第二章45 『S級能力者の戦い』
──重い音が、空間に響いた。
剣崎大吾の足が、ゆっくりと一歩、前に踏み出される。
その身体を覆うのは、漆黒のロングコート。
しかし──それは単なる衣服ではない。
剣崎大吾の異能力──“万刃顕現”。
自身が「所有」と認識した武器を異空間に収納し、常時保管する能力。
だが、能力の本質はそれだけではない。
貯蔵された武器の性能は、所有者の権能によって最大十倍まで強化される。
近接武器、銃火器、防具──あらゆる武装を、規格外の性能に変貌させる異能力。
そして、彼が身に纏う戦争用の防弾・防刃仕様のロングコートすら所有武装の一つ。
戦闘服と化したその衣服は、通常の衣服を遥かに上回る防御力を数倍にまで高め、同時に肉体の出力さえ強化している。
──だが。
翔太郎が最も知っている。
この男の強さの本質は、異能力ではないことを。
剣崎大吾は、元から人類最高峰の剣士だった。
剣技、反応速度、間合いの掌握、視線の誘導──この男は異能力に頼ることなく、ただ剣士として命を削り鍛え抜かれた化け物だ。
異能力はその完成された剣士に与えられた、最後の仕上げに過ぎない。
──技と力の両方を極めた者。
それが剣崎大吾である。
今まさに目の前で起こっている現象は、異能力の戦いですらない。
それは──人類の剣術そのものが雷の異能力すら断ち斬っている光景だった。
「雷閃っ!」
四季条輪廻の雷光が弾丸のように迫る。
翔太郎の技、そして彼自身よりも速く。
「ハハっ、どうだい? アンタが庇ったそこのガキの使ってた能力だよ。そいつよりも速く動けるし、もうオレの能力って言っても過言じゃないでしょ?」
倒れたままの翔太郎は、唖然として見上げていた。
自身のセカンドオリジンですら、全く届かなかった四季条輪廻の黒い雷閃。
あの速度に、剣崎は普通についていっている。
いや、違う。
僅かに上回っている。
「──鈍いな」
静かに。
剣崎は、大剣をただ一度だけ振るった。
視界が割れた。
雷光は霧散し、四季条の身体が弾け飛ぶ。
彼の誇る雷鳴の突進すら、太刀筋一閃で防がれるどころか打ち払われた。
それは大剣が重いからでも、異能力で強化されているからでもない。
斬るべき場所を正確に斬っただけだった。
「……何っ!?」
吹き飛んだ四季条が呻く。
雷閃──コピーしたばかりの翔太郎の最速の技。
それが通じない。
視界が揺れた。
四季条の身体が、背後へと跳ね飛ばされるのと同時に、苦悶の呻き声が洩れる。
「雷閃は確かに速い。だが予備動作でバレバレだな」
──これまでと違った。
明確に、ダメージが入っている。
「コピー先が良くなかったな。翔太郎に、その技術を極めさせたのは俺だ。癖や弱点ぐらい、翔太郎以上に熟知している」
その言葉は挑発ではない。
淡々とした事実の指摘だった。
剣崎は、ロングコートの裾を翻しながら再び歩み寄る。
その手に握られた大剣は、ただの大剣ではない。
それは“万刃顕現”の効果を受けた異常な武器。
所有と認識した時点で、その刃は十倍に強化される。
重量。鋭さ。破壊力。全てが常識外れ。
(……だから、追い付けるんだ)
翔太郎はようやく理解した。
単純な話ではなかった。
剣崎の戦闘服──所有武装と認識されたその衣服は、単なる防具ではない。
全身の筋力、反応速度、身体能力そのものを十倍にまで底上げしている。
彼は雷閃に追い付いたわけじゃない。
速さの次元を、最初から別にしているだけだ。
そんな化け物が、迷いなく四季条に歩み寄る。
「だったら、これならどうかなぁ!」
焦りと共に、四季条は叫んだ。
全身から噴き出したのは黄金の炎。
かつてローフラム・オールバーナーが扱っていた、当時のドイツ最強クラスの異能力。
あらゆるものを溶かし、焼き尽くす純粋な力。
目の前に迫る熱量。
