第二章43 『爆炎のプリンセス③』
それは──遠い昔のことだった。
まだアリシアが感情というものをほんの少しだけ取り戻し始めていた頃。
歪んだ過去も、植え付けられた異能力も、それでもまだ平和だった頃。
零凰学園に入るずっと前。
オールバーナーの本邸で過ごしていた、ひとときの安らぎの記憶。
廊下の影。
誰にも気づかれない場所で、アリシアは耳を澄ませていた。
自分の話をされていると分かったから、こっそりと聞き耳を立てていた。
「アリシアに好きな男ができたら、か? ……これはまた、厄介な問いを持ってきたのぅ、フレデリカ」
祖父──ローフラム・オールバーナーの呆れたような声が聞こえる。
きっとあの白髭を撫でながら、困った顔をしているのだろう。
その仕草は、見なくても簡単に想像できた。
「はい、ローフラム様。今のお嬢様は……ヴァルプルギスの炉の影響で、喜怒哀楽の大半が消えてしまっていますが……日常生活に慣れてくれば、そのうち恋愛感情に目覚める可能性もあるかと思いまして」
フレデリカの声は、いつも通りの冷静な口調。
だけど微かに楽しげな響きがあった。
あのメイドは、意外とこういう話題が嫌いではない。
「ふぅむ……」
廊下の向こう、考え込む祖父の気配。
「──ダメだ。アリシアはやらん」
唐突な断言だった。
思わず、アリシアは目を丸くした。
隠れて聞いていたことを忘れて、思わず廊下の先を覗き込みそうになる。
「……そう言うと思いました」
フレデリカの声には、呆れと苦笑が混ざっていた。
慣れた反応だった。
「というのもな、アリシアをくれてやる男には、それ相応の覚悟を決めてもらわねばならん」
「覚悟、ですか?」
「そうじゃ。アリシアの事情は……普通の娘とは違う。ワシがどれだけ手を尽くしても、あの子の過去は消えん。人格形成も異能力も──その重さを知った上で、それでもアリシアと生きたいと思える男でなければ、ワシは許さん」
フレデリカはしばし黙っていた。
だが、それを否定しなかった。
アリシア本人ですら、自分に将来の相手など出来るはずがないと思っていたのだから。
「……確かに、それはそうですね。ですが、世界も広いですし……探そうと思えば、いるかもしれませんよ? お嬢様、絶対将来は美人になりますし」
ローフラムは、ほんの少し沈黙した。
そのあと、ふと呟くように付け加えた。
「……あと、ワシより強い奴」
「一気にワールドクラスに難易度が上がりましたね」
呆れたフレデリカの言葉に、祖父の笑い声が重なる。
アリシアは、廊下の陰で小さく息を吐いた。
──そんな人、いるはずがない。
少なくとも自分と関われば、その男も不幸になるだけだ。
それは自分を捨てた母親が教えてくれた。
生まれた時から、ずっと背負っている呪いのようなものだった。
けれど。
それでも、このときは──二人の会話を聞きながら。
自分が将来恋をする日が来るかもしれないなんて、そんなことを考える余裕があるほどには、世界は優しかった。
それが、アリシアの──日常だった。
♦︎
「……お祖父ちゃん」
庭の片隅。
アリシアは静かにその背中を見つめていた。
ローフラム・オールバーナー。
灰色の髭を撫でる仕草は、いつ見ても変わらない。
紅蓮と恐れられた男の背は、思っていたより小さく、そして優しかった。
「アリシアか。どうした、今日はもう鍛錬は終わったはずじゃろう?」
「別に」
それだけ呟くと、アリシアはローフラムの隣に座り込んだ。
土の匂いと焚火のような祖父の匂い。
それが、この屋敷の安心の象徴だった。
ローフラムは何も言わずに、ただ隣に座った少女を見下ろす。
何か考えているのかと思えば──ただ微笑んでいた。
「今日はな、アリシア。朝から一輪だけ、バラが咲いたんじゃ」
「……バラ?」
「あの、裏庭の奴じゃ。アリシアが昔植えたやつ」
言われて、アリシアは少しだけ視線を動かした。
数年前。
祖父と一緒に土をいじり、興味もないはずの花を植えさせられたことを思い出す。
そのバラが、この春に咲いたらしい。
「お前は育たないと思ってたんじゃろ」
「別に、特に何とも思ってない」
「何とも思ってなかったら、何で几帳面に水やりに行っていたのかのぅ?」
「……」
内心では、ちゃんと覚えていた。
