えは出せなかった。


 翔太郎はただ、心の中で問い続ける。

 あの時、自分たちは──本当に、彼女を助けられなかったのか?


 沈黙が落ちていた。

 誰もが言葉を失い、ただ思い出の断片だけを胸に抱いている。

 悔しさも、怒りも、哀しみも──何一つ癒えないままに。


 翔太郎は、ふと、気づいた。


 ずっと、そこにいるはずの人間が、この場にいない。


 アリシア。


 あのカレンと、最も深く関わっていたはずの彼女が──この報告の場に姿を見せていない。


「……アリシアは?」


 声に出した瞬間、まるで頭を殴られたような衝撃が翔太郎の胸に走った。


 そうだ。

 彼女がここにいない理由は、ただの偶然なんかじゃない。


 ──あれほど冷静で、どんな困難にも決して目を逸らさなかったアリシアが。

 ゼクスとの戦いに勝った後も、平然とゼクスに言い放っていた、あの強い彼女が。


 それでも今、ここにはいない。

 その意味が──やっと分かった。


「……そうか」


 呟いた声が震えていた。

 どこまでも自分は、誰かの痛みに鈍感だったのだと、思い知らされる。


 アリシアはカレンの死を、誰よりも重く受け止めていた。

 そして、誰よりも心の中で罰を背負っている。


 カレンを焼き殺したのは幼い頃の自分。

 彼女を蘇らせ、怪物に仕立て上げたのはゼクス。

 だがその両方に関与しているという事実が、彼女自身を許さないのだ。


 アリシアは──全てを知ってしまい、カレンの死と共に、心の奥に深く沈んでしまった。


 その事に、どうしてもっと早く気づいてやれなかったのか。

 翔太郎は自分の鈍さが悔しかった。

 言葉をかけることもできず、ただ彼女に痛みを背負わせていた自分が、情けなかった。


 その時、静かに立ち上がる気配があった。


 フレデリカだった。

 重苦しい空気のなか、彼女はそのすべてを真正面から受け止めた上で、静かに一礼した。


「──お嬢様の様子を、見てまいります」


 それだけを残して、彼女は部屋を後にする。

 扉が閉じる音だけが、重たく響いた。


 誰もが、同じ思いを抱いていた。

 アリシアを一人にしてはいけないと。


 だが今、この場に向き合わなければならない者たちが、誰もその一歩を踏み出せないでいた。


 だからこそ、フレデリカは静かに動いたのだ。


 翔太郎は拳を握った。

 胸の奥で、何かがゆっくりと燃え上がるのを感じた。


 ──自分が守るべきものは、まだそこにある。

 そして、まだ遅くはないと信じたい。

 彼は、閉ざされた扉の向こうを見つめながら、そう心に刻んだ。


「…………」


 フレデリカが部屋を出て行ったあとも、誰もすぐには言葉を発さなかった。

 静寂が、痛みのように空間を支配する。


 翔太郎は、手のひらで顔を覆いながら、深く息を吐いた。

 その隣で、玲奈は何も言わず、彼の背中をそっと撫でている。

 その手は震えていた。

 カレンとの戦いで交わした言葉が、まだ胸の奥で燻っていたのだ。


 ──本当に、彼女は救われる道を持っていなかったのだろうか。

 その問いの答えは、もうどこにもない。


「…………ったく、やってらんないわね」


 重たい沈黙を破ったのは、ソルシェリアだった。

 その声はいつも通りの棘を持っていたが、どこか気遣うような色が混じっていた。


「カレンって子のことはアタシはよく知らないけどさ。アリシアやゼクスと色々あって、複雑だったんでしょ? でもね、アンタたち。何があっても生きてる方が勝ちって言葉、忘れないことね」