地面ごと融解しながら剣崎へと殺到する。
だが、剣崎は僅かに目を細めただけだった。
「黄金の炎か」
ただそれだけ呟くと、次の瞬間に大剣の一振りが黄金の炎を両断した。
「──なっ!?」
驚愕する四季条。
信じられなかった。
自分の黄金の炎が──正面から、斬られた。
「力任せだな。雑すぎる」
それは評価ですらない。
技術と力の双方で叩き潰された。
まるでゴミを切り捨てるようなその一撃の直後──剣崎は、その場から消えた。
「──遅い」
気付けば、彼の姿は殺気を纏い、目の前にいた。
炎を出す暇もなく、四季条は反応する。
咄嗟に身体を鋼に変えるが、十倍の重量と破壊力を宿した大剣が、その鋼鉄の身体を薙ぎ払った。
「がはっ──!!」
衝撃。
鋼鉄の表皮ごと切断されそうになるのを、間一髪で防ぐ。
それでも、受け止め切れなかった質量。
四季条輪廻は、紙のように軽く吹き飛ばされた。
転がる。
地面を転がり、壁に叩きつけられる。
口から血を吐いた。
「どうした? 夜空の革命の正規メンバーといえど、この程度か?」
悠然と歩み寄る剣崎の声は、まるで軽口。
余裕などではない。
それがこの男の通常だった。
「おかしい……だろ……」
血を吐きながら、四季条は呻く。
焦りが、恐怖に変わっていた。
あらゆる異能力をコピーしてきた。
それで勝てない相手など、いなかった。
それなのに。
「お前、何なんだよ……!」
「ただの剣士だと言ったはずだが」
涼しげに返す剣崎。
迷いもなく。怒りもなく。ただ淡々と。
「雷閃っ!」
絶叫と共に、四季条の雷閃が炸裂する。
翔太郎以上の速度。
雷光の一閃が、再び剣崎大吾へと殺到する。
──だが。
「だから予備動作が甘い。そして、それは俺が翔太郎に編み出させた技だ」
刹那、閃いた。
十倍の重量と威力を誇る大剣が、雷閃を正面から受け止め──叩き斬る。
「癖や弱点は、翔太郎以上に熟知していると言っただろう?」
ズン、と鈍く重い音。
四季条の身体が、また吹き飛ぶ。
壁に叩きつけ、剥がれた鋼鉄の表皮から血が滲む。
だが、ここでようやく剣崎は確信していた。
(やはりな)
四季条の動きを見切りながら、確信する。
雷閃を放つ時は、身体を鋼鉄化させない。
黄金の炎を使う時も、必ず他の異能力を解除してからだった。
「そういうことか」
声は独り言のように静かだった。
四季条輪廻。
あらゆる異能力をコピーできる嫉妬の能力者で、夜空の革命の正規メンバー。
そのコピーという能力に際限はない。
だが──
「コピーした能力を同時に併用は出来ない。お前のコピーは、一つずつ切り替えているだけだ」
その弱点に、完全に気付いた。
そして、それこそが致命的だった。
「どうした。焦っているな」
剣崎はなおも歩く。
大剣を肩に担ぎながら、悠々と。
一方で、追い詰められた四季条は──狂ったように笑い出した。
「ハハッ……! いいなぁ……アンタの、その武器!」
全身を血に濡らし、鋼鉄化の維持すら不安定なまま、
狂気の笑顔で羨望を吐き出す。
「オレも欲しいなぁ……! アンタの能力、再現しちゃえば……オレにも使える、よな……?」
ドクン、と異様な殺気が迸る。
四季条は剣崎の能力──“万刃顕現”に手を伸ばした。
能力そのものはコピーできる。
ならば、あの異空間武装も、自分が使えるはずだと。
だが──
「……え?」
空間に、何も現れなかった。
四季条の背後に異空間が広がったまま。
だが、そこから現れるべき武器は、何一つなかった。
「な、んで……?」
四季条が硬直する。
呆然と。困惑して。
「簡単な話だ。教えてやろう」
剣崎が初めて、軽く笑った。
だが、それは絶望を告げる微笑だった。
「俺の異能力、万刃顕現は、所有した武器そのものを貯蔵している。つまりお前がコピーできるのは、貯蔵するいう能力だけ。だが──俺の所有する武器は、お前の異空間には存在しない」