あの時植えた苗を、アリシアはこっそり何度も見に行っていた。
──咲く訳ないと思っていた。
──咲いたら、見たくないものまで思い出す気がして、遠ざけた。
でも。
咲いてくれたことが、ほんの少しだけ嬉しかった。
ローフラムは言う。
「ドイツは寒い。しかし、どんなに冷たい土地でもな、根気強く挑戦してみれば、どんな命も根を張るものじゃ。お前の心も──いつか、必ず咲く」
「……私は、あの施設でカレンを──」
「知っておる」
アリシアが何も言えないまま黙っていると、祖父は笑って、いつものように髭を撫でた。
無理に言葉を聞き出したりはしない。
それがローフラム・オールバーナーだった。
「いつか、アリシアの心の穴を埋めてくれる人間が必ず現れる。ワシは、そう信じておる」
だから、アリシアはただ黙って隣に座り続けた。
祖父の焚火のような匂いと体温を、密かに感じながら。
「……お祖父ちゃん」
「ん?」
「……別に。何でもない」
その日。
アリシアは別にとしか言わなかったけれど、ただ一つ、確かだった。
アリシアにとって、心の穴を埋めてくれる人物はローフラムだった。
祖父は、自分にとって世界の一部だった。
大切で、大好きで、守られていた。
けれど、それを伝えることはできない。
だから──隣にいるだけでよかった。
あの頃はまだ、それだけで十分だった。
それが突然、奪われる日が来るなんて──幼い少女には考えも付かなかったのだから。
♦︎
それは、いつも通りの帰り道だった。
でも──どこか、静かな春の風が心にしみた。
「学校はどうじゃ? アリシア。新しいクラスには、もう慣れたか?」
「……別に。特に変わらない」
十二歳になったアリシアは、ローフラムと並んで家路を歩いていた。
今、彼女が通っているのはギムナジウムの6年生。
思考も周囲の空気も、ほんの少しずつ、大人の世界に近づきつつある。
フレデリカはまだ日本での仕事が長引いており、今日は祖父と二人きり。
けれど──それを寂しいとは思わなかった。
むしろ、最近はこうしてローフラムと歩く時間が、一番自然に感じられた。
「仲のいい友達はできたのか?」
「そういうの、別にいなくても困らない」
「そうか……昔からそう言うな、お前は」
ローフラムはふっと目を細めて笑う。
「それでもワシは、アリシアが元気に過ごしていることが、何よりも嬉しいよ」
アリシアは目を伏せた。
その言葉が、少しだけ胸の奥に残ったから。
──この人を、私は本当に家族だと思っている。
それは、ただの保護者という距離ではなかった。
血が繋がっていなくても、自分にとっては確かにお祖父ちゃんと呼びたい存在だった。
そんな彼が、ふと語り出したのは自身の過去だった。
ローフラムには、かつて実の子と孫がいたこと。
だが、能力者による無差別テロによって、すべてを奪われてしまったこと。
それでもなお、こうして誰かを守ることをやめなかったこと。
「ワシにとってお前はな、本当の孫みたいなもんじゃよ」
「……そう。ありがと」
言葉にはしなかったけれど、アリシアは思っていた。
──私も、あなたを本当のお祖父だと思ってる。
この人は、自分がどんな過去を背負っていても、心から守ってくれる存在だった。
そう信じていた。
けれど──それは、唐突に終わりを告げる。
その夜、オールバーナー本邸にて。
屋敷に何かが入り込んだのは、たった一瞬のことだった。
──それは、理不尽という名の侵略だった。
「アリシア! 今すぐ──この場から逃げろッ!」
突然響いた、祖父の絶叫。
アリシアが振り返る間もなく、屋敷の一角が爆発した。
硝煙と焼け焦げた血の匂いが、鼻を刺す。
そして──
目の前で、ローフラムの身体が吹き飛ばされた。
炎の男。最強の能力者。
アリシアが絶対だと信じていた人が。
その現実を、幼い彼女は理解できなかった。
ありえないはずだった。
祖父は負けないはずだった。
なのに──
「……おじい、ちゃん……?」
声は、掠れた。
立ち尽くすアリシアの前で、ローフラムは膝をつき、血を吐いた。
倒れる彼を囲むのは、黒いフードを被った集団──“夜空の革命”。
「ボス。このままオレに任せてくんない? オレさ、ローフラムってジジイ相手ならマジで楽しめそうなんだけど」