「お前はそれで良くても、俺たちは……」


「違うって言いたいの? 現にアンタだって、玲奈とアリシアを死なせてまで、カレンを連れ戻したいって思ってたの?」


 言いたいことだけを言って、わざとらしく腕を組むと、ソルシェリアは剣崎の方を見やった。


「──それにしても、アンタ何者なのよ」


 不思議そうに眉をひそめながらも、その瞳は鋭く、突き刺すようだった。


「床を全部ぶち抜いて、翔太郎とアリシアのところまで一直線とか……あれ、普通じゃないわ。人間技じゃないでしょ」


 ソルシェリアの言葉に、翔太郎も思わず頷いていた。

 あの時、アリシアと共に四季条に殺されそになった瞬間。

 崩れ落ちた天井の隙間から、剣崎が降ってきたのだ。まるで神か、あるいは戦場の落雷のように。


 剣崎は少し苦笑を浮かべ、ポケットに手を突っ込んだまま、肩をすくめた。


「それを言うなら、人形の君もなかなかだろう? 皆の手前、突っ込まなかったが──君の方こそ、一体何者なんだ?」


 その返しに、ソルシェリアはふんっと鼻を鳴らし、胸を張る。


「よくぞ聞いてくれました!」


 そして、誇らしげに腰に手を当てると、わずかに顎を上げる。


「アタシはソルシェリア。元人間よ」


「……ほう?」


 剣崎は一応頷いてはいるものの、やはり理解は出来てない様子だった。


「あっ、信じてない顔してる!」


「異能力で動いてる自律型の人形って線も追っているし、そっちの方が確率としては高いと思ったからな」


「アタシが、目が覚めたのは今年の一月。気付いたら、この人形の身体で目を覚ましてて、人間だった頃の記憶は一切なし。魂だけがこっちに残ってるってワケ」


「説明が端折りすぎだ」


「別に端折って無いわよ!」


 確かに端折ってはいないのだが、情報量の多さに、さすがの剣崎も困ったように頭を掻いていた。


「っていうか、それ普通、初対面の人間に言うかよ。ソルシェリア」


 思わず呆れ気味に呟いた翔太郎に、人形は腕を組んでふんっと鼻を鳴らした。


「アンタたちに説明した時だって、初対面だったでしょーが。しかも、アンタの先生──その剣崎って人も、アンタと全く同じ反応してたわよ」


「……まぁ、それはそうだろうね」


 翔太郎も思わず苦笑する。

 人形に魂が宿って喋るというだけでも十分異常なのに、「元は人間でした」などと堂々と自己紹介されたら、誰でも絶句するに決まっている。


 剣崎も少しばかり顔をしかめながら、苦笑交じりに口を開いた。


「つまり話をまとめると、君はかつては人間だったが──その頃の記憶は一切ない。気が付けば魂だけ人形に憑依していて、今はアリシアに拾われてここに住んでいる、ということか?」


「そうそう。目が覚めたのは今年の一月。それから、なんとなく彷徨ってたら、アリシアに出会って……って感じね。恩があるかって言われたら、まあ……ないとは言えない、かな?」


 そう言う彼女の声には、少しだけ照れを隠すような響きが混じっていた。

 ぶっきらぼうだが、拒絶はない。

 そこに滲む感情は、確かに感謝に近いものだろう。


「……なるほどな」


 剣崎は腕を組み、思案するように目を閉じる。そして小さく、だが率直にため息を吐いた。


「魂が宿る人形──か。しかも人間時代の記憶喪失付き。さすがにその類の異能力事案は、俺も聞いたことがない」


「翔太郎の話では、剣崎さんは海外で多くの仕事をしていると聞いています。ソルシェリアのようなケースは見たことが無かったんですか?」


 玲奈がそう問いかけると、剣崎は小さく肩をすくめた。


「期待に添えなくて悪いが、見たことも聞いたこともないな。異能力と魂の関係性は、今でも未解明な部分が多い。まして、喋るだけでなく自我があり、異能力まで使える人形となると……おそらく世界初のケースだ」


 その口調には、珍しく正直に困っているような色があった。


「まあ可能性を信じて、元の身体に戻れる術を探ってみるか? 君の能力の本質が何かわかれば、新たな理論の糸口になるかもしれん」


 剣崎の申し出に、ソルシェリアは即座に小さく首を横に振った。


「いいってば。そんなの、アタシが自分で探すわよ。人に任せるような性格に見える?」


 小さな胸を張って、どや顔でそう言うソルシェリア。

 翔太郎が呆れ気味に口を挟む。


「いや……探そうとしてる気配、あったか? ぶっちゃけ、お前ってアリシアの屋敷でずっとゴロゴロしてるだけのニートじゃん」


「誰がニートよ、失礼ね! ちょっとお菓子食べてぐうたらしてるだけじゃない!」


「ぐうたらしてる自覚はあったんですね……」


 玲奈も呆れながら笑った。


「……でも、なんか少しだけ空気が和らいだ気がしますね。……ありがとうございます、ソルシェリア」


 玲奈の静かな一言に、ソルシェリアはむっとした顔でそっぽを向きながらも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「別に……アンタたちが勝手に落ち込んでただけでしょ。アタシは普段通りカワイイだけ」