それは致命的な盲点。
能力だけを模倣できても、肝心の所有武器までは模倣できない。
四季条は──空間に手を突っ込み、何も掴めないまま虚空を掴んでいた。
「だから、お前は俺の能力をコピーしても──何一つ、武器を振るえない」
そう告げた瞬間、剣崎は大剣を構え直す。
四季条は、震えながら後ずさった。
「ま、待て!」
ようやく自分の敗北を悟った。
コピーという万能の能力ですら届かない壁を。
「もう一度教えてやろう。……いや、今度は刻み込んでやる」
静かに。だが確実に、剣崎の声は響く。
正面の四季条に対して、嘲るような笑みさえ浮かべて。
「お前の能力には、致命的な欠陥がある」
歯を食いしばったまま、四季条が顔を上げる。
「お前は、どんなにコピーできても一つずつしか使えない。同時に使えない時点で、お前は所詮使い回しているだけなんだ」
ズン、と地を踏み鳴らすように剣崎は一歩前に出る。
大剣の重厚な金属音が空気を裂いた。
「それだけじゃない。──そもそも、お前にオリジナルの異能力が無い」
「な、に……?」
四季条が、わずかに硬直する。
「聞こえなかったか? もう一度言う。お前自身の力なんて、どこにもないんだよ。誰かの異能力をコピーして、真似して、奪って、上回ったつもりになってる──だがその中に、お前だけの何かは一つもない。空っぽなんだよ、お前は」
閉ざされた地下空間に轟く。
「他人の真似をして──奪った力で、他人にマウントを取って。それが最強だと信じ込んで悦に浸ってる」
鋭い視線。
それはまるで──目の前の相手を哀れと断じるようなまなざし。
「お前自身は何も凄くない。他人への劣等感で悲劇を振り撒いてるだけの、哀れな化け物だ」
「……!」
四季条の顔が、引き攣った。
だが、怒りではない。
心の奥底──プライドの核を穿たれたから。
「空っぽな能力者。それがお前、四季条輪廻だ」
……沈黙。
それはわずか数秒。
しかし、その空白は地獄のように重かった。
だが次の瞬間──四季条は愉快そうに、狂ったように、笑い声を上げた。
「ハハ……ハハハハハハハハハハハッ!!!」
顔を歪ませ、嗤いながら。
「空っぽ!? いいねぇ! 超最高だよ、その言葉!」
狂気そのものの表情。
だが、それは痛みも羞恥も全て飲み込んだ“怪物の顔”だった。
「オリジナルなんか欲しいと思ったこと、一度でもあると思う!? 違うね。オレは、羨ましいと思った他人から全てを奪うのが楽しいんだよ!」
剣崎はその言葉にも動じない。
大剣の刃先を、寸分のブレもなく四季条へと向けたまま。
「努力してる奴、強くなろうと必死な奴──そういう連中の顔が、羨ましくて仕方ない。キラキラしててさぁ! 台無しにしてやった時の、あの苦悶に満ちた表情が堪らないんだよ。だから壊してやる! 全部さぁ!」
「その程度が。お前の限界だ」
呆れ顔と共に、静かに告げる。
その言葉こそが、剣崎の結論だった。
──しかし。
「だったら……もっと面白くしてやるよ」
四季条は嗤ったまま、右腕を広げる。
身体中から、異様な黒い光が噴き上がる。
「見せてやるよ。オレのセカンドオリジン──全部奪うために進化した、嫉妬そのものの力を!!」
黒と紫が入り混じった異様な光が、四季条の身体を覆う。爆発的な衝撃波が吹き荒れ、周囲の床や壁が音を立てて崩れていく。
異能力者の進化──セカンドオリジン。
それは異常なまでの嫉妬と奪う衝動に磨かれた、模倣能力の暴走形態だった。
だが、剣崎大吾は大剣を肩に担いだまま、一歩も引かなかった。
鋼鉄の眼差しで、怪物と化した四季条を見据える。
「進化するのは勝手だが……」
その声は、あまりにも静かだった。
「どうせその力すら、お前自身のもんじゃないんだろ?」