軽薄な声が響く。
四季条輪廻。
フードの下で、楽しそうに口角を吊り上げていた。
だが──
「前もそう言って、時間を無駄にしただろう。始末は私がやる」
静かな男の声。
それは、圧倒的な冷たさを持っていた。
フードの奥から現れたボスと呼ばれる男は、面倒そうに溜息をついた。
「ローフラムは私が始末する」
「えー! ちょっとボス! またアンタばっか良いとこ取りじゃん! ま、アンタの能力上、強い能力者を狩りまくらないといけないのは分かるけどさ……つまんねーなぁ」
だが──その時。
倒れていたはずのローフラムが、地を這うように起き上がった。
「アリシア……」
その目はまだ死んでいなかった。
朽ち果てた身体から──それでも、炎は噴き上がる。
「ダメだ、アリシア……ここにいては……」
黄金の炎。
それは一瞬だけ──夜空の革命の連中の動きを止めた。
「逃げろ……アリシア……」
「嫌だ……! おじいちゃん……! お願い、目を……目を開けてよ……!」
震える声で縋る少女。
それでも──ローフラムは、孫のために最後の力を振り絞った。
火柱。
黄金の獅子が、夜空の革命に向かって唸りをあげた。
「おおー、すっげ……」
呟いたのは四季条だった。
楽しげに、その炎を避けながら前に出る。
「オレ、やっぱローフラムと遊ぶわ。ボス、ちょっとだけ譲ってよ。さすがにさぁ、このまま死なれんのはつまんないじゃん?」
ローフラムが吐血しながらも立ち塞がる。
「アリシアだけは……お前たちの手には……」
次の瞬間だった。
四季条が、笑った。
そして、滑るように間合いを詰め──ローフラムの喉に鋭くナイフが突き立った。
「……!」
「アンタの能力良いなぁ……。黄金の炎なんてカッコいいじゃん。羨ましくて“欲しくなる”」
吐血しながら崩れるローフラム。
アリシアはその血まみれの背を見た。
「おじいちゃん──っ!!」
「……逃げろ……アリ……シア……」
それが、彼の最後の言葉だった。
四季条は倒れるローフラムを見下ろしながら、口を開いた。
「ボス。ついでに、アリシア・オールバーナーも始末しとく? ローフラムの血筋とかなら、一応潰しといた方がよくない?」
その問いに──男は一度だけアリシアを見た。
そして興味なさそうに、静かに言い捨てた。
「……放っておけ。調査結果では、その娘は養子で、ローフラムとの血縁関係はない。我々の狙いはローフラムだけだ」
アリシアは、完全に声を失っていた。
壊れたように、ただ崩れた祖父の元で震えていた。
そして──夜空の革命は、そのまま去っていった。
炎と血と絶望だけを置き去りにして。
♢
──黄金の熱が、消えていた。
四季条輪廻は遠くに蹴り飛ばされ、地面に転がっている。
アリシアはその場に崩れたまま、呆然と顔を上げた。
目の前に──あの背中が、あった。
「翔太郎……?」
焼け焦げた空間の中。
煤けた光景の中で。
彼は、まるでそれが当たり前かのように立っていた。
ボロボロの身体で。満身創痍のはずなのに。
それでも──あの時と、何一つ変わらなかった。
屋敷で泣きじゃくるアリシアに向かって、扉越しで話を聞いてくれた時と変わらない、あの背中だった。
「どうして……生きて……」
かすれる声が、勝手に漏れた。
涙も止まらない。
だって、目の前の光景が信じられなかったから。
翔太郎は、ちらりと肩越しに振り返った。
その顔には、いつもの、あの気安い笑みがあった。
「四季条の炎に燃やされる寸前、ソルシェリアのワープで何とか助かった」
「ソルシェリア……?」
「アイツが、反射板で耐えながら俺ごとワープさせてくれたんだよ。玲奈とフレデリカは別フロアに避難してる。今頃、俺たちを心配して待ってるんじゃないかな」
アリシアは震える唇で呟く。
「なら貴方も、そのまま逃げれば良かったのに……」
そこで、翔太郎は不機嫌そうに言い返した。
「アホか。わざわざ分かりきったこと言わせんな」
「……!」
「アリシアを見捨てて、逃げられる訳ないだろ」
言葉が、胸に突き刺さる。
止まらない。
何度止めようとしても、温かい雫が頬を伝っていく。
涙という現象が、こんなにも苦しいものだと──初めて知った。
「どうして……?」
自分でも、問いかけの意味がわからなかった。