 一瞬の静寂の後、ソルシェリアがふと思い出したように顔を上げる。


「──そういえば、アタシの質問の答えがまだよ。アンタ、一体何者なのよ。翔太郎の関係者ってことだけは分かるけど、それ以外は何も教えてもらってないわよ」


 視線の先、壁際に立っていた剣崎は、その問いに少しだけ目を細め、やがて僅かに肩をすくめた。


「俺の名前は、剣崎大吾。普段は国内外の異能力関連の任務を請け負ってる、国家直属のS級能力者だ」


 玲奈が思わず目を見開く。


「S級……ですか?」


 玲奈にとって絶対的強者であった兄の凍也は、セカンドオリジンを使える能力者でもある。

 そんな凍也ですらもA級判定だった。


 S級能力者は日本でも、本当に数えるレベルしかおらず、その存在は国家の防衛にも等しい。

 その言葉に、ソルシェリアも思わず表情を引き締める。


「あー……なるほどね。どうりで化け物じみてるわけだわ。あの四季条って奴を床ごとぶっ飛ばすって、尋常なパワーじゃないと思った」


 翔太郎も内心では頷いていた。

 たった一人であの狂気の空間を突破し、命を救ってくれた男。

 剣崎の実力は、あの一撃ですでに証明されている。


 剣崎はそんな彼らの反応を特に気にするでもなく、淡々と続ける。


「とはいえ、戦うことだけが俺の仕事じゃない。本業は、千葉県の南の端にある土地で孤児院をやってる。名前は『あじさい』」


「孤児院……?」


 玲奈が思わず声を上げる。

 驚きと戸惑いが入り混じった表情で剣崎を見る。


 剣崎は「ああ」と静かに頷いた。


「身寄りのない子供たちを、異能力者も含めて引き取ってる。現に、災害孤児だった翔太郎や、ヘルパーの仕事に来たフレデリカとも、そこで出会った。……もう、随分前の話になるがな」


 その瞬間、玲奈の視線がぱっと翔太郎に向く。

 信じられないものを見るような、いや──それ以上に、知らずにいた自分を責めるような痛切な眼差しだった。


「災害孤児……だったんですか?」


 その問いは、か細く震えていた。

 玲奈自身も気づかぬうちに、感情が滲み出ていた。

 目の前の少年が、それほどまでに過酷な過去を背負っていたことに。


「……ああ」


 翔太郎は、短く答えた。

 だがその声には、長い沈黙と苦しみが凝縮されていた。


 ふたりの間に走る、言葉にならない空気を感じ取りながら、剣崎が小さく眉をひそめる。


「……翔太郎。お前、嬢ちゃんには何も言ってなかったのか?」


 翔太郎はわずかに息を呑み、それから静かに、玲奈をまっすぐに見つめ返す。


 玲奈もその視線を真正面から受け止めた。

 そして──ふと、脳裏に浮かんだ一夜の記憶。


 オールバーナー邸に初めて泊まった夜。

 深く語ろうとしなかった翔太郎が、自分に言ったあの言葉。




『全部を話すには、まだ俺の中の整理がついてない。この件が終わるまで少しだけ待って欲しい』




 そうだ。

 あの時から、彼はずっと自分の胸に何かを抱えていた。


「じゃあ、あの時……」


 玲奈の声は震え、喉の奥でかすれた。

 けれど、その目だけは真っ直ぐ翔太郎を見ていた。


「全部を話すにはって……あれ、そういう意味だったんですね」


 翔太郎は頷いた。


「今まで、黙っててごめんな」


 玲奈は俯き、長い睫毛が静かに影を落とす。

 彼の過去を、自分は知ろうとすらしていなかった。

 守られてばかりで、隣にいながら──ずっと遠くにいたのだ。


「…………」


 しばし沈黙の後、玲奈はゆっくりと顔を上げた。

 冷静さを取り戻したその瞳に、閃くような光が宿っていた。


「四季条輪廻は──夜空の革命という、国際テロ組織の正規メンバーなんですよね?」


 言葉の温度が変わった。

 冷静で、鋭く、だが揺るがない意志があった。


「夜空の革命……昔、兄さんの書斎で見たことがあります。海外で多数の大規模テロを起こしていて、異能力犯罪を取り締まる国際組織の“ブラックリスト”にも何度も登ってる。日本ではなぜか情報が遮断されてて、知名度は低いけれど……」


 そこまで言って、玲奈の言葉がふと止まる。

 まるで何かにぶつかったように、彼女の思考が一瞬で加速した。


 ──夜空の革命という名前。

 ──凍也の書斎にあった情報の断片。

 ──謎の国家規模の災害に関する情報。

 ──翔太郎の視線が向いたその時の、あの違和感。


「まさか……」


 玲奈の瞳が揺れる。


「翔太郎が災害孤児になった原因って……夜空の革命だったんですか? それも、四季条輪廻が関わっていた?」


 沈黙。

 空気が凍りついたように、場に重苦しい静寂が落ちる。


 誰も即答はしなかった。

 だが、翔太郎の顔に浮かんだ微かな陰り──それが何より雄弁に、事実を物語っていた。


 玲奈は確信する。

 いや、確信せざるを得なかった。


 翔太郎が何故あれほど無謀とも思える戦いに身を投じたのか。

 なぜ、四季条に立ち向かったのか。


 そこに、彼自身の過去と、深い復讐心が絡んでいるとしたら──


「翔太郎は──」


 言いかけたその瞬間だった。

 重厚な扉が、まるで爆風のような勢いで弾けるように開く。


「────っ!?」


 全員の視線が、一斉に扉の方へ向けられる。

 その場の緊張を断ち切るように、勢いよく駆け込んできたのは──フレデリカだった。


 呼吸を荒くしながら、何かを振り払うように顔を上げる。

 その顔は明らかに血の気を失っていた。


「皆様、大変です──お嬢様が……!」


 声が震えている。


「アリシアお嬢様が、屋敷のどこにもいらっしゃいません!」

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