軽く呟いたその一言が、怪物の咆哮より重く、空間に響いた。
アリシアの細い腕が、守るように、怯えるように、翔太郎の身体を抱き締めていた。
翔太郎は──情けないほどに、その腕の中にいて、守られる側だった。
そんな彼に、剣崎は背中越しに静かに声をかけた。
「おい。翔太郎」
その瞬間、翔太郎の身体がビクリと震えた。
声だけで思考が叩き起こされる。
動けずにいる自分を、叱責するわけでもなく、ただ静かに呼んだだけで。
「隣の嬢ちゃんは──ローフラムの爺さんの孫娘か?」
問いかけは、いつものように淡々と。
戦いの最中とは思えないほど、穏やかな声音だった。
「えっ……あ……うん。そうだけど……」
思わず答えてしまう。
答えながら、翔太郎は自分が抱き締められている事実を自覚し、喉が詰まる。
それを見ても、剣崎はただ小さく鼻で笑った。
「まぁいい。……聞け、翔太郎」
そして。
先生と呼ばれるその男は──何よりも優しい声で告げた。
「俺が奴を引きつけてる間に、嬢ちゃんを連れて逃げろ。ソルシェリアとかいう人形から話は聞いてある。鏡の世界に行けるんだろ? 最悪、逃げ切れなかったとしても──嬢ちゃんは必ずお前が守れ」
優しい声のまま、言葉は鋼のように重く、命令だった。
「いいな、翔太郎。ローフラムの孫娘をここで死なせたら──お前は一生、俺に説教される羽目になるぞ」
それは冗談めいた台詞だった。
けれど──本心でもあった。
命を守れ。あの少女を絶対に生かせ。
それが剣崎大吾の命令だった。
「分かってるよ。先生……」
翔太郎は掠れた声で、絞り出すようにそう答えた。
本当は立ち上がれる状態じゃない。
だが、立ち上がらなければいけないと悟らされた。
アリシアが震えながら抱き締めていることが、痛かったし、情けなかった。
だけど、そんな自分を剣崎は責めない。
「……それじゃあ、さっさと立ち上がれよ。いつまでも、女に庇われてるのは辞めろ」
振り返らずに告げたその言葉は、
どこまでも厳しくて。
どこまでも優しかった。
アリシアの細い手が、必死に翔太郎の腕を掴んでいて、立ち上がろうとする彼の身体を必死に支えながら、涙混じりの声で叫ぶ。
「ダメ……ダメ、翔太郎……そんな怪我で……っ!」
「……いいんだ」
苦しそうに息をつきながら、翔太郎はそれでも微かに微笑んだ。
痛みに顔を歪めながらも、優しい声で続ける。
「せっかく……助けに来たのに、かえって心配かけてごめんな」
アリシアの手をそっと握る。
震える彼女の指先に、力を込めた。
「もう大丈夫だから」
──そう言って、翔太郎は一歩踏み出した。
足が震える。
けれど──それでも、次の瞬間。
「──っえ……!?」
アリシアの身体が、ふわりと宙に浮いた。
自分の方が傷だらけでボロボロなのに、翔太郎が無理やりその身体を抱き上げたからだ。
「待って、翔太郎。私、自分で歩けるから──!」
「大丈夫。ソルシェリアのワープポイントはちゃんと知ってるし、多分俺がアリシアを抱えて飛んだ方が速い」
力ない腕で。
それでも、全力でアリシアを抱き締めた。
そんな二人の様子を、剣崎はちらりとだけ振り返り、静かに言った。
「──疾風迅雷は使えそうか?」
「足の具合を見ても、一回だけなら」
翔太郎は即答した。
痛みに呻きながらも、目だけは迷っていなかった。
「ギリギリで一回……それならいける」
それを聞いた剣崎は、ごく僅かに唇を緩め──再び前を向いたまま続けた。
「それなら、それでいい。……俺の合図と同時に鏡の世界に走り込め。飛び込む場所は分かってるな?」
翔太郎は力強く頷いた。
「ああ。ソルシェリアとは既に確認済みだ」
その言葉に、剣崎は「よし」とだけ短く返した。
その声は、何よりの信頼だった。
アリシアが翔太郎の腕の中で呟く。
「翔太郎、本当に大丈夫なの……?」