心の奥底では理解しているのに。
わかりきっているのに。
問いかけずには、いられなかった。
「どうして……わざわざ戻ってきてまで、助けに来てくれたの……? 私……」
翔太郎は、その言葉に困ったように笑った。
そして、はっきりと──当たり前のように言った。
「アリシアは、俺の友達だからだ」
「……ぁ」
「俺は、友達って一度決めた相手は、命懸けでも助けに行くんだよ。……当たり前だろ?」
簡単に言わないで、と言いたかった。
そんなに簡単に、私のことを友達にしないで。
私は、ただ不幸をばらまくだけの人間なのに。
「バカ」
声は震え、涙が止まらなかった。
それでも、私は泣きながら──ほんの少しだけ、笑っていた。
どうして、来てしまうの。
どうして、あなただけは。
(私のことを、誰かと同じように見てくれるの?)
自分のことが嫌いで仕方ないのに。
アリシア自身すらも、自分を信じられないのに。
(──貴方は、何度でも私のために走ってきてくれるんだね)
アリシアが誰かを助けられたことなんて、一度もないのに。
翔太郎は、こうして助けに来てくれた。
「……本当にバカだよ、翔太郎」
その背中は、まるで世界の救いだった。
あまりにも眩しすぎて、見つめることが苦しかった。
でもアリシアは、その背中から目を逸らせなかった。
あの日、手を差し伸べてくれたときと同じように。今も彼は、変わらずそこにいた。
「まぁ。助けに来といてなんだけどさ……」
翔太郎は、ふっと苦笑した。
傷だらけのその顔で、それでもまっすぐな目をしていた。
「情けない話かもしれないけど、正直、俺一人じゃ四季条相手はまず勝てないと思ってる」
アリシアは、沈黙するしかなかった。
それは事実だから。
あの怪物の前では、自分ですら絶望していたのだから。
翔太郎は、それでも続ける。
「今のままだと、俺がセカンドオリジンを発動して、ようやく相討ちに持ち込めるかってとこだ。とてもじゃないが、あの黄金の炎の威力はあり得ない」
淡々と語る声に、誤魔化しはなかった。
自分がどこまで追い詰められているか──彼は理解している。
だからこそ、それが現実だった。
「日本政府がS級判定するだけのことはあるな。あいつは……」
その目が僅かに伏せられる。
アリシアは、翔太郎の中の恐怖に気付いた。
強さの感覚で言えば、翔太郎にとって剣崎大吾とやり合うようなものだ。
実際、四季条輪廻は同格のS級能力者である。
翔太郎にとって、剣崎は絶対的な壁。
今まで一度も勝てなかった相手。
それと同じ存在を前に、彼は──それでもここに立っていた。
「さすがに正規メンバーは別格すぎる。ゼクスとじゃ比べ物にならない」
静かに、諦めではなく事実として口にする。
「……分かってるんだ。俺にとっては、これ以上ない最悪の相手だって」
アリシアの心が締めつけられた。
それでも翔太郎は、諦めた目をしていなかった。
「逃げるべきだってのも理解してる。ソルシェリアが教えてくれたワープポイントも把握してるし、あそこまでアリシアを連れて行けば、なんとか逃げられるだろうって」
声は穏やかだった。
淡々と、生存するための選択肢を口にしているだけなのに──アリシアの胸は痛かった。
「……でも」
翔太郎は、振り返った。
その目が、まっすぐにアリシアを捉える。
「せっかく掴んだ夜空の革命の手がかりを……俺はみすみす逃すつもりはない」
「翔太郎……」
「アリシア」
その声は優しかった。
一緒に逃げよう。
──そう言われる覚悟をしていた。
けれど、違った。
「アリシアが、もう無理だって言ってくれたら、俺はすぐにでもアリシアを連れてこの場から脱出する」
その言葉に、アリシアはわずかに目を見開いた。
「俺は迷わずアリシアの手を引いて、ワープポイントまで走る。……だって、その方がずっと安全だから」
翔太郎は、静かに続ける。
「それが、一番の正解だ」
──でも、と彼は笑った。
「もし──アリシアが、まだ諦めてないなら」
沈黙が生まれた。
翔太郎は一歩、アリシアに近付いた。
そして、そっと手を差し伸べる。
「俺と一緒に戦って欲しい」
「……!」
「俺たち二人で──四季条輪廻を倒したい」
その言葉に心が震えた。
あの怪物と、この自分と二人で立ち向かえと?