「大丈夫だ。仮に上手くいかなかったとしても、アリシアだけはここから絶対逃してみせるから」
「……何回も言わせないで。戦う時も、逃げる時も、二人一緒なんでしょ」
「……悪い。そうだったな」
涙が零れるアリシアの頬を、翔太郎は優しく指で拭った。
もう震えていなかった。
この短い時間の中で、確かに彼は立ち上がった。
──剣崎はそのやり取りに一切言葉を挟まない。
ただ静かに前を向いたまま、大剣を肩に担いでいた。
信じている。だから何も言わない。
それが──施設で長い時を過ごし、多くの修練をこなして来た師弟だった。
「真っ直ぐ走れよ、翔太郎。絶対に振り返るな」
「分かってる。先生も、しくじるなよ」
「誰に向かって言ってんだ。馬鹿野郎」
剣崎は静かに振り返り、翔太郎がアリシアを抱え、疾風迅雷の準備を整えたことを確認した。
その瞬間──視線は前へと戻る。
迫る。猛る。
闇色の雷光と黄金の炎を纏った、異形の怪物が高速で突っ込んできていた。
「セカンドオリジンの状態なら、コピーの同時使用が出来るのか。厄介だな」
──四季条輪廻。
そのセカンドオリジンの力は、さすがに無視できない。
「ハハっ、まさかオレがセカンドオリジンを使うほど追い込まれるなんて思わなかったよ! いやぁ、アンタ本当に凄い能力者だね」
「翔太郎。合図は俺がこいつを撃った瞬間だ」
次の瞬間、剣崎の右手が異空間に突っ込まれた。
指先は寸分の迷いもなく武器を選び──抜き出す。
「うわ、ゴツいな……」
「海外で仕入れた最新モノだ。俺の異能力で強化してある。これを喰らえば、まず普通の人間は生きられない」
剣崎が取り出したのは、黒色のロケットランチャー。
もちろん、これは剣崎の異空間の所有武装なので、万刃顕現の強化対象に含まれる。
──その性能は、十倍。
「せめて撃つなら、俺たちを巻き込まない様に配慮してくれよ」
「巻き込まれたくなかったら、さっさと嬢ちゃん連れてここから逃げることだな」
口元に僅かに笑みを浮かべながら、迷いなく引き金を引いた。
炸裂音と共に、破壊の塊が射出される。
直線状に轟音と爆炎を撒き散らしながら、四季条の進路を焼き尽くした。
「今だ──行けッ!!」
爆風と閃光が辺りを覆うと、翔太郎は迷わず踏み出す。剣崎の声が聞こえた瞬間には、もう身体が動いていた。
「──疾風迅雷ッ!!」
爆風に背中を押されながら、アリシアを抱えたまま全速力で駆け出す。
翔太郎自身の雷光が、残光のように道筋を描いた。
その速度は今日一番。
限界など、とっくに超えていた。
守るべきものを抱きしめた瞬間、すべてが研ぎ澄まされていた。
「翔太郎……!」
抱えられたアリシアは必死だった。
叫びたい。止めたい。
──彼は、何がなんでも自分を助けると分かってしまったから。
彼の身体は、もう動ける限界を超えているのに、それでも翔太郎は彼女を抱いて離さない。
だから、アリシアは涙をこぼしながら、彼の服を掴み返すしかない。
それが、彼女にできる精一杯の抵抗であり、最大限の信頼だった。
「おいおいおい、何逃げてんのさ。誰がオレから逃げて良いなんて言ったんだよ!」
背後から迫るのは、終わりの足音。
地獄の咆哮。
黒く染まった雷と黄金に輝く炎。
四季条輪廻が笑い声を上げながら迫ってくる。
強化されたはずのロケットランチャーを受けて尚、爆炎の中を、雷光に包まれた怪物が疾走していた。
「四季条!? あの攻撃を受けても、まだ……!」
──来る。
──もう追いつかれる。
彼女の涙までも守るように、翔太郎はアリシアをさらに強く抱きしめた。
「大丈夫だ、アリシア。──俺を信じろ」
「……うん!」
その声に、迷いはなかった。
痛みも、恐怖も、血の味も、すべてを心の奥底に沈めて──ただ、まっすぐに彼女を抱き締めていた。
(翔太郎を信じたい、信じる……!)
喉が詰まり、涙が視界を滲ませる。
けれど、アリシアの心は揺るがなかった。
翔太郎を信じる。
それだけが、この状況に抗う唯一の光だった。
──だが、四季条は容赦なかった。
背後から迫る黒雷の気配。
音すら焼き切るような雷鳴。
四季条の殺意が、爆風を裂いて翔太郎たちを直撃せんとした──その瞬間。
「行かせねえよ。クソ野郎」
大気が震える轟音と共に、空間そのものが捻じれた。
稲妻の軌道が、突如逸れる。
狙い定められていたはずの殺意が、音もなく逸らされ、吹き飛ぶ。
「な──!?」
四季条が声を漏らすよりも先に、彼の身体は弾き飛ばされていた。
爆風をかき分け、空間ごと斬るような殺気と共に現れたのは──剣崎大吾。
ロケットランチャーを投げ捨て、身一つになったその男が、黒雷を纏った怪物に寸分の狂いもなく蹴撃を叩き込んでいた。
「今逃げてるのは、俺の弟子と、弟子が命懸けで守ろうとしてる女だ。余計な茶々は入れるな」
低く、地の底を這うような声が戦場を支配した。
雷光すら、彼の声を前に沈黙する。
「この俺がいる限り、二人に手は出させない」
その言葉を背に、翔太郎は走った。
爆炎を背に、重力さえ蹴り飛ばすような疾走。
──疾風迅雷。
空気が裂け、音速が遅れて追いかける。
翔太郎の脚は、今日この瞬間のためにあったのだとさえ思える速さだった。
「翔太郎……!」
アリシアが小さく叫んだ。
背後の四季条が、壁を砕いて立ち上がるのが見えた。
「ははっ!遅いっての!」
顔中から黒雷が漏れ、明らかに尋常ならざる気配が渦巻いていた。
(間に合わない──!)
だが、その一瞬再び光が奔った。
四季条が抜いた手刀が振り下ろされるその寸前、剣崎の影が爆風を纏って飛翔した。
「だから俺を無視してんなよ、夜空の革命」
弾丸より速い──否、弾丸を蹴り飛ばす速度で剣崎の脚が、四季条の顎に直撃した。
「がぁっ!?」
轟音と共に、四季条の身体は再び弾き飛ぶ。
白目を剥き、歯を撒き散らし、壁ごと崩れ落ちる。
雷光が消えた。
「翔太郎! さっさと飛び込め!」
背後から響いたその声は、彼の人生で何度も聞いた叱咤であり、愛情のこもった激励だった。
「先生!」
声にならない感謝と誓いを、翔太郎は心に刻んだ。
振り返らない。もう、何があっても。
「行くぞ、アリシア!」
爆風を巻き込み、翔太郎はアリシアを抱えたまま──鏡面世界のゲートへ飛び込んだ。
光が、音が、重力が反転する。
瞬間、目の前の景色が歪んだ。
まるで水面に石を投げ込んだかのように、空間が波打つ。
アリシアの頬を、翔太郎の手が包む。
「離れるなよ」
「うん。絶対、離れない」
──涙が、頬を伝う。
恐怖の涙ではなく、彼を信じると決めた少女の誓いだった。
そして、彼らはそのまま──光の向こう側へと姿を消した。
最後に残ったのは、爆炎の中で佇む剣崎の背中と、壁にめり込んだまま、苦悶に顔を歪める四季条だけだった。
戦いは終わっていない。
だが──希望は、確かに繋がっていた。