アリシアは、しばらく何も言えなかった。
差し出されたその手を、ただ見つめていた。
──ローフラムを殺した男。
──カレンを奪った男。
そして今、自分たちすら踏み潰そうとしているあの怪物。
四季条輪廻。
絶対に許せない。
心の底では、何度も何度もそう叫び続けていた。
それなのに、怖くて。あまりに現実が残酷で。
殺されることを受け入れかけていた。
それが、アリシア・オールバーナーだった。
でも──今は違う。
「……無茶なこと言ってる自覚ある?」
ようやく絞り出せた言葉だった。
その声は、震えていたが涙は止まっている。
翔太郎は苦しげだったが、どこか楽しそうに笑った。
「分かってる。でも……夜空の革命を追ってる者同士、無茶しないと勝てないってことも分かるだろ?」
諦めない男。
ふざけているようで、本気で仲間のことだけを考えている男。
この人は、今この場で、自分だけの味方だった。
「アリシア。お前が戦うって言うなら──俺は命懸けで隣に立つ。何があってもアリシアを守るし、アリシアにも俺を守ってもらう」
その言葉は、ただの励ましじゃない。
本気だった。命を懸ける覚悟の本物だった。
「逃げる時も、戦う時も、勝って生き残る時も、負けて死ぬ時も──二人一緒だ」
「二人……一緒……」
アリシアは唇を噛んだ。
どれだけ望んだ言葉だったか。
どれだけ、その言葉を待っていたか。
ずっと一人だった。
それが当たり前だと思っていた。
関わる人間は、皆不幸になると思っていた。
それでも──
「だからと言って負ける気もないし、死ぬ気もない。でも、どんな選択をしても──俺がアリシアを一人にする事だけはあり得ない」
一歩だけ、翔太郎が前に出た。
差し出された手が、今にも触れられる距離にあった。
その瞳は、一切の迷いがなかった。
「──選んでくれ。アリシア」
選ぶのは自分。
逃げるのか。戦うのか。
翔太郎は、自分の選択を受け入れるつもりでいる。
逃げたいと言えば、この手を引いて走ってくれる。
戦いたいと言えば、この手を握って共に戦ってくれる。
それだけは、疑いようのない事実だった。
──なら、アリシアは。
「……怖いよ、翔太郎」
アリシアは呟いた。
震える声で、それでも目を逸らさずに。
「四季条は私の大切なものを全部奪っていく。ローフラムお祖父ちゃんを……カレンを……」
拳が震えた。
ずっと、あの男が怖かった。
でも──それ以上に。
「だから、私は──許せない。絶対に、あいつだけは」
私は、逃げられない。
そう言葉にして初めて、アリシアは気付いた。
宿敵を前に、戦わずに背を向ける選択肢など、本当は存在しなかったことに。
ただ一人では、選べなかっただけだ。
戦うには、誰かの手が必要だった。
「翔太郎……」
涙で滲んだ視界の中で。
あの背中が、光のようにそこにあった。
──私は、一人じゃない。
震える手を伸ばした。
もう、この手を拒む理由はなかった。
「……お願い。隣に、いて」
掴んだ手は、温かかった。
「何があっても、私から離れないって誓って」
翔太郎は力強く、けれど優しくその手を握り返してくれた。
「任せろ。アリシアが勇気を出してくれる限り、俺は何度でもアリシアの為だけに戦う」
「私も戦う。貴方と一緒に」
言葉は自然に溢れていた。
泣きながら。
それでも、確かに笑っていた。
「私も……一緒に戦いたい。だって、四季条は私の敵だから。私の大切な人たちを殺した、みんなの仇だから」
「分かった」
翔太郎は、何も言わず頷いた。
ただ隣に並び、アリシアの手を繋いだまま前を向いた。
そう。
あの日、遠い記憶の中で、ローフラムの背中を追いかけたあの頃のように。
今度は、その隣に並んで。
二人で歩き出す。
アリシア・オールバーナーは、初めて戦うことを選んだ。
もう、失いたくないから。
もう、負けたくないから。
そして──隣にいてくれる人がいるから。
静かに、でも確かに、アリシアは心の底でそう決めていた。
だからこそ、彼女は言った。
「私、今ならセカンドオリジンが出来る気がする」
その言葉に翔太郎は思わず驚き、目を見開いた。
「マジで?」
「うん。さっき黒炎を全開にしたことで、異能力の“底”を掴んだ気がするの」
黒炎。
自らを燃やしてまで使った彼女の最後の切り札。
その代償と痛みを知っている翔太郎だからこそ、思わず尋ねた。
「……黒炎。大丈夫だったか?」
少し間を置いてから、アリシアは微かに微笑んだ。
「まぁ……少しは火傷しちゃったけど」
その無理をしている笑顔に、翔太郎は言葉を失った。
それでも彼女は続ける。
「ていうか、さっきさりげなくセカンドオリジン使えるって言ってた。……隠してたの?」
翔太郎は気まずそうに頬をかいた。
「隠してたっていうか……公にする力でもないし。組織の関係者以外だと命を奪いかねないから、今まで使わなかっただけで……」
「ああ、つまり──」
「俺は学園生活で使うつもりなんて、最初から無かったってこと」
「パートナー試験の時、全然本気を出してなかったんだ」
「いや……通常時だと、そこそこ本気だったぞ」
アリシアは一瞬だけ目を細め、そして静かに頷いた。
「そう。それなら……私も、貴方に頑張って追いつくから」
そう呟くと──アリシアはふいに、ぎゅっと翔太郎の手を握った。
強く、震えるほどの力で。
その温度が、翔太郎にははっきり伝わる。
──絶対に一人にするな。
無言の念押しだった。
「解放は初めてだから、隣にいて欲しい」
「当たり前だろ」
翔太郎は即答する。
初めての解放で、しかもぶっつけ本番。
失敗すれば、翔太郎と四季条の戦いに割り込むどころか、足手纏いにしかならない。
不安は尽きない。
だから、だからこそ──。
「……私の手、絶対離さないで」
「元々、隣にいてくれって、一緒に戦って欲しいって頼んだのは俺の方だ。離すわけがない」
アリシアは、少しだけ安堵したように微笑む。
今の彼女にとって──その約束は、何よりも強い支えだった。
「なら、心配ない。私も……貴方と二人なら、誰にも負けない気がする」
その言葉に、翔太郎は迷わず頷く。
「──そうか。それじゃ、向こうもやる気満々みたいだし……そろそろ始めるか」
アリシアも静かに頷いた。
視線の先──四季条輪廻が、笑いながらこちらへ歩いてきていた。
「話が終わるまで待ってくれるんだな。あいつも、舐めてやがる」
「……強者の驕りってやつね。ゼクスと同じ」
翔太郎は苦笑しながら前を向いた。
「舐められてる方がやりやすい。そうだろ? 後悔させてやろうぜ」
悪巧みをするかのように、翔太郎が挑発的な笑みを浮かべる。
彼の笑顔に絶対的な信頼感を抱きつつ、アリシアは一瞬だけ沈黙した後、確かに頷いた。
「──うん」
それはかつての自分なら返せなかった答えだった。
でも、今のアリシアは違う。
自分は一人じゃない。
戦える。
──隣にいる、この人となら。
迫る殺意を前に、二人の心は揺るがなかった。
そして──声が重なる。
「「──セカンドオリジン、解放」」
青い稲光と、七色の炎が同時に空間を裂く。
二つの力は対極でありながら、今だけは隣同士で共鳴していた。
世界の誰よりも信じ合える二人